患者会の報告

震災から一年振り返って 米澤順子
全国膠原病友の会 岩手県支部 副支部長(支部長代理代行)

全国膠原病友の会『SSKO膠原』 №166 p24〜25より転載

テーマは大変重いものでした。未だに多くの方は先が見えない不安を抱きつつ非日常の中で暮らしているからです。内陸部に住んでいる私でも3月11日から「想像もしていなかった」「これは現実なんか」そんな思いがいつも頭の片隅から離れない毎日です。地元の新聞は震災関係の記事の特集を連載し、現状を知ることができます。直接的な被災者でなくても多くの方は家族が、友達が、親戚が、級友が、仕事関係者が・・津波の犠牲に、今は仮設住宅に、家族は離れ離れにと・・いろんな状況を受け入れながらのこの一年でした。地獄絵図のような光景の中からの一歩一歩、やっとやっと日々をすごしておられる多くの被災者のことを思うと言葉が出てきません。「言葉が出てこない」これが私の現実です。私の幼友達も土台のみ残っただけと話しておりましたが、今は仕事の関係で家族一緒に暮らすことがかないません。ある親戚の話では津波が手前でとまり難を逃れられたが道が無くなり、どうしてもそこを通らなければ自宅に行くことができないある場所に来ると不思議と涙が止まらないそうです。後で知ったことですが、そこでは多くの方が津波で流されたところでみなさんは未だに見つかっていないそうです。いろんな話をただお聞きするだけです。社会が色々な形で支援の輪を持続していることがホッとさせてくれます。しかし、難題が山のように立ちふさがっていることも現実です。岩手日報の新聞記事(5月26日付)を抜き書きします。各被災地の今を取材した記事です。【つなぐ・被災地のコミュニティ】と題して一面を割いて連載中です。『〜約200人が暮らす同団地は〜〜自治会活動が活発。震災から一年が過ぎ、住民の仲も深まってきた。だが、副会長は「部屋が離れていれば顔を合わせる事は少ない。中には初めて顔をあわせるような人もいるのではないか』と懸念する。町内では1,940戸の仮設住宅に約4,500人が生活、仮設住宅への入居は住民の希望場所を調査した上で抽選が行われ、元に住んでいた地区ごとに入居者をまとめるなどの配慮もあった。それでも抽選で「地域がばらばらになってしまった」と感じる人もいる。副会長は「まだ生活になじめず、つらい思いをずっと抱え込んでいる人もいるだろう。文字なら自分のペースで思いを形にできる。人に伝えることで少しでも心が楽になればいい。」と思いやる。仮設住宅の集まりでは、自然と震災の話題に結びつくことも多いという。川端会長は隣人と距離が近い仮設住宅だからこそできる取り組みとして、体験記の協力を呼び掛けている。「自分の体験を語ることは、互いを知るきっかけにもなる。書くのが苦手な人には座談会で話してもらうなど工夫して行きたい。」と意欲を見せる。体験記を発案した会長は「自分の心の整理にもなるし教訓を語り継ぐには記憶がはっきり残るうちに形に残さなければならないと意義を説く。・・・体験記には被災者が抱える悩みや苦しみを共有し、住民間の絆をより深める役割も込められている。体験記は月1回以上発行するA4判の会報に不定期に掲載。文字数やテーマは決まっておらず、震災発生当時の状況や心情などを自由にまとめる。昨年12月の会報から始め5回掲載。

最後に私事ですが、7月に『還暦祝い』をしますとお知らせが来ました。小学校の同窓会です。私は出席することにしました。小学校は大船渡市立猪川小学校です。小学2年生の時はチリ地震津波でした。友達は津波で全て流されて写真が一枚も残っていないとのこと、当時に写真を焼き増しして持って行こうと思っています。今からとても楽しみにしている自分かいます。

東日本大震災より1年をよりかえって思うこと 支倉敦子
宮城県支部 支部長

全国膠原病友の会『SSKO膠原』 №166 p25〜26より転載

2011年3月11日の大震災より過ぎた日々を振り返りますと早いような遅いような時の流れを複雑な思いを感じます。一見なにもなかったような場所でも屋根にブルーシートがかけてあったり、道端の雑草さえ津波の塩害ではえてきません。また震災直後津波で壊れた車のクラクションが一晩中なりっぱなしだったので、今でもクラクションを聞くと心臓がドキドキしてパニックになるそうです。いまだ心の傷は癒えていません。震災直後は何か起こったかわからず情報が入るようになると日々の生活の営みに苦労し、給水や食料の確保、ライフラインが正常になるまで大変な思いをしました。まして難病を持って通院、服用を常とする私たち病人、高齢者、社会的弱者と言われている方は薬の確保など不安な思いをしたことでしょう。電話が通じるようになり、友の会の会員の皆さんの特に沿岸部の皆さんの安否確認には困難を要しました。沿岸部はまだまだ電話は通じず避難所に入られたり、入院していた病院が被災し転院を余儀なくされたり、連絡がつかない会員もいて心配していました。そんな時、被災4県に発送された機関紙「膠原」の特別号泣どんなに心強かったことでしょう。ラジオのFM局で現地の情報を流したり、パーキンソン病友の会やてんかんの方たちの薬の情報がラジオから流れてくるのを聞いていました。1年たって思うことはやはり会員の皆さんの安否確認の方法です。宮城県でも難病患者は県に行かないと市町村では把握できないのです。これは大変重要なことです。各自治体でも検討していただきたいです。会員の皆さんに困ったことがあったら、友の会本部、支部、または各地域の難病連、もしくは難病相談支援センターに連絡、相談してほしいということです。被災地域ではまだまだ仕事や住宅など復興への問題が山積みです。全国の皆さんの温かいご支援に感謝するとともにどうかこの震災を忘れないで教訓にしてください。そして、本部から災害手帳が送付されましたが、大いに活用して防災準備をおこたらないでください。宮城県支部もあせらずゆっくりと活動していきたいと思っています。

2013年3月23日 南相馬市小高区。
沿いにいくつもの重機が見える(「福島」を肌で感じるツアー)

東日本大震災からの1年 高橋みつえ
福島県県支部 支部長

全国膠原病友の会『SSKO膠原』 №166 p27より転載

平成23年3月11日午後2時46分に発生した巨大地震、岩手県から茨城県までの太平洋沿岸を襲った津波、あっという間に沢山の土地、建物そして人命を奪ってしまった。それに加え、東京電力福島原子力発電所がこの地震と津波で大事故を引き起こしてしまい、多量の放射性物質が空中に舞い上がり、私達か経験した事のない大惨事とかって、何も悪い事をしたわけでもなく故郷を追われ、住み慣れた我が家を捨てて不自由な避難生活を余儀なくされた人々の悲しみ苦しさ、何とも言葉に言い表わす事の出来ない現実です。震災から一年余の月日が流れました。放射能という目に見えない物に汚染されていると云う恐怖から、がれきの処理さえ遅々として進まず、復興の妨げになっています。福島県の沿岸部では津波の犠牲になられた方々の捜索さえ満足に出来ていない現実、あまりにも悲しい話です。友の会の会員の中でも、何とか落ち着いていた病気が避難生活で悪化してしまった人、命を落としてしまった人、精神的に参ってしまい入院を余儀なくされてしまった人、様々に苦しみながら今日まで来たようです。会員の安否確認の連絡に対して、今まで深くかかわって来なかった会員さんの家族の人達から助けのメールなどを戴いたりして、温かい気持ちに涙ぐんでしまった場面もありました。友の会の果たす役割はどの様なものであればいいのか、いろいろ考えさせられたこの一年、とても長かったようでもあり、短かったようにも感じます。本部の応援、各支部の支援があったからこそ何とか頑張って来れたかな、と思っています。心が萎える・・・。目に見えない恐怖が、こんなにも精神を弱くするものとは思ってもいませんでした。それでも皆頑張っています。そうしない事には何も始まらない、そう思いながら歩いているのだと思います。私達はこれからもみなさんに助けていただきながら、一歩一歩前を向いて行きます。人の心も、景色も震災前の様になる事を祈りながら・・・。

2013年3月23日 南相馬市小高区。
被害を受けた家屋がそのまま残されている(「福島」を肌で感じるツアー)

震災から一年過ぎて 千葉洋子
茨城県支部 支部長

全国膠原病友の会『SSKO膠原』 №166 p28〜29より転載

東日本大震災から1年2ヶ月が過ぎ、茨城県では、いまだに屋根瓦が修復されてない所も目立ちます。役所においては復旧もままならず、現在も仮庁舎地域が何ヵ所もあります。北茨城市にある磯原海岸では、地盤沈下により満潮時には砂浜がなくなるので、海水浴は今年も出来ないそうです。さすがに余震はだいぶ収まってきたものの、不安な気持ちからなのか、今度はもっと大きな地震が来るなどの様々な噂が飛び交い、噂に振り回されている現状にあります。茨城県では震災のみならず、隣県にある福島第一原子力発電所の事故に伴う風評被害により、観光客の数も激減し、県の観光は大きなダメージを受けました。日本三名園のひとつでもある水戸の偕楽園では、震災で土砂崩れなどの大きな被害を受けましたが、復旧作業が続けられ、今年の梅まつりでは11ヶ月ぶりに全面開園となりました。同じく被害を受けた幕末最大の藩校「弘道館」の方ではまだ建物の中に入ることができません。県の北部にある五浦では、津波で流されてしまった岡倉天心が創建した六角堂が創建当時の姿に再建され、連休から一般公開が再開されました。また、丘一面のネモフィラの花やロックフェスティバルなどで全国的に有名になりつつあるひたちなか市の国営ひたち海浜公園では、連休中には昨年を超える入場者数を記録し、徐々に活気を取り戻しつつあります。ぜひこの機会に茨城を旅し、心を癒し、美味しいものを堪能していただき、それを復興に繋げていきたいと頑張っています。この他にも、県内外の皆様に来ていただくため、茨城県に宿泊する団体向け観光バスを無償で提供し、「茨城グルメまつり」や「常陸秋そばフェスティバル」など、食の宝庫「茨城」を満喫するイベントなども各地で開催されています。皆様のご来訪は私たち茨城の復興に向けて大きな大きな励ましとなります。大震災を乗り越えた元気な茨城を感じ取っていただけたら大変嬉しく思います。ところで、災害は忘れた頃にやって来るといいますが、自然は人間にどれだけの試練を課すのでしょう。東日本大震災の記憶も生々しい中、今度は大型台風や竜巻に襲われ、被害が続出しています。昨年9月21日の台風15号では、櫻川市で民家の屋根を50メートルも吹き飛ばし、樹齢100年を超えるヒマラヤ杉が根本から裂けて倒壊、敷地内の民家を直撃し、天井から枝が突き出て雨が流れ落ちて来たとのことでした。水戸市では、岩根町の西田川が土手を越えて溢れたし住宅地が浸水しました。震災により那珂川堤防が損傷し危険水域に達した為、震災時にバスで避難所となった学校に避難で2回避難した方もいます。那珂川堤防の本格復旧は時間がかかりそうです。現在は応急措置でしのいでいる状況で、これから梅雨時期となり、地域住民の不安はつきません。また、今年5月6日には、つくば市北条地区を中心に、これまでにない規模川本最大)の大きな竜巻が起き、多大な被害をもたらしました。瓦が飛んで窓ガラスを破り、突風が家の中を突き抜け、家々はなぎ倒され、電柱は折れ曲がり、舞い上げられた車は空中からたたき落とされて大破しました。人間は自然の猛威には何の手のうちようがありません。

今回の竜巻で被害にあった地域は、(つくば市北条、筑西市、標川、常陸大宮市)
家屋損壊 つくば市170棟、半壊207棟、21,000世帯が停電し次の日復旧。
全壊 つくば市827棟、筑西市87棟、櫻川市21棟、常陸大宮市15棟、常総市3棟。

水戸市でも3〜6センチの雹が降り、車庫、ベランダなどに穴が空き、雨樋も吹き飛びました。

このような状況で、会員各自の生活に影響があるばかりでなく、例年に比べ、支部活動への寄付や支援金が極端に減っております。そんな中、23年度に引き続き24年度も会費免除にしていただいた本部に対し心から感謝申し上げます。

被災地宮城から災害を体験して感じたこと!! 田中みな子
全国筋無力症友の会 宮城支部長

全国筋無力症友の会HSK 『舫』 №23 p3〜4より転載

東日本大震災では、本部事務局や各支部の支部長及び会員の方々から、御心配やお見舞いのお言葉をたくさん頂きまして、有難うございました。宮城は地震後に起こった大津波のため、沿岸地域の被害が甚大で壊滅的です。私は仙台でも内陸なため、大きな被害はありませんでした。しかし沿岸地域に住んでいる会員の中には、逃げるのが精一杯で、家も何もかも失ってしまった方もいらっしやいます。お薬も流されてしまい、困ったようです。私は今まで、災害が起こった時のために、お薬は7〜10日分程度ストックして置く様折に触れ勧めてきましたが、このような災害で陸の孤島と化した場合の、リスクマネジメントは出来ていなかったことを、痛感しました。また水の大切さを、いやと言う程思い知らされました。給水車は、団地内まで来るのですが、重い水を、「えっこら、えっこら」自宅まで持ち運ぶ労働は、高齢者や障害者・私達のようなMG患者には、至難の業と思いました。水を浪費したくないため、トイレも我慢してしまいます。食べる物も手に入りにくいため、偏った栄養と少食。これらが頑固な便秘を引き起こしました。避難所暮らしの方々は、きっと大勢の方が便秘になったのでは、と察しられます。又、避難所の環境が劣悪になってきており、インフルエンザや胃腸炎の蔓延が懸念される。と言った報道が聞かれ、医師や看護師が、相も変わらず『手洗い』『うがい』『マスクの着用』が予防に必要と話していますが、『来ない水に、どうしてうがい、手洗いができるのか!』このような状況下でも、今出来る予防対策を話してほしい、と思いました。自宅にいても、最小限の水でうがいをして、ため水で手を洗う。洗顔は1回の水で家族全員が洗い、その水はトイレに使うようにしました。せっかく電気が来て、暖か取れるようになったかと思いきや、灯油が手に入りにくい。車にガソリンが入れられない。やっと開店したお店は長蛇の列。必要な物は、何時間も並び、「お一人様何点限り」と言った制限があるため、毎日のように店の前に並ぶ。それに寒さが拍車をかけます。今まで災害を経験した方々から、体験した事を聞いていたら、少し心構えも違っていたかなぁ。と思いました。携帯用コンロ・石油ストーブ・湯たんぽ・トレンジスターラジオ・懐中電灯・用途に応じた電池・マッチか着火マン・ろうそく・ペットボトルの水・ホッカイロは、必需品でした。年代によって必要な物は、異なるかと思います。インスタントラーメン・乾麺・乾物等は、携帯用コンロ・石油ストーブがあれば、飢えをしのげます。水は、衣装箱や漬物樽の中に、仙台市指定のゴミ袋(ビニール製)を入れて、水を貰って来ました。被害が少なかった私ですら、「電気がない」「水がない」「ガスがない」「連絡の手段がない」「生活物資が調達できない」だけの不便さなのに、災害から3週間が過ぎた今は、疲弊しきっています。被災地から比べたら、こんな不便さ、もう少しの辛抱!と、頑張っています。負けるな!日本!!頑張れ!宮城!!かな。

「地震発生とその後」 原喜美子
全国筋無力症友の会 茨城支部長

全国筋無力症友の会HSK 『舫』 №23 p5〜7より転載

被災された方々、心よりお見舞い申し上げます。本当に怖かったですね。

茨城に住む私は、その時、車屋さんで点検整備の終わるのを待っていました。店員さんに手を引かれて外に出て、長い間、治らない揺れに怯えながら、周囲の家の瓦が落ちて行ったり、信号が消えて行くのを目にしていました。止めてある何台もの車が浮き上がりバウンドしていました。やっと揺れが治ったときには、胸のドキドキと呼吸のハーハーが暫く止まらず、「あー、こんなに苦しかったんだー!」と言う事を改めて自覚しました。身内の無事を確認したくて携帯を掛けてみても通じません。店内のテレビは転げ落ちて見ることも出来ません。車の点検整備も終わり、直ぐに実家に向かったのですが、2度目の揺れ(震源地:茨城県沖)が来た際には、停車してハンドルにしがみついて治るのを待ちました。実家に着いてみると、土台にヒビが入り、屋根の瓦が崩れ落ちていましたが、妹達の無事と直ぐ近くに住む姪子家族の無事を確認し、職場(千葉県香取市)のグループホームに向かいました。道路の陥没、盛り上がり、液状化、停電で信号は消えている等々、渋滞する通勤路を通常は30分で着くところ2時間半掛けて辿り着きました。幸い、ホームには被害もなく、福祉作業所にいた4人も無事でしたが、親たちとの連絡もつかず、電話も通じません。近くに住む職員が、あり合わせの巻き寿司を届けてくれて、4人の夕飯をすますことが出来たことが身にしみて有り難かったです。停電・断水で一晩を過ごしましたが、トイレ(小)はホームの裏で済ませて、(大)のみにトイレ使用、流さず、でした。余震が連発する中、4人を守らなければ・・・との思いから一睡も出来ずに、車内でラジオの情報を聞きながら、悪夢のような一夜を明かしました。私も含めて5人の朝食をどうしたかというと、幸いにプロパンガスが使えたので冷凍のご飯とシーチキン・玉子(洗わずに済む食材)でチャーハンを作り、冷蔵庫に有った残り物で間に合わすことができました。飲料水は非常用として蓄えてあったのですが、洗面、手洗いまでには回らずに困りました。翌朝、両親が迎えに来て2人が自宅へ戻りましたが、障害を持つ4人全員がパニックにもならずに良く頑張ってくれたと感謝の思いです。翌日の11時過ぎ、電気が点いて、水道が自家水でしたので、同時に水石出て、有り難みを実感しました。周辺では未だに上下水道が復旧してない地区がありますが、職場である、グループホームの生活は元に戻り、4人と私で何事もなく暮らせています。しかし、茨城の我が家は屋根の瓦は殆ど落ち、壁が剥がれ、食器棚、冷蔵庫、ダンス類は倒れ、3台有ったテレビは全て転げ落ちていました。食器は殆ど割れて使えません。いずれは自分でグループホームを運営したいと願って、大きな家を借りて自宅にしていましたが、直すのには何百万と必要なことから、大家さんの意向でつぶすことになりました。引越が必要になっていますが、とりあえずは、職場であるグループホームの物置に荷物を運び入れて、ホームの一室で暮らすことにしました。津波に遭われた方々のことを思えば、ホントにホントに私たちは幸せと思います。「こんなことぐらいで何?」と思いながらも、無気力で何もできません。ガチャガチャになった家から目を背けて、「ジーッと眠っていたい…」そんな気分です。でも、こんな自分ではないはず!!筋無力症のあの苦しみを!!命の危機を!!乗り越えてきた自分。精神力では誰にも負けないと常日頃、心に秘めていたはず。いつも前を向いて、何かに挑戦していたはずの自分か今、何処かに行っちゃいました。呼び起こそうと必死に努力しています。5月には難病連の総会も控えています。立場上、その頃には必ず立ち直らなければと、我が身に言い聞かせています。ご心配いただいた全国の皆さま、温かいお心に感謝申し上げます。茨城支部では、普通酸素ボンベを必要としていた方が、体調を崩し入院をしたのですが、病院で意識不明に陥ってしまって、案じられています。1日も早い快復を祈るばかりです。その他には「住まいは壊れたが、元気よー!」と言う方が殆どです。みんな頑張っています。被害の膨大だった岩手、宮城、福島の方々には、地震、津波、そして原発災害と、どんな思いで日々を過ごされているかと思うと…掛ける言葉が見つかりません。この苦難どうぞ乗り越えてくださいますよう、お祈りいたします。何のお手伝いも出来ませんことに無力感を募らせるばかりです。

2013年3月24日 宮城県名取市閖上(「福島」を肌で感じるツアー)
道路脇の住宅は姿を消し、見えなかったはずの工場が今ははっきり見える


土台だけになった住宅地に手向けられた花


見渡す限り視界を遮るものはない。
犠牲者を慰める塔婆が高台にひっそりたたずむ。

フクシマに春は訪れるのか 〜特病(PD)の未来と日本人の未来〜 高木弘
SSKA全国パーキンソン病友の会 福島県支部

SSKA全国パーキンソン病友の会 会報 №128 p46〜47より転載

東日本を襲った大震災・津波で引き起こされた原発事故。その渦中で高木さんが見た環境破壊、放射能汚染、だまされてはいけない建前の社会(文責 編集長 山田寛ニ)

「フクシマ」と表記したのは、チェルノブイリ、スリーマイルと並んで、フクシマが世界的に有名になったからです。我が市の観光キャッチコピーは。「花札実もあるうつく島」です。ここにCS137 (セシウム)という無味無臭で目に見えないものがぶりかけられました。これから咲きもスギ花粉を媒体として、漂うことになります。トウカイザクラの咲く花見山を除染すれば、観光地としての春は到来するのでしょうか。北に信夫山、阿武隈川をはさんで南に弁天山、そして東に花見山。この三山は住宅地を囲み市民の憩いの場でした。その里山の、山の端に、風吹けば目に見えない微粒子が空から降ってきます。雨が降ればその領域に落ちた水が清流ではなく、目に見えない汚水となって川下に集積されブラックホールになります。その物質は私たちの住宅の中、敷地内の外構、側構、雨樋、外階段踊り場の排水口、アトリウムにも降り注ぎました。手持ちのガイガーカウンターがないので、測れません。ここに住む人々は、除染を叫ぶ勇気もない穏やかで物静かな人ばかりです。

私の家は東電第1原発から66km離れています。ちなみに家から100mしか離れていない畑で、民間専門家が、放射線測定器をそろえて、土壌をはかったところ、1立方メートル当たり43万ベクレル、1kgあたり6万5千ベクレルありました。これは原発から40km県内で全村避難した飯館村と同じ値です。一方では避難地域に指定されましたが、ここは、なんの対応もありません。ほっとしポットと言われる重点地域でもありません。雪が降れば線量がさがる、雪が解ければ線量が上がる、これは、表土から二次輻射しているのに他なりません。事業者から市に訴えても駄目でした。除染費用はどのくらい掛かるのでしょうか。南相馬市で試算したもので平均的な住宅一戸当たり、570万円だったそうです。除染の基本は表土を剥ぐか、吸着させるか、天地返して薄めるか、しか方法はないとのことで、二次被曝対策もとりながらの大掛かりな土木作業になるからです。おまけにその汚染された落ち葉や土の捨て場がありません。

この、障害者の住む小さな集合住宅では、何らかの形で具合が悪くなった方が少なくありません。私の場合は、かなりひどいです。パーキンソン病の症状悪化と骨の崔奇形性、細胞崩壊、Sr(ストロンチウム)の可能性を否定できません。声嗄れば、歌うことが出来ないだけでなく、声域をせばめ小節がきかなくなりました。したがって以前自分が作曲した歌の多くが歌えなくなりました。体幹発疹は冬でもひどいです。歯磨き介助を受けて、磨いているにも関わらず、う蝕(うしょく)がでてきました。歯科受診しても腰痛がひどいため5分と診察台に座っていられません。動機も時々あります。ペルマックスは2010年に750ugから500ugに減らしてもらいました。Csは筋肉に蓄積性があります。一番危ないのはどこでしょうか。容赦なく、ウェアリングオフ、デレイトオンが襲ってきて、薬効時聞は半分以下です。

この1年弱で、一時的な回復はあったものの、毎日2〜3mずつ、歩けなくなってきました。歩行能力は目に見えて衰えてきました。腰痛と言うより第五腰椎神経に沿った右下肢痛ですが、消炎作用、鎮痛作用の衰えが影響しているのでしょうか。いずれにしても、この悪循環は止まりません。

前述した放射線測定の専門家は日本全土を調査しているそうです。その人が避難するならば、北海道か沖縄しかないと言っていました。正にその通りでしょう。遠くは吸収まで汚染されているからです。

福島の再建なくして、日本の再建はあり得ないとか、絆など言葉は飛び交いますが、国会に陳述に行けば、温度差を感じる。市民同士もフクシマに拒否反応を露わにする。国の再建は、明治維新や戦国の復興は、全国家的課題でした。東電事故はフクシマ、ただ一地域の問題でしょうか。対岸の火事でしょうか。

ICRP(国際放射線防護委員会)の基準は科学的根拠がありません。メンバーが原子力関係者で占められているからです。ペトカウ効果というものがありますが、30年以上たっても、低線量被曝はだれでも研究していないのでしょか。この問題は大きな犠牲を払って顕在化していくでしょう。

福島も私も皆から「頑張ろう」と励まされますが、春は遠いです。

註)

被曝=原水爆の爆撃を受けて・・(広島・長崎)
被曝=放射線に曝される

ペトカウ効果:「長時間の低線量放射線被曝の方が短時間の高線量放射線被曝に比べ、はるかに生体組織を破壊する」。ペトカウ理論、ペトカウ実験等と用いられることもある。

2013年3月23日 南相馬市小高区。
未だに瓦礫が残っている。(「福島」を肌で感じるツアー)

被災支部からのお葉書(岩手・宮城・福島・茨城)

全国膠原病友の会『SSKO膠原』 №163 p24〜29より転載

震災後に医療面で困ったことをお知らせ下さい。

(岩手県)
  • 交通の便が悪くなり2週間分だけの薬だったので通院に不便でした。
  • 県内陸部で病院については急患者のみの対応でした。薬は2週間分、頂きましたが、急患対応のため担当医ではなかったので震災についての状況は医師へ話せませんでした。
  • 当時、仕事もしていたので休日でも休める状態でありませんでした。時間をみて主治医(先生)の所へ行ったのですが、2週間分のみの処方でした。また仕事を休んで薬を頂きました。
  • 薬(パラミジンカプセル300mg)が製造中止?で配布ならず血行が悪いです。他の薬品で補うことは難しいのでしょうか?これでは、いつまた脳梗塞にならないとも?
  • 特に困った事はありませんが、専門医師がいない県立病院に通院中です。
  • 病院が遠方のため大変たった。被災地なので薬がなかった。
  • 3/10より東京の専門学校に通学しています。(神奈川在住)特に問題はないです。頑張ってやっている様です。
(宮城県)
  • 特にありません。薬を切らすことがなく、通院も月1回より少ない位の寛解の状態であったのが幸いでした。
  • いつも通院している病院が(東北厚生年金病院)被災して処方箇のみ発行して頂きましたが、特殊な薬を持っている薬局が少なく探し回った事でした。
  • 別にありません。おかげ様にて平成19年頃より膠原病完治ということで、主治医の先生よりお話ありました。
  • 透析(週1回なので、次の透析まで多少時間かあったが)。薬の確保(ちょうど通院する前だったため、手持ちの薬がなくなってしまい、かかりつけの薬局でとりあえず出してもらったからなんとかなったが・・・。)
  • 安定しているので、大丈夫でした。寒かったのにライフラインが断たれた方がつらかった。レイノーで手が真っ白になり、物流も悪くて買い物ができず野菜、肉、魚が手に入らなかったです。
  • お蔭様で普段から「薬は少し多めに」を心がけて持っておりましたので、困りませんでした。備えあれば憂いなしですね。
  • 2ヶ月に1度通院していましたが、3/18が予約日でしたので、薬がほとんどありませんでした。東北大学病院で薬を出していただけるか不安でしたので、札幌の実家で北大病院に行きまして、薬を出していただきました。北大の先生が私の担当医の事も知っていらして心強かったです。
  • 震災3日前に薬をもらいホッとしています。震災で数々の被害を考えると家の方はいいと思います。
  • 交通が一時、ストップしたため通院に通常の倍の時間がかかり疲れてしまった。通常は1ヶ月分、薬が処方してもらえたが、足りなく2週間分しか出してもらえなかった。
  • 3/22交通の便がなくタクシーで病院へ。院外処方だったが、いつもの薬局がしまっていて、どこに行けばいいか困った。チラージンSの工場が被災したらしく薬がいつもより少なく処方されいつなくなるか不安だった。
  • 特にありませんでしたが、病院の診療状況がわかりにくかったので、受診口に診ていただけるのかTELで問い合わせました。(TVでは)休診となっていたが、診ていただけた。情報が色々あってわかりづらかった。
(福島県)
  • 震災直後はガソリンが入手できない、電車も通らない(今も)で病院に行くのも大変だった。原発の影響で長年行っていた調剤薬局が今も休業している。
  • 薬のもらう日数が限られた。
  • 直後に医療機関が休診になり予約してあったけれど、診察は受けられず薬が切れる心配をしたけれど、何とか間に合いホッとしました。その後、主治医が退職してしまいました。原発の影響かと思いますが。
  • おかげ様で薬も外来もでき、困ると言う事はなかったです。
  • 薬は多めに持っていましたので大丈夫です。薬の量も少ない(5mg1日おき)ので時に飲み忘れても変化がみられない位の体調です。(忘れないようにしていますが)通院の後の震災で次の通院時は混乱が治まったころの予約で何も困りませんでした。
  • 薬が入手できないこと。症状悪化の時の対応。H3年より、多発性筋炎、皮膚筋炎、強皮症、間質性肺炎で治療していました。3/11以来、薬(イムラン)が入手できず、ガソリンのある内に息子のいる白河へ。そこからアリーナ、都内のアパートと移動し、東京で入手できました。薬が命です。
  • 私の通院していた星総合病院(郡山市)が震災で3ヶ月間休診しましたが、紹介された病院で薬を処方してもらいましたので特に困った事はありませんでした。通院には少し不便を感じただけでしたので、他の会員さんに比べて良かったと思います。
  • 震災前、3月2日の通院日に、たまたま多めに7週分のステロイドを処方していただいたので、避難中も心配なく過ごせました。
(茨城県)
  • 震災後に電車が止まり、しばらく再開せず病院に行けなかった。薬が東北地方の工場でつくっていたため処方分が少なくなった。
  • 薬と通院のための電車が長期間ストップしたこと。数日前に病院に行き、薬をたっぷりいただいていたので安心でした。たった1つしかないJRの路線も次回の定期検診までには開通したのでラッキーでした。(ずっと心配でしたが)(母、代筆)
  • 予約が1ヶ月先送りになったが、震度4〜5の余震が続いていたので通院するのが恐かった。(茨城は連日揺れてました。)薬の予備は充分にありました。
  • 有り難うございました。電話がつながらず、薬が足りず、医師不足なので精神的、肉体的に苦しいです。

近況報告

(岩手県)
  • 震災後、エレベーターに乗れなくなり階段を踏みはずして骨折しました。心療内科にも通い始めカウンセリングを受けています。主人も難病で車イス生活ですが、4月から主人に介助犬が来て精神的に助かっています。
  • MCTDで15年目。左側大腿骨壊死関連で治療中、緑内、白内障で治療中、肺線維症で経過治療中、皮脂潰瘍で治療中。プレドニンが減ってもまだ病気は体で暴れており、体と相談しながら過ごしております。時々、体が自由にならない時に、ふと自分を責めたりすることもありまして、心のケアのため内科以外にも心療内科へ通院しています。
  • 震災後、岩手県支部から安否確認の電話をいただき、本当に嬉しく思いました。この時こそ、会員の方々の存在を身近に感じたことはありません。元気でおります。又、会費はいただかないとのこと、本当にありがとうございます。皆さんのために頑張ってください。
  • 義援金より支部費の入金が今一度よく理解しておりません。生活保護の方は免除で良いと思うのですが、会費会員分の支部費として頂ければ良いと思っているところでございます。来年、再来年15周年を迎えるお金(資金)等の事も考えれば、どうしてよいものか。でも知恵を絞って皆で考えていきます。
  • 自宅が2日間ほど停電したぐらいで特に大きな被害はありませんでした。おかげさまで体調を崩すこともなく暮らしております。
  • 私はシェーグレンですが、その病気が原因か、それ以後そうなったかわかりませんが、肛門科、内科、耳鼻科と粘膜のあらゆる所が乾燥して調子が悪いです。その上、首、腰にヘルニアがあり、指、手首、肩など関節が痛いのでマッサージにも通院、医療費がすごくかかります。体調を崩し3年前仕事を退職、現在無職です。これからどうすればいいのでしょう・・・。
  • 足を骨折して入院治療中ですが、SLEや血液サラサラのワーファリンを飲んでいるためか?骨のくっつきが悪いとのことで入院が長引いています。期限6ヶ月になり、補助の歩行器や4点杖のレンタルをして退院です。何らかの補助はないのでしょうか?尚、被災地の見舞金etcはどうなっていますか?
  • 昨年、主治医がいなくなり、今は呼吸器内科で3ヶ月に1度の診察、検査をしています。
(宮城県)
  • 地震のあと、ライフラインが絶たれ、数日後には関西の実家へ帰省というより避難しました。先に夫が戻り、実家へ「膠原臨時号」を送ってくれました。大変心強かったです。その後、仙台へ戻りましたが、今は放射能の影響(子どもがまだ小さいので)から家族を守ることを心がけています。
  • 7Fに住んでいたので、被災して約1週間エレベーターが止まったので水汲みや、買物等で階段の昇り降りが大変でしたが良く考えればリハビリになり、悪く考えれば病気を忘れ無理をして6月調子を悪くしたことです。でも色々貴重な体験をしました。(私自身は身障者手帳1級です。)
  • 現在は薬も服用していないです。以前主治医に言われたことは守っていきたいと思います。たとえば、強い日射しをさけること、コレステロール値に気を付けること、1日卵1個など。役員の皆様、頑張って下さい。
  • 現在は、ほぼいつも通りの生活ができています。震災直後は透析も大変でしたが、とりあえず、どうにか別の病院で臨時に行ってもらいました。震災弱者ということを痛感。周囲に感謝です。
  • 震災の時、あまりにもびっくりして記憶があいまいです。時々、思い出すと、3月半ば東北はまだ冬でした。何があるか分からないので、事前の備えは必要です。とりあえず3日分の食糧と水があれば、なんとかなります。国や市の支援が始まるまで、2〜3日はかかります。生きのびるためにも、準備は必要です。パニックやデマにまどわされないよう冷静になること。テレビは役に立たないのでラジオを持ち歩くことがいいと思います。あと、ライト、チョコ、ペットボトルの水は必須です。
  • 私はシェーグレン症候群という病気で目薬は一日5回の点眼が欠かせず、「日々、薬はいつ何かあってもいいように多目に持っている。」ことを心がけておりました。サラジェンという内服薬も余裕を持って主治医の先生より処方して頂いておりましたので、混乱の中にあっても少しも動揺することなく乗り越えられました。
  • いつもの薬10種類をたまたま通院でいただいてきたばかりだったので、3月11日の震災後も安心して過ごせました。が、これがもし12日以降だったらと思うと、どのように行動すればよかったのか、病院に薬はあるのだろうかなど不安が残りました。いまだに揺れを感じる生活です。なかなか心底、心身ともに元の状態には戻れていません。少しずつでも前に向かって進めてゆければと思い願っています。
  • この度の巨大地震、津波に遭われた皆様、心よりお見舞い申し上げます。1日も早く復興されるようお祈りします。まさかこうなるとは夢にも思っていませんでしたね。こんなに被害が出るなんて悪夢みたいです。
  • 今まで使用していたお店が震災のため閉店してしまい不便を感じております。夏バテしないよう食べて、軽く運動して、水分をとって気をつけております。秋にピアノの発表会があるので、毎日頑張って練習しています。
  • 私は2月に出産したばかりで、1ヶ月の息子を守るのに必死の日々でした。電気が約1週間、ガスが3週間停まりましたが(幸いにも水は出ていました。)それ以外特に影響はなく、周りの方々に助けていただきながら過ごしておりました。SLEも悪化せず、息子も元気に成長し、ただ今5ヶ月です。全国の皆様からのご支援、心から感謝します。ありがとうございます。この震災で人のあたたかさをひしひしと感じています。
(福島県)
  • 福島第一原発から30km圏内の「緊急時避難準備区域」で放射線のシャワーをあびつつ生活しています。先日、主治医に膠原病と放射線について聞いてみたところ「前例がないからなあ。」そりゃそうですね(笑)。今のところ元気です。
  • 放射能値が高く、気分が滅入る…。同じ境遇の方々と交流したい。(メールでも可)なんとか、この局面を打破したい。気持ち的にも大局に立ち、福島のためになんとかしたい。
  • 急なことで震災のあとでもあり、気持ちが落ち込みました。でも、今は気持ちの切り換えはできています。が、体調は疲れやすく困っています。
  • 発病して2年。初めはただ痛みと戦うだけで人からも友の会の事は聞いたけど、どこにあるのもわからず同じ病気の人と病院で知り合い、友の会へ入会、自分の病気の勉強になりました。今は、私の安否まで気遣っていただき本当にうれしいと感じています。
  • 環境変化に左右されない体調管理ができることは大変でも大切だと思います。自分の体の具合のコントロールができるようにしたいと常に考えて、毎日の食事の内容、食べたお菓子、食べ過ぎでないかなど日記を書いています。食べ過ぎると必ず後日具合が悪くなります。体は正直です。4月に近くの娘や孫3人と私と主人が次々と感染性胃腸炎で嘔吐と下痢になりましたが、すぐよくなりました。
  • 病状も変化なく、いわきに4/24にもどってこられました。84才の母も共に行動しました。慣れない生活の中、何の欲望もなくただ無常観で今もまだ以前の生活に戻れません。アパートも友人が無償で提供してくれて、生活に必要なものはすべて用意し、持ってきてくれました。周囲の方々の暖かい手をどのようにお返しすれば良いのか。友人は「生きていてくれればそれだけでいい。」と言ってくれています。
  • 原発事故後、自営業をしている私の仕事が50%になり収入も減った為に、病院の検査費用がでない為に困っております。郡山市内の公園では放射線量値が高いので、立入禁止の所もあり、グランド及び公園等の屋外で遊ぶ子供達がいなくなりました。いつ収束するか判らない原発事故で会員さんの中には5〜6回避難先を変えた人もおり、雪の降らない浜通りの会員さんが雪が1mも積もる会津方面に避難しており、これからが大変な生活に成ると思われます。
  • 震災臨時号にとても励まされました。ありがとうございました。今も保険証にはさんでいます。
(茨城県)
  • 震災を味わって薬の大切さがわかった。一応予備分けもっていたが、すぐ病院に行ける状態ではなかったので、精神的にとても不安になった。余震が続いてしばらく安眠することが出来ずとても疲れた。
  • ガス・水道・電気・JR運休中は薬がきれたらどうしよう、症状が悪化したらどうすればいいのか。病院も遠かったので、かなり不安でしたが、いつでしたか対処方法の冊子が届き安心しました。いつも薬と一緒にして持ち出せるようにしています。本人は障害があり、うまく説明できないのでSLEであること、ステロイドの現在のグラム数など言えるように教えています。(母、代筆)
  • 「膠原臨時号」とても参考になりました。ありがとうございます。お薬手帳と一緒にいつも携帯しています。
  • 強皮症です。年月を重ねるほどに、指先のくずれ(潰瘍、血流不良によるもの)につらい思いをしています。両手の2指、3指は爪がほとんどなくなってしまいました。新しく服用をはじめて「トラクリア」に期待しましたが、ほんわか効く程度で、潰瘍がなくなることはありませんでした。でも、1年を通して受けていたパルクスを5月〜10月位はやめることができるようになり、そのことだけでもうれしいです。
  • 今回の震災で色々とありましたが、現在は病気の方も問題なく生活できています。
  • 思ってもいない大震災で柱も傾き壁の内外も被害を受けました。あれから3ヶ月も過ぎようとしている今日も身体のふらつきやちょっとしたことに驚く自分にアレ!?という思いがあります。病気の方には検査の結果は異常なしで通常のお薬を頂いております。加齢もあるのでしょうが、関節の痛みと指の変形もいなめないが、前向きに生きてゆきましょう!遅れましたが、被災された東北の皆様、おつらいでしょうが、どうか前向きに一歩一歩あゆんで下さい。自分から何かで楽しんでくださいませ。
  • 震災後に抗DNA抗体が(私はSLEです)3ケタの大台に乗り驚きました。補体が正常なので今のところ経過をみていますが、会報を読んで、震災後に体調を崩された方が多いと知り安心(?)しました。今月の診察では2ケタにもどってほしいです。
  • 要援護者世帯として、市役所が動いてくれず、水が断水し、1人で守谷市から3日後に訪問(近所まで10分程の所)10往復し、苦しい。近所全体もパニックで助け合いもままならず、今も「UR」で(団地)ですが、破損がひどく高齢化も進み、(36才ですが)弱者としての苦しみが抜けません。今は毎日を懸命に生きています。

コラム「僕らの海」 小原風子

「僕らの海」
作者:小原風子(おばらふうこ)
福島県福島市生まれ。
南相馬市在住。
(自費出版)

あのとき
なんにもなくなってしまったと思った。

でも、そこに
緑の草が 生え
黄色い小さな花が
咲いていた。

ここは はじまりの場所。

東日本大震災をテーマに描かれたこの絵本には、絵本作家でありサーファーでもある作者の「あの日」大好きな海がすべてをのみこんでしまったことへの大きな悲しみ、そしてそれを乗り越え少しずつ前に進もうとする姿が描かれています。

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