Interviews

Ms. Sonoko Umesaki

Sonoko Umesaki

Ms. Umesaki was born 1932 in Tokyo.

In 1959 she and her husband welcomed a daughter that was born with a serious congenital heart disease.

She needed extensive medical care that was expensive and therefore required a subsidy.

Ms. Umesaki communicated the need for government subsidies in such situations to patients and parents of patients, all over Japan.

She also promoted dialogue between these groups.

Through her efforts, the “Heart Disease Children’s Group” was founded in 1963.

It was created 10 years prior to many other patients’ groups in Japan.

Unfortunately, her daughter passed away in 1964, because of her condition.

Ms. Umesaki continued managing the organization enthusiastically for almost 30 years.

In addition, along with mothers carrying babies on their back, she petitioned the Diet for subsidies and other reform needs.

They successfully acquired subsidies for heart disease patients.

She continued to work hard for welfare reform in support of people with disabilities.Through her efforts, the “Heart Disease Children’s Group” was founded in 1963.

Date: December 19, 2009

Place: Sonoko Umesaki’s residence, Yokohama, Japan

Interviewers: Tateo Ito and Shiori Nagamori

日本で患者会ができ始める10年も前に心臓病の患者会を設立

伊藤 心臓病の子どもを守る会を作った頃のいろいろなお話しや、その時の患者さんがどういう思いでいたかなど、表の記録に出ない、皆さんの本当の気持ちというのを伺わせてください。
梅崎 私の娘が心内膜症欠損症で、当時日本では治療困難で、心臓手術ということ自体もあまりなく、補足的な易しい手術が始まった頃でした。あの頃は医療費が5割負担ととても高くて、畑を売って入院費用を作ったというような人もいました。国保(国民健康保険)でもっと医療費が高い人もいましたし、そもそも国保にも入れなくて医療費が全額自己負担の人もいました。お姑さんに、おまえのせいだと責められたお嫁さんの話も聞きました。それで三拝九拝して田んぼを売ってお金を作ったという人もいました。そういうわけで、うちの子は心臓病だけど治してやれないという親がいっぱいいたわけです。
伊藤 会を作ったのは日本の患者会の中でも早い方ですね。
梅崎 準備会を作ったのは1962年で、会は1963年に設立しました。
会を作る時に、患者会がどんな活動をしていてどんな組織形態になっているのか尋ねて歩いたのが日患同盟(日本患者同盟)と手をつなぐ育成会です。あの頃患者会は、2つか3つくらいしかなかったと思います。私たちが患者会を作ろうとしていることが報道されてから重症心身障害児を守る会や、サリドマイド被害者の方たちが会を作り始めました。
伊藤 その時の会の名称は何でしたか。
梅崎 初めは「心臓病の子供を守る会」として仮称でやっていました。名前を募集してみたりもしたのですが、なかなかいいのがなくて「全国心臓病の子供を守る会」で結成しました。結成する前に準備会というか学習会を2回して、お医者さんに来てもらって病気の話しをしていただき、さあ皆さんいかがですかと言うような準備会でした。
伊藤 お医者様をお呼びする時、謝礼などはどうされたのですか。
梅崎 「先生、お金はございません。全部ただで来てください。」とお願いしました。
娘が2歳か3歳の頃、私は母親大会で心臓病では治療費がこんなにかかりますという話しをしました。そしたらその話を役員の人たちが聞いていて,どう巡り巡ったか分からないけれど、ソ連で診てあげるという話しがあるからおいでという話しになりました。夫は絶対に嫌だと言って怒りましたが、私はそこの会の人たちが親身になって思ってくださるのにと思って悩みました。でも娘を何とか助けたいと思い、それで行きますと言って行ったのが報道されたわけですね。そうしたら全国から「うちの子もそうです」「うちの子もそうです」という手紙が200から300くらい来て、それで各地にこんなにいっぱい母親がいるのなら会がいるなと思って「会を作りませんか、一緒にやりましょう。」という手紙を下手くそな字で朝から晩まで書きました。
私は患者たちが自分たちのために集まった会というふうにしたかったのですが、患者会をどうしても作りたいのなら、自分の病院の中で病院の患者さんだけ集めて作るとか、病院の中で先生の話しを聞く会にしなさいと言われたり、閉鎖的な時代でしたね。

病院がない、医療費が高いという悩みから始まった患者会活動

永森 会としては、最初は医療費を何とかして欲しいというような活動が主だったのですね?
梅崎 最初集まった時はそうでしたね。医療費と病院がない。その後はだんだん医療費の自己負担も減って来て、病院も出来て来た頃からは、次は病気について知りたいとかに変わりましたね。
伊藤 僕ね、お母さんパワーってすごいと思っているのですね。
梅崎 その頃は子どもを抱えている人も多く、陳情も近場の東京の人たちが行くのだけれどみんな赤ん坊を背負ったり抱いたりしてね、心臓病の子どもを連れてお母さんたちがぞろぞろぞろぞろ議員会館の中を歩いたりしていましたけど、反発はされませんでしたね。
伊藤 理解してもらうのには実際にそういう患者さんやお母さんを見るということが一番大事ですものね。
今のように携帯電話やインターネットもない時代に集まったり、連絡を取り合うのもなかなか大変だったのではないですか?
梅崎 普通の電話だってない家が多かったから手紙や電報で連絡して、そういう時代でしたね。機関誌は手づくりで、あの頃カメラ持っている人も少なかったから写真がないのよね。
永森 会計のことや機関誌のことなどは、何かお手本にしたり勉強されたりして始められたのですか。
梅崎 みんなぶっつけ本番ですよ。やらなきゃいけないからやって。やっていく中でどんどん上手になって綺麗になって行くのですね。活動に関してもそうですよね。これが必要だというのが次々に出て来る訳ですよね。機関誌は1967年くらいになるとだんだん上手になって、ぐんと充実して来ました。
分科会もたくさん開いて、これが今の患者会の基盤になって行くのですが、すごい活動量でした。とにかく結成してから10年くらいの間にわぁーっといろいろな制度も勝ち取って来ましたし。
永森 陳情に行ったり、首相官邸に行ったりして訴えたことがだんだんと制度になって行ったのは、すごいことですよね。守る会で訴えなければ子どもの病気に関する制度は全然整わなかったかもしれないですよね。
永森 地方の支部は独自に活動して、年に1回の全国集会で活動報告しあったり交流をしたりという感じなのですか。
梅崎 本当は陳情などには全国から集まれば良かったのですが、それは出来なかったので、動く人はその頃はみんな首都圏の人でした。支部とは年2回の全国運営委員会と1回の総会で集まりました。私は、機関誌はみんなで作りましょうという考えで、支部の動きとか、お便りなど支部でいいと思ったのがあったらくださいとか、繋がりを持たせながらやっていました。「みんなの声」と言うところが、みんな一番読みたがり貴重ですよね。

自分たちの患者会だから会費を出し合って運営しようと会員を説得

伊藤 運営で苦労したことは?
梅崎 そんなに苦労はしなかったと思うけど忘れました。とにかく出来る人はやりましょう、出来ない人は家で署名集めとかそういうのをやりましょうとか言っていました。何でもおいでおいでだったから運営委員会なんかでも出来る人が来たわけです。
ただ、会費を取るというので随分ブーブー言う人たちもいましたよ。私は自分たちの会なのだから自分たちがお金を出してやらなきゃいけません、どこからかお金を貰ってきたら自分たちの会じゃなくなるから会費は絶対払いましょうと言いました。未だにそれは続いていますよ。とにかく自分の会は自分で支えましょうということなのです。
伊藤 会の財産や資金をパンフレット販売で作ったとよく言われていますよね、だいぶたくさん売ったのですか?すごい金額になっていったとか言っていましたよね。
梅崎 そう、パンフレットはずーっと改訂版、改訂版で出しているけれど結構売れるのですよ。心臓病の親御さんたちか、自分の仕事に役立てる保健婦さんだとかが買われていますね。
伊藤 こうやって苦労して作った人たちがいて、苦労というよりきっとある意味楽しく活動されていたのですね。
梅崎 そうね。生き甲斐とかになってね。
永森 患者会は楽しくなければ、ということですよね。
梅崎 家の中にいれば全然友だちになれない人とも、あっちの方の人こっちの方の人ってみんな友だちになれるしね。だから苦労ばっかりじゃないんですよ。
伊藤 だんだん技術が進み科学も進んで、元気になるお子さんたちが出て来ると、それがまた嬉しいですよね。
梅崎 苦労って言えばね、最初はみんな手術代が欲しかったわけね。病院があって手術をしてかなり亡くなった方もいるけど、治って行った訳です。そしたら「もう会はやることがないのじゃないか?」みたいな人たちが出て来ましたが、私はそうじゃないと思います。手術も出来ないようなもっと大変な子もいるのだからそういう子供たちのために、みんなが頑張らなければいけないのだと言っても、それがなかなか浸透しなかったですね。やっぱり自分のことだけ考えて。昔、育成医療がほしいとか何とか言っていたような人は、今はもう簡単に助成を受けられますから会は素通りね。昔は死んでいた子達が今生きられるようになって、それで会に入っているのですよね。会の舵を切る時が私は一番大変でした。みんな自分のことだけじゃなくて、こういう大変な子のために頑張らなきゃいけないのよって言うために。

日本から海外渡航して手術を受けに行ったほぼ最初の例

伊藤 娘さんの手術のために当時のソビエトに行かれたんですか。
梅崎 行ったのよ。モスクワまで行きました。
伊藤 ソビエトでは心臓の治療は進んでいたんですか。
梅崎 日本の先生たちに相談したら、ソ連と日本は同じくらいのレベルだ、アメリカの方が進んでいるからアメリカに行った方が良い、と言われました。でもアメリカに行くお金があまりにも高くて無理でした。それで、とにかく診ていただくだけでもいいと思ってソビエトに行くことを決めました。
伊藤 どんな手段で行ったんですか。
梅崎 船でナホトカまで行って、ナホトカからシベリア鉄道でイルクーツクに行って、そこから飛行機で行きました。
伊藤 お金かかったでしょう。
梅崎 そうなんです。だから皆にカンパしてもらいました。カンパして外国行った人の元祖かもしれません。
伊藤 通訳はどうしたんですか。
梅崎 日本から行く時にはスポーツ選手や旅行団の人と一緒に行ったので通訳が一緒にいて困りませんでした。でもモスクワに着いてからは別々でした。
伊藤 一人で行くよりは心強いでしょうけれど、小さい子どもを抱えて大変でしたね。
梅崎 主人も一緒に行ったんです。ずっと怒っていました。
永森 ご主人はお仕事をお休みして行かれたんですね。
梅崎 そうです。それで、向こうに着いたら通訳をつけてくれたの。
伊藤 でも何日も、それこそ1ヶ月とか2ヶ月とかかりますよね。
梅崎 そう、2ヶ月くらいいたかしら。それで結局は検査をしたけれどもできませんということだったのね。もっと大きくなってからの方がいいです、と。医療系の通訳がなかなかいなくて日本人の内科のお医者さんがついてくれたんですが、心臓は専門ではなくて分からなくて、それでああでもない、こうでもないとこうやりあいながら、やっとそういうことだということが分かって、それで帰ってきたのよ。
伊藤 そうですか。当時やっぱりソビエトに対しての信仰みたいなのがあって、医学とか科学技術は進んでいるという認識がありましたよね。
梅崎 そう、だからね、左側の人はね、行ったらもう天国みたいだろうと、今の北朝鮮の何だかじゃないけれどね、ソビエトに行け行け行け行けと皆おっしゃるし、そうかと思うと反対側の人は誘拐されてどうなっちゃうか分からない、なんて言いましたね。
伊藤 昭和30年代中から後半ってそうでしょう。でもその時代にソビエトに行くというのも本当に限られた人ですよね。
梅崎 そうね。国交がなかったわけだから。
伊藤 パスポートや何かはどうしたんですか。
梅崎 外務省まで陳情に行って、それで特別許可ということでパスポートが出ました。
伊藤 それも大変な思いをしましたね。慣れていなくて、向こうは寒かったろうし暗かったろうし。
梅崎 でも病院では娘と私と二人でいて、主人は出て歩いてばかりいて。
永森 ご主人はどこへ出歩いていらしたんですか。
梅崎 レニングラードまで行ってきたとか、今日はどこそこに行ってきたとか、何とか美術館に行ったとか。
伊藤 美術館はいいのが沢山ありますからね。そうか当時まだレニングラードって言っていたんですよね。今はサンクトペテルブルク。特急がありましたっけ。
梅崎 特急がありますよ。その後、特急の夜行で行きましたね。
伊藤 その頃、日本の場合だったら医学の技術の先端って東京に集まったんでしょうけれども、昭和30年代だったら地方には心臓外科自体があるかないかの状況ですよね。
梅崎 そう、できたばっかりで、日本に3か所とか4か所くらいしかなかったですね。東京女子医大、東大、それから阪大、久留米医大。久留米医大は何か分からないけれど早くからやってましたよ。それで東大が駄目だったのね。いろいろな学生運動の後で、教授がいなくなったとか、駄目男だとか言われていました。

政党や医師の派閥とは関係ない、患者による患者会を目指す

梅崎 ある大学病院から連絡が来て、心臓外科のA先生から話しがあるそうだから来てくださいと言われて行ったのね。そしたら20人くらい先生が取り囲んでいました。A先生が「患者会を作ってもいいけれど自民党につながる会にしなさい、そうじゃなければ作らせない」と言ったらしいのね。それで並み居る先生たちは、先生がそうおっしゃるんだから、ちゃんと言うことを聞きなさいと言うのね。私はできませんと言いました。一人で作るんじゃなくて皆で作るんだから皆の意見が大事です。私が一人で自民党だけにしましょうと言ったってそういうわけにいきません、と。先生方には反抗しないように、章子ちゃんの手術だってしてもらうんでしょ、というようなことをさんざん言われたけど、私はお断りします、と言ったのよ。
伊藤 当時はそういう権威のある先生に逆らうというのは大変なことでしたね。
梅崎 ええ、もの凄いことなんですね。だからそれまで協力してくださっていたB先生がその後で困っちゃったの。それであまり表立って支援はできないということを言われました。だから私もいいですよって、先生が特別にうちの会のことをいろいろ思ってくださらなくても、こちらがお願いした時だけ協力してくださればいいですということで。先生かわいそうだった。
伊藤 僕たちが北海道で患者会づくりを始めた昭和46年ころだって患者会を快く思わない先生ってたくさんいましたね。それから自分のところの患者さんに、こういう会に入っちゃいけないよって言ったとか、どうしても作るんなら自分のところで自分の患者さんだけ集めて作るとか、自分の病院の中に事務局つくるとか。
梅崎 そうそう。病院が先生の話しを聞く会にしなさいということで、心臓病の会もそうでした。
伊藤 よその先生の話しを聞いちゃ駄目とかね、だからすごく閉鎖的な時代ですよね。昭和30年代だったらもっとひどかったでしょうね。
梅崎 だから私はね、今ここでは言いますけれど、会の中ではソ連に行ったとか、A先生からこう言われたとか、そんな話しは一切してないんです。
伊藤 でもあちこちにそういうことを言われた患者さんたちは沢山いますよね。
梅崎 ただ、とにかく、何というんでしょうね、患者たちが自分たちのために集まった会というふうにしたかったんです。
伊藤 しかし医師としてはあまり許したくないことでしたね。患者が自分たちで考えて自分たちでものを言って病院や医師に文句を言うんじゃないかみたいなね。
梅崎 その閉鎖的な先生というのが10年20年近くまでいたかしら。でも最後はね、うちの機関誌に新年の広告があるでしょ、あれに出さない病院はもぐりだ、という感じになって、ワサワサ広告を出してくださるようになったしね。

「女なんか・・・」という声の中での活動

伊藤 それは守る会の活動の実績が認められてきたんですね。でも初めはそういう扱いだったんですか。お母さん方が作った会というのは割と、医師から支えられて始まったところが多いかなと思ったんだけれど、やっぱりそうではなかったんですか。
梅崎 初めは違ったんです。支えてくださる先生もいらしたけれど
伊藤 大教授に逆らった人は応援できないということだったんですね。
梅崎 それでね、おもしろいのは、既にある患者会に話を聞きに行ったという話しをしたでしょ。そしたらね、手をつなぐ育成会では、元軍人だったおじいちゃんが出てきたのね。それで私の話しを聞く前にね、あんた、女が会を作ろうなんて言ったってね、そんなものできっこないんだから私に任せなさい、私か皆作ってあげるから。と言ったんです。それで私が聞きたいことは何も教えないでね。やめなさい、やめなさいと言われて、結構でございます、私は自分たちで作るから結構です、と断ったりね。それから国会議員に陳情に行ったりするとね、私が先頭に立って私が行くでしょ、そうするとね、男はいないのか男は、女なんか駄目だ。男が話ししろ、っていう議員さんもいたの。そういう時代でした。
伊藤 ひどい話ですね。今でも患者会によっては実際に会の仕事をしたり、機関誌を出したりいろいろなことをやっているのはお母さん方だったりするけれど、会の代表だけは男性にしているという会は未だにありますもね。なんかこう自分が作ったみたいな顔をして偉そうにしていたり。僕たちが作る時は、女がどうとか言われなかった、男だからね。だけどそんな会作るなんて作ってもしょうがないよ、自分に任せろとか、自分たちがやってるんだから、あんた方田舎で何も作る必要ないよって、言った人たちがいて、僕はそれに凄く反発して、冗談じゃない、患者会つくるのにそんな人の許可いるわけでもあるまいし、というので作ったけれど、そういうことを言う人たちというのは結構いましたね。そういう政治家につながっているのは。たぶんあれは心臓病の会のいろんな影響受けてからなんだろうけれど、国会議員なんかで女性の議員さんがこういう患者会が訴えていることなんかを取り上げてよく国会質問してましたよね。記憶にあるのは北海道出身だということもあって小笠原貞子さんが国会で難病問題なんかをパネルを使って質問したりしましたね。和服姿で。国会なんかは女性がいるにも関わらず、男でなければ駄目だ、みたいな話しってありましたよね。
梅崎 育成医療は心臓病が最初に適応になったんだけれども、その育成医療の予算を増やせという質問してくれたのは自民党の議員よ。自民党の一年生議員で埼玉の知事をやっていてそれで最後は辞めたか辞めさせられたかした人。で、その人は主人が記者会に入っていて何かで仲良しになって、やってやるよと言うんでやってもらったんです。
伊藤 梅崎さんのご主人は新聞記者だったんですか。
梅崎 新聞記者といっても業界紙です。だから記者会でも二つあって、小さい方。
伊藤 でもそういう専門誌は活躍していますね。新聞にしても雑誌にしてもね。
梅崎 その埼玉出身の議員さんのお嫁さんの親が湿布剤を作っている会社の人だっていうことで、行くといつも湿布剤をお土産にくれるの。貰ってきたり。大正製薬の娘さんかな、なんかだって言うんで。でもその頃は割と心臓病というのはマスコミが取り上げてくれていたので、それで議員さんも乗っからなくちゃまずいと思って乗っかってくれる人がけっこういたのよ。

赤ちゃんを背負ったお母さんたちが首相官邸や国会議員会館で実情訴え

伊藤 初め、専門の先生方にしろ、議会にしろ、あまり理解がなかったのが急速に変わっていった時期があるんだと思うんですが、それは2~3年経ってからですか。
梅崎 そうですね。でも割と初めからお母さんたちがぞろぞろ行くとね、皆よく来たみたいな感じでしたよ。
伊藤 僕ね、お母さんパワーってすごいと思っているんですね。
梅崎 その頃は、年寄りの人はいなかったの。子どもを抱えている人も会員だから、近場の東京の人たちが行くんだけれど、みな赤ん坊をしょったり抱いたりしてね。心臓病の子どもを連れてお母さんたちがぞろぞろぞろぞろ議員会館の中を歩いたりしてたんでね、やっぱり反発はされなかったわね。
伊藤 理解してもらうのには実際にそういう患者さんやお母さんを見るということが一番大事ですものね。
梅崎 首相官邸に行ったことがあるのね。官房長官かなにかが出てきて「えーっ、心臓に穴が空いていたら死んじゃうじゃない、血液が漏れちゃうじゃない」とかおっしゃってね。「心臓の外側じゃないんです。真ん中です。」「へぇーそうかね」なんていう会話をして。何しろあの頃は年中そっちこっち、そっちこっちね、私も若かったから何月何日どこに集まってと言って皆でぞろぞろぞろぞろ、あっちこっち廻っていましたよ。
伊藤 今みたいに携帯電話やインターネットもない時代に集まっていくというのも、なかなか連絡を取り合うのも大変でしたね。
梅崎 普通の電話だってない家が多かったから手紙や電報で。そういう時代ね。

経験がないながらに手作り機関誌で病気の情報を次々発信

伊藤 機関誌は手作りで?
梅崎 手作りです。写真がないのよね。あの頃カメラ持っている人も少なかったし。(機関誌を手にとって)これはね、世界に一つしかないのよ。
伊藤 これは昭和43年。今の患者手帳の原型みたいな予防注射控えなんかがあったり、青年部というのがありますね。
梅崎 初めは青年部、青年ばっかりだったから。今は心友会と言っています。その内おじいちゃんになってきたから。
伊藤 昭和43年に2,500人の会員ですね。
梅崎 そうですか。これが機関誌です。
伊藤 ガリ刷りではないですね。ちゃんと印刷ですね。準備会機関誌。合本なんですね。
梅崎 ちょっと抜けているのが事務所にありますけれども、これは私のです。自分で合本を作ったんです。
伊藤 四徴症とか心房中隔欠損症とか心室中隔欠損症と書いてありますね。梅崎さんの女児4歳、心内膜症欠損症と。
梅崎 準備会に集まった人でしょう。その頃はね、症状がひどい人たちは赤ちゃんで死んでいて、生き延びた人だけなのね。
伊藤 まだ本当に心臓外科というのが無かったくらい、ごくわずかな先生たちがやっていたくらい。
梅崎 心臓外科があるということで心臓の手術というのが最初に脚光を浴びたんですよね。
伊藤 これで準備会の機関誌の第1号が昭和38年7月、心臓病の子供を守る会・仮称、第2号が昭和38年10月、2ヶ月後にもう第2号も出しているんですね。
梅崎 でもなかなか出来なかったのよ。私はこんなことはやったことがないから。

手術のための血液を集めるのが大きな課題

伊藤 血液銀行っていうのがありますね。
梅崎 そう、売血の時代。
伊藤 これでまたいろいろとその後が問題になるわけですね。売血の時代。その頃、心臓病もそうだし、脊椎の手術なんかでもたくさん血液を集めさせられましたね
梅崎 集めさせられたのはちょっと後よ。最初は全部売血だったから。それで私たちは、売血は嫌だと言ってね、自分で集めますということになったのよ。
伊藤 この頃は術後肝炎なんて普通になるんだと皆言ってましたものね。あれは肝炎の感染なんですね。
梅崎 それで朝鮮戦争の時に日赤で献血を取り扱ったんだけれども、黒人のために使ったのね、日本人の血は。それで白人はアメリカから持ってきた血でやったのね。
伊藤 なるほど。すごい人種差別ですね。
梅崎 そう、そういう時代です。
伊藤 組織を大きくするためには政党の介入は避けるべきでしょうとか、採血者が云々、でもさっき言った献血手帳で血液を集めされられたことの他に、そういう保存血ではなくて新鮮血が必要だというので、ラジオやいろんなもので呼びかけていって、簡単なABO形ぐらいのクロスマッチだけで採血して注射していたんですよね。他の要素だとかウイルスとかの混入なんて全然考えないでやったんですね。
梅崎 ウイルスの存在が分かっていなかったから。
伊藤 いろいろ考えたら、よくそんな恐ろしいことをしたもんだ、みたいなね。でもその頃、これは聞いたんですけれど、スウェーデンかなんかの病院に研修に行った先生が、日本人は全然血液の扱い方も知らなくて、素手で血液や手術いろんなことをやっていて向こうの先生にひどく怒られた、何が感染するか分からないのに実験なんかでも素手でやったりしていて、もう配慮がない、日本人ってとんでもないと言われたと言ってましたね。向こうの方ではもうそういうのは感染する、危ないというのは分かっていたし、例のB型肝炎の予防接種の注射なんかも対応が遅れたんだから。だいぶ死亡者も韓国で出て、針や注射器を取り替えろと言われていたんだけれども日本は鈍感だったんですね。僕も感染しちゃったけど。注射器も針も煮沸消毒だったんで、あれは結局完全に菌は死ななかったんだね。何かこう菌がある人の注射器の後で注射されたもんだから、毎日注射に行ってたんだけれども、もう化膿してひどかった。いまだにえぐれているけど。
梅崎 予防注射はね、いっぺん入れるでしょ、針がついているでしょ、一人やったらそのまま次へ、また次へってやって、5人くらい同じ針でやっていたの。
伊藤 そんなことはやっていなかったと裁判の中では国の方は言ったけど、実際には皆そうでしたよね。
永森 映像で残っていますよね。
梅崎 そうよ、生き証人だもの。
伊藤 そう、血清肝炎の体験というのが出ていましたね。心臓手術受けて、病院はこのころ病原体ウイルスを含んだ血液を使ってましたね。
梅崎 分かってきたことじゃない。だけどそのウイルスの正体は分からなかったのね、まだ。ウイルスで移るんだろうというのは分かったけれども、ウイルスそのものをつかまえることはできなかった。
伊藤 昭和39年の機関誌ですね、そういう体験談ということで投書がありますね。食事のこととかいろいろ出てますね。せっかく手術してもそういうことで不快な思いをしたりして。あ、これは看護婦さんの投書だ。看護婦さんが自分で心臓の手術を受けて輸血で血清肝炎にかかったと。梅崎さんが作り始めた頃、一緒にやられた方って今もいらっしゃるんですか。
梅崎 なんかね、消息不明になっちゃって。生きてらっしゃるかもしれないけれど、でもね、あの頃、私が一番年下だったの。皆もう少し年上のお母さんたちが集まっていて。
伊藤 僕らもそうですけれど。次々といなくなっていくけれど、さっき言った心友会、当時は青年だった人だけどおじいちゃんになって、そういう時代。

お母さんパワーの署名や陳情で医療費助成や税還付制度が実現

伊藤 面白い記事がありますね。心臓病の家庭は年間6千円の税額が還付。
梅崎 心臓病の家庭だけかな。
伊藤 いや、ええと、これはね、身体障害者と同様の、まだ障害者になっていないということですね。先天性心臓病を身体障害の子供と同様に児童福祉法の対象にしており実際の表から見ても心臓病の子供が身体障害者より以上にかかるという展開を見てもこれは当然のことと思います。
梅崎 とにかく結成してから10年くらいの間にわぁーっといろんな制度を勝ち取ってきたのよね。
永森 陳情に行ったり、首相官邸に行ったりして訴えたことがだんだんと制度になっていったんですね。
梅崎 署名を集めてね。
伊藤 ああ、この頃、肢体不自由なみに心臓病の子供も育成医療の対象になったというのが、昭和39年の4月15日厚生省とある。
梅崎 その頃の予算というのはおかしいのね。予算は100万円だか200万円だか、その位予算がついたのよ。一人でその位かかっちゃうのに何でそういうことをするのかしらね。
伊藤 昭和39年で心臓病の育成医療267万円の予算ですね。
梅崎 そうなのよ。
伊藤 一年間10円分しかないと書いてある。
梅崎 私もおかしいと思ってね、どうしてこういうことをするのと言ったら、とにかく予算が付けばいいんですと言うの。後はだんだん拡大していった。一人9万円くらいなの、それでも。9万円くらい貰えても・・・。
伊藤 所得階層は既にこの時にやって、それによって自己負担額が決まってますね。これで肢体不自由児が対象の育成医療が昭和39年は3,500万円の予算、違うね、心臓および消化器系の奇形児も対象とする。奇形児という言い方だね。これを含めて総額で2億4千万円となりましたと書いてありますね。
梅崎 それは育成医療全部でしょ。それで心臓病の方は270万だかなんかそのくらいしかなかったの。
伊藤 疾病ごとにいくらか枠があったんですね。
梅崎 だんだん増やしていくから、これがつかなきゃ駄目なんですという。予算をつける大蔵省の方にね、この値段で一人あたま9万だか10万だかなのよ。そんなんじゃできないのに、これで出来ますっていうふうに、あなた嘘をついたのって聞いたの。そうすると、いいんです、予算はそういうもんなんですと言うのよ。インチキなのよ。
伊藤 陳情書が出てますね。育成医療をみんなで利用しようって呼びかけも書いてあります。結核の日本患者同盟情宣部長吉田さんっていう方が、心臓病の会と一緒に参加したなんていう記事も載ってますね。
梅崎 それは長宏(おさひろし)さんに聞きに行ったんで、そしたら何か手伝ってくださいと言われたみたいな感じでね、着いてきたのね。日患同盟の方はいろんな病気にまで手を伸ばす組織にしたかったかも知れないのね。

手術する子どもに付き添う親は「トイレを3日分済ませておく」くらいの気持ちで

伊藤 あ、これはすごいですね。手術に当たって気がついたことなんてあるお母さんが書いてますけど、付きっきりで見なきゃならないので親の体力を削られる、トイレも3日分くらい済ませておくと、そのくらいの気持ちで行かなきゃできないという。やっぱり当時、子供が手術するというのは親がもう付きっきりで見なきゃならなかったんですね。
梅崎 そう。完全看護っていう言葉はあったんだけれど、やっぱり親が全部面倒を見なければならなかったんですね。
伊藤 この頃の所得の問題もありますけど、この養護施設に入るのに保険で月額5,000円、自費で10,000円、入院料が1日90円、1ヶ月で2,700円、薬代1日60円、1ヶ月1,800円っていうような金額も出てますね。やっぱり全体に、経済水準が低いのに自費で10,000円というのはやっぱり大変な負担だったでしょうね。これはね。それをずっと払い続けるというのは大変でしょうね。心臓病の子どもの学校生活っていうことで、この養護学校は二ツ橋学園っていうので、これは横浜ですね。これで心臓病の子どもが入れる養護施設なんですね。養護学校ではないと書いてありますね。
梅崎 二ツ橋学園というのは養護学校だと。何か分からない。

娘さんの手術用のカンパの一部を患者会の基金に

伊藤 会員から新潟でも根治施術ができるようにしてほしいとか、やっぱり地方の人たちの声でしょうね。大阪でも5,000名の署名を集めて陳情に行くとか書いてあったり、あっちこっちでそういう輪が広がっていったんですね。お子さんを亡くされた人の手記も出てますね。昭和39年で全国集会と言ってますけれど、このあいだNHKの昔のニュースや新日本紀行の昔のフィルムと今、現状を比較したような番組を見たけど、僕たちは昭和47年から48年くらいに、スモンの運動なんか始まったり全国から集まって会議やったりする時に、当時は汽車に乗って苦労したけど、その47年とか48年に高知から奥の方、四万十に行く鉄道が開通したんですね。そんな鉄道の開通していない地域がたくさんある頃に全国から、昭和39年に集まるっていうのは大変でしたね。道路も国道も全部舗装ではなかったですものね。東京はどうか知らないけれど北海道は国道と言ったって砂利道で、車が走って砂煙がもうもうとしてましたからね。その中で病気の子供を抱えている家族が全国から来るというのは大変ですね、これは。
梅崎 でもその時はね、うちの娘のカンパ運動で、63万だか64万だか集まったんですよ。後から少し増えたりしましたけれど。
伊藤 それは大変な金額でしたね。
梅崎 その当時はね。それで向こう(ソ連)では医療費はタダですから。それで結局、私たちは30万だけいただいて、後の残りは守る会の基金にしたんです。それで、遠くから集まってくる人たちに交通費をそこで払ったりしてたんですよ。
伊藤 だから集まれたんですね。
梅崎 そうじゃなかったらちょっとね。
伊藤 静岡でも人工心肺が2か所入ったと。東京から医師を招いて手術をしていますなんて書いてありますね。この頃やっぱり人工心肺はかなり大がかりなものですね。それがなければ心臓手術できないんですよね。
梅崎 ええ、そうね、出来ない、難しい方はね。低体温法というので岩手の方でやっている先生がいらしたりね、そっちへ行った人たちもいますよ。
伊藤 これ、育成医療についての大会決議とか、まあ実際貴重な、こんな活動してたんですね。これを収録できないかな。カットしてバラバラにしちゃったら無くなっちゃうからあれだけど、これを手作業で1枚1枚スキャニングすれば。この頃の機関誌は手元にないんです。他の患者会の機関誌、ニュースでは昭和47年くらいからのしかない。うんと古いのは児島美都子先生からいただいた戦後の織本病院の患者会の記録くらいで。だからこれはすごく貴重ですね。
梅崎 私が死んだら守る会に持っていこうと思っているんだけれど。何しろね、昭和38年の11月に結成総会をやったんですけれど、その時はね、みんなが後で、あれは涙の総会だって言ったり、初めてみんな自分の子どものことを話せるという、もう涙、涙、涙の集会でしたよ。

手術成功したと聞かされたその日に5歳半の愛娘は帰らぬ人に・・・

伊藤 あー、やっぱり入院生活むなしくとか手術終わったあと亡くなったとかいうのがいっぱいありますね。あら梅崎章子ちゃんもこの日亡くなった、8月12日。手術のあとに亡くなったのね。
梅崎 それだってね、本当に腹が立つのはね、A先生が今度は章子ちゃんの番だから手術してあげるっておっしゃっているからやってもらわなければ駄目ですと言うのね。
永森 断ったりできないものなんですね。
梅崎 手術が終わった時にA先生がね、もう本当に素晴らしい技術があって手術は無事に終わりましたというのが第一報できたのよ。それで私もそうだと思って、うまくいきましたと皆にわーっと電話かけちゃった。その後で、大きな穴があいていて幾つかの病気が重なっていたんですけれども、その穴を全部ふさいでやったもんだから、肺に沢山血液がいく形だったのね。それで肺が血液浸しになっちゃって肺水腫で死んだんです。
伊藤 おいくつだったんですか。
梅崎 5歳半。
伊藤 今だったらね、今の手術だったら良かったんでしょうけれどね。
梅崎 今だったら、根治手術というのをやらないで、どこかをちょっとですね。梅崎がね、先生に話しを聞いた時に、全部ふさいだらば順応できないといけないから半分だけにしてくださいと随分言ったのよ。半分にしとけばもっと良かったかもしれない、でも全部ふさいじゃったから。
伊藤 当時やっぱり、この何というか、先生方の技術力の誇示のために手術するなんてのも随分ありましたよね、希望じゃなくて。
梅崎 とにかく先生さまさまで、みんなが褒め称えるわけね。

娘さんを亡くした悲しみを抱えながら前へ前へと進んだ日々

伊藤 そういう体制がいろいろ残っていて、いろいろな問題を起こしちゃうんですね。手術を受けた子供の作文っていうのが。でも自分のお子さんをそうやって亡くされた後も患者会を続けるというのは辛いものがあったよね。
梅崎 でもね、私はむしろ助かったんです。これをやらなきゃいけないと思うから頑張ったけれど、やることがなかったら、私はもうべそべそ泣いて何もできなかったと思う。
伊藤 広島血液銀行の場合、献血した人には献血した量の5倍が、本人が必要な時に無料で輸血されるという証書をくれます。
永森 それは何ですか。健康な人が血液を提供しておいて、運悪く事故なんかに遭ったときに血液5倍分貰えますという話しでしょうかね。
伊藤 それから身体の具合が悪いので100ccだけにしてほしいと頼んだのに、規定だからと言って有無を言わさず200cc採血されたとか。手術で10,000cc集めるようにと言われたとか。
梅崎 そうなのよ。それは大変でしたね。
伊藤 何の意味もない制度に納得できないとか書いてある。でもね、そうだね。やっぱりこうやんなきゃならない課題が目の前にいっぱいあるから前に進むことができたということは言えるかもしれませんね。やっぱりラジオで放送してもらったりして、と書いてありますものね。そういう時代。これは昭和39年。これは毎月出したんですか、この機関誌。
梅崎 抜けているところもありますよ。でも毎月出そうと決意はしてたんだけど。

「自分たちの会だから自分たちの会費でやろう!」

伊藤 大きな看板出して。分科会も沢山開いて。これが今の患者会の基盤になっていくんですね。これ1年目2年目にしてすごい活動量ですね。たった1年で、この1年間の運動の総回数って発表しているけれど、よくこんなにやりましたね。ここから出て行ってやったんでしょ。東京まで。
梅崎 そう、そうです。
伊藤 汽車に乗って。
梅崎 そう、汽車に乗って。
永森 それはもう電車代だけでもものすごい金額かかりますよね。
梅崎 でもね、そのカンパがあったので電車賃だけは貰ったの。後はないけど。
伊藤 でも行き帰り、ねー、時間もかかるし、大変ですよね。そうですか。これはすごいなー。
梅崎 その頃はね、皆泊まる賃まで出せなかったので、それでね、泊まる人は私の里へ連れて行ってみんなで雑魚寝したりね、そういうふうにしてましたよ。
伊藤 大会費40,000円。運営委員会費40,000円。機関誌月1回1,000部、印刷費120,000円、郵送料その他で195,000円、活動費が18,000円、事務局の通信費・用品費で24,000円、予備費5,000円。こういう金額が支出。収入は会費で282,000円。会員会費月額30円とか50円ですものね。
梅崎 それでもね、その会費を取るというので随分ブーブー言う人たちもいたのね。私は自分たちの会なんだから自分たちがお金を出してやらなきゃいけませんと。どこかからお金を貰ってきたら自分たちの会じゃなくなるんだから絶対会費は払いましょうと言って、いまだにそれは続いているんですよ。
伊藤 収入が1年間で490,793円、支出が248,000円。この頃から心臓病の子どもを守る会はお金のやりくりが上手だったのかな。
梅崎 そう、だから会費出さない人は駄目とか言ったら、生活保護の人とかねそういう人には免除の規定は作ってあったんだけれど、とにかく自分の会は自分で支えましょうという。

全国の人から意見をもらい、活動の中心は首都圏のメンバーで

伊藤 交通費、運営委員会、陳情、支部派遣その他で20,436円、この範囲で動いていたんですね。
梅崎 そう、だから動く人はね、みんな首都圏の人です。陳情なんかに本当は全国から集まれば良かったんだけれど、それは出来なかったんで、その頃はみんな首都圏の人です。
伊藤 でも、福岡とか愛知、岩手、山梨、静岡から活発な意見がいっぱい出てますね。東北ではやっぱり岩手なんですね。
永森 やっぱり大学病院があるかどうかですね。
伊藤 岩手医大ね。
梅崎 みんなでやるっていうんで全国から集まったんですよね。でも岩手の支部はその後つぶれちゃって。
永森 地方の支部は独自に活動して、年に1回の全国集会で活動報告しあったり交流をしたりという感じなんですか。
梅崎 年2回の全国運営委員会と1回の総会で集まります。
伊藤 この私の体験って姫路の方が、手術の費用を出しますね、カテーテルが22日間、健保半額と、入院料が6,880円、薬代が1,795円、注射料が3,342円、処置料が280円、検査料が3,766円、病室代が4,400円、1日200円、健保引かず全額負担と書いてある。当時病室は誰も健康保険の対象でなかったんですね。計20,463円 に雑費が12,169円。主人の旅費・おやつ、入院往復旅費、付き添いの食事料、この頃付き添いでつく家族の方も一緒に給食を出してもらえたんですね、お金を自分で出して。
梅崎 それは病院によって違うんじゃない。東京なんかでは出ませんでした。
永森 娘さんの手術の時はどれくらい入院されていたんですか。
梅崎 手術で亡くなったんだから。手術の前は、最初いっぺん手術場に入って、おかしくなって手術が止めになって帰ってきて、それから2ヶ月くらい経ってからまたやって、あの時は手術前は1週間くらいかしら。それで手術でもうその時に。
永森 その日に亡くなったんですね。
伊藤 これは写真がありますね。梅崎さんはどれ。一番細くてスマートで美人な人。だってこの頃のお母さん方、見て分かるように和服が圧倒的に多いですね。
梅崎 昭和40年3月、兵庫県支部の結成の時に行ったんです。それで梅崎と私がいるわけ。
伊藤 周りがほとんど和服姿なのに洋服姿、やっぱり東京から来た人だわって。当時のうちのおふくろたちの写真を見てもそうですね。和服多いですものね、この頃はまだね。急速にまず和服がなくなっていくんですね。これは昭和40年だからこれからもう10年もして50年になったら和服の人ってもういないですものね。格好いいじゃないですか。子どもたちが何人かいてね。でもお母さん方はみんな若いですね。
梅崎 そのお母さんたち、普段は洋服なんでしょうけれど、かしこまった時には和服っていう。
伊藤 この頃から確定申告には医療費控除の申請をと呼びかけしてある。いやあ、これ、ますます貴重だな。昭和40年だからね。新潟県では手術をする、心臓の診察や入退院のための交通費や宿泊費の補助を検討している。事務局までの道順がここに出てますね。東海道線または横須賀線、大船駅下車、藤沢より跨線橋を渡り大船観音側に出る。大船駅よりドリームランド方面行きバス乗車、下車したらバスの進行方向左手の山に登り左側お宮より2件目。

全国から患者家族が梅崎さん宅を訪れた

梅崎 初めの頃はね、手紙だけじゃなくて訪ねてくるの。北海道から来ましたとかね静岡ですとか九州からとかね、しょっちゅういろんな方々が。うちその頃ね、7坪の家だったの。初めお金がないからとにかく7坪の家だったのね。それできっとみんながっかりして帰ったんじゃないかと思うけど。
伊藤 でも僕たち、昭和46年頃に筋無力症友の会ができた時に、当時の会長の竹田さんのお宅に僕や女房が行ったし、いつも誰かかれか全国どっかから来てみんな来てお話しして、だからプライバシーなんかもう全くないみたいな生活してましたよね。当時みんなそういうつながりを求めていた。全社協の心身障害児福祉協議会総会に行ったり、自民党議員との懇談会、全社協心身協主催の自民党、これは自民党本部に行ったんですね。全国患者関係団体の集い第2回代表者会議というのは。
梅崎 これは日患同盟やなんかと一緒で、こっちの方は育成会だとか重症心身障害児だとかそっちの方の人たちの会でした。
伊藤 全国患者関係団体の集いというのは、どのくらいの団体があったんですか。
梅崎 ハンセン病に、それから労災の人もいたの。全交災とか、じん肺の人たちなんかもいたんですよ。だから5つ6つだったと思うけど。
伊藤 そういう集まりがここで生まれてきているわけですね。これは昭和40年の話し。事務局はご主人、梅崎ひでゆきさんが事務局ということになっているんですね。
梅崎 そう、私は全部黒子。女は駄目って言われたし。じゃなくて私はね人前で、陳情に行く時は平気なんだけど広いところで何かしゃべれと言われると、とても駄目なの。それで梅崎さんに代わりにやらせて。

活動に必死で当時の写真や映像はあまり残っていない

伊藤 これ「ぼくどうして涙がでるの」って有名になりましたね。本、テレビにもなったし、映画にもなるとかって、映画にはならなかったのかな。
永森 映像とかは残っていないんですかね。
伊藤 探せば本かなんかがあるはずだ。「ぼくどうして涙がでるの」って、すごくブームになったね。
梅崎 ブームというほどでもないけど。
伊藤 僕でさえ、この頃患者会やっていない僕でさえ名前を知っているわけだから何かで見たんですよ。その後でも見たかなー。
梅崎 詩集よ。子どもたちの何人か。
伊藤 これやっぱり、血液銀行の問題とかそういうのも書いてますね。北海道でもこの血液銀行がなくなって日赤血液センターになってからでも患者会と医師と日赤との話し合いっていうのもよく開かれましたものね。そういうのが必要だった時代なんだなー。これ読んでいたら尽きないわ。
永森 これはお借りすることはできないでしょうか。
梅崎 どうぞ。
伊藤 これを借りていって全部コピーを取ってお返しする。和田次郎教授の心臓病の手術って出ている。
永森 それは北海道民の私はよく報道を目にしました。
伊藤 この頃からタイトルがカラーになりましたね。
梅崎 そこだけね。でもあの頃ね、写真撮っておけば良かったと思うのね。本当に残念なのよ。
伊藤 何枚か記念写真を撮ったのしかないな。カメラもって取りに行くって余裕も習慣もなかった。
梅崎 とにかく会をやるのが精一杯で、録音しておこうとか、つまり後に残すということは全然。今のことだけ、今と未来のことだけ。
永森 伊藤さんは、今でもそうですもの。全然伝えもしないで突っ走る。走り続けてますね。
伊藤 僕は他のことで、絵のことなんかでね、美術史作るのに北海道で活躍していて本州に行った人たちの録音を撮って歩いたんですよ。その時に持っていたのってこんなに大きいのね。荷物は女房に持たせて、僕はそれを持っていたら重いのを持ってそれで録音始めたのが後ですね。
永森 残っているんですか。
伊藤 録音は残っていない。それを全部起こして編集して本にしたけど。あと、その時も写真を撮るなんていう余裕はなかったね。カメラ持っていたはずなんだけど。もし残ったってフィルムだから、今どこで現像してもらえばいいのか。フィルムを撮ってあるはずなのに、どこにあるのやら。フィルムはフィルムでどっかの箱にまとめてとってあるんだけど、あれをいちいちこうやって見て何が写っているか見なきゃならないんだよ。
永森 プロがデジタルにしてくれますから、それは大丈夫ですよ。白黒の写真もカラーになるし。
伊藤 今のデジタルのように沢山写真を撮る習慣はないんだよ。一枚か二枚、一本入れたら半年は持っていると。これは面白いわ。きっとこれを見ると梅崎さんも青春時代に戻る。
永森 研究者の人も泣いて喜びますよ。こういう資料見たら。そうですよ。どこ探しても出てこないんですよ、記録が。

「活字」を一つひとつ拾う活版印刷で初めての機関誌作り

梅崎 でもね、見るとその編集がへたっぴでね。私だって初めてだもの。
伊藤 そんな経験ってしないわけですよね。そこがお母さん方の会の強いところというか、ある日突然自分の子どものことで、そういうこと、活動に参加してそこで初めて機関誌作るだの、会計やるだの、印刷するだの、発送するだのということに巻き込まれていんですよね。だから強いんだよ。
永森 何かお手本にしたりとか会計のこととか機関誌のこととか何か勉強はしたりして始めたんですか。
梅崎 みんなぶっつけ本番。やらなきゃいけないからやって。
永森 やっていく中でどんどん上手になって綺麗になっていくんですね。
梅崎 でもね、今の方が全然。私たちが辞めてからの方が素敵な機関誌になってますよ。この頃はたいした上手よね。
伊藤 ただね、この間こんなこと言っていて。全腎協をやっていた小関修さんをお尋ねしたんですが、かなり今の機関誌綺麗になってますよね、という話しをしたら、いやあ、当時苦労した人たちから見たら、形は綺麗になったけれど中身がないという批判を言ってましたね。切実さがなくなっていろんなことを載っけるようになりましたでしょ。ちょっと文芸誌っぽくなってみたりとか、それに対する不満というのを当時頑張った人たちは持つというか。
梅崎 そうかも知れない。でもそれは月日が経って中身が変わっていくんだからしょうがないですよ。
伊藤 今の人は上手ですよ。けっこうプロに頼みますしね。ここに理想的な心臓外科とはという話しだとか。
梅崎 そんなの入ってますか。
伊藤 国立小児病院心臓外科医長常本先生。
梅崎 常本先生ね。
伊藤 沖縄の不幸な人々に呼びかけを、なんて出ていたり。こういうのが出てましたね。禁止だけで子どもの精神を萎縮させないように。という昔よく子どもたちには、あれやるな、これやるなと、それは良くないと言ってますね。かえって。
梅崎 もうね、命は短いんだから大切にするだけしましょう、みたいなのがあったんだよね。それじゃ人間として不幸じゃないの。ということで。
伊藤 そうですね。でもこれ面白いですね。この字の乱れというのは、当時の活字ですね。活字でやっていたのが分かるね、乱れてくる。一本一本字拾って作ったから。
永森 日本の和文タイプとか
伊藤 タイプじゃない、これ活字で、鉛の活字を一個一個一字ずつ、みんな早いんだよあれ。
梅崎 逆の字なのよね。裏返しの字がこうずーっと並んでいて
伊藤 原稿読みながらやるんだけれど、だからこっちは見てないですね。ただここにあるという長年の職人なんだ。どこに何があるか、しかも字の大きさってこういろいろあったり難しい字があったりしてもやるし、ない字の場合はその文字を作るところに頼む、発注する、何時間か何日間か経ってきて入れていくんですよね。こういうのも全部活字を組み合わせてこうなるわけですよ。鉄板みたいなのをね、こういう具合に斜めにして組み合わせる、だからちょっと変な形になるんだけれど、こういう罫線も全部そういう鉄板みたいなものを入れて、活字と同じ高さのを入れで、こういうようなものは凸版でつくるんですね。そういう印刷の歴史も分かって面白いかもしれない。学童検診に心臓病の調査を入れると出てますね。これなんか全部昭和40年、41年の話しですね。第4回総会、もう分科会が6つも持っているくらいになって、すごい発展ですね。
梅崎 そうね、まあ必要だったのよね。
伊藤 必要だったんだな。だから今の梅崎さん、編集技術なんていうのは無いに等しい感じだけれど、書かなければならないこと、書きたいことがどんどんたまるわけですよね。
永森 活動に関してもそうですよね。これが必要だというのが次々に出てくるわけですよね。それで訴えに行くと、制度が出来ると、すごいことですよね。だから守る会で訴えなければこの子どもの病気に関する制度は全然整わなかったかもしれないですよね。凄いことですね。
伊藤 日本患者同盟、ハンセン氏病患者協議会の呼びかけで患者団体懇談会ができました。というのも出てましたね。
梅崎 何かね、出来ちゃ長続きしなくて、出来ちゃ長続きしないっていつの頃のことかしらなんて思って。
伊藤 そうね。
永森 皆さん自分の病気の会の活動が第一ですものね。他の病気との連合体と。
伊藤 こういうハンセンとか結核の会というのは古くからのそういう会があったけれど、お母さんたちの、子どもを守る会とかそういうのが、あまり周りにないからそういう同じような要求で集まる団体というのは、まず無かったということですね。
梅崎 会員の中でも何でそんなところとつき合いをするのという人随分いましたよ。でもやっぱり同じ病気だからね、共通するところもあるのよと言うので。

患者会には珍しい「専従職員」をどうしても入れたい!

伊藤 もう昭和41年の決算報告で166万というふうに2年間でもう8割くらい、凄いですね、増えましたね。
梅崎 でもその頃は基金もなくなったわけだから、とにかく自前にみんなのお金でやるしかなかったの。
伊藤 これで42年の予算から人件費が50万円ついてますけど、ここで職員を入れようということだったの。
梅崎 そう、石綿さん。石綿さんが入ってくれたのね。
永森 昭和42年から、そんなに早くから専従職員がいたわけですね。
伊藤 でも、事務処理が12万って、どこかのお宅を借りたんですか。
梅崎 上岡にある汚いアパートの一室、四畳半と二畳くらいのトイレが付いているところでしたよね。それでも横浜だから横浜支部の人がね、日中来てはいろいろ手伝ってくれて。狭いのよ。

個人宅を事務所にすると発展しないと事務所を構えることに

伊藤 東京に事務所を持ったのはいつ頃でしたか。
梅崎 いつでしたかしら。それからそんなには。
伊藤 ずっとそれまでは横浜の事務所で・・・?
梅崎 そう、やってたの。私は個人の家に事務所を置いといたら発展しないと思ったの。それで、何しろ仕事をしてくれる人をちゃんとつくらなきゃ駄目と思ったからそういうふうにしたわけ。
伊藤 この「心臓病児者の幸せのために」というのは、会で作って会員だけじゃなくていろいろな方にも配ったんですね。
梅崎 買ってもらったの。タダでは配らないの。
伊藤 なるほど。そこがしっかりしているところですね。
永森 やりくりしっかりしているお母さんたちいっぱいいるんですものね。
伊藤 僕らはついついタダでいいですとまいちゃうのね。
永森 うちもだいたいはいつも赤字ですものね。
伊藤 日本心臓財団からの協賛、なるほど。
梅崎 心臓財団は、お金を少しくれたのよね。
伊藤 ここに180円で売ったと。これ改訂版で、なるほど。
梅崎 これがだんだんそういうふうになっていったわけよ。今でも改訂版を出していますよ。
伊藤 すごく大事なことなんだな。昭和42年くらいになると機関誌はぐんと。
梅崎 もう少し充実してきたでしょ。だんだん上手になったでしょ。私はね、この頃、機関誌もみんなで作りましょうというので支部の動きとか、お便りなんか支部のいいと思ったらくださいとか、だからこれもつながりを持たせながらやってたんで。
伊藤 北海道にも支部ができた。コマーシャルが出ているの。お茶は株式会社宇治園、本社函館。
梅崎 これは東大の何とか教授、その人の奥さんの実家が函館だったのね。実家に帰って函館支部を彼女は作ったのね。それでその中にお茶屋さんがあったのね。それで少しそういうのがあるみたい。
永森 国会に陳情に行ったり、いろんなテーマとか、その時訴えることというのは役員さんみんなで話し合って決めて行っているんですか。それとも、このことは今やらなきゃ、ということですか。
梅崎 陳情書は私が書いて持っていくんだけれど、やっぱり役員会でも討議してましたね。役員会はその頃は月に1回くらいしかしていませんでしたから、間のは勝手にやっちゃったりして。
伊藤 都電って書いてある。日本女子会館、芝公園。都電は走ってたんですか。
梅崎 その頃、まだ都電が走ってたのね。
伊藤 何かこう、すごく変わった、この30年、40年の間に。すごく変わったものと、しかしこの患者会がこの訴えていること、やらなきゃならないことってずっと変わってないような気もするしね。
梅崎 そうね。

国鉄(JR)の障害者割引の知られざる裏話

伊藤 内臓関係の身体障害者には国鉄運賃の割引をしないという国鉄の方針に対して、本社に抗議。国鉄本社まで行ったって書いてあるのね。
梅崎 行ったの。丸の内のあった頃でね。なかなか偉い人には会わせてもらえなかったのよ。でもね、国鉄の割引がついたのはね、労働組合が、何て言ったっけな、あの人、なんか左の方でワアワア騒いでいた人が、それで何か。民営になったでしょ。その時に自分まで騒いでいたその人たちが随分上の人たちと仲良しになっちゃってね、それで何か良いことをして自分たちがいい労働組合なんだと思ってもらいたかったんじゃない。それでうちの方の会員、組合員に口を聞いてやるからみんな連れてこいと言われて、全腎協(全国腎臓病協議会)の人たちも一緒に行って、その労働組合の上の方の人が、社長だなんだの合わせて2~3回話しをしてOKになったのよ。
伊藤 その恩恵を今みんな受けているんですね。
梅崎 受けているわけ。運動の成果ですと言っているけどね、本当はそういう裏話がある。
伊藤 園田厚生大臣に会ったというのも出てましたね。この頃から金額が大きくなっていくなあ。石綿さんの夜明け前の子供たちを見てというのがある。青年部の信州の山に集い、これが心友会になっていくんだよね。
梅崎 心友会に、そして毎年いま交流会やっているけれどそれの最初ですね。
伊藤 松本市まで行ってジンギスカン食べたなんてことが。そういう病気もって外に出られない中でおもてに行くということが新鮮だったんじゃないのかな。でも随分亡くなりましたよね。
梅崎 ほとんど亡くなっちゃっているわね。何か解らない。どこかに出てますよ、東京に行ったっていうのは。私は忘れちゃった。

医療費の件が解決に向かうと病気の勉強や創作活動が活発に

伊藤 心臓病講座というのが始まってますね。
梅崎 やっぱりね。病気のことについてが一番関心があるのね。育成医療がだんだん広がっていくと、お金のことより病気のことになる。だからそれは欠かせないわね。
伊藤 これ心臓病の仲間からという歌も作詞作曲。これも収録だな。
梅崎 でもね、その歌、歌いにくいの。素人が作ったから。それで誰も歌えないの。
伊藤 結構そういうの作る方がいてね、それもこの運動史の中では収録したいね。皆自分たちが作ってそれっきり忘れられちゃうのね。だから可哀想だからちゃんと、その人たちの意気込みというのもあるからね。
梅崎 私はね、みんなで覚えて歌ってあげましょうと言ったのにね、あんなの歌えないって言うの。
伊藤 そういう歌はあっちこっちあったな。
永森 でも、最近あまり聞かないですね。
伊藤 最近だって演奏する人の方が増えてきた、会員さんで。けっこうプロとしてピアノをやっている人とかフルートやっているとか、そういう人が増えてきたからね。面白いですね。これ時間できたら、ずーっと読んでいきたいね。それこそ研究者の方々だったらこういうの見たら大喜びだろうな。これはすごく貴重で。

当時社会的関心を集めた心臓移植手術の記事も機関誌に

伊藤 この新聞。「手術は止めてほしい。どう見る、プレイバーグさんの死」
梅崎 プレイバーグさんってアフリカかなんかで移植をした人。
伊藤 心臓移植をした第一号だね。「諦めてはならぬ、という榊原先生と和田寿郎さんと、手術は止めてほしいという医事評論家、石垣十字さんとか、おおあたり順さんと」なるほどこれも貴重な記録かも知れない。昭和44年8月18日。
梅崎 その頃ですけれどね、多分。
伊藤 このあと和田寿郎先生が手術するんだけれど、ちょうど僕、札幌医大に入院していて、屋上でこの患者さんよく見ていたんですよ。手術する前の。散歩していて、でそのあと亡くなっちゃって。うち塗装業やっているんだけれど、心臓提供した側のお宅を改築して塗装に行っていた後、直後なんですね。そこの息子さんが。
梅崎 気の毒ねえ、あの方も。
伊藤 当時の新聞、活字ちっちゃいんですね。
永森 朝日新聞って数年おきにちょっとずつ大きくしてますから、最近のは大きいですものね。

医療機関ではなく患者会が無料で検診をするという驚きの事業を初開催

伊藤 こっち側に章子ちゃんの代わりに座って、心臓病の子どもを守る会の記事が載っているんだ。だからだ、無料検診開くって。「生まれつき心臓の悪い章子ちゃん、当時3歳が治療出来るかも知れないと両親に連れられてソ連に行った。でも手術出来ず東京に帰ってきて、手術を受けうまくいかず死んだ。しかしソ連行きの時に集まった激励のカンパの残りで、同じような病気を持つ親たちが全国心臓病の子どもを守る会を作った。現在全国に3,000人ほどの会員。章子ちゃんの生命に代わって、とうとう今度東京で心臓病の子どものための無料検診を主催するまでにこぎつけた。」
永森 患者団体が行った無料検診の一番最初でしょうかね。
伊藤 かもね。で、その運営委員会を開いている様子。文京区役所大塚出張所というところで。
梅崎 そんなところでやっていたんだ。
伊藤 和室。これも。これ上手にきちんとコピーを、バラバラにならないようにならないようにコピーをしなければ。
梅崎 何でそれが入っていたか。あの頃ね、しょっちゅうあれですよ。新聞に出てたしテレビに出てたしね。
伊藤 これで昭和44年までくると。
永森 会としては、最初は医療費を何とかしてほしいというような活動が割りと主だったんですね。
梅崎 集まった時はね、医療費と病院がない。
永森 そのあとは医療費もだんだん自己負担減ってきて、病院も出来て来た頃からは病気について知りたいとか。
梅崎 知りたいとか、みんな同時進行なんだけれど。それから血液ね、みんなで血液を何とかしてほしい。
永森 手術の時の血液を集めるだけで大変だからそれを何とかしてほしいと。

ジェット機に20億円かけるより医療の充実をと求める切実な声

伊藤 ここで本邦における要求、回診術および人工弁移植の症例数が出ているわ。各病院の。人工心肺、低体温どちらかので手術だね、人工弁の移植で。東京女子医大が圧倒的に多いんですね。その次に札幌医大の胸部外科。一機20億のファントムより立派な病院、医師、看護婦。そういえばこの頃ファントムってジェット機ですね。懐かしい。ファントムってもうないでしょう。これでこの頃一機20億円、今はもうその10倍くらいなっている。やっぱりこういう手紙とか多いですね。会員の方々のね。これが貴重なんだな。
梅崎 そう、皆さんそのね、みんなの声っていうところの、そこが一番読みたがるところなのね。
伊藤 そうですね。会からのお知らせなんて全然読まない。さっきの守る会無料検診にお礼の手紙っていうのがある。晴れて娘が無事と分かって講習再開とか、手術の必要がないと診断された喜びなんてね。意義深く有り難い守る会の奉仕と事業とか、やっぱりみんなそういうのに行って専門の先生に見てもらってほっとしたんでしょうね。
梅崎 さっきの東京でやったの、一番なんですけれどね、その時国立小児病院の先生たちに小児病院を借りて無料検診したのね。それからもう各支部で自分ところの先生を呼んできて、それぞれがやるようになったの。
伊藤 そうね。それが難病の集団無料検診につながっていく、そういう初めにやった人たちのそのやり方を学んで、いろいろな団体がね。
梅崎 でも、ご自分たちの必要なやり方をなさったんだと思うわ。
伊藤 心臓外科のこれからの展望ですって。第8回全国総会記念講演よりって。こういうのも聞きたかったんでしょうね。これからどうなるんだろう。
永森 最新の情報を知りたいですよね。学会で発表されていることは一般向けに発表されていないですからね。
伊藤 いやあ、これは貴重なので、是非是非お借りして・・・。
永森 しっかりお返しをしないといけませんね。これは43、もっと沢山あるんですよね。全部お借りしてもよろしいですか。持って帰れないですね。宅急便ですね。近くにコンビニでもあれば箱買ってきて。
伊藤 初期のこれはとにかくないから、これを持って行って、持ってまたここに来ればいいんだ。これを持ってきて次の持っていく時にこれ全部やればいいんだ。
梅崎 現在にいたるまで全部あるわけじゃないの。私たちが関わった時までなのね。それで後の方はこういうふうに製本してないのがあったりするんですけど
伊藤 それは、みんなそうだわ。年代ものはまたいずれ慌てなくても。
梅崎 事務所に行けばね、事務所の人にはちゃんと本にしときなさいと言ってあるから、やってるんじゃないかと。
伊藤 これは絶対貴重ですよ。

結成から6~7年は会長なしで運営

永森 梅崎さんとご主人とは役員さんでいらっしゃったのはいつまでですか。
梅崎 最初は会長も決めないでやっていたんです。それで途中で陳情に行ったりなんかするのに会長が必要になって、だから梅崎が会長になって、いつだったかしら、それでも10何年やってたと思いますけど。それで梅崎が辞めてから他の人になって、それからくるくるくるくる代わっていって私もその中に入ってたりして。
永森 結成大会の時には別に会長さんとかがいなかったんですね。
梅崎 梅崎さんが言うとおりになっちゃってたの。
永森 2年くらいして会長さんを決めたと。
梅崎 6~7年かもしれません。何となくね、梅崎さんが会長みたいな立場にいたのよね。だけど誰も会長になってって言わないし。
伊藤 これちょっとお借りして。これは貴重なやつだからと言うんでやってやるとちょっと時間がかかるかもしれないね。これを持ってまたここに伺います。そして残りをまたお借りしていってというふうにして。
梅崎 今日はこれだけでいいんですか。
永森 3冊お借りして。
伊藤 これだけでも大変重いもの。それとこれ、改訂版になる前の一番最初の、これも大事。昭和43年のやつ。
梅崎 これは確かね、20年の時の構成劇の台本、それで記念の夕べで私がちょっとしゃべっているところなんです。
伊藤 これは20年誌というとちょうど20年前。釧路の心臓の会がでている。
梅崎 この構成劇がよかったんですよ。ぶっつけ本番でしゃべったことだから。
伊藤 構成劇についてって書いてある。第1部、第2部になっている、凄い。
永森 映像があればね。しょうがないですけれどね。
伊藤 これだけで収録して充分役に立つ。
梅崎 その時にね、ビデオ撮るという人がいてビデオ撮ったんだけれど、うまく撮れなかったの。
永森 脚本が残っているから充分ですね。

病気の子どもは遠足、体育、旅行は留守番組

伊藤 設立総会の人とか懐かしい写真いっぱい載せて編集されたんだ。いやあ、これは貴重だわ。この第2部では学校のシーンが出てきますね。当時、学校苦労したんだね。教育委員会かたくて。
梅崎 学校医になる人って地域の内科とか小児科は少なかったですから。その人たちが乏しい知識であれやっちゃいかん、これやっちゃいかんというのをやるわけよ。遠足に連れていかないとかね。
伊藤 そうね、いつも何か留守番部隊でしたから。北海道だと冬だとストーブ焚いているから、ストーブ番ということで、みんなどっかに体育とかいろいろ行ったり、ストーブ消えないように石炭、その代わり何年かの間、その時間全部本を読むのに費やしたから中学生の頃で戦争と平和とか、あんな長いのもうガンガン読めましたからね、良かった。居残りしてストーブの番したいという希望者が増えてくる。暖かいし、寒い思いも辛い思いもしないで。いやー今日は素晴らしい天気でいいお話しいっぱい聞かせていただいた。

患者会を次の世代に引き継ぐために

伊藤 患者会もなかなか終わることができないですよね。
梅崎 私は初めはね、私自身が出しゃばってやること好きじゃないのね。だから会の基礎が出来たらすぐ辞めたい、すぐ辞めたいと思ってたのに、結局30年やることになって、今の事務局の彼らがちゃんと事務局を守っていけるというふうに考えたから、それで私自身が病人をいっぱい抱えるような状況だから。
伊藤 どうして梅崎さん引くんだろうって皆言われてましたものね。すごく頼りにされていた。
梅崎 でもあの人たち、事務局にね、事務局員を作るということでそれもやっぱり大変でしたよ。説得するのに。みんなお母さんたちがよってたかっていろんな事をやってくれていたんだけれども、さあよってたかってでは継続性がないのよね。だから専門性がないでしょ。だから会を維持していくためにはこういう働きをする人が必要だと頑張って有給の職員を入れました。

心臓病の娘さんを5歳で亡くした悲しみを忘れるようにして精力的に活動されてきた梅崎園子さん。
自分たちの会だから自分たちのお金でやりましょう、というポリシーで、患者向けのパンフレットの販売、協賛広告などで資金作りをしたこと。ボランティア頼みの運営では先がないと、ごく初期から専属の職員を雇い、事務所を構え、患者会が存続できる基盤を作ったこと。赤ん坊を背負ったお母さんたちが国会への陳情を繰り返して味方を増やしていったこと。当時、身体障害者に偏っていた医療、福祉サービスに、病気の子どものための制度、心臓病などの内部障害者のための制度を次々と作らせたこと。

先見の明と、ぶれずに続けていく信念の強さ、課題を見つけて改善する行動力、そして明るく楽しく人を巻き込んでいく人柄に強く惹きつけられた。

自分と同じ病気でこれ以上苦しむ人が増えないようにという思いから、多くの患者・家族たちが手を取り合い、時には大きな権力に立ち向かって社会を良くしようという活動を続けてきた。このような名もない患者たちが日本の社会保障の歴史に大きな影響を与えてきたことを知ることができた。この貴重なお話を通して、無名の難病患者たちの活躍が少しでも人々の記憶に残ればと願っている。

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