Interviews

Mr. Yukitoshi Matsuda and Ms. Harumi Ando

Yukitoshi Matsuda and Harumi Ando  松田 之利(まつだ ゆきとし)
President, Gifu Nanbyouren

Harumi Ando  安藤 晴美(あんどう はるみ)
Secretary General, Gifu Nanbyouren

Date: June 25, 2009

Place: Gifu, Japan

Interviewers: Tateo Ito and Shiori Nagamori

車椅子の保健婦さんの活動と岐阜県難病連

松田

ここは岐阜県難病連とか難病相談支援センターという名称ではなく、全国で唯一、生きがいサポートという名称になっています。同じものです。

伊藤

岐阜難病連の結成は?

松田

1974年12月13日に設立総会ですね。結成は全国でも早い方で2番目か3番目くらいです。最初はびっくりですが岐阜地区支部、東濃地区支部、中濃地区支部、西濃地区支部、飛騨地区支部、郡上地区連絡所とかがあり、地域活動もしていました。今は残念ながらなくなりましたが、岐阜と各務原と大垣が出来たらと思っています。

伊藤

でもこの頃北海道もそうでしたけど、地域毎に県の団体が作られたり、盛り上がって地域毎に患者会が作られたり、地域の行政や保健所がそれを支援したりという時代でしたね。難病問題が全国的に盛り上がり、1972年に難病対策要綱が出され、患者団体の結成があちこちで行われた時期ですね。難病連が全国各地に続々出来たというのも1974,1975年でした。

伊藤

元副会長で保健婦の宮川てるこさんについてお聞きしたいと思います。私は宮川てるこさんに関しては非常に強い印象があり、リウマチで車イスや電動車イスを使っておられたのと、積極的にあちこち出て歩いていろいろ発言されておられたこと、特に街づくりについての発言が強くて、患者団体の集まりの場所についても当時は畳のところが多かったり車イスの所がなかったり、エレベーターがなかったりという中でそのことにいつも強く抗議をしておられたという印象があります。当時岐阜県難病連は地域の難病連の中でも非常に活発に動いておられました。その伝統を作られたということもあったのですが、特に若宮通り5丁目にある弥八地蔵菩薩の前にある車イスで入れる障害者用の公衆電話ボックスが日本で最初に作られたというニュースがあり、北海道からもみんなで見に来たという記憶があります。あれからもう30年ぐらい立つのですが、今もまだそのまま残っていたのと、その横に障害者用のトイレも作られていて大変感激しました。宮川さんは、市役所にスロープをつくって欲しい、自動ドアにして欲しいとの要望もされておられましたね。これは当時障害者の運動もあったのでしょうけれども、あちこちの難病連が結構一斉に地域の中でそういうことに取り組んでいた時代でした。市役所に行ったら、わずかな障害者しか使わないスロープや自動ドアは付ける必要ないと言われていたが、付けてみるとたくさんの人がそこを使っている、お年寄りやらベビーカーの人たちやら、台車を使って役所にものを納品する人なんかもみんなスロープやら自動ドアを使っていたという報告も見ました。そのことに刺激され、その後あちこちの地下鉄やJR、電車の駅にスロープを付けろとか、エレベーターを付けろという運動が随分盛り上がりましたよね。地域の人たちが暮らす地域作りに、先頭を切って取り組んでいたのが岐阜県難病連という印象があります。

松田

宮川さんはその他に非常に特徴的な事業もされていました。リフトバスの運営です。中京テレビが24時間番組のチャリティーをやっていて、リフトバスをもらいました。運転はチャリティーに関心のある岐阜交通が引き受けてくださり、運営は難病連がやりました。難病連の極めて大きな事業でしたし、全国でもリフトバスを難病連か運営するというのはなかったのではないでしょうか。

また、宮川さんは障害者の社会参加ということを非常に強く言われ、とにかく積極的に外に出ようというのがスローガンで、宮川さんが全部コーディネートされました。

伊藤

外へ出ない障害者っていうことで、宮川さんが書かれていますけども、障害者が表にでない理由、一位が必要でない40%、二位は危険、交通機関が利用出来ない、トイレの心配などの物的条件28%、さらには人に迷惑、人目が気になるなど精神的条件15%になっています。これは今の時代では考えてみたらとんでもない理由ですけど、この頃はどこでも大体こんなものだったのでしょうね。

松田

宮川さんの素晴らしさっていうのは、本当の意味で保健師だと思います。あの当時すでに例えば看護職の人と難病連の話し合いが出来ればとか、今でいう多職種連携のようなことを言っておられました。理解あるお医者さんを難病連に取り込むのも整形外科医(リウマチ)から始まり、その理解ある人を中心にして、またそこから他の病気への理解あるお医者さんいませんかという形でやって行く。難病連に協力してくれるお医者さんを見つけるのは、行政がやったわけでもなく、我々自身が全部開拓して行きました。宮川さんは周辺の連携すべき団体と話し合いをするということをかなり早くから提唱され、今それが我々の所で実り、提唱されたことのかなりの部分を今日行っているのではと思っています。

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