患者家族による手記~被災地より~
東日本大震から母を守るために… 谷津直美
はじめに
私たちが住んでいる仙台市青葉区は、内陸部のため津波の被害は有りませんでしたが、都市ガス、水道、電気のライフラインは遮断され、要介護5で常時吸引が必要な母をどのように守ったらいいのか…震災から8ヵ月が経った今あらためて振り返ると、本当にたくさんの方に支援していただいたお陰で乗り切ることができたと思います。
私の母は、平成4年にパーキンソン病を発症し、現在は要介護5の認定を受け、週1回の往診、週2回の訪問看護、訪問リハビリ、訪問入浴を利用しています。主たる介護者である私がフルタイムで働いているので、平日の日中はヘルパーさんにお願いしています。日頃から、たくさんの方々に支えて頂きながら私たち家族は毎日生活をしています。
日頃の地震に対する備え
宮城県では、以前から高い確率で宮城県沖地震が起こると言われていたため、私たちは地震の備えを下記のようにしていました。
- 緊急時と災害時の対応(近隣の協力者名、緊急時避難場所、家族が戻るまで身を守りながら母を守ってもらう等)と緊急連絡先を記載したものを利用している事業所と共通理解を図っていた。
- 停電時にも使える吸引機を充電式2台と足踏み式1台を所有。
- 薬3日分は非常時用に常にストック
- 非常食、水を常備しておく。
- キャンプ用品(ランタン、炭、コンロ等)を常備しておく。
- 地域の防災訓練に参加し、母のことを町内の方に告げておく。
- 家具の固定、人がいる場所には(母のベッドなど)物が落ちてこないように上には置かない。
地震発生
地震が発生した時も、家にはヘルパーさんと母の2人でした。私は自宅から車で50分位の所にある太白区の職場で被災しました。地震直後は携帯電話がつながりにくく、伝言ダイヤルも機能しませんでした。私は仕事の関係ですぐには戻れなかったので、夫が小2の娘を学校に迎えに行き17時30分に帰宅することができました。ヘルパーさんとは17時30分に携帯電話で連絡がつき、夫と交代して帰っていただきました。それまでの3時間弱ヘルパーさんが、余震が続き暖房が止まった寒い部屋の中で、一人母の命を守ってくれていたのです。私か家に戻れたのは23時30分頃でした。
幸い家は倒壊の恐れがなかったため、私たちは自宅で避難生活を送ることを決めました。次の日から、主人の仕事も娘の学校(学校は4月11日まで)も休みになりました。私の仕事は、同僚と協力しながら在宅勤務と出勤という形をとりました。次の日の朝、連絡が取れなかったヘルパーさんが予定通り訪問してくれたのには驚きました。その日はそのまま帰っていただきましたが、その後はガソリンが手に入らないという理由から、訪問介護と訪問入浴は当分の間お休みになりました。(訪問介護はガソリンの復旧の目途がついた17日目から再開、訪問入浴は13日目から再開(自宅が断水中でも事業所から水を持っていきますと言ってくれました。))、訪問看護と往診の先生は、次の日に安否確認に訪問してくれたり、定期訪問は予定通りしてくれたりしたことは、避難生活中本当に心強く思いました。避難生活中、感染予防、誤嚥予防は注意するように言われました。
避難生活での工夫
ライフラインが遮断された避難生活で工夫したことは以下の点です。
- 地震直後は水が出たのですが、断水が予想されたため、風呂いっぱいに水をためる。(案の定次の日から3週間断水)
- 自宅の暖房器具(ファンヒーターとエアコン)は、停電のため使えなかった。(母は洋服を着たままベッド上で過ごす、タオルで頭や首部も保温、湯たんぽなども使用)
- 日中は避難所へ行き情報収集(お店の開店状況や給水場所等)、母の事を伝え、いざという時の協力を呼び掛けておく。
- 避難所へ巡回に来ていた地域包括支援センターの方へ、母の状況を伝え、福祉避難所への避難方法や、受け入れ態勢について聞く。(地域包括支援センターは、災害時に避難所をまわり、支援の必要な高齢者を福祉避難所へ繋ぐなどの役割があるそうです。)
- 母や娘が不安にならないように、一日のリズムを保つ。(食事や薬の時間、声掛け)
- 明るいうちに食事の準備等を済ませておく。(温かい食事を作る)
- 緊急地震速報を知るためにラジオをつけておく。
- トイレの使用済みの紙は流さずゴミ箱へ捨てる。
- 家族全員母の近くで一日を過ごす(寝るときも)。
我が家では、電気は3日目の夜、水は12日目、都市ガスは34日目に復旧しました。電気が来ると、暖房が使う事が出来たので本当に助かりました。電気ポットも使う事が出来たので、お湯を沸かして母の清拭や足浴ちずることができました。携帯電話等も充電する事ができ、格段に生活は楽に感じました。1台目の吸引機の充電がなくなり、2台目を使い始めたころで姉の家々友人の家が先に電気が来たので、そちらで充電をさせてもらったりすることができたので大丈夫でした。
【品物がないコンビニ】
【ガソリンを買い求める行列】
出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト
地震後の仙台市内
地震後の仙台市内の状況は下記のとおりです。
- GSが機能停止。開店したGSには6時間並んでも給油できなかったり、入れられても20Lなどの制限付き。
- スーパーマーケットは、店頭販売や制限付きの開店。2時間並んで一人10点や制限時間10分など。
- 乾電池、パン、ヨーグルトが店頭から消えました。
- 地震直後は、給水車は市内に数ヶ所のみ。2時間半ならんで、一人2Lの制限付。
- 地下鉄やJRは運休。
- ガスコンロのガス缶の販売は、一人1本。電池も品切れ続出
東日本大震災の経験を踏まえて
今回の地震で新たに加えた災害時の備えなどは下記の通りです。
<備品>
- 薬とラコール類は、1週間分ストックしておく。
- 庭用の充電式家電対応バッテリーの購入
- 充電器(携帯電話や吸引機もできる電池式と車やパソコンからも充電できるものなど複数)の購入。(往診から支援物資で一つ頂きました。)
- ガス缶のストック
- 電池(機種に応じて)
- 石油ストーブ
- 紙おむつ等の消耗品も多めにストック
今回の地震で、「していてよかった」または、「したほうがよい」と思ったことは下記のとおりです。
- 日頃から色々な方にお世話になっていた事で、災害時も支えて頂くことが出来た。
- 福祉サービスがガソリン等の理由により利用できなくなることがあるので、できるだけ近くの事業所を利用する(自転車で行ける範囲は訪問を続けていたそうです。)。福祉サービスが利用できなくなった時の事を考え、家族の協力等を日頃から想定しておく。
- 災害時や緊急時の対応について、関係機関の皆さんに家族の意向や希望を伝えておく。
- キャンプの経験が災害時に大変役に立った。
今回の地震で課題に思ったことは次の通りです。
- 母のような状態の人が、避難しなければならない状況になった場合の避難方法と避難場所。
- 買い物や給水で寒い中長時間待つことは、障害者や高齢者、小さい子などには本当に大変なことだと思います。
- 電気が来るまでの間の対策
- 今回は家族で母を支えることはできたが、家族に何か有った場合、誰が母を支えるのか。
震災から8ヵ月が過ぎました。母は、震災後も大きな変化もなく安定して毎日を過ごしています。10月には、一昨年に亡くなった父との思い出の場所でもある温泉へ、母を連れて一泊してきました。母のためにもいつもの日常を維持していくことをとても大切に考えています。その一方で地震が起こった時の事を考えながらいつも過ごしています。
- 【名前】
- 谷津尚美(やつなおみ)
- 【年齢】
- 42歳
- 【備考】
- パーキンソン病患者家族
- 【被災場所】
- 宮城県仙台市青葉区
発電機を借用するもガソリン不足 病院避難へ 秋山厚
3月11日
その時、私は二人の男性客と面談中たった。突然天井の軋みと同時に異常な家屋の揺れが始まった。私たちは尋常でないその震動に跳ね返されるように立ち上がると、覚束ない足取りで無言のまま、隣室で長期療養中の妻のベッドに駆け寄った。私の手は半ば本能的にベッドの左側の台上に置かれた呼吸器と吸引器を押さえにかかっていたのだ。でも既に反対側からヘルパーさんが患者の上体を自分の体で覆うようにして呼吸器を押えてくれていたので安心した。私は視線を合わせながら感謝した。しかし、揺れは止みそうに無い。まるで遊園地で乗ったことのあるコーヒーカップのように自分では全くコントロールが出来ないのだ。目の見えない、全身麻庫の妻の怯えを察知して「大丈夫だからな」と声を掛けたものの、私の脳裏にはこのまま街全体が陥没して終息を迎えるのではという想念が駆け巡ったりもした。それ程揺れは長かった。そして電気が消えた。呼吸器だけは内部バッテリーに切り替わったが、吸引器と酸素濃縮機は使用不能になった。ところが幸いにも酸素ボンベを繋ぐことが出来た。大きな揺れは一旦治まったが、その後に続く余震に怯えながら、ストーブの上から転落した薬缶が床に流した熱湯を拭き取り始めたのである。隣近所は意外に静かなのだ。3月半ばは日暮れも早い。すると先刻の興奮も次第に荒みの心に変わるのだ。そんな時、玄関に声がした。近所の床屋の旦那と町内会の副会長である。町内会所有の発電機を使ってみてくれと言うのだ。急に嬉しくなる自分を感じながら二人に感謝した。ところが、エンジンが始動しない。二人の努力も空しく使用不能が解った。そこで思い出したように向かい側の工業大学の門前にいた学生と学校関係者らしい人物に発電機の借用をお願いすると快く届けてくれたのだ。しかもガソリンを満タンにしてくれてである。
これで妻は救われた。呼吸器の内部バッテリーも3時間30分の限界に近い時だった。早速玄関前に置いた発電機からコードを延ばし、呼吸器と吸引機に接続してエンジンが始動した。かなりの騒音だが幸いにして我が家は三方を道路、そして一方を駐車場で仕切られており、それ程ご近所には迷惑を掛けずに済む事を祈った。また地震直後に定期訪問で飛び込んで来た看護師は顔面蒼白で息を弾ませながら、取り急ぎバイタルチェックと機器類の点検を行って心を鎮めていた。
やがて17時を過ぎた頃、食事担当のヘルパーさんが食材をぶらさげてやって来た。しかし、水道もガスも不通。料理など作れる状況ではなかった。ただ、妻の食事は石油ストーブで沸く白湯さえあれば経管栄養は十分だったのだ。冷え込む闇夜、日中のヘルパー、夕方からのヘルパーそれに息子夫婦と私の5人は、妻のベッドを囲み誰もが無口で、2本のローソクの灯りを頼りに買い置きのパンと僅かな菓子類を食べながら、余震が発生する度に各々が声を上げては機器類を押えたり、妻の体を支えるように労わりつつ寒さと眠気に耐えていた。
ところが12時半頃たった。あの真っ暗な夜道を今度は夜間勤務のヘルパーさんがやって来たのだ。恐らく身の危険も感じたであろう。それにしても皆仕事に忠実なのだ。これには唯感謝するのみ。ありがとう。その後、日中からのヘルパーさんが家族も心配だと言って、信号機も消えた筈の冬の夜道を安全運転で帰って行った。玄関先で発電機が順調に唸り続けてくれた。
3月12日
膝を抱えたままの姿勢で一夜を過ごした。誰もが寝不足だった。余震の治まる気配は全く無く、寒さも一層厳しさを増したようだ。朝6時のバイタルチェックでは妻の体調に変化は見られない。体温も36度台で血圧は平常どおり、ただ脈拍だけが速く100を超えていた。9時にはヘルパーさんの交替があり、10時からの排便介助も快調に済んだ。その頃、家の外に出ていた息子が発電機の燃料が乏しくなってきたと叫んだのだ。少々焦り気味にヘルパーさんと息子がガソリンの購入に走ったが、スタンドも停電の為、給油が出来ないとお手上げの始末なのだ。借用先の大学にもお願いしてみたが同じように困惑をしていた。
【ガソリンを買い求める行列】
出典:Yahoo! JAPAN 東日本大震災 写真保存プロジェクト
午後になって訪れた訪問看護師と相談し、病院に避難する事に決めた。直ちに救急車の手配をすると比較的早く到着した。私は区内の総合病院を指名した。病院に到着すると先ず姓名と病名を告げ、電源が欲しい避難であると申し出た。するとストレッチャーに乗せられた妻はキャスターの上の呼吸器と共に3階の大ホールに案内された。もうそこには既に20人程の老人患者がビニールシートの上に敷かれた蒲団の中に横臥して酸素吸入を受けていた。妻のストレッチャーは大ホールの入り口に近い場所に位置し、看護師の手により呼吸器に電源と酸素が同時に接続され、付き添った一同に安堵の表情が浮かんだ。ところが病院自体も自家発電に頼っていた為照明は絞られ、当然のように暖房は無かった。私共はこの寒さから病人を如何に守ってやるか悩んでいるところに、二人の看護師と二人の医師がやってきた。そして年長の医師が言った。「ご存知の通り大震災の為病院も混乱しており、余りお世話が出来ないと思いますが、、、」「解りました。私の方でやりますから」至極安易に私はそう答えていたのだ。妻の夕食は看護師の指示により、窓際に置かれたポットから紙コップに白湯を頂き、エンシュア食を作って注入してやった。夜はコートを着たままの息子夫婦が立て続けに起こる余震の都度、簡易椅子に乗せてある呼吸器を押さえながら吸引を行って長い夜を付き添ってくれた。妻は寒くはなかっただろうか気掛かりだった。
3月13日
この寒い避難所でストレッチャーにベルトで括り付けられたままの状態は妻にとっては辛くて耐え難いことだろう。額に手を当ててみると矢張り冷えた感じである。持参の体温計を脇の下に差し入れてみるが数値の表示がない。3度繰り返すが結果は同じだ。昼間、息子夫婦は暖風の流れる廊下に交互に出て行き、そこに並んだ長椅子に背をもたせて仮眠をとっていた。私は吸引をしながら余震の揺れから呼吸器を守りつつホールに出入りする人々の様子を眺めていた。
そんな時偶然のようにストレッチャーの後部のパイプに3色刷りのトリアージカードかぶら下がっているのに気付いたのである。これは病院側が使用する取り扱い患者の優先順位を示すものだ。妻の場合カードはそのままだったので残念ながら後回しなのだ。些か悔しかったが、他にもっと急を要する患者達が居るのだろうと思うようにした。夕方になって、1階でしか使用できないトイレに行った息子が戻ってきて、1階ロビーにある大型テレビで見た地震後に発生した大津波で太平洋岸の街々が全滅のようだという情報を教えてくれた。又死者の数は計り知れないらしい。早速私もトイレに行きながら、テレビを見ようと1階に降りてみた。
3月14日
避難所に来て2昼夜が過ぎた。けれども未だ停電は解消されないのだ。何時まで続くのだろうか。連日の冷え込みに耐えてきた妻の体は限界かも知れない。今朝も体温の計測は出来なかった。10時頃だった。この避難所に旧知の看護部長が巡視で入ってきたのだ。咄嗟に部長に駆け寄った私は挨拶を交わすと直ぐ、妻の体温の件を伝えたのだ。すると看護部長は妻に近寄り、その胸と背中に手を差し入れたまま「低体温になっているようなので入院に切り替えましょう。急いでお部屋を準備させましょう」と親切に指導してくれた。その部長の声は妻の耳深くに入ったと思われる。やがて案内された7階の病室は天国のように暖かかった。ところが個室の間取りが少々狭隘のため、呼吸器の設置スペースを作るのに難渋した。数枚の毛布とタオルケットを巻きつけられた妻は、ベッドの上で漸くその重苦しい姿から開放されたのだ。午後には体温は元に戻ったようだった。すると2日間我慢していた便が自然に洩れ出たのでおむつの交換をしてやると、妻の顔にも安堵の色が浮き出ていた。そこに先日の医師が入室して来て「大丈夫のようですね」とただそれだけを言って出て行った。今晩は暖房の効いた病室で、妻も息子夫婦も多少は眠る事が出来るだろう。
そう願って暗い夜道を自宅に向って歩いた。
- 【名前】
- 秋山厚(あきやまあつし
- 【備考】
- ALS患者家族