インタビュー

大阪難病連 常務理事・事務局 濤米三氏

濤 米三(おおなみ よねぞう)
NPO法人大阪難病連 常務理事・事務局長
1940(昭和15)年2月26日 京都府舞鶴村(現舞鶴市)生まれ

2009/2/23 大阪難病連(大阪府城東庁舎)
【インタビューア:伊藤たてお、永森志織】

夢は大阪難病センター建設

大阪難病連の成り立ちと『難病センター構想』を掲げた活動について

伊藤

本日は、大阪難病連の結成の頃のこと、濤さんがそれに関わった頃のことを中心に、日本の患者運動史の中に記録して残すべき話や人についていろいろと語っていただきたいと思います。まず濤さんの大阪難病連に関わった経緯から。

1972年3月に糸球体慢性腎炎で加賀屋病院に入院していた時、病院の患者さんたちで作っておられた加賀屋腎友会の石川会長が私の病室へ来られて、院長には許可もらっているから役員になれと。それで、即患者会に入りました。当時大阪では、腎臓病は4つの患者会があり、それぞれが全腎協(全国腎臓病協議会)に入っていました。

同じ年に大阪の心臓病と筋無力症の患者会が呼びかけ、そこに腎臓が加わって、1972年10月に大阪難病団体連絡協議会が結成されました。最初の代表は代表員という形で、石川さんと筋無力症の浅野十糸子さんがされました。私は、石川さんが倒れられた後の第8回総会時以来ずっと事務局長をやっています。

伊藤

難病対策は1971,72,73年と盛り上がってくるわけですが、当時の大阪の雰囲気はどうでしたか?難病対策に向けてのキャンペーンなどで盛り上がっていましたか?

そんなには盛り上がっていませんでしたね。今みたいな活発な活動はしていなかったと思います。難病とは国民の健康を脅かすもの、難病とはこういうものだというキャンペーンをやり始めたのも1991年からですし。しかし結成当時も毎年ではなかったですが石川さんを中心に当局との交渉はしていました。石川さんの迫力は凄かったです。交渉の駆け引きいうか、上手でした。

伊藤

大阪難病連は全国の地域難病連の中でも初期に作られ、様々な活動をして行ったわけですが、初期の頃で一番印象的な活動は何ですか?

やっぱり浅野さんらが開催された難病講座ですね。当時患者団体がこういうことに参加するというのは非常に新鮮であり、情報がない時代だったからこれには非常にたくさんの人が参加されました。患者だけじゃなく保健師さんなども出て来られていました。

今大阪難病連がやっている様々な講座や勉強会はこの講座を引き継いで行ったものであり、現在毎年行っている医療相談会もその一つです。

このような活動の経緯は、結成35周年の記念をする時に、患者会結成の動きという一覧表を作りました。この中には結成宣言も入っています。

伊藤

濤さんはまた、難病センター建設の運動も粘り強くやって来られましたが、その目的、そこから生まれた課題、成果、今後への展望など何かありますか?

1990年6月に北海道難病連に第1回目の視察に行ったのですが、北海道難病センターがものすごい刺激になりました。大阪もこのような拠り所となる事務所が欲しいというのが1つです。ここにメディカルセンターも入れたら、難病に関する様々な情報がここに集約され、とにかくここに来れば専門医の診察が受けられ、それぞれ専門の病院に繋げてもらえる、患者会の交流にも繋がる、様々な専門の相談にも結びつく、宿泊の提供もあり、就労支援もするというような総合的なものが難病センター構想です。地域に住んでいる人たちのために情報を提供し、お互いに支えあうために難病センターは必要なのです。

伊藤

2003年から国の設置事業で各県に難病相談支援センターを作っていますが、これが出来たために逆に何かこういった本当に大がかりに難病についてのセンターを持とうという構想が、全国的に後退して行っているような気がします。

難病相談支援センターが出来て、大阪難病連が運営の委託を受けているということ自体はどうなんですか?

それはもううちとしては評価をしています。大阪難病連に委託していただいたというのは、我々の長年の相談活動なり啓発活動が評価されたからだと思っています。しかし、相談支援センターが出来たことによって予算的に縛られ、活動がかなり制限を受けているのも事実です。

伊藤

濤さんはずっと長い間大阪難病連の中心としてやって来られましたが、最後に、何か感想みたいなもの、あるいは将来の展望とか希望があれば教えてください。

患者会の運動を始めて30数年のあいだに、情報の伝達方法とか記録とかがえらく変わりましたよね。今はみんなインターネットもあるし、メールもやるわけですね。当時はまだコピー機もなかった時代ですから、ガリ版刷りか青焼きで、そして郵送していました。本当に速く便利になりました。しかし反対に、今は情報が多すぎて患者さんも患者会には集まって来ないみたいなところがありますし、組織の組織率が非常に下がっていると思います。活動内容に関しても、昔はカラオケ大会や、作品展等わりにユニークな活動もしていました。今は、何月は何と事業計画の通りに動いているみたいな感じで、何かおもしろさがなくなったように感じます。現在の課題は、JPAの課題でもありますが、若い活動家が少ないことです。大阪では次世代の若い役員を育てるために、意識して学習会、課題別学習会をずっと続けています。同じ病気の仲間同士の支え合いとか信頼とかを経験を積んで学んで行ってもらいたいからです。

伊藤

1972年の大阪難病連の結成時から難病患者への総合的な支援を求めて「難病センター構想」を目標として掲げ、時代の変化に合わせて多様な活動されてきたことがよくわかりました。今日はお忙しいところありがとうございました。

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