【取材報告】2020/9/20-22 現在の被災地の様子

報告 藤原 勝(福島を肌で感じるツアー10 年の記録編集委員)

取材日
2020年9月20(日)から22日(火・祝)
取材地
福島県、宮城県、岩手県の被災地
交通手段
自家用車
目 的
東日本大震災(2011年3月11日)から10年を前にして、被災地の現状を視察し復興状況等を調査すること。

1. 福島県

大熊町

9 月20 日(日)午前

福島第一原子力発電所から約3km西に位置するJR大野駅(双葉郡大熊町下野上大野248)周辺は、帰還困難区域にあり、駅に通じる道路以外の多くはバリケードで封鎖されていた。バリケードは比較的新しく、駅周辺及び道路の避難指示解除に際して、避難地域と解除地域を区別するために設置されたものと思われる。駅周辺の建築物は、震災当時の状態で放置されており歩行者の姿はない。

JR大野駅の駅舎及びそのごく周辺は、2020年3月5日に特定復興再生拠点区域として除染後に避難指示が解除されており、駅舎は新築かと思われるほどきれいに修復されていた。除染後の駅前の放射線量は0.363μ Sv。駅員は常駐していない。3月14日に営業が再開されたが、朝8時台の視察では、普通列車の乗降者は2名程度だった。

JR大野駅とJR富岡駅の間には、小型(10人乗り程度)で運賃無料の大野町生活循環バスが運行されており、大野町役場、大川原復興住宅、富岡郵便局、富岡中央病院、さくらモール・とみおか診療所の間を繋いでいる。

東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が4月に一部で解除された福島県大熊町で1日、町南部の大川原地区に整備された災害公営住宅(復興住宅)への入居が始まった。近くでは町役場新庁舎が業務を始めており、仮設の商業施設も整備される。45世帯68人が入居予定で、住民は今後の生活に期待を膨らませながら、新しい住まいに家財道具を運び入れた。

(2020 年6 月1 日毎日新聞)

双葉町

9 月20 日(日)午前

双葉町は3月4日、避難指示解除準備区域、JR常磐線の線路、JR双葉駅等の避難指示が解除されている。JR双葉駅(双葉郡双葉町大字長塚町西)の駅舎も、大野駅と同様に新築かと思わせるほどきれいに修復されていた。駅周辺の建築物の多くは震災当時の状態で放置されていたが、JR 大野駅周辺のようなバリケードは見当たらなかった。駅前の線量は、0.299μ Sv でJR大野駅より少し低い。駅舎に併設したコミュニティー施設「ステーションプラザふたば」のからくり時計は、震災時の時刻で止まったままだった。駅の自転車置き場には、埃をかぶりさび付いた自転車が放置されており、震災当時の様子を静かに物語っている。

JR大野駅よりはやや開かれた印象があり、駅員はいないがガードマンらしき人がいた。駅には無料のレンタルサイクルが5台あり、カーシェアリングサービスも2台分準備されていた。カーシェアリングサービスとは、レンタカーのように店舗受付で借りるのではなく、直接駐車場へ行き、会員登録したIC運転免許証などでクルマを解錠・施錠して利用するサービスのこと。視察時、レンタルサイクルはすでに4台、カーシェアリングは1台が利用されていた。同町の沿岸部(JR双葉駅から約2km)には、9月20日「東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンしており来場者が利用したのかもしれない。

「東日本大震災・原子力災害伝承館」(双葉郡双葉町大字中野字高田39)は、東日本大震災及び原子力災害の記録、教訓を発信し伝承していく施設として、福島第一原発から約4km北に建設された。総工費53億円は国の負担。運営を担うのは「福島イノベーション・コースト構想推進機構」。入場には大人600円が必要。しかし、県が収集してきた震災・原発事故関連資料約24万点のうち、常設展示しているのは約170点にすぎないというが、差しさわりのないものを選びスタートしたという印象がある。展示内容にも原発事故の本質的問題を明らかにするものはなく、今後の充実に期待したいところである。

福島イノベーション・コースト構想とは、東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するために、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクト(同組団体のHPから)。そうした活動の一つに伝承館がある。開館初日の来場者は1,051名(伝承館のHPから)で県外からの参加者も多かった。将来的には、福島県の復興祈念公園が伝承館に近接されるものと思われるが、現時点では影も形もない。

伝承館周辺の防潮堤は工事中だった。また、福島第一原発付近は、除染による廃棄物を貯蔵する中間貯蔵施設が多数建設されており、搬入用の道路も工事されていた。

浪江町

9月20日(日)午後

浪江町役場近くのガソリンスタンドは、社名が変わり営業を再開していた。京都市からここまで約750km。燃料タンクも空になり給油する。スタンドの隣には「道の駅なみえ」(浪江町大字幾世橋字知命寺60)が復興のシンボル的施設として8月31日より営業を再開しており、大勢の来場者で賑わっていた。施設には産地直売所があり、新鮮な野菜や魚介類が販売され、フードテラスでは請戸漁港で水揚げされたシラスなど、地元の新鮮な食材を使った食事を楽しむことができる。売れ行きも好調だった。

浪江町は、2017年に原発事故による避難指示が一部解除され、内陸部ではコメ作りが再開されていたが、遅れていた沿岸部でも2020年に一部の水田でコメ作りが始まり、震災後初めての稲刈りが行われた。こうしたことからも、帰還困難区域の津島区などを除けば、今回の視察でも少しずつではあるが復興の兆しがあることを感じられた。

南相馬市小高区沿岸部

9月20日(日)午後

小高区村上の防潮堤
南相馬市小高区村上、塚原周辺の防潮堤はほぼ完成していた。沿岸部にわずかに残っていた家屋の基礎も撤去され、被災跡には松の苗木が植林されていた。津波で崩壊した家屋は撤去されたままで、現在のところ再建の様子はなかった。丘陵部の津波被災を逃れた家屋では、住民が帰還している様子が見られた。

相馬市松川浦

9月20日(日)午後

相馬市松川浦は、2016年の第4回ツアーの時点でもかなり復興していたが、さらに松川浦大橋や潟湖セキコを一周する道路も復旧しており、自然公園としての景観が回復していた。漁港ではのんびりと魚釣りをする親子の姿が見られるなど、震災後の数年では考えられなかった日常の風景があった。

復活した太平洋と松川浦の間を走る大州松川ライン

2.宮城県

山元町

9 月21 日(月・祝)午前視察。

旧JR山下駅跡は、半年前の2020年3月の視察では確認できたトイレとわずかに残るホームが完全に撤去されていた。旧駅前の橋元商店は営業しており、数年ぶりに店主の橋元さんからお話を聞くことができた。内陸部の新駅から旧駅につながる道路(東西)の拡張工事のため、来年には橋元商店も立ち退きとなり、向かい側の旧駅のとなりに移転するとのことだ。

周辺は工事中であり、橋元さんの話によると山元町はJRから旧路線跡を買い取り、町道(南北の道路)を建設するという。旧JR山下駅跡は、東西の道路との交差点になる。

旧JR山下駅跡より沿岸部は、助かった住民の大半が内陸部に移転しているため、空き地や無住家屋が多い。修理したのに無住になっている家屋も多数見られた。さらに海側へ行くと、防潮目的で5 メートル築堤された「かさ上げ県道」(2線提)の建設工事中であった。かさ上げ県道よりさらに沿岸部は、新築の建設許可は下りないが居住禁止ではなくリフォームは可能で住み続けることもできる。かさ上げ県道より海側では、広々とした被災跡にぽつんと曹洞宗普門寺が復興しており、墓地に花を添えに来たお年寄りの姿があった。防潮堤近くには、盛り土による避難丘(海抜9メートル)があり津波災害に備えていた。

かさ上げ県道の建設にあたっては、2014年に笹野地区(旧山下駅跡より南東)で、かさ上げ県道よりも海側で家屋を修理して住む人たち(19世帯)が大津波の際に危険だとして計画変更を求めていた問題がある。解決には長期間を要したが、県・町・住民との話し合いで、ルートの変更はしないが海側に新たに盛り土による築堤(5メートル)を設け、かさ上げ道路の一部を低くする案で2017年8月に住民が合意している。合意の取り付け等で、かさ上げ県道の工事は遅れ気味になっていると思われるが、計画に際してそもそもかさ上げ県道は必要なのかといった意見もあったことを記しておく。

JR坂元駅より南東で、9月26日のオープンを目前にした震災遺構中浜小学校(山元町坂元字久根22番地2)は、残念ながら建物内に入ることはできなかったが、校舎の保存状態も良く外からでも震災遺構としての見ごたえは十分だった。案内板によると、平成元年の校舎建設の再、地元住民の意向を受けて敷地全体を2メートル程度かさ上げしたことから、きわどいところで屋上に避難した90人の命を救うことができたという。山元町が後世に誇るべき震災遺構のようだ。

名取市閖上(ゆりあげ)

9月21日(月・祝)午前

閖上の海岸線に向かう途中、津波で大破しながらも2018 年に再建した東禅寺のりっぱな本堂を確認した。東禅寺は、住職夫妻が津波により亡くなっているが、難を逃れた長男が後を継いで再建した。2013 年の第1 回福島ツアーで被災した状態を見ているだけに、同寺の復興には感慨深いものがあった。

海岸の防潮堤の上は、多くの人がウォーキングを楽しんでいた。名取川の水門は大型に付け替えられ、堤防もりっぱになっている。海岸線近くでは空き地が多いものの、閖上全体では家屋の再建が進みつつあり、大型の商業施設にはたくさんの人が車で訪れていた。道路の一部では車で込み合っているところもあり、今回の視察でもっとも復興を感じられた。

最後に津波で大きな被害を受けた閖上中学校跡を探したが、道路が付け替えられるなど町の様子は大きく変わっており、確認することはできなかった。

南三陸町

9月21日(月・祝)午前

仙台市を起点とする三陸自動車道は、観光地の松島を過ぎると岩手県宮古市まで無料となる。松島からは交通量も減り、地元の町を結ぶ幹線道路としての色合いが濃くなっていく。宮城県北部の志津川IC から海岸方向に向かうと、2019年12月に一部開園された南三陸町震災復興祈念公園の横に出る。同公園は被災された方々の追悼・鎮魂の場であるとともに、甚大な被害の記憶や教訓を継承し、震災からの復興を祈念する場として整備された公園である。今秋には全体開園の予定らしいが、視察時はまだ工事が行われていた。公園内には、繰り返し避難を呼びかけ続けた女性職員をはじめ町職員ら43人が犠牲になった防災庁舎の鉄筋の骨組みだけが残されている。

2014年の第4回福島ツアーでは庁舎の横をバスで通過しているが、周囲の様子は大きく変わっており、当時の記憶と一致しない。町は財政負担や遺族の声を踏まえて防災庁舎の解体を決めたが、一転して県有化により保存されることになった。ただ、きれいに整理され骨組みには真新しいペンキが塗られていることから、震災遺構としての生々しさはほとんど感じられなかった。まだ一部開園ということもあってか、訪れる人の姿もまばらであった。

被災した東禅寺(2013年の第1回福島ツアーから)

りっぱに再建した東禅寺

3.岩手県

陸前高田市

9月21日(月・祝)午後、9月22日(火・祝)午前

南三陸町から車で2 時間余り走ると陸前高田市に到着する。気仙川を渡ると2019年9月にオープンした東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」と道の駅「高田松原」の複合施設が見えてくる。周辺には震災伝承施設の陸前高田ユースホステルと奇跡の一本松(レプリカ)、タビック45(旧「道の駅高田松原」)、下宿定住促進住宅等があり一帯を高田松原津波復興祈念公園として整備している。タビック45(旧「道の駅高田松原」)、下宿定住促進住宅は、視察時も工事中だったが、伝承館と道の駅は多くの来場者で賑わっていた。奇跡の一本松はレプリカだが、他の震災伝承施設はいずれも被災当時の状態で保存されており、見ごたえは十分である。道の駅では地元の農産物等が販売されおり、津波伝承館と道の駅を組み合わせたことで来場者の呼び込みに成功している。

津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」は入場無料で、館内には津波災害の歴史から東日本大震災の概要、命を守るための教訓、そして国内外からの支援に対する感謝の気持ちと被災を乗り越えていく姿などがエリアごとに展示されている。

少し内陸部には2017年4月オープンした商業・図書館複合施設のアバッセたかた(陸前高田市高田町館の沖1番地)を中心とした商業地域があり、まちの中心部になる。アバッセたかたには、飲食店や市民生活に必要とするさまざまな店舗が入居していたが、銀行はATMのみになる。周囲には約50 店舗が営業している。無料で利用できる公共駐車場が数カ所あり車での利便性が良い。それでも21日(月・祝)夕方の視察では、客足はまばらで、それほどの賑わいは感じられなかった。主な住宅街はさらに内陸部に位置するが、全体的にはひっそりとした様子だった。被災地全体に言えることだが、昼間は他所からの訪問者で伝承館や道の駅などを中心になんとなく賑わっているように見えても、日の暮れ頃になり、そうした人たちが帰っていくと本当の町の姿が見えてくるようである。

いわゆるハコモノというのか、アバッセたかたの隣には、「陸前高田市民文化会館 奇跡の一本松ホール」というたいへんりっぱな建築物があり、周囲の様子からはややアンバランスな感じがしないでもない。

JR大船渡線は東日本大震災以降不通となり、2013 年3 月からバス高速輸送システム (BRT) に切り替わった。鉄道は2020年4月で廃線となったが、陸前高田駅(陸前高田市高田町字館の沖110 番)は再現され、となりがバス停となっている。22日朝7時台の視察では、バス待ちをしている7名は全員学生だった。ほとんどは家族が車でバス停まで送り届けている。

2014年の第4回福島ツアーで宿泊したキャピタルホテル1000(高田市高田町長砂60-1)からは、沿岸部の様子が一望できる。周辺の造成工事はすでに終了しており、一部は運動公園になっていたものの大半は更地のままだった。ホテルマンに尋ねると「商業施設になる予定だがそれも定かではない」という。

新型コロナウイルスの関係で、ホテルではレストランが閉鎖され食事は一切用意されず、まったく活気がなかった。新型コロナウイルスが、復興の足かせになっていることは間違いないだろう。内陸部では、7 階建て陸前高田市庁舎の新築工事が進んでいたが、やはり町の様子とはアンバランスな感じがする。将来的には、新庁舎が見劣りしないぐらい復興することを期待したいものだが。

大槌町

9 月22 日(火・祝)午前視察

JR東日本山田線の大槌駅(大槌町本町1)は、震災後に第三セクター鉄道の三陸鉄道リアス線となり2019年3月から営業を再開している。駅舎は、町のシンボル的存在であるひょうたん島をイメージしたものが新築されていた。22日朝8時台の乗降者は数名程度と少ない。

駅前には三陸屋台村があり、9件ほどの飲食店があるぐらいだが、周辺では公営住宅や新築の家屋も建ち始めていた。道が付け替えられ、2014年の第4回ツアー時とは町の様子は大きく変わっているため、駅前に車を停めて、通行人に道を尋ねながら徒歩で旧大槌町役場庁舎跡とその周辺を視察した。旧役場庁舎は2019年1月に解体され、現在は防災用空き地へと様変わりしている。意図的なのだろうか、旧役場庁舎であったことを表示するものはなにもない。忘れられたように現地を訪れる人影もない。かろうじて残っていた献花台と地蔵も、町が新たに整備する追悼施設に移設される予定だという。

旧役場庁舎の対応をめぐっては、住民の間でも意見が分かれた。大槌町役場庁舎では津波により40名の職員等が命を落としたが、なぜ職員等への避難指示がなかったのか。視察を通して、そうした問題が明らかにされないままこのような状態となったことに、町政への後味の悪さを感じた。平野町長は、2020年2月に職員らの死亡状況調査を始めると発表したが、すでに震災から8年が経過しており、旧役場庁舎の解体後であった。

大槌川の河口では、巨大な「大槌川水門」(事業主は岩手県)が完成しており周辺の河川工事は継続中であった。大槌川、小槌川水門は2020年4月から災害時に衛星回線を使用した最新の「水門・陸閘自動閉鎖システム」が導入されている。岩手県では、今後、約220基の水門・陸閘においても同様の整備を進める計画である。

山田町

9 月22 日(火・祝)午前

山田町は2014年の第4回福島ツアーで最後に視察した町であり、今回もここを最後とした。海岸線平野部のほとんどが壊滅した山田町は、現在も空き地が散見するものの三陸鉄道リアス線陸中山田駅(山田町長崎1丁目2)を中心に、一定の店舗や住宅が再建されている。6階建町営住宅も複数の棟が見られた。役場庁舎は以前のままだった。なんとなくコンパクトな町ゆえに、まとまり感があるように思える。駅前のスーパーマーケットは、買い物客で賑わっていたが、タクシーで買い物に来る高齢者の姿もあった。

山田湾にはたくさんの養殖筏が浮かび、町の主産業である漁業の復活が感じられる。山田町のホームページでは漁業者を募集しており、人出不足が推察できる。防潮堤の外には水産関連施設があり、大地震のときは数十メートルごとに設置された階段からも内陸部に避難できるようになっていた。

山田町には、震災遺構や追悼施設のようなものはとくにないが、地味ながらも手堅く復興しているような印象を受けた。ただ、風光明媚を売り物とする山田町だが、観光客等の姿を見かけることはほとんどなかった。

4.三日間、被災地をまわった感想

取材を担当した藤原 勝
Go Toトラベル(東京を除く)が実施された連休であり、松島などの観光地は多くの人で賑わったようだが、東北の被災地は車の混雑もなく訪れる人はそれほど多くはなかった。

これまでの福島ツアーでは、福島県の原発事故による被害地域と宮城県、岩手県の被災地域では復興格差が拡大していることが指摘されていたが、JR 大野駅(大熊町)、JR 双葉駅(双葉町)周辺を視察することで、さらにその違いを明確にした。

政府は、福島イノベーション・コースト構想なるプロジェクトを立ち上げて福島県の復興支援に乗り出しているが、これは必ずしも被災者を主人公とした草の根的な施策ではないように思える。その一例が双葉町にオープンした東日本大震災・原子力災害伝承館である。「県民の証言」の収録では、特定の団体等を批判しないことを採用条件に東電や政府への批判を封じ込まれたことが10月7日の新聞記事で明らかになった。実際に来館すると「やはりそうだったのか」となるが、県民の思いはどこにあるのだろうか。東京電力福島第一原子力発電所の事故をめぐり、福島県で暮らす住民など3,600人余りが訴えた集団訴訟で2020年9月30日、仙台高等裁判所は国の対応、東京電力の責任を厳しく断罪する判決を出している。国及び東京電力はこの判決を重く受け止めねばならない。

被災地では、追悼施設の整備や今後の計画、震災遺構の保存が進んでいる。ただ、多くの犠牲者を出した建造物では、保存・解体で意見の相違もある。震災遺構は、被害の伝承と共に観光資源としての役割も担うことになるが、そうしたことに被害者の複雑な思いがあるのだろう。実際に取り壊された建造物も多い。また、大槌町の旧役場庁舎跡は長期間議論された後に解体され、逆に南三陸町の防災対策庁舎は保存された。山田町のように、復興事業でこれといった震災遺構を残さなかった町もある。同じ町でも、非被災地域はそのまま残り、被災地域は新しい町に生まれ変わるなど、町中での地域差にも留意する必要がある。

無料で利用できる三陸自動車道は利便性が高く、災害時は物資の補給路としても期待される。一方、三陸鉄道はJR山田線の廃止に伴い宮古駅から釜石駅の間が同鉄道に移管され、盛駅(大船渡市)から久慈駅(久慈市)までの163kmが三陸鉄道リアス線となり2019年3月24日に営業を開始した。しかし、今後の安定した経営維持は大きな課題となるだろう。

2020年は新型コロナウィルスの感染拡大により、地元で水揚げされた海産物価格の下落など、被災地にもかなり影響が出ている。こうした状況では、多様な政策が地方も含めた社会全体を網羅するセーフティネットとして繋がらなければ、弱い所への打撃はさらに大きくなるのではないだろうか。社会全体を見直す機会かもしれない。そうしたことを思いながら被災地を後にした。

あれから10年

一般社団法人岩手県難病・疾病団体連絡協議会
副代表理事 矢羽々 京子

今回、令和2年9月に大船渡を訪れ、被災された二人にお会いしました。あれから9年半が経ちました。

一人は男性50歳代。肺動脈性肺高血圧症で携帯酸素を肩で背負い、明るい笑顔でおいでになりました。

震災まで母親と二人で酒類販売店を営んでおりましたが、店は津波で全壊したため解体しました。そうこうしているうちに、母親は認知症になりました。突然ある日、母親の行方が分からなくなりました。皆で探したのですが、なかなか見つかりませんでした。何日かして河口の海で発見されたとの報せが入りました。ひとり残された彼は、時に波の音が人の声に聞こえると言っていました。

もう一人は女性50歳代。網膜色素変性症で視力はありません。保母さんをしているという娘さんに送られておいでになりました。現在B型の障害者作業所で働いているとのこと。どんな作業かを聞いたところ、洗濯された寝具のシーツをたたむ作業とのこと。知的障害者と一緒に作業しているが、話をしてくれる人はいない。指導員が少ないなどつらいことは多いけれど、お仕事ができる喜びを感じていると話されました。

津波は思い出したくない。

恐ろしい津波に会い、乳癌の手術を受け、こんなに苦しんだのだから、今死んではいられない。「生きるんだ」と笑顔で話されました。なんとさわやかな人だろう。こちらが元気をもらいました。

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