東日本大震災特集

3.11 東日本大震災&福島を肌で感じるツアー10年の記録

2011年3月11日14時46分頃、東日本大震災が発生しました。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする日本国内観測史上最大規模のマグニチュード9.0の大震災でした。本震による震度は宮城県北部で最大震度7となり、宮城県、福島県、茨城県、栃木県などでは震度6強を観測。岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲いました。さらに、地震から約1時間後に遡上高14~15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、原子炉を冷却できなくなり、炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故が起こりました。次々と現実とは思えない映像が映し出され、未曾有、想定外との言葉の度に被害の大きさを思い知ることとなりました。

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3.11 あの日の「記憶」を伝えよう

難病対策の平成23年度(2011年度)からの新規事業として「患者サポート事業」が始まり、日本難病・疾病団体協議会(JPA 代表伊藤たてお)、全国難病センター研究会(会長糸山泰人)と株式会社北海道二十一世紀総合研究所の3者が「患者サポート事業受託コンソーシアム」を設立して当事業を受託しました。
この事業は患者(相談)支援事業、患者活動支援事業、調査・記録事業の3事業と企画・評価委員会で構成されています。私たちはこれらの事業を分かりやすく区別するために、それぞれ①相談支援ネットワーク事業 ②手をつなぐ支援事業 ③患者・家族のこえ事業 と名づけました。

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「今、伝えたいこと」

「私の人生なんだったのかわからなくなりました」「人々の心の中はどうだろうか。私はやはり何一つ整理がついていない」「祈ること以外に、自分にできることが見つかって、安堵した」「今、仮設の天井を一人見つめていると、胸が締め付けられる。どうして私は生きているんだろうと・・」
「こんな私か助けられて、生き残ってしまった。生かされた私は、今もまだ辛く、苦しい」
ここに寄せられた手記は、あの膨大な被災者の数からみると、ほんの一握りの声だろう。
しかし、その声の持つ切実さは、多くの被災された方々の中でも、さらに難病や重い障害を抱えている方たちに共通した思いではないだろうか。

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仙台ポリオの会メンバーはどう動いたか

2011年3月11日午後2時46分、北関東から東北にかけて太平洋・日本近海を震源とするM9.0の巨大地震に見舞われました。地震と、それに続く津波による被害は甚大なものでした。地震発生から5ヶ月経った今でも、ガレキの撤去は進まず避難所で暮らす人は相当な数に上ります。
仙台ポリオの会では現在のメンバーで亡くなった人はおりませんでした。しかし、被害は相当なもので住宅だけでも全壊・大規模半壊8戸(津波によるもの4戸)、半壊4戸というものでした。ほとんどの持家は一部損壊以上の被害でした。
震災に遭い会員がどの様な状況に置かれ、どう行動したかをアンケートで収集し今後に活かそうと考えたわけです。

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3.11における日本難病・疾病団体協議会(JPA)と加盟団体の取り組みについて

2011年3月11日は、翌日から開催する「全国難病センター研究会第15回研究大会」の開催準備のため、主な役員は名古屋と岐阜に集まっていた。私たちは名古屋市内で打合せ中に大きな揺れに遭遇し、すぐに岐阜難病連の事務所に向かった。直後はあまり実感がなかったが、テレビをつけて事の重大さを察知した。翌朝、対策会議を行い、直ちに事務局長を東京へ戻し、被災地の患者団体役員の安否確認と厚労省からの情報を全国に発信することとした。

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