患者本人による手記~被災地より~

「大震災で経験したこと…お礼と報告」 秋山喜弘

はじめに

東日本大震災の日から高台の親戚宅に身をよせていましたが、6月初めに応急仮設住宅「水浜団地」にうつり、おかげさまで元気にくらしております。

多くの被災者の体験を見聞きし、生死の境は紙一重であることを実感しました。私の場合も、震災発生の時刻が参列していた地元の中学校の卒業式の最中だったら、あるいは着替えや補装具装着に手間取る夜間だったら状況は一変したことでしょう。「明日はわが身」どころの話ではありません。

衝撃と発見の連続

私はポリオによって障碍(がい)者になったおかげ?で、人様より「(今はやりの)想定外の事態」が頻発する人生を送ってきましたが、今回の遭難はまた格別の「事件」でありまして、日々衝撃と発見の連続でした。

3月11日午後2時46分にはじまった大地震発生数分後の「大津波警報」による避難本番!(2日前の警報をはじめ空振りに終わることが多かったので)、高台から見た悪夢のような光景と津波がひいたあとの見るも無残な古里の姿、そして三月近くの避難所生活…。

家を流され仕事をなくした人々が文字どおり肩を寄せあう避難所は、訪れた人が驚くほどの「元気で明るい水浜避難所」でしたが、集団生活ですから、実はいろいろありました。途中から事務局を任され、身心共にひよわな私は少々疲れました。

しかし、定年退職以来、久々に「仕事をした」充実感があり、貴重な経験もたくさんしました。連日坂道や階段を歩くうち、運動不足で弱った足腰がいくらか強くなりました。なかでも、人の情けが身にしみ「生きていて良かった」と実感できたのは、何よりありがたいことです。大震災後、日頃お世話になっている方々ばかりか、それまで一面識もなかった多数の方々から、あたたかいご支援をいただいたことを生涯忘れることは出来ません。一方、「やっぱり」という以外にない場面も多々ありました。

その1 非常時の障碍者

一つめは、このような「非常の時」、障碍者は行政当局はじめ社会の視野から外れること。障碍者団体のリーダーでさえ、自分のことに汲々として仲間のことを忘れてしまったようなので仕方がないかも知れません。水浜避難所(本部)は昔保育所だった建物で、トイレの出入口には段差があり小さな便器はすべて和式。私が「和式の便器にかぶせるタイプのポータブルトイレを取りつけたらどうか」と提案したら説明不足のせいか、ある所から室内用の立派なもの(職人以外取り付け不可能・編者注)が数台とどきました。

その2 マスコミの取材のいい加減さ

二つめは、マスコミの取材のいい加減さ。NHKの取材に、「障碍者は人一倍苦労しながら生きたあげく、こういう災害の時は真っ先に死ななければならない」(今回の震災でも、障碍者の死亡率は障碍のない人の数倍だったそうですね)と持論を展開し・福祉行政を批判したくだりが見事にカットされたのはともかく、美談仕立ての筋書きにそって「まわりの人に助けられて逃げました」という事実に反するコメントを付け加えられたのは許せません(日頃いろいろ支えていただいているのは事実ですが)。あるいは、民放テレビクルーの傍若無人な行動。診察中の被災者にいきなりカメラを向けるなどは朝飯前らしい。旧石巻市内の避難所では、トラブル多発のためマスコミの取材を拒否することにした避難所が何か所かあったそうです。震災で親をなくした子供にカメラを突きつけ「津波こわかった?」と無神経きわまる質問をする者もいたと聞き、怒りに震えました。大新聞各社の記者も、石巻からハイヤー・タクシーで乗りつけました。「避難所生活はどうでしたが」などと幼稚なインタビューをして、私に「もう少し考えて質問したらどうか」と皮肉られ「すみません」と謝る(すなおですね)若手の記者もいました。彼らは、若くて未熟という以上に、人生や社会についてあまりに不勉強なのだと思います。

その3 お役所仕事の実体

三つめは「お役所仕事」の実体を嫌というほど目にしたこと。役所嫌いの私は、市役所職員やNTT社員、果ては視察にきた国土交通省高官にまでつっかかりました。避難所で見聞きした「お役所仕事」の例。電気も水道も復旧していない避難所に「全自動洗濯機」を3台札支給する鈍感さ、津波によって水道施設が破壊されて断水になった被災民に「世帯ごとに『水道使用を停止する』旨手続きせよ」という非情な通達(強硬に抗議したら、その日の午後に撤回。「朝令暮改」の上をゆく!)等、枚挙に暇がありません。県や市の職員を引き連れてご視察においでの高官の「そこの人、クレームばかり言ってないで」とか「この震災は想定外」のお言葉は、役人の特権意識と「上から目線」の典型でしょう。つぶさに避難民の窮状を見、要望を聴くための視察であるはずなのに「クレームばかり」とは何ごとでしょうか。また、869年の貞観地震・津波などをもとに巨大地震・津波の発生を警告する情報を知りえた立場であったのに、「想定外」とは白々しい。おおかた、東京電力などと「談合」して握りつぶしたんでしょうが。お役人さまは、国の官僚から田舎町の役場職員にいたるまで、変な特権意識をもち、自分たちを税金で食わせている国民、市民を下に見、ばかにしているのでしょう。役人は法令・規則の解釈と運用を飯の種にしていますが、法令の根本であり最高法規である日本国憲法に「すべて公務員は全体の奉仕者である」と明記してあるのを「頭脳明晰」な彼らが知らないはずがない。仙台ポリオの会の皆さんはとくとご存じですが、私は知る人ぞ知る短気者なので避難所でも、「自分のためじゃない、避難所の皆さんのためだ」を念頭に、何かというと規則、前例、予算をたてに杓子定規の応対をする役所の職員とたびたびやりあいました。高級官僚はいざ知らず、今度の震災後、市や町の職員が一所懸命務めていることは認めます。なかには、私以上の被害を受けた被災者でありながら、家庭をかえりみず不眠不休でがんばっている職員も少なくないし、公務員の立場をこえて被災者の声に耳を傾けようとする職員もいます。ま、あれこれ考えると「お役所仕事」の元凶は、世界に冠たる?官僚組織あるいは「国民を幸福にしない日本というシステム」(カレル・ヴァン・ウオルフレンの著書名・編者注)という結論になるようです。

【4月29日 石巻市】

出典:http://east-japan-quake.info/ip/2011/05/4-29.html

その4 世の中、人それぞれ

四つめは世の中にはいろいろな人がいる、というあたりまえのことを、思い知りました。あのような極限に近い状況になると、人はふだん隠している本性をむきだしにするのですね。今まで「いい人だ」と思っていた人が利己的で無責任な人物だったり、日頃目立たない人が他人のために尽くしたり、己の世間知らずを思い知らされることばかりでした。津波で家を壊され住む家がなくなったのは大事件でしたが、人生の晩年に大切なことを学べたのは、あながちマイナスばかりではない、と考えるようになりました。そして、千年に一回、数百年に一回と言われるこの大津波を奇貨として、これからの残り少ない人生に活かすべきだと思います。

おわりに

おわりに、あらためて皆様のご厚情に感謝し、この夏の猛暑に負けず健康でお過ごしになることを心から願うものです。

【名前】
秋山喜弘(あきやまよしひろ)
【年齢】
63歳
【病名】
ポリオ
【被災場所】
宮城県石巻市の自宅

車椅子で体験した東日本大震災 遠藤豊

地震発生の瞬間

3月11日は、食のコロシアムというイベント参加のため、私、兄、母の3人で夢メッセみやぎにいました。私は手動車椅子に、兄は電動車椅子に乗っていました。地震が起こった時は、立って歩けないほどの大きな揺れで、私は何とか車椅子を押し蛇行しながらも会場から出て、近くにあったポールに掴まり揺れが収まるまでじっとしていました。兄、母も同様に外に出て揺れが収まるのを待っていました。

大津波警報発令

揺れが収まった後、近くにいた警備員から「大津波警報が発令されました。指示に従い、隣接する建物に避難して下さい。」と言われました。指示を無視して車で逃げる人もいましたが、私達は指示に従いました。津波の場合は、車で逃げるよりも近くの高い場所に避難したほうが助かる可能性が高いと聞いた事があるからです。そして、指示に従い、隣接する会議棟の屋上に避難しました。屋上に上がるまでは階段を上がらなければなりません。私と兄は、警備員や一般男性の方におぶって頂き、手動車椅子は持って頂いて屋上に上がりました。電動車椅子は100キロ以上の重さがあるため、持ち上げるのが困難で1階に置くしかありませんでした。津波が来てしまえば、海水をかぶるので壊れてしまいますが、命が助かる方が先決ですので仕方ありません。屋上に上がると、とても寒く雪まで降っていました。津波が来たらどうしようという恐怖と寒さで震えがとまりませんでした。

屋上に避難してからしばらくして、「ここでは危ないので、隣のビルに移ります。」という指示がありましたが、いざ移動しようとすると今からでは間に合わないからと引き止められました。この時、恐怖心がより大きくなり、もしかしたら津波がこの高さまで来るんじゃないか、そうなったら最悪、命はないかもしれないと思いました。

津波到達

それから数十分後、津波が押し寄せました。車は枯れ葉のごとくいとも簡単に流され、どんどん水位が上がってくのがはっきり見え、ここまで水位が増えないようにと祈りながら、ただ見ているしかありませんでした。すると、避難している建物屋上まで水位が増える様子はなかったため、助かったと一安心しました。ただ、兄の電動車椅子が犠牲になってしまいましたが、命が助かっただけで十分と思うべきだろうと思いました。

避難

しばらくして、「強い余震でまた津波が来ないとも限らないので隣の仙台港国際ビジネスサポートセンターに移ります。」と指示があり、移る事になりました。移動には一旦1階に降り、また階段を上がらなければならず、ここでも交代しながら数人の方におぶって頂きました。私が案内された部屋は、3階の会議室のような部屋でした。しばらくして、避難者名簿が渡ってきました。そこに名前と住所を記入して、まだ書いていない人に回しました。18時以降から伊予柑やお菓子、イベントの売れ残りの食品等が配られましたが、飲料水は配られなかったものの、昼食をしっかり食べていたし、夕食にもお菓子等食べる事ができたので、空腹感はあまりありませんでした。夜遅くに寝具代わりにダンボールと新聞紙が渡されました。布団が一つだけありましたが、周りの人がどうぞ使って下さいと言って下さったので、お言葉に甘えて布団を使わせて頂きました。マット代わりにダンボールを敷き、布団をかけて寝ました。しかし、下に敷いたのがダンボールなのでお尻や背中の痛みと頻繁な余震のため、ほとんど寝られませんでした。

帰宅

翌日、シュウマイとレトルトのおにぎり、飲料水が配られました。食事を済ませ、次の指示があるまで待っていましたが中々指示がありません。ここにいつまで居れば良いのかと思っている時に、イベント主催者のほうでタクシーを手配していると人伝えに聞きました。早く海から離れられるならとタクシーを手配して頂くように頼みました。最初は最寄りの駅までということでしたが、駅に行ってもそこからの移動手段が確保できないと思いましたので、兄の家まで送迎して頂く事になり、無事に帰る事ができました。

その後…

現在私か住んでいる地域は、岩手県の内陸部で大震災の被害も小さく、普段の生活に戻っています。スーパーにも普通の陳列棚に食品が陳列されていますし、ガソリンスタンドも通常通り営業をしています。一方で沿岸部は、報道番組を見るとコンビニが開店したり、ガソリンスタンドも営業したりと復興が始まりつつありますが、いまだに大震災の傷跡が色濃く残っていました。

東日本大震災の体験から

今回の東日本大震災の体験から、警備員やイベントの主催者がいる場合は、その人の指示に従い避難すること。車椅子の人や足腰が弱い人等、避難するのに助けが必要な場合は、我慢しないですぐ助けが必要であることを訴える事が大切です。そうでないと、災害弱者がいることを見落とされる可能性があります。どんな助けが必要なのか説明する場合、手短に避難に必要な支援だけにとどめたほうが良いと思います。説明に時間を消費してしまったら、避難する時間がなくなります。

今後の要望

今後の要望として、津波に対しての避難の鉄則を徹底させ、避難行動がスムーズに進行ように訓練することが必要です。鉄則というのはご存知だと思いますが、沿岸地域での地震にあったら津波が来ると思って、走って高い場所にすぐ逃げるというものです。これを訓練して実際にできるようにすることが必要です。訓練には、車椅子や高齢の方も参加するべきです。この地域にも、災害時に助けが必要になる人がいるんだという意識を地域の人に持ってもらうためにも参加する意義があります。避難場所、避難手順、避難経路を確認するだけでなく、避難先までどのくらいの時間がかかるのか確認する。避難経路については、自宅からの場合と勤務地や学校からの場合と確認しておくこと。また避難先での生活体験も訓練のなかにあると、実際に長期間避難所で暮らす場合に役立つと思います。

もう一つは、津波の特徴を理解する事です。理解するにあたり、津波の威力をシミュレーションでしたり、実際に小さな津波を体験してみることも良いと思います。また、体験談を聞く、どんな場所が危険個所なのか把握しておく事も重要です。それを踏まえて訓練に臨むことも必要だと思います。スムーズな避難行動を各自できるように、津波の理解と避難訓練の両方が必要だと思います。

【名前】
遠藤豊(えんどうゆたか)
【年齢】
24歳
【病名】
ベッカー型筋ジストロフィー
【被災場所】
夢メッセみやぎ

震災数週間前に災害対応をシミュレーション 大坂昭二/弘美

3月11日午後2時46分

私は、日曜日以外の日中、毎日デイサービスに通っていました。

3月11日、東日本大震災があった日も、いつものようにデイサービスでインターネット等をして楽しんでいると、2時46分、今までに体験した事のない大きな地震がきました。建物が大きく揺れ、本棚からは沢山の本やファイルが落ちてきて、かなり危険な状況でした。

「助けてー、早く止まってー。」

そんな中、職員の方は、車椅子の私に覆いかぶさるようにして、必死になって私を守ってくれました。今でも思い出すと涙が出ます。

1回目の長くて大きな地震がようやく治まり外に出てみると、まだ3月ということもあり非常に寒く、何枚毛布を羽織っても体が震えました。

津波…そして、家族はバラバラ

「寒いから早く家に帰りたいな〜。」

私はまだ、家に帰れると簡単に考えていました。余震は何回も続き、建物や車、そして私自身も大きく揺れました。

「寒くない?大丈夫?」

職員の方々は、自力で逃げられない私を少しでも安心させようと、何度も何度も声をかけてくれました。お陰で、怖さを感じることはありませんでした。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。その後、寒さが増してきたため、車に乗ってラジオをつけました。

「陸前高田市高田町、水没。」

「えっ、何? 津波!?」

デイサービスは高台にあるため、私は津波が来たことを知らず、知ったのは最初の地震から1時間後でした。

「妻は? 娘たちは? 母親は?」

電話もメールも繋がらず、私は頭が真っ白になりました。それから、家には帰れないことが分かり、夜に人工呼吸器をつけている私は、近くの県立病院に避難することになりました。病院では、家族が心配で心配で夜は眠れず、昼間はボーっと外を眺める生活でした。震災が起きたのが平日の昼間ということもあり、家族はバラバラ…。

「お願い、生きてて!」

私は何度も涙を流しながら、そう願いました。

家族の再会と別れ

妻と会えたのは、震災から4日目の朝でした。

「子供たちは無事だよ。でも、お母さんが…」

私を一生懸命介護してくれていた母は、行方不明とのことでした。それから1ヶ月後に母は、遺体安置所で発見されました。

生かされたこの命

私は、ALSになったせいで、沢山母に迷惑をかけ、そして、火葬や葬儀にも出ることができず、すごく悔しい気持ちでいっぱいです。

しかし、後ろを見てばかりはいられません。私には、妻や幼い子供たちがいます。沢山の方々に協力して頂き、生かされたこの命。

私は、この震災によって、生きようと思う気持ちが増しました。今は、慣れない病院を転々とし、内陸の病院に入院しています。コミュニケーションをとる事が難しく、私の思いや願いが上手く伝えられなくて苦労していますが、いつかの日か、家族揃って生活できる日を夢見て頑張っていこうと思います。

妻の手記

夫は、2009年10月に36歳でALSと診断されました。

そして、今年1月に気管切開をして、夜間のみ人工呼吸器をつけての在宅介護が始まったばかりでした。家族は、夫、妻である私、夫の母、小1の長女、年中の二女の5人です。

私が仕事をしているので、日中は毎日デイサービスを利用していました。帰宅後は夫の母が中心となり、訪問看護師さんやヘルパーさんの援助を受けて過ごし、夜間は私が介護するという体制にやっと慣れてきた矢先、震災は起きました。

実は、震災の数週間前、我が家の在宅介護を支えてくれている関係者が集まり、今後の支援についての話し合いが行われ、災害が起きたときの対応についても話し合われていました。そのおかげで、震災当初は家族全員がバラバラで、携帯電話もつながらず、車も使えない状態でしたが、夫のことはデイサービスのスタッフがなんとかしてくれていると信じることができました。約束どおりにデイサービスで判断してもらい、震災直後に病院に搬送された夫と会えたのに4日後のことでした。

これほどの大津波が来ることは想定外ではありましたが、この日の話し合いが活かされた結果となり、もしもの時のシミュレーションの重要性を実感しました。

3月11日、私たち家族が住む陸前高田市高田町を壊滅状態に落とし入れた大津波は、在宅介護のためにリフォームした家も、在宅介護のためにそろえた福祉用品も、在宅介護のために購入したリフト車も、すべて流し去ってしまいました。そして、大切は義母も、在宅介護のためにご尽力いただいた保健師さんやヘルパーさんも、親身になって心配してくれていた多くの友人や近所の人たちも津波の犠牲になりました。悲しくて悲しくて仕方がありませんが、私たちは現実を受け止め、前を向いていかなくてはなりません。

現在、夫は陸前高田市から車で2時間の距離にある内陸の病院での入院生活を余儀なくされています。でも、私たちは、在宅介護をあきらめてはいません。何年かかるかは分かりませんが、いつの日か家族がそろって生活できるように、今できることは何かを考え、着実に準備をすすめていきたいと思います。

【陸前高田市】

出典:㈶消防科学総合センター http://www.isad.or.jp/

【名前】
大坂昭二/弘美(おおさかしょうじ/ひろみ)
【病名】
ALS患者とその家族

やっと帰れた半島 木村ふみ子

地獄を見たような気がしました。午後2時46分長い大きな地震と共に何もかもが変わった、人の心までも‥・。何週間も帰れず、やっと半島に帰れると言われた。万石橋を渡って30分で着くはずが崖崩れ、瓦礫等で道はなく2時間以上もかかって自宅のあった場所に着いた。何もかもなくなっていた。部落は全滅状態だった。高台にある何軒かの家に皆住んでいた。自宅も鉄骨が曲がり階段は離れ流された車が入口をふさいでいた。下まで水が来ていて家中めちゃくちゃだ。でも「住める」と思った。雨は漏らないように応急処置をしてもらい、曲がった鉄骨は息子が住めるように直した。わたしたちの部落でも20人以上の人が亡くなった。津波が前後から来た。私の介護のため着いてきた娘が一言“お父さんがあの世で先祖様を皆集めて木村家を守ってくれたんだよね、先祖を大切にしなきゃー”私も見えない何かの力に感謝したい。一滴の水が時には人を救うときもある。魔物になって何万人もの命を奪う。その海は何事もなかったかのように、穏やかな顔をして目の前に広がっている。

【名前】
木村ふみ子(きむらふみこ)
【年齢】
62歳
【病名】
ポリオ
【被災場所】
病院

【4月29日 石巻市】

出典:http://east-japan-quake.info/ip/2011/05/4-29.html

避難支援者の犠牲とM君の死 駒場恒雄

マグニチュード9

来るぞ、来るぞと言われ覚悟はしていた。だが相手は強すぎた。3月11日14時46分、マグニチュード9の地震。巨大な黒い波。

岩手県の古い歴史には津波と冷害による飢餓、自然災害による苦しい記憶の数々がある。1896年明治三陸沖地震津波、1933年三陸沖地震津波、1960年チリ地震津波を体験している。その過去の記録を越えた凄まじい爪痕の東日本大震災。

私は津波被災地より100キロ離れた内陸部に暮らしている。車いすに乗って、一人で留守番をしていたところに地震が発生。食器戸棚からガラガラと食器が崩れ落ち、車いすは前後に大きく揺すられ、振り落とされるかと思った。車いすの周りは落下物で動くことができない。地震発生と同時に停電。テレビを見ることも、電話もできなくなった。隣近所から火災が発生しないか心配をした。

地震発生から30分ほどして買い物先から妻が戻り、三陸沿岸が津波に襲われ、火災も発生しているとの情報に、寒さと恐ろしさで体がガタガタと震えた。

強い余震と4日間の停電

夜も絶え間なく続く強い余震。いつでも避難できるよう防寒衣を纏い、車いすに乗っていた。心配して駆けつけてくれた娘家族と、ローソクの灯りで一睡もせず朝を迎えた。

3月11日地震発生と同時に停電。送電線の被害が甚大で、回復に見込みがないことを知り呆然とした。停電が4日間も続くのは初めての体験で、電動車いすの充電も切れて動かない。電動ベッドも暖房器具も利用できなかった。自動車のガソリンは、停電でガソリンスタンドのポンプが動かず営業停止。製油所のタンクも被災し供給がストップ。ガソリンスタンドの前に、10リッターの給油制限でも、朝早くから車が並んでいた。人工透析など通院が必要な患者には、命のガソリンとなっていた。

再び起きた強い余震と2日間の停電

1ヶ月後の4月7日、再び強い余震で2日間も停電した。人工呼吸器や福祉機器を使用する場合、万一に備え自家発電機や充電装置など、停電対策の不足を思い知った。さらに代替エネルギーの対策も疎かにしてきた報いを停電が教えてくれた。

強い地震の後、ひとりで途方に暮れていたところに民生委員が訪問。災害時要援護者支援制度に、登録していたお蔭で安否確認を受けることができた。

命がけの支援活動

この度の災害で、要援護者などの避難、誘導や救援活動中に津波の犠牲になった人が多数発生した。岩手県内で死亡または行方不明となった、消防や警察関係者が約百数十人。民生委員が26人もあった。要援護者への支援活動が、命がけの支援となり犠牲者が生じる悲しい結果になった。二次被害の無い支援のあり方が問われていた。

想定外の巨大災害

明治・昭和の津波体験から防潮堤や防波堤を備え安心をしていた。しかし世界一の防波堤も防潮堤も破壊された。自然災害から命と財産を守るため、ハード面だけでは困難と痛感した。過去の規模を超える災害に、行政機関の発表は「想定外」としていた。

災害発生に備えて各種マニュアルを準備し、障がいを抱える当事者にも、災害時に備えて置くべき事項が指示され、自助努力、自己責任が求められていた。だが自助の限界とする事態も多く、対策をあざ笑うかのような巨大災害だった。

津波てんでんこ

「津波てんでんこ」という言葉があり、「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意味で、「人にかまわず必死で逃げろ」という教訓と紹介されている。車いすの障がい者が避難中に津波と火災に遭い、親子三人が犠牲になった。家族を守るため自らの命を犠牲にしなければならなかった悲しい報告だった。

命を守ることの大切さを実践した学校もあった。ひとりの犠牲者も無く、隣接の小学校生徒や、地域の高齢者に避難の手を差し伸べた釜石東中学校。防災教育三原則として①想定を信じるな、②最善の避難行動、③率先避難者たれ、として災害マニュアルに縛られることなく、生徒は的確な状況判断で、計画外の高台に避難して難を逃れた。

津波は自治体の役所も襲った。地域住民の把握も困難となり、ましてや障がい者や難病患者の消息を確認することもできない。災害弱者と言われる障がい者などは、避難所で苦しい生活を強いられ、バリアフリーの福祉避難所の備えや対策の不備も明らかになった。

公助は最後の支援との説明もあった。災害時に自治体の指示や支援を待つことなく、地域が自動的に共助の組織活動や、専門的なものは民間や地域に委ねるなど対策の点検を必要としている。たくさんのマニュアルに翻弄され、臨機応変に対応できないもどかしさも有り、見直しと工夫を必要としていた。

強い余震と4日間の停電

震災から三週間頃たった。犠牲者の親族だと名乗る女性から電話があり、「津波と火災で全て失ってしまった。思い出として写真一枚でも欲しい」「遺影にする写真も無い」と懇願された。

震災の10ヶ月ほど前に、患者会の事業に親子3人で参加したその中に姿があった。「あきらめていたけれど見つかって良かった」と喜んでくれた。震災から1ヶ月余り過ぎたある日、DNA鑑定の結果と、葬儀のお知らせがあった。

彼は不自由な体で絵を趣味として一生懸命に生きてきた。津波は彼の努力に報いることなく両親と共に奪い去り無念でならない。わずか37歳までの人生だった。たった一枚のスナップ写真から作られた遺影を残し荼毘に付された。

M君、Uさん、あなた達の事は忘れません。病気に負けず精一杯生き、身体が不自由な我が子を最後まで守っていたこと誇りに思います。

【名前】
駒場恒雄(こまばつねお)
【年齢】
65歳
【病名】
進行性筋ジストロフィー
【被災場所】
岩手県花巻市

【花巻市】

【釜石東中学校】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

東日本大震災…罹災状況・経過の検証と考察 櫻井理

はじめに

僕はデュシェンヌ型筋ジストロフィーの36歳で、現在、人工呼吸器を24時間使用しながら、仙台空港のある宮城県名取市(仙台市の南隣)の自宅で暮らしています。今回の東日本大震災では、僕の住んでいる名取市も沿岸部では壊滅的な被害が出ていて、大勢の人が津波の犠牲になってしまいました。幸い、我が家は中心部の内陸7km程にあるので津波の被害もなく、家族・住宅ともに無事でしたが、仙台空港近くの父の実家では、伯母が津波に流されて亡くなり、母の実家の祖母と叔母の家は、津波で全壊してしまいましたが、2人は何とか2階の部屋に逃れ、紙一重のタイミングで助かりました。震災から8ヶ月が過ぎましたが、改めて今回の罹災体験を振り返り、非常時の対応や行動を検証して、今後の課題・対策を考えていきたいと思います。

地震発生

3月11日午後2時46分の地震発生当時、僕は全壊した祖母の家よりも沿岸部にある地域活動支援センターらるご(旧デイサービスセンター)にいました。らるごは、海岸線から1km弱のところにあり、月8回程通っています。5分程の長く、激しい震度6強の揺れが収まった後、職員さんの携帯電話のワンセグでニュースを見たところ、地震速報の映像が映り、大津波警報が発令されていて、仙台新港で7mと予想されているのを知りました。同じくワンセグにて警報発令を知った他の職員さんが、施設の車を準備し、施設長さんの指示で、最初の揺れが収まってから、15分後くらいに避難が始まりました。その当時、利用していた利用者40数名、職員20名は、1回では車に乗り切ることができず、2回に分けて避難し、僕と主任さんと事務長さんが一番最後に避難しました。時間は午後3時30分頃たったと記憶しています。一度、施設から内陸に2km程の美田園駅近くに避難しましたが、津波の予想高さが仙台新港で10mに上がったのをラジオで知り、避難場所をそこからさらに3km程内陸の名取市民体育館に変更しました。その後、午後3時50分頃に津波が施設に到達し、高さ3m程まで水没しました。もし、少しでも避難が遅れていたらと思うとゾッとします。本当に危機一髪だったと思います。

その後、市民体育館の駐車場に待機している間に、施設の職員さんが各家庭を自転車で回り、無事を知らせて、家族が迎えに来るまで待っていました。

帰宅

そして、午後6時頃、父が自家用車で迎えに来て、家に向かいました。停電の影響で信号は消えていて、道路は大渋滞していましたが、大通りの国道4号線ではなく、裏道を通ったことで、10分程で無事に帰宅できました。地震後、自宅のほうも物が散乱しましたが、僕が帰ってくるまでに家族がだいたい片付けていたので、帰宅後は、すぐに家に入ることができました。その後は、もちろん停電していたので、内蔵バッテリーで呼吸器を作動させていました。

罹災生活のスタート

そして、バッテリーの残量が40%を切った段階で、インバーターを接続している外部バッテリーに切り替えて、使い始めました。この時から停電時のインバーターを使用した罹災生活がスタートしました。

詳しい時間の経過と呼吸器の電源を確保していたバッテリーや車のシガーライターの使用状況・内容を一覧表にまとめてみました。

時間経過とバッテリーや車のシガーライターの使用状況・内容一覧表

時間経過 電源先/内容
3月11日
14:46 内蔵バッテリー
地震発生のため、自動的に切り替え
22:00 外部バッテリー
内蔵バッテリー残量40%のため、外部バッテリーに切り替え
3月12日
4:00 内蔵バッテリー
連続6時間インバーター使用のため、内蔵バッテリーに切り替え
10:00 シガーライター
内蔵バッテリー残量40%のため、シガーライターに切り替え
16:00 内蔵バッテリー
連続6時間インバーター使用のため、内蔵バッテリーに切り替え
22:00 外部バッテリー
内蔵バッテリー残量40%のため、外部バッテリーに切り替え
3月13日
3:00 内蔵バッテリー
インバーターから異常音がしてきたため、内蔵バッテリーに切り替え
7:00 シガーライター
内蔵バッテリー残量40%のため、シガーライターに切り替え
13:00 内蔵バッテリー
連続6時間インバーター使用のため、内蔵バッテリーに切り替え
19:00 外部バッテリー
内蔵バッテリー残量40%のため、外部バッテリーに切り替え
23:00 内蔵バッテリー
3:00から外部バッテリーを再度使うため、内蔵バッテリーに切り替え
3月14日
3:00 外部バッテリー
内蔵バッテリー残量40%のため、外部バッテリーに切り替え
3:05 内蔵バッテリー
インバーターから異常音がしてきたため、内蔵バッテリーに切り替え

表を見ていただけるとわかるかと思いますが、呼吸器の内蔵・外部バッテリーや車のシガーライターを効率よくローテーションで回しながら、14日午前3時頃までは上手く電源を確保していました。

僕が使用している人工呼吸器(エアロック社製のレジェンドエア)は、内蔵バッテリーでの作動時間が長くて、100V電源のフル充電状態で、僕の設定だと10%で1時間半ほど作動するので、単純計算で13時間以上になります。内蔵バッテリーは、インバーター使用中に充電されてバッテリー残量が回復するので、再び内蔵バッテリーで呼吸器を作動させることができます。ただし、インバーター使用中のバッテリーでの電源の電圧は12Vのため、100Vの電源に比べて内蔵バッテリーの充電が十分されないので、作動時間か10%で1時間未満になってしまいました。内蔵バッテリーの残量40%を目安にしたのは、以前にインバーターのランニングテストをした時に7時間連続で使用しても異常がなく、インバーターを4〜6時間使用すると内蔵バッテリーが残量40%から、ほぼ100%まで充電されて回復するからです。停電対策として、車のガソリンは、普段から半分以下になったら満タンに給油するようにしていました。それと、事前にインバーターを2台用意もしていました。それから、車のシガーライターのインバーターを使用している時は、外部バッテリーも同時に充電していたので、対策は万全のはずでした。

表のほうにも書いていますが、13日午前3時頃に一度、外部バッテリーのインバーターからキーキーと異常な音がしてきたので、いったん停止させて、内蔵バッテリーに切り替えて、呼吸器を作動させました。その後、13日午後7時頃に再び、外部バッテリーのインバーターを使用した時には、特に異常は見られませんでした。

インバーターからの異常音

ところが、14日午前3時頃、呼吸器のアラームが鳴り、内蔵バッテリーの残量が再び40%を切ったので、外部バッテリーに切り替えました。その直後、またインバーターからキーキーと異常な音がしてきたので、インバーターを停止しました。そこで、外部バッテリーのインバーターが故障しそうになっていると思い、車のシガーライターにつないでいた、もう1台のインバーターに交換してみました。すると、交換したインバーターからもキーキーと音がし始めたので停止し、2台のインバーターが、ともに正常に作動しなくなってしまいました。そこで、次の対処法の検討を始めました。

この時、家から車で20〜30分のところにある、かかりつけの西多賀病院に行くべきかどうか検討しましたが、この時点でラジオの情報などでも西多賀病院のある太白区で停電が復旧しているかどうかわからず、電話が通じないため、病院の自家発電の状況なども確認できなかったので、病院での対応が混乱している可能性もあるかもしれないと考え、12日の夜には停電が復旧していた、家から車で20分程の仙台中心部の叔母の家に電気を借りるため、14日午前4時頃に避難することにしました。

呼吸器 完全停止

避難するために急いで荷物の準備をしていたところ、呼吸器の内蔵バッテリーの残量が急激に減っていき、緊急事態を告げる警告のアラームが鳴り止まなくなり、ついには、家を出る前に呼吸器の内蔵バッテリーが切れて、呼吸器が完全に停止してしまいました。内蔵バッテリーの残量に少し余裕があると思っていたので、かなり慌てましたが、母が手動のアンビューバッグを使いながら(20分程連続使用)、叔母の家に移動しました。叔母のアパートに着いてからは、最初に、完全に停止してしまった呼吸器が正常に作動するか確認するために、叔母の部屋に呼吸器だけを先に運んで、電源をつないだところ正常に作動したので、その後に、父が僕を抱きかかえて、狭い階段を上って2階の叔母の部屋に着いて、アンビューバッグから呼吸器につなぎかえて、何とか助かりました。

電気復旧

その後、2日程叔母のところにお世話になり、15日の午後6時頃、自宅の電気が復旧したので、翌朝、無事に家に戻りました。

呼吸器が完全に停止した時はかなり慌てましたが、そんな中でも比較的冷静に対応できていたように思います。避難する時の荷物をまとめる時も忘れ物はなかったですし、アンビューバッグを使わなければならない状況になった時も、不思議と恐怖感はなく、パニックになることもなく、僕自身はわりと落ち着いていました。たぶん、定期的に入院しているので、荷物をまとめるのにも慣れていたことと、普段からアンビューバッグを入浴時に使っていて慣れていたことも、的確に対応できた要因だったように思います。

叔母の家に避難する時、インバーターから異常音がしてはいましたが、何とか動かすことはできる状態だったので、この際、壊れてもいいので使おうと思ったのですが、車のシガーライターにインバーターをつないでも、なぜか作動しませんでした。

【名取市】

出典:㈶消防科学総合センター http://www.isad.or.jp/

それで、停電が復旧して少し落ち着いてから、車をディーラーに持っていって、調べてもらったところ、シガーライターのヒューズが飛んでいたようで、すぐに修理してもらいました。おそらく、シガーライターにつないでインバーターを使用していた時に、呼吸器だけでなく外部バッテリーの充電も同時にしていたので、その影響もあって、かなりの負荷がかかっていたからだと思われます。それから、次に2台のインバーターの作動確認をしたところ、なんと問題なく使えてしまいました。推測ですが、インバーターを無理して連日、連続6時間使っていたので、オーバーヒートを起こして、故障しそうになったのか、外部バッテリー出力の電圧が低下してしまったからだと思われます。いろいろと想定外のトラブルもありましたが、何とか無事に乗り切って、命をつなぐことができました。

余震、そして再び停電

その後は、体調を崩すこともなく元気に過ごしていましたが、震度6弱の最大の余震があった4月7日の午後11時30分頃に再び停電しました。午前3時頃まで内蔵バッテリーで呼吸器を作動させ、その後、外部バッテリーから電源を確保しました。本震の停電の時は、内蔵バッテリー残量40%になってからインバーターを使用していましたが、叔母の家に避難する時に40%を切ってから急激にバッテリーがなくなったのを教訓にして、この時から、バッテリー残量70%を切った段階でインバーターを使用することにしました。それと、トラブル予防のためにインバーターの連続使用時間を40分にしました。インバーターを40分使うと、内蔵バッテリー残量が10%回復するので、午前3時から3時40分まで外部バッテリーを使用後、内蔵バッテリーで午前3時40分から4時40分まで1時間だけ呼吸器を作動させました。その後、内蔵バッテリーが再び残量70%を切ったので、また、外部バッテリーを作動させ、午前4時40分から5時20分まで、インバーターを使用した後、もう一度、内蔵バッテリーを使って呼吸器を作動させていたところ、午前6時頃電気が復旧し、結果、2回目の停電は大きなトラブルもなく無事に乗り切ることができました。

電源確保の重要性

今回の東日本大震災を経験して、在宅で人工呼吸器等の医療機器を使っている患者の電源の確保の重要性を改めて感じました。宮城県は、今後30年間に99%の確率で大地震が起きるといわれていたので、我が家でも外部バッテリーや車のシガーライターからインバーターを使って、電源を確保するように準備していました。バッテリーやインバーターの作動時間のランニングテスト等も事前にしていて、その時は特にトラブルもなく安心していました。僕の想定では、おそらく2〜3日程もあれば電気が復旧するだろうと思い、そのつもりで、それに耐えるだけの電源を用意しておけばいいと思っていました。

ところが、実際、今回の大震災では、僕の住んでいる名取市は5日間停電していました。想定外の大地震とはいえ、停電の復旧には、かなり時間がかかるものだということを十分認識して、電源の用意をしておく必要性があることを痛感しました。

【名取市】

出典:㈶消防科学総合センター http://www.isad.or.jp/

かかりつけの西多賀病院からは、本震の翌日にケースワーカーさんが安否確認にきてくださいました。病院の被害は少なく、受け入れ可能とのことでしたが、その時は、僕の家ではバッテリーで問題なく電源が確保できていたので、緊急入院はしませんでした。その後の病院の状況を入所している友人から聞いてみたところ、病院では地震後に自家発電で対応をしていて、停電が復旧したのは13日夕方頃だったとのことでした。ただ、自家発電の燃料が切れる直前だったそうで、きわどいタイミングだったようです。その後は、3日間ほど食事は1日2回で、おにぎりやパンが1つか2つだったそうで、1週間後には、ほぼ通常に近い状態に戻ったようでした。結果的には、僕も仙台の叔母の家に避難しなくても、病院に行けば大丈夫でしたが、電話も通じず、病院の様子もすぐに確認できないような状況だったので、今後の対応策として、今回、比較的つながりやすかったといわれているメールやツイッター、スカイプ、SNS等を活用した連絡網の整備が急務だと思われます。

それから、ありのまま舎のほうは、毎月送られてくる会報誌に書いてありましたが、停電時は、呼吸器などの医療機器を使っている人の電源を確保するために、すぐ近くの消防署に発電機を借りに行ったりしていたようでした。非常時の電源確保の方策も改めて考えておく必要性があるように思えてなりません。用意周到に準備を整えていても、想定していない事態に陥ることもあると思うので、停電時のシミュレーション等は綿密に行っておくと、トラブル発生時にも、次の対処法を考えることができるようになるような気がしています。今後の課題としては、停電はもちろん、電力の計画停電や節電対策等も考慮して、電源の確保をどうするかということだと思います。

僕は震災後、今回の体験を教訓にして、5月末には、パソコン等の精密機械の使用に適しているヤマハのインバーター発電機を購入しました。ホンダやヤマハの製品で一番容量が小さい900Wのモデルでも13万5000円程しますし、ガソリンの管理やメンテナンスも大変ですが、命にはかえられないと考え、震災後のわりと早い段階で購入することができました。全国では、在宅で人工呼吸器を使用している患者数は、かなりの数にのぼるといわれていますので、すべての人が、バッテリーや正弦波インバーター、発電機、家庭用蓄電池、アンビューバッグ等を用意しておく必要性があるように思われます。ただ、すべてを自費で購入するとなると、かなりの負担がかかると思うので、医療保険制度でのレンタルや、補装具給付や日常生活用具給付制度等での助成の対象品目に、バッテリーや正弦波インバーター、発電機、家庭用蓄電池、アンビューバッグ等も加えてもらえるように活動していくことも重要だと思います。

今後は、この体験を生かして、地域で暮らす災害弱者の防災対策の支援・啓蒙活動に取り組み、積極的に行動していきたいと思っているので、皆さんのご協力をお願いして、罹災体験報告を終わります。

【名前】
櫻井理(さくらいさとる)
【年齢】
36歳
【病名】
デュシェンヌ型筋ジストロフィー
【被災場所】
宮城県名取市

津波から逃れて 田辺直正

地震発生から津波の被災まで

当時母親と二人で家にいました。妻は仕事で仙台です。地震後、いち早く私は常磐線「浜吉田駅」近くの町指定避難所へ一人で自転車に乗り行きました。地区の役員なので早めに(15:25頃)つきました。避難所で近隣の人たちと話しをしているうち、東の空の色が、上はブルー、下は白色に変化したのを皆が気づきました。「津波」との声で老人子供等を2階へ誘導し、同時に家にいる母親に「津波が来るから早く来い」と携帯で電話(16:05頃)しました。避難所には350人位いました。私も2階へ避難した時、東側より高さ2mぐらいの「黒い水の帯」が押し寄せてくるのを確認しました。2階が最上階でした、1階フロントの大きなガラスが割れて水が入ってきた時は流されると思い頭が真っ白になりました。何か残さなければと思い、携帯のビデオのスイッチを入れパニックになっている人の隙間から撮影しました。後日見たら16:20でした。

余震におびえながら一夜を過ごし、翌日昼前、胸まで水につかりながら避難してきた母親に会いました。今は妻と片付けながら自宅で生活しています。

津波から逃れて、避難所生活の中、仙台ポリオの会からの連絡を知る

私は町の役員で避難所(350人ぐらい)を離れることが出来ず、何処にも動けませんでした。五日間ぐらい頭や足があちこちという雑魚寝状態の避難所生活でした。夜トイレに行くにして男も、自分の右足が言う事を聞きません。人の手に上がったり、頭をけったりするのではないかと色々考えて、ほとんど靴を脱がないで入り口付近で寝ていました。そのうちに娘たちが来て私の様子を見て「少しおかしいのではないか‥」と、言うようになりました。自分では何とも無いと思っていましたが、話し方とか行動がおかしかったようでした。そこで岩切娘の方に1週間、また岩沼の娘の方に1週間などと行ったり来たりしていました。三日前からですか、やっと自宅のライフラインも復旧し、お風呂のボイラーの修理も終わって、住める状態になりました。

娘から、ポリオの会の孝志さんが訪ねて来たり、パソコンでも捜索(後で、仙台ポリオの会の飯田さんと判明)していると教えられたので連絡を取った次第でした。

舗装具の出来上がりが遅れた中での松葉杖の追加申請

この3月に舗装具を申請して、5月に出来上がる予定のものが未だ出来上かっていません。厚生相談所に行き自宅の二階に生活をしていること、このような津波が来たら降りて避難できないので、何とか松葉杖心付けてくれないかとお願いしました。「今回は特別ですよ」ということで、つけてもらうことになり、現在に至っているところです。

「地震=津波」の恐怖心が離れない

未だに恐怖感があって、今でも地震イコール津波(地震=津波)という頭があって、ラジオや電灯なども用意して、地震が来ると怖くて、直ぐテレビを付けて「津波が無い」と出ると、安心して又眠れるという状態で、やはり当時は、行動とか話し方等が、少しおかしかったかなとは思います。

目の前で、子供とお母さんがワンボックスカーの中にいて流されていくのを見て、手を伸ばせば届くようなところを、どうしても助けられず、「助けてー」という言葉が、今でも耳から離れないのです。

障害者の避難所生活は、過酷なものです

我々、障がい者にとって、避難所生活は酷いです。五日間居ましたが、トイレが出来ないし、人は寄せ合って寝ています。入り口に寝ていますから、一分ごとに人がトイレに行きます、その出入りで眠れないのです。

それから、御風呂。自衛隊が設営してくれていますが、一般の人用には行けません。舗装具を外して入るということは、勇気が要ることだと思います。

阿部会長が、河北新報に「これからも又このような災害が来るといわれています」と投稿していますが、障害者の避難所生活には難しいものがあります。

被災者から見て、援助に慣れてしまった被災者たちへの残念な思い…

娘と旦那(塩釜消防署に勤務)の仲間たちと七ヶ浜に昼飯の炊ぎ出しのボランティアに行った時のことです。被災者の方々が寄ってきて、今日のメニューは何かと聞かれたので、娘が「焼きそば」と言いました。その時「なんだ!焼きそばか・・・」と言われたという事です。娘は行かなければ良かったと言っていました。

私自身、被災者の立場として何か残念な思いをしているところです。

この3月11日以降、生活が一変しましたが、何とか生かされましたので、今後は頑張って行きたいと考えています。

【名前】
田辺直正(たなべなおまさ)
【年齢】
62歳
【病名】
ポリオ
【被災場所】
自宅

【JR常磐線 浜吉田駅付近】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

あの日のこと 田原玲子

忘れもしない3月11日の午後

忘れもしない3月11日の午後。その日は娘が仕事のため孫の幼稚園の迎えを頼まれていて主人と2人で帰りにスーパーに寄って買い物をして行こうなどと、話をしながら幼稚園に着き園庭に車をとめました。まだちょっと時間が早かったので車の中で待つ事にしました。その時です!!お尻の下から“ドーン”と突き上げられるようなショックがありました。そして今のは何だったんだろうと考えていたら横に揺れはじめました。その間2,3分だったと思います。横揺れが激しく車の中にいても危険を感じ車外に出ました。出たのは良いのですけれど電線は大縄とびの時の縄みたいに大きく揺れて地面も地割れするのではと思うほど揺れて、私と主人はフライパンで豆を煎っている時の豆みたいに一ヶ所に立っていられず右、左に動き、あまりの揺れに目眩と吐き気がしてきました。真の恐怖心とは、あの時の心の中に湧きあがった気持ちでしょう。

やっと地震がおさまりました。時間にして7〜8分位だったと思います。あわてて園に孫を迎えに行くと各教室ではパニック状態で、教室の中では先生が真ん中に座り、その回りに子供達が重なりワーワーキャーキャーと泣き叫び、恐怖心からか大さわぎでした。事務所の外にあった金魚鉢の中の水はシーソーみたいに揺れて、今にも溢れこぼれそうでした。

孫はおびえた様子で先生に手をつながれて出てきました。“バーちゃんこわかったよ!!机の下に頭を入れていたけど机がガタガタとゆれてたよ”と告げてホッした様子で私の手をにぎりました。あわてて車に戻り、自宅が古いため心配になり、急発進しました。

帰宅

坂の上から我が家が見えた時はホッとしました。古い家のためペチャンコになっているのではと思いつつ、ドキドキの気持ちで帰宅して家を見たとたん、急に気が抜け、カギを開いて家の中に入り何も被害がないかを確認し終わると急に腰がぬけてしまいました。

あわててテレビをつけて見ると佐久は震度5〜6で震源地は長野県北部の栄村とテロップが流れていました。

不気味に鳴り響くブザー

それから朝方まで主人と私のケータイは地震予報を知らせるブザーが何回も鳴り、避難の用意(と言っても大半は私の薬ばかりです)をして、いつでも避難出来る様、用意はしたものの昼間の恐さを思い出して、服を着たまま孫を抱きしめていました。不気味に鳴り響くブザーを見つめ、天井を見上げていた一晩でした。外が明るくなるのが待ち遠しい一晩でした。

身体が動かない恐怖

明るくなりはじめて一夜が明けようとしてホッとしていた矢先の明け方、ガタッときました。家がつぶれると思い、動こうとしましたが身体が動きません。薬が切れていたのです。薬は握ったものの飲む事も動く事も出来ず、ただ孫を抱きしめるだけです。こんな時すぐ動けたら…と思うと自分が情けなく、動けずガタガタ震えて、立って一人歩きの出来ない身体に悔し涙が出て止まりませんでした。

朝方の地震はあまり大きなものでなく、すぐおさまりましたがまた来るのでは…と恐怖心はなかなか抜けませんでした。それを考えただけで身体がガタガタ震え動けなくなります。自分の足では歩けません。薬が効いていると動けますが切れると動けなくなります。主人のいない動けない時に地震が来たら…考えただけでゾっとします。私でさえこんな思いをしたのですから、被災地の皆様方は毎日のように起こる地震にもっともっと恐い思いをしたと思うと心が痛みますと共に遅ればせながら被災地の皆様方にお見舞申し上げます。

【長野県北部地震による栄村青倉地区被害】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

【名前】
田原玲子(たばるれいこ)
【年齢】
65歳
【病名】
パーキンソン病
【被災場所】
佐久市切原(下小田切)

夢と希望を友として 土屋雅子

3月14日 我が家の備え

我が家の地震に対する備えです。食器棚、本箱、家具などは、壁に固定してあります。広報誌で高齢者と障害者のいる家庭は、市で取り付けてくれると知りましたので、申し込んで工事をして頂きました。電気の笠は、天井に直付けのプラスチック製の軽い物です。以前は、シャンデリア風のオシャレな灯りが付いていました。

水は、もちろん、お茶や、ウーロン茶まで保存しています。トイレットペーパーやティッシュペーパーも、玄関の靴箱の上に保存しています。20年間場所は変えていませんが、中身はしょっちゅう交換していますよ。お米や、味噌、醤油などの調味料、缶詰めや、カップヌードルなどのインスタント食品は、結婚以来いつでも、プラスチック製のケースに入れて、玄関脇に保管しています。割り箸。ゴミ袋、布巾なども入れてあります。食料品は、もちろん、台所にもありますよ。お金は、小銭を金額別に分けて、ビニール袋に入れてあります。

私の実家はとても防災意識の高い家で、昔から、備えが良いのです。例えば、やかんにはいつでも必ずお水を入れておく。夜寝る前に、明日着る洋服を枕元に置く。靴はいつでも履けるように、一足玄関に出して置く。懐中電灯は必ず一つ玄関に置く。なぜ玄関や、玄関脇かと言うと、あらゆる物が散乱して、台所まで取りにいけないからだそうです。我が家を初めて訪ねた方は、米の袋に驚いて、怪訝な顔をします。そこで、私は、必ず、防災の心構えをお話します。私の祖先は、幾たびも、被災者に蔵の米や、サツマイモなどを炊き出ししたそうです。祖父が、消防団長と言うこともあったかも知れません。みんなで、協力して、この困難を乗り越えましょう!

この度の震災の被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

我が家も地震直後から停電しました。その後も余震がありましたので、正直一人で、心ぼそかったです。今日は計画停電で富士市と富士宮の一部が夕方5時位から7時前まで、本当に停電しましたよ。今は、夜の9時過ぎですけれども、富士市の広報で、明日も午後0時から、4時まで、計画停電をしますと放送しています。

被災地の皆さんの悲しみや御苦労を思えば、多少の不便は、我慢して、この困難を協力して乗り越えるしかありません。

3月16日 検査入院中に震度6強の地震(筆者の夫が代筆)

静岡県東部で震度6強の地震が発生しました。

たまたま夢見るタンポポおばさんは、富士宮市内の病院に検査入院中!!私も付添で一緒に泊っていました。二人とも無事です。院長先生が病室に駆けつけてくれて、安全を確認して、検査具を外してくれました。外に出ると、サイレンの音がけたたましく鳴り響いていました。帰宅途中の道路には、大勢の人が外に飛び出していました。また路肩から落下した石が通行の障害になっていました(警察に連絡済)。自宅は、神棚の具足が落下した程度で被害は出ていません。現在、電気、電話は通じていますが、断水中です。(昼間は計画停電でしたが、電気が点いているので安心です。)取り急ぎ速報です。

3月17日 地震の被害が深刻です

我が家の隣家の屋根瓦が落下していました。屋根全体が浮き上がっています。ヘルパーさんが驚いていました。向かいの家も、屋根瓦が崩れています。落ちないのが、不思議なくらいです。みんな口を揃えて、『今までで一番酷い被害』と言います。屋根瓦は『今度余震が来たら、崩れ落ちるのでは』と言っています。町内にも、もっと酷い家もいっぱいあるそうですけれども、私は、危険なので、家からはほとんど出ません。私の行動範囲10メートルで、この状況です。崖崩れや、墓石が倒れた所も多いそうです。この辺りのお墓は、屋敷墓が多いです。夜だったので、人に被害が無くて良かったです。今日、市役所の方が、町内の被害状況を見に来てくれました。我が家の壁の亀裂が安全かどうかは、プロに見て頂かないとわからないと言っていました。見た目と安全とは大違いのようです。ケアマネさんも訪問してくださいました。一人でいると人が見守っていてくれるのがわかるだけで、本当に安心しますね。夫や、息子たちは朝早くから、夜遅くまで、対応に追われています。計画停電が、計画的でないので、人のやりくりにとても困っています。明日は、なんと夕方6時から、10時まで計画停電だそうです。こんなに被害が出ているのに、余震が来た時に、停電だったら、落下した瓦を避けることも出来ないで、一瞬にして二次災害が起きるのではないのかと危惧されます。停電中は、街灯も点かないで本当に真っ暗闇なのです。どの家の瓦屋根もみんな被害を受けているのです。東電の計画停電担当者に、この被害状況を見て頂きたいと思います。昼間はともかく、夜停電にするのは、本当に危険だと思います。余震が起きても、何にも身を守る術がありません。今日もまた沖縄から、名古屋まで、お見舞いのお電話を頂きました。本当にありがとうございます。この場をお借りして、お礼を申し上げます。

3月18日 計画停電中に考えたこと

未曽有の災害のために、東電管内の住民は、計画停電と言う、今まで聞いたことも、経験したことも無い経験をしている。幼子二人を保育園に預けて働いている、私の長男の中国人のお嫁さんは、甘える実家お近くに無くて、本当に大変な様です。午後5時半まで会社で働いて、二人の子供を別々の保育所に迎えに行き、夕方、6時半頃には、停電。いつ子供だもの夕食の支度をしたり、お風呂に入れたりするのだろうか?パンと温泉卵、即席麺、乳製品や、レタス、キャベツ、りんご、チョコレートなどを持たせると、感謝しながら、あわただしく、帰って行く。私は、身体が不自由になり、助けてあげることも出来ない。自分一人では、危険で、入浴も出来ない。人の世話にならないようにするのが、一番。息子たちは、地震後、ミネラルウォーターの注文が増えて、不眠不休で働いているらしい。真っ暗闇の中で、三歳と一歳の孫たちはどんなふうに過ごしているのだろうか?寒さ対策に、布団に入って、湯たんぽを抱きしめながら、静かな時と、真っ暗闇の空間を受け入れる。通り過ぎる車の音もせずに、消防団の注意を促す放送だけが、遠くに聞こえる。静けさと、暗さ。この当たり前の豊かな空間を私たちは、犠牲にして、間違った便利な生活を追求して来たのではないでしょうか?コンビニエンスストアが、初めて出来た時、朝7時〜夜11時そんなに遅くまで、営業するのかとビックリしたのを覚えています。それが、便利な店と言う、コンビニエンスストアの使命なのでしょう。今では、ほとんどのコンビニエンスストアが、24時間営業していますね。本当にそんなに長い時間営業する必要があるのでしょうか?ただ人間の便利さのために。夫は、自動販売機の電気が、無駄ではないかと言っていました。いつ誰が買うかわからないのに、いつでも暖めたり、冷たくしたりして飲み物を用意して置く。考えてみれば、便利さの追求の上の最大の電気の無駄遣いです!富士山の二合目にも、自動販売機がありますよ。昔と言っても、わずか50年前の、私が子供だった頃ですけれども、私の実家では、夜は、午後9時には、消灯していました。電気代の節約のためです。『宵っ張りの朝寝坊』と言って、夜更かしは、悪のように言われていました。『早起きは三文の得』で、朝は早かったです!50ヘルツと60ヘルツの違いの解消。富士市は、富士川を挟んで、東京電力と中部電力二つの電力会社。二つのヘルツの珍しい市です。今回の地震の教訓をもとに、ぜひ一本に統一して、いつでも、融通出来るようにして欲しいと思います。介護保険を、市町村単位でなく、全国単位で利用出来るようにして欲しいと思います。そうすれば、お年寄りも、遠く離れて暮らしている子供の家に行き易いのです。寒い冬の間だけでも、暖かい地方に行って、雪かきをしないでのんびり過ごして欲しいと思います。複数の子供の家を順番に回って、陽気が良くなったら、地元に帰ると言うのもありだと思います。長男のお嫁さんだけが大変な思いをするのはおかしいと思います。色々な問題点があると思います。けれども、今は、折角救助されたお年寄りを、避難所で、みすみす凍死させたり、衰弱させたりしている場合ではないと思うのです。

3月19日 災害復旧作業が始まっています。

道路、お墓、神社の灯寵など至る所に被害が出ています。村山浅間神社の灯寵も倒れています。屋根瓦の破損は軒並みという感じです。写真は全部私の住んでいる町内のお宅です。富士山の前に映っている大きな牧場の自宅の屋根瓦も崩壊しています。青いビニールシートの被っている家は、みんな被害を受けています。まだビニールシートを被せてない家もあります。道路脇の崩壊は、ほとんど手付かずです。道路に亀裂の入っている所もありましたけれども、写真どころではありませんでした。町内でも何十軒の家に被害が出ていました。早い家は、もう復旧作業が進んでいました。我が家にも、市役所から、ビニールシートが届きました。隣家の瓦屋根が落下して、倉庫に落ちていましたので。とても助かります。自動車、レンタルのシニアカー、販売用のミネラルウォーターなどに被害が無いようにとさっそく取り付けました。

3月27日 人と人との繋がり 〜弱者は心細い〜

今日も一日中寒い日でした。被災地の方々の健康が気掛かりです。津波から助かったのに、みすみす命を落としてしまうのは、本当にお気の毒です。なんとか暖かいお布団の上で、ゆっくり休んで欲しいと思います。静岡県では、地震後キャンセルになった旅館や、ホテルが沢山あるようです。また普段はほとんど使われていない大企業の保養所も沢山あるようです。そうでなくても、空き部屋が、一杯の営業不振?のリゾートホテルみたいなもののチラシが新聞に良く入って来ます。とりあえず、寒い間だけでも、いえたとえ一週間だけでも、暖かい温泉に入って頂き、普通の食事を食べて、ゆっくり休んで欲しいと切に願っています。仮設住宅が出来るまででも良いと思うのです。『サービスはオマケではない。』私が、ある損害保険会社サービスセンターに勤務している時のサービスセンター課長の口癖です。静岡県だけでなく、旅館、ホテル関係の方々が、受け入れてくださるのを、期待しています。今度の地震後ご主人の転勤で、ご無沙汰していた友人からも、久しぶりに電話を貰いました。懐かしくて、とても嬉しかったです。幼なじみとも先日話が出来ました。地震後直ぐに私に電話をしたけれども、『繋がりにくくなっています。』と言われたようです。阪神大震災の時にも、早朝私が大阪の友人に電話をして無事を確認した後で、電話が繋がりにくくなって、静岡県の私が、東京の彼女の実家に電話をして大阪の彼女の無事が伝わったと言うことがありました。こちらも、11日の地震後電話はお話中で、通じませんでした。情報が全然入って来なくて、停電で、真っ暗で、一人で身体は自由に動かないので、本当に心細かったです。あんなに心細い思いを、一人暮らしや、身体の不自由な方々にいつまでもさせておくわけにはいきません。所謂弱者のために、なんとかプライバシーのある、安心な生活を確保してあげて欲しいと切にお願いいたします。

3月28日 計画偉電中に左手土腕迄大火傷

右手が自分の思い通りに動かないので、色々なことに不自由している。先日は、計画停電の前に、電気ポットが使えなくなると、薬を飲むのに、困ると思って、水筒型の小さなポットにお湯を入れようとして、左手の内側を火傷してしまいました。私の思っている位置と、実際の水筒の位置とがずれていたようです。新しい薬のおかけで、中枢性の疼痛は大分楽になって来ています。ところが、私の感覚と、実際の手の動きが少しずれているようなのです。以前にも、包丁が使えるような気がして、リンゴの皮を剥こうとして、左手の親指の先の内側を切ってしまいました。質の悪いことに、外傷では、痛みを感じ無いので、出血を見て、初めて、「あっ怪我をした」と思って、急いで手当てをするのです。火傷の時も、普通、熱湯が、腕にちょっとかかっただけで、サッと手を引っ込めると思うのですけれども、熱いも、冷たいもわからないので、上腕の方まで、真っ赤になるほど火傷しました。紫色に変色して、水疱が出来ていますけれども、痛みを感じ無いので、こういう時だけは、助かります。私は元々すごく器用で、大抵のものは、人並み以上にこなしていました。料理や、編み物も得意でした。ところが、今は、ペットボトルのキャップさえ開けられないのです。大好きな編み物も、手が痛くて、編み棒が握れないのです。書道も、筆が持てない。字を書くのは、好きなのですけれども、ボールペンでも、以前のように、上手に書けない時の方が多くなって来ています。調理も、中身の入っているお鍋が持てない。立っているのが辛い。パソコンも自分の思っている通りに、打てない。テレビはもともとつまらないし、最近は、見るのが、怖しいので、ニュース以外は、ほとんど見ません。こんな状態では困ると、ケビンが、電子キーボードを買って来てくれました。赤いランプが光る所を押すだけで、曲が弾けるというカンニング??みたいな代物です?今の私には、ピッタリです。指一本だけでも、いいのですから、まだ変形していないので、痛くない小指で、練習してみます。

4月9日 検査入院が無事終了しました!

たった一晩ですけれども、無事に検査入院を終了しました!前回の検査入院は、たまたま震度6強の地震に遭遇して、震央の富士宮の病院から、必死で避難しました。検査内容は、脳波。心電図。筋電図。無呼吸、低呼吸の測定。血中酸素濃度測定と睡眠構築についてです。睡眠時無呼吸症候群になっているようです。在宅持続陽圧呼吸治療器(C-PAP)による治療を開始する予定です。今回で、三回目の検査です。地震で倒れないように、鎖で巻かれて、壁に固定されたプロパンガスボンベみたいでしょう。気分は、プロパンガスボンベというよりは、お茶の水博士の研究室にいるロボットみたいです!地震直後、まだ揺れている最中、韋駄天のごとくに私たちの入院室に駆けつけて「大丈夫ですか?」と院長先生。ものすごく頼もしかったですよ!「火事になって逃げられないと困るから」と、一時間以上かけて装着したこのコードを何の躊躇も無く、ものの1〜2分で取り外して検査中止の判断。適切な判断はやはり、長年の医師としての知恵と経験の蓄積の賜物なのでしょう。さて前回震度6強の時に、私か聞いた経験の無い音文字通り私にとって『前代未聞の音』は、何千枚のカルテが棚から、全部落ちた音だったことが判明しました!ザーザーザーッと言う感じのものすごい音でしたよ!ドスン、ドスンと言う音は、酸素ボンベが落ちた?音のようです。病院そのものは、新築で、丈夫に出来ていて、何の被害もなかったそうです。病院の近くの富士宮浅間大社の桜。深紅の椿。生憎大雨警報が出ていましたので、花見は出来ませんでした。帰宅後に、ヘルパーさんにシャンプーと入浴介護をとても丁寧にして頂いて、検査がやっと終了しました。(ホッ)

4月20日 原因不明の難病と宣告された日

今日四月二十日は、四年前私か初めて線維筋痛症候群と宣告された日です。事務所の玄関で転んで、激痛のために、駆け込んだ近くの医院で、突然言われました。長いようで、短いような、あっという間の四年間でした。同じ四年間に大学生活かあります。楽しく、教養を身につけ、人間関係を学んだ充実した日々でした。もう四十年前の日々です。病気と出会った四年間も、勉強と人との出会いの日々でした。一体何人の医師に診察して頂いたことでしょうか?原因不明の難病と言うだけで、医師も知らない、病気とも認められていない、治療法もない。検査をしても何も異常がないのが、特徴などと言う病気を、真剣に診て下さる先生は、そんなにいませんでした。現在は、とても勉強熱心な先生方にお会いできて、本当に地獄に仏の心境です。これから何年この疼痛と付き合うのでしょうか?世間に、線維筋痛症の病名が認知されて、お医者様も、このような難病があると言うことを理解して頂いて、私のような痛みを味わう人が、一人でも少なくなるように切望しています。

我が姿 たとへ婆と 見ゆるとも
心はまだまだ 花の蓄

【名前】
土屋雅子(つちやまさこ)
【年齢】
58歳
【病名】
線維筋痛症
【被災場所】
静岡県富士市の自宅(3月11日)、富士宮市の協愛病院(3月16日)検査入院中

あの日、3月11日 内藤幸保

半べその帰路

あの日3月11日は職場にいました。グラッと来たときにはドアを開けに入口に走り、後は机の下です。書棚は倒れ書類が散乱、そして悲鳴!!少し治まった後に駐車場に避難、安否・今後の連絡確認等を済ませ、三時間かけ多賀城の自宅まで歩きました。自宅とは一度のメールのみで安否確認できました。

この年で“半べそ状態での帰路でした。余震・寒さ・怖さ‥‥。その夜は集会所で4世帯での一夜を過ごしました。石油ストーブ3台、子供達が多く余震の度に消しました。仙台港の火災が目前に見え、一睡もできませんでした。ラジオからは大変な状況、津波のニュースが流れていました。一緒に避難していた方の御実家が沿岸部で、とても心配しておりました。後で、家ごと流出し身内が亡くなられたことを知り言葉になりませんでした。

近所づきあいの大切さ

翌朝から新聞が配達され避難所にも届けられたことを知りびっくりしました。翌日より近所の家族が三日間、我家で過ごしました。高校生・小学生の子供達が自転車で開店しているスーパー・コンビニを探しました。長いこと並び食材を入手してきたときは頼もしくもあり助かりました。電気の無い暗いところでの食事も、子供達がおにぎりを作ったり工夫して楽しくしていた様子で、気分的に助かりました。普段は挨拶程度の方々同士で差し入れがあったり、水やガソリンの情報交換をしたり改めてご近所のおつきあいの大切さを感じました。子供達も水や電気のある生活がどんなに大切か彼らなりに感じた様子でした。電気の点いたときは皆拍手でした。

幸いにも自分で行動できる私ですがもっと身体が不自由な方、高齢の方など大変な思いだったでしょう。何の手伝いもできない自分を責めました。なくなられた方、命が助かっても何もかも流出してしまった方、本当にかける言葉が見つかりません。大変なことでした。

「何気なく過ごした今日は、昨日亡くなった人のどうしても生きたかった明日」

命を大切に明るく元気に、それなりにがんばろう!

【多賀城市】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

【名前】
内藤幸保(ないとうゆきほ)
【年齢】
64歳
【病名】
ポリオ
【被災場所】
職場

地震に遭って 夏井延雄

地震発生

薬が無くなったので病院へ行きました。両脚をベッドに縛り付け、足の後ろと腰に電気をかけているときに大地震。身動きできずにいるところを看護師さんに発見され一番最後に外に連れ出された。

めちゃくちゃの自宅

大急ぎで帰宅。家は少し傾きモルタルの外壁は剥がれ、中はめちゃくちゃ。店、居間、台所、二階と通路の植木鉢類が散乱、古い家なので5cm厚の土壁がもろに崩れる。壁に止めておいた茶箪笥もはずれ食器はめちゃめちゃたった。とにかく一カ所ずつ整理、土壁運び、娘に手伝ってもらい運びおろしの数時間。

ライフライン断絶

気づいたときは買い物を忘れていた。すぐに行ったが何処も食べ物は空っぽ、家内は老人ホーム勤務で大変、帰りが遅いので何も買えず。停電なのでファンヒーターは使えず、ガスもないのでお湯も沸かせず。カップ麺等何も食べられず、雪も降っていて冷えて寒かった、備蓄もあったのだが期限切れを気にせず食べてしまい残り少なくなり、少しずつ大事に食べた。

昼も夜も土とガラス片付けの毎日。家内はバス不通のため片道40分の徒歩通勤。私は歩けないので避難所は無理なので家の掃除をしながら待機、食料探しは娘頼み、飲食店で、店頭販売で、とにかく探し回って買ってきてもらった。

娘は町内会のチームに参加して南小泉小学校に避難している人たちへの炊き出しに通った。但し、ボランティアの食料は、原則として、もらえないが障害者がいるので特別に少しだけ、いただいてきたことがある。水とパンだけの時もあり、1週間で3kg痩せた。1週間後スーパーが開いたが、4〜5時間並んで一人3点までしか買うことができなかった。近所の乾物屋で店頭販売してくれたのですぐ食べられるものを買って過ごした。

【仙台市若林区 スーパーに続く行列】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

ライフライン復旧

1週間も過ぎた頃にやっと電話が通じた。みんなが心配してくれたが運送会社が動いていないので送ってもらうことができない。2週間後やっと荷物が届き助かった。でもガスが使えない、古いストーブをしまっておけば良かったと考えたり、10日目に電気が通じたときは電気コンロも捨てなければ良かったと思った。薬は1週間後届けられ助かりました。

自宅 全壊判定

家は一見して傾いていることが明らかで全壊の判定だった。東南の角、台所の方が3〜4cm下がり二階は、はっきり真ん中から折れたように傾き坂になっている。5月17日から7月7日までの50日間の工事でやっと住める状態になった。外壁のひび割れは、総て足場を組んではずし、店前は補強の柱を入れた。開かなくなったガラス戸、2階の壁をジャッキで上げ押さえて下からなくして、戸の開閉ができるようになった。足場の会社、外の工事をする会社、中の壁を直す建具大工さん、外壁を直す左官屋さん。屋根やさん、水道屋さん、ガス屋さん、毎日地震が来ているよう、土埃が掃除機をかけてもきりがないくらい、外壁は見違えるようきれいになっていった。内壁は大きく崩れた壁に厚いベニヤ板を張っていく仕事、左官屋さんは大きな扇風機2台で進めて行く。水道屋さんは家の重みで折れそうになった管をなおしたり、今思えばそれぞれの職人さんが一つにまとまって家を直してくれた。それぞれの人に感謝したい。

生活はできるようになってきたが、お客さんは、まだ本当に少ない。今後が心配であるが、大変な人達もいるのでがんばる。

備蓄の見直し

娘は5月9日からボランティアで一本杉の教会が拠点となる被災地に送る物資の整理やパソコン集計係としてがんばっている。先日ま20人で出かけ救援物資を全部配布し避難所の人達に喜んでもらえたと話していた。

備蓄のリュックを調べると水が止まらなかったのと家があまり壊れなかったので減っている物がすくなかった。使用したのは、小銭(フィルムケースに入れていた)、氷砂糖入り乾パン、水を入れるとすぐ食べられる餅等ほんの少したった。携帯の充電器はダメになっており役に立たなかった。娘がちょうど一緒にいたので食事など助かったが、いなかったら避難所に行くしかなかった。そうなったら杖二本で支えて歩く身では大変だったろう。今一度備蓄を見直し食料はそろえようと思う。太いローソクは助かった。単3乾電池はたくさん必要だった。その他使わなくてすんだ物、携帯用小用ポット、大用便袋、ペットボトルの水30本、20㍑の水、消臭剤、ちり紙、ロール紙、ラップ、一人用飲用ポット。でもよく頑張れたと思う。

【名前】
夏井延雄(なついのぶお)
【年齢】
71歳
【病名】
ポリオ
【被災場所】
病院

「私は思います原発はいらないと」 深谷敬子

はじめに

福島第一原子力から7km〜8km圏内に住んでいた深谷です。

私たち避難者の苦しみ、そして原発の恐ろしさを知ってもらいたくてペンを走らせます。

チェルノブイリ原発を見ても福島原発を見ても、知ってのとおり一度事故がおきると大変なことになります。リスクが大き過ぎます。汚染されて人間も動物も全て、何十年も住めなくなるのです。何も知らされることもなく、着の身着のままでバスに乗せられ、逃げるようにして家をあとにしました。バスの中から見た風景は、どの道も車が長い行列を作り、不気味な光景でした。あの車の人達は、事の重大さを知って逃げていたのでしょうか。

避難者の苦しみ

着いた避難先は、ビニールシートを一枚敷いた体育館に2,000人ほどの人達が、ひしめき合い、寒さに耐えていました。朝は白いおにぎり1個、お昼は8枚切りの食パン1枚。停電で重大さも解かりません。みんな津波の恐ろしさを話していました。

食べ物がないところで、寒さに震いながら不安との戦いでした。もっともっとひどい人も沢山いたようです。避難しているせいで、持病が悪化して亡くなった方もいるそうです。これは避難してみないと、苦しさが解かりません。

逃げてください。生き延びてください。

ご主人が原発で働いている奥さんからの電話で「深谷さん逃げてください。生き延びてください。生き延びたら又、美味しいお酒が飲めるんだから」その電話で事の重大さを知り、一睡もできませんでした。息子に「逃げよう」と言ったら、「枝野さんが大丈夫だって言っている政府の言うことを信じないで何を信じるんだ!」と息子に言われて、そのまま私たちは、郡山の避難所にいました。後で解かった事ですが、事実を言うと混乱するからと言うことでした。混乱するのと被爆して人の命が危ないのと、どちらが大切なのでしょうか。真実を知ればそれなりに、みんなわが身を守るのではないでしょうか。

原発の安全神話 崩壊

「原発があるからどんな大きな地震にも津波にも絶対大丈夫」と言う言葉を信じて46年過ごしてきました。相双地区は、原発ができる前、貧しくて出稼ぎが多かったと聞いています。原発反対は、白い目で見られるような雰囲気でした。「原発は、安全で町を豊かにしてくれる」そう思ったのは、私だけではないようです。「どこに勤めているの」「東京電力です」そう言うと羨ましがられる程でした。

しかし、生活が豊かになっても、身の危険を感じるようでは何にもなりません。全てが汚染されました。何十キロ先までもです。米も野菜も果物も何もかも、安心して食べられないのです。一番大事な食べ物です。作る人もこの先どのくらいの不安と戦うのでしょうか。

【福島県双葉郡富岡町 避難車両と被災地入りする緊急車両】

出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト

一時帰宅の時、周りを見ると牛が群れをなしています。豚は道路を歩いています。ダチョウも歩いています。別世界でした。我が家に着いたら3月11日のままで、冷蔵庫には虫が湧き、動物のウンチが一杯でした。家の中に牛が寝ていたと言う人もいました。

「もう家には帰れません。帰りたくとも帰れないのです。線量が高くて…」お父さんの仏壇の前で泣きました。これから先、富岡に帰れるのは何十年先になるかも解かりません。子供も孫も住めないのです。家も仕事も失いました。これ以上の恐ろしく悲しいことがあるでしょうか。答えが欲しいです。一番恐ろしいのは、被爆しているかもしれないのです。「私だけはそんな事はない」と思っているかもしれませんが、私たちは毎日低線量の中で生活しています。毎日毎日、放射能を吸い続けているのです。フランスの原発関係者は、「福島県民全てに被爆手帳を持たせるべきだ」と言っています。

あと5年経つと福島は、凄くガン患者が増えるそうです。だから「5年のうちに、病院は受け入れ態勢をしておくべきだ」と言っている外国の専門家もおります。福島第一原子力は、まだ放射能を出し続けているのです。原発は、自分で出したゴミさえ処理することも出来ないのです。人間の幸せは、家族が肩を寄せ合い、安心して暮らせることではないでしょうか。それさえ出来ないのです。そして先が見えません。

不安だらけの毎日

これから先どうなるのでしょうか。不安だらけです。福島県知事は、10基を全部廃炉に決定しました。私も大賛成です。問題は色々あるでしょうが、勇気ある決断だったと思います。「雇用はどうなるのか」「何の相談もなしに憤りを感じるとか」「納得がいかない」とか言っているけど、私は思います。廃炉は当然の事。町長さんが一番良く知っていると思います。避難する事の苦しみ、家に帰れない不安と焦り、被爆しているかもしれない恐怖、孫も子供も住めない我が家、これでも経済が優先なんですか。雇用が大事なんですか。解らないでもないですが、命より大切なものがあるのでしょうか。聞かせて欲しい。

借り上げ住宅に一人でいる時に、孤独感に襲われ詩を詠みました。

あの日の私を返してください
毎日笑って暮らしていた
あの頃の私を返してください
生き甲斐を持って充実していた
あの頃の私を返してください
原発の安全性を疑うこともなくのんびりと暮らしていた
あの頃の私を返してください
でも今は生活が一変しました
なぜ なぜこんなはずではなかったのに の連発です
もう後には戻れません
3月11日前には戻れないのです
目に見えない放射能があるからです
こんな悲しいことがあるでしょうか
原発が憎い
全てを奪った原発が憎いです
あの日の私を返してください
私は思います
原発はいらないと!

【名前】
深谷敬子(ふかやけいこ)
【年齢】
67歳
【病名】
関節リウマチ
【被災場所】
島県双葉郡富岡町

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