Interviews

Ms. Toshiko Asano

Toshiko Asano  浅野 十糸子(あさの としこ)
Japan Myasthenia Gravis Association

Date: March 26, 2009

Place: Osaka, Japan

Interviewers: Tateo Ito and Shiori Nagamori

草創期の患者会設立から大阪難病連設立へ
−患者団体の機関誌が医師や看護師の情報源になった時代−

伊藤

大阪難病連あるいは全国筋無力症友の会大阪支部について、結成当時の難病患者を取り巻くいろいろな状況、そういう中でどうして患者会を作ることになったか等を教えてください。

浅野

全国筋無力症友の会大阪支部を作ろうと思ったきっかけは、1971年にタケダハルコさんが、東大病院で診てもらった患者さんのリストの中から私に呼びかけて下さったのが始めです。それで8月に私は初めて一人で東京へ行きました。それまでは重症筋無力症(MG)のことは誰にも言ってなかったので、MGの病名で呼びかけられたことがとっても嬉しかったです。東京でタケダさんとお会いして、大きなショックを受けました。これは大阪でも作らなくちゃいけないと、大阪へ飛んで帰って来て、すぐに新聞社にお願いして、紙上で呼びかけをしました。

伊藤

全国友の会の中では大阪支部の結成が早いですよね

浅野

1971年9月に阪大の待合室で第1回の患者会を開きました。東京は10月に友の会結成大会を開かれたと思います。そして大阪は12月に支部総会を開催しました。

東京では全国から200人来られて、大阪でも70数名。大変な反響でした。

伊藤

浅野さんも友の会が出来て他の患者さんに会ったのも初めてだろうし、僕もその頃ニュースを見て東京に行って、北海道支部作りを始めるのが72年だけど、病院の外来に行っても、同じ病気の患者さんってあまり会ったことがなかったですよね。また重症の方々は本当に呼吸困難で亡くなる方が結構たくさんいて、プレドニンもあったけれどもごく一部の先生が使い始めるかどうかの時期で、手術も胸腺摘出じゃなくて脾臓摘出なんてやっていましたしね。今とは全然違いますよね。

亡くなる会員さんと新しく入る会員さんといつも同じぐらいの人数だから、ずっと会員数は同じでしたね。

浅野

寄り道をいっぱいしていましたね。この時はとにかく仲間と集まること。集まったら総会も開くことが出来て、これを新聞などが取り上げてくれて、ようやく私たちは動き出したという感じです。

伊藤

1972年に大阪難病連を作ろうということで呼びかけておられますが、それは浅野さんが呼びかけたのですか?

浅野

違います。心臓病の子どもを守る会のコシカワさんという方が、ちょうど新聞に筋無力症友の会大阪支部が出来たというニュースを見られて、すぐ呼びかけて下さったんです。心臓病の子どもを守る会はすでに10年ぐらいの活動歴がある会でしたから、私は学ぶことが一杯あって、暇さえあればコシカワさんの事務所へ行って勉強をしました。患者会ってどんなふうにやったらいいのか、先生とはどんなふうに交渉したらいいのか、大阪府庁にはどんなふうに交渉したらいいのか等、みんな先輩たちから学んで来ました。その中でコシカワさんたちと大阪難病連を作ろうと呼びかけました。亡くなられた患者さんたちの悲惨な状況を見て来ていますから、もう何がなんでも大阪難病連作りたいっていう、みんなものすごい熱意でしたね。手書きのお粗末な機関誌ですが、すごい勢いで発行し続けました。それ以来、大阪難病連は華々しいことはしないけれど、粘り強くずっとやっています。

当時は患者・家族もそうだったけれど、保健師さんとか地域のお医者さんもみんな患者会のニュースで病気の実態とか治療法を知って行くという時代でしたね。ものすごく待ち望んでおられました。

そして、1977年に大阪難病連として、大阪府の独自の研究補助金で日本で初めて難病講座を土曜日毎に5回連続で開催しました。これが大阪難病連としてひとつの画期的な時代、飛躍の時代だったのかなと思います。

伊藤

また浅野さんはセルフヘルプグループ活動もやっておられますが、患者会作りとどんなふうに関わっているのですか?

浅野

セルフヘルプグループと患者会の活動は基本的には一緒だと思います。セルフヘルプグループの毎年開くセミナーでは、患者会というのはこんな意義があり、こんなに素晴らしいのですよということを、いろいろな発表の中でお互いに学び合っています。私はセルフヘルプグループの研究会に入って初めて自分たちのやっていることの意義をしっかりと掴めたっていう感じです。

伊藤

浅野さんから見て、結成した頃の患者会と今の患者会とは何か変わって来たと感じることはありますか?

浅野

そうですね、切実さというのが随分違って来ているという感じがします。昔は友の会に入ったら仲間がいるということが嬉しくて嬉しくて、みんな出て来ていました。お茶を飲む会や新年会などいろんな集いを開いて、そういう所での交わりが患者会活動の中心みたいになっていて、でもみんなそれを楽しみに患者会を活用していました。最近は総会を開いても参加者が少なく、人を集めるのがちょっと苦労するようなところがあります。機関誌やインターネットで情報を得ることが出来るし、交流もインターネット上で出来るのでそれで良いというようなことがかなり影響しているのではないかと思います。筋無力症としては医療上の状況も随分みなさん安定して来ていますし。

でも、集まって本当に良い交わりが出来た時や、集まって良かったと患者さんたちに言われた時などに患者会の本当の姿がここにあるなと思うことがあります。私たちはやはり集まって交わりたい、それを一番大事にしたいっていう思いはありますね。

伊藤

次の世代の人たちがいないという感じはしませんか。

浅野

そうです。だから本当に後を引き継いでやってくださる人をもっと早く育てておくべきだったと思っています。

伊藤

僕もいろいろな所で世代交代を訴えて、そういう体制作りをやってみたりするのですが、うまく行かないことが多いですね。ある意味では、患者会と言うのは一代限りという所ではないかと思ったりします。ある人がやっていてみんなその人の人格や、やっていることを慕って集まって来ていて、その人がやらなくなるとともにそこの患者会は役割を終えてしまう。必要であれは別にまた新たなものか出来て来るだろうというふうに考えることは出来ないですかね。

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