大震災をふりかえって (いまスタッフの思いは)

震災余談 ~岩手県の場合~

公益社団法人日本てんかん協会岩手県支部青年部長であったS 氏は、津波のあの日に両親とともに亡くなりました。てんかん協会岩手県支部は、毎年夏に療育サマーキャンプを陸前高田市の県立野外活動センターで開催していました。地元の彼はその準備滞りなく、県内及び東北の会員も迎えて楽しみました。

早朝には、海辺の松林や砂浜を散歩し、昼には海水浴とバーベキュー、夜にはキャンプファイヤーと花火を楽しみ、それを毎年準備し歓迎してくれたS 氏でした。彼には震災以前の年12月に里帰り出産した、タイ人の妻と息子がおりました。

震災後、岩手県は被災された児童生徒及び大学生に、奨学金を給与する制度「いわての学び希望基金」を新設しました。これは百年以上前に、新渡戸稲造が札幌農学校の教授時代に、学校へ行けない子らに、無料の夜学校「遠友夜学校」を設立し、子どもたちに夢を託したその精神を受け継いだ事業です。

その「いわての学びの希望基金」の対象になれることを確認し、タイの外務省を通じて、彼の妻と息子を探してもらいました。

その家族に、バンコクで会うことができましたが、言葉の壁が高く「いわての学びの希望基金」需給に至るまで、多くの方々にお世話になりました。

タイで幼稚園2年間と現在小学校4年生となり、継続して受給しています。「天国の父に届け」と祈っています。

公益社団法人日本てんかん協会岩手県支部長 矢羽々 京子

私たちも歴史のなかを生きている

なぜ患者団体が何度も東日本大震災の被災地を訪問するのか。そう思う方も多いと思う。事実、私たちが被災地に行っても、できることは限られている。ましてや、私たちの励ましや気休めの言葉など、逆に被災された方々の心情を逆なでするだけかもしれない。それは難病等を経験した私たち自身がもっともよく知っている。それでも何度か被災地を訪問するうちに、それが自然災害でも難病であれ不条理による困難には共通する悩みや苦しみなどがあるのではないかと思うようになった。

私たちが東日本大震災の被災地に行ってできること。それは自分の目で見た被災地の実情をしっかりと多くの人々に伝えること。それは福島ツアーの目的でもある。人間は自分の知らないこと、理解していないことについて偏見や差別心を抱くことがある。正しい理解は、そうしたことを払しょくする第一歩であり、私たちにもできることかもしれない。

福島第一原発の事故は、世界のエネルギー政策にも大きな影響を与えた。地球温暖化の原因とされる二酸化酸素の排出抑制という目的もあるが、この10 年で太陽光など自然エネルギーが大きく普及している。課題とされた発電単価が大幅に下がったことも、自然エネルギーに拍車をかけた。この大震災の教訓を、私たちはどれだけ未来に活かせるのだろうか。さらに10年、20年と見つめていく必要があるだろう。災害、病気、貧困など人生をとりまく環境はどれも不確実だが、私たちもそうした歴史のなかを生きる一人である。

最後に、JPAの福島ツアーを通して、また今回発行した記録集の編集委員を通してこの10年近くの間、東日本大震災と関わりを持てたことに深く感謝する。

藤原 勝

大震災をふりかえって

私が初めて被災地を訪れたのは、震災から6 年が経った2017 年のことでしたが、それまで被災地のことはテレビをはじめとするメディアから得る情報が大半でした。鉄道をはじめとするインフラの整備や各地でイベントが再開されるなど、震災前にできていたことが次々とまたできるようになってきていると感じていましたし、実際に行ってみても年々通れなかった道が通れるようになったり、新たに建物ができたり、はっきりとした変化が見て取れました。しかし、毎年そのようにはっきりとした変化が見て取れる地域もある中で、10 年の月日が経とうとしているいま、震災当日から時が止まっているのだろうなと思える地域もありました。半壊状態の家、さびついてほこりを被ったままの自家用車、閉鎖された小・中学校の校舎…震災の前はここに住んでいた、通っていた人がいる、そんな当たり前の日常でさえも奪われてしまったことを考えるとその光景を思い出すたびに胸が痛くなります

もちろん、ツアーを通じて三度被災地を訪問して定点観測を行い、それまで見えていなかった面を目の当たりにしたからといって、すべてを理解したわけではありませんし、私自身が何かできることが増えたわけでもありません。しかしながら、現実を見て、被災地の方々に触れて思いを知った一人として、これからも心を寄せていきたい。そう思います。

JPA事務局 大坪 恵太

コロナ禍の時に思う 3.11

コロナ禍を戦争にたとえた政治家がいたが、弱者が最初に被害を被るという視点で考えると納得できる。それは子供であり、女性等である。首相の一言で全国の学校が休校になったが、誰も当事者の声を聞かず実施してしまっている。“しまっている”と書いたのは学校教育法施行令第29条によって、休日については自治体の教育委員会が定めることになっている、首相の言葉はあくまでも要請だ。休校中、私設の児童館?でボランティアをしていたが、子供の声が伝わっていたとはとても思えない。被災地での避難所の設置・運営や災害公営住宅では、利用者の声を吸い上げているとは思えない。

9年あまりの変化で印象に残っている事の一つは、がれきの山が無くなったこと。石巻から女川に行く時、両側にあるがれきの間を縫うように入っていったのを思い出す。宮城県の海岸線沿いにあった二次仮置き場がとんでもなく大きかったのを思い出す。2013年のツアーでは処理工場とがれきの山が写っている。その、がれきの山と処理工場が無くなっている、2012年には仙台空港前に焼けた自動車の山があったがそれも2013 年にはもう無い。あれほどの“ がれき” 何年かかるのだろうと思っていたら2014年頃にはほとんど目立たなくなっていた。福島、帰還困難区域の“ がれき” は2018年度の復興庁統計に入っていない。

二つ目は巨大防潮堤である、2016年頃から姿を現し始めた。岩手県山田町のそれは、役場の上から見ると薄くて「これで大丈夫なのかな」と思ったことを思い出す。それよりも防潮堤に近づくにつれ、その高さに驚く、海が全然見えない、不安になる。南相馬から仙台港までの間は万里の長城のような防潮堤が連なっている、やはり海が見えない。気仙沼・日門漁港の防潮堤は拙速な建設はせず、地元民との意見交換を通して環境にも配慮したものになるようだ。

2015年、居住者が入れるようになった浪江町の佐藤氏宅を訪問した。家の中は被災時のままで2011年3月のカレンダーがそのまま残されていたのが印象に残っている。佐藤氏は浪江の家にまだ住んではいない。福島、帰還困難区域は2011年3月11日から時間は止まったままだ。

被災地に多くのお金を落としていることは理解できる、宮城県でも高速道路や橋が新しく出来ていて便利になっている。しかし、ベクトルがずれていると感じてしまうことが多い。何とかならないモノか?
一つ楽しい出来事があった。3.11 前に訪ねたが、流されてしまった酒蔵が浪江でもう一度やり直すとのこと、こんなニュースが多くなれば良いと思う。

NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会 小関 理

コラム1 日和山での読経「遅くなって申し訳ありません」

2011年3月11日、東日本大震災発災のテレビ報道で閖上浜から大津波が仙台空港に押し寄せるのを見て、約40年前、東北大学病院に入院するため生後二ヶ月の難病の子どもを抱いて仙台空港に降り立ったときのことが脳裏をよぎりました。

「この子は半年の命」と言われた子どもが5 歳まで生きられたのは仙台で3 度の手術をしていただいたおかげでした。なにがしかのお手伝いをしたいと思い震災翌日心ばかり寄付はしたものの、慰霊の気持ちはあっても現地に足を運ぶことはできませんでした。

というのは子どもが亡くなった後、妻をガンで亡くし、再婚した後添えの妻はパーキンソン病の診断を受け、看病と介護の日々が大震災以前から約10年続いていたのです。

JPA が主催するこのツアーが2013年から行われていたことは知っていたのですが、結局私が参加できたのは第6回 目ツアーでした。

いまだ放射線量の高い川俣町や浪江町を通り、延々と築かれた復興護岸堤防の閖上浜に到着したとき、数え切れない犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑が目に入ってきました。

私は近くの日和山に登り卒塔婆が建てられた山上で、多くの御霊に対し「遅くなって申し訳ありませんでした」との思いで真心こめて理趣経、般若心経を読経させていただきました。

そのとき私の脳裏には突然巨大津波に襲われ人の力で何一つあらがうことのできない状況で苦しむ人々の命の絶叫が絶え間なく現れては消え、消えては現れるのです。読経しながら坊主として泣いてはいけないと思いながらも辛い胸の痛みは、5歳の子どもと二人の妻を亡くした私の過去とも重なり、涙を抑えることができませんでした。

「写真は47 ページに掲載」

森田 良恒

コラム2 「福島」を肌で感じるツアーに参加して

2016年3月に参加をさせていただいた福島のツアーで、多くの課題を感じることができました。

大津波が押し寄せた時は、テレビの画面を見ながら本当にこれは事実のことなのか目を疑いました。ひとつめに心に強く残ったのは、福島第1原子力発電所の事故です。帰還困難となった福島県富岡町から双葉町の地域に入りました。まだまだ生活感が漂う街に人だけがいなくなってそこから時間が止まってしまったかのようになった街並みを見ながら、この家を出て避難をしなければならなかった方々のつらさ、そして帰れない状況に胸がつぶされそうになりました。原子力発電は絶対大丈夫という安全神話はもろくも崩れ去り、様々な地域の原子力発電所の在り方については、今でもこれでいいのかと考えさせられます。

人間の力は自然の力には勝てないことをつくづく感じさせられました。

続いて福島県南相馬市JR小高駅周辺や海岸通りを一望し、その後宮城県山元町の日和山に向かいました。そこで、一面何もない平地を見渡しました。本当はこの地域には多くの家が建っていたということですが、跡形さえ残っていない静まり返った更地を目の当たりにして、声も出ませんでした。反対に機械の動く音がして、大きな堤防が建設されていました。

津波の甚大な被害が多くの人たちを犠牲にして、それまでは普通に生活をされていた方々があっという間に津波にさらわれてしまった光景を思いました。

持ち主がまだわからないというランドセルや靴の片方、ピアニカなどが集められている場所に行き、持ち主が現れないけど今さっきまで使っていたと思われる物が集まっていて、それを取りに来る人はもういないのかもしれないという想いと静かな中で遠くに建設中の堤防の音だけがしており、変な違和感が残りました。

今後も私たちは東日本大震災のことを決して忘れてはいけないことを思い知らされ、そのことでまだまだ生活が困難な方々がおられることを忘れてはいけないと心から思わずにはおれません。

今は新型コロナウイルスの影響で全世界が大変な状況です。大きな災害を目の前にして心をひとつにして困難に立ち向かっていかなければと思います。

一般社団法人 日本難病疾病団体協議会 元副代表理事(佐賀県難病相談支援センター) 三原 睦子

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