患者本人による手記・詩

「今」 鈴木明美

漆黒の闇の中、天上の隙間から数本の陽の光
その光の筋をじっと見ている私。
そんな光景の夢をよく見る。

3月11日 冷えきった体を丸め、ガタガタと音を立てて震えていた。
私に降り注いだ数本の陽の光
「この光に導かれ、私は天国へ行くんだ」本気でそう思った私の姿だ。

今、仮設の天上をひとり見つめると、胸が締め付けられる。
「どうして、私は生きてるんだろう…」と。
地震で崩れた実家の瓦を、片づけてくれていた幼なじみの清紀ちゃん。
無口でぶっきらぼう。
でも私には優しかった。
道端で歩けなくなっている私を見つけると車で追いかけて来て、黙って家まで送ってくれた。
「いつでも送ってやっからな」そう言って静かに笑ってた。

私の息子達を、自分の孫のように可愛がってくれた酒屋のすみちゃん(清紀ちゃんの母)
大人になった今でも何かと気にかけてくれた。

私の結婚式。
花嫁衣裳の着付けをしてくれた近くの美容院のおばちゃん。
前祝いとばかりに友人達と飲み明かし、お酒の臭いをさせて遅刻してきた20才の主人に袴を着付けながら一喝してくれた。

「あきちゃん」明美という名の私の車を、この世でたったひとり、そう呼んでいた猫好きのおばさん。
「一緒に逃げよう」と声をかけられたのに。
「猫を連れて行けないから、ここに居るよ」そう言って家に残った。

お洒落で、お話し好き、ちょっとお節介で、だけど、憎めない床屋のおばさん。
仕事を息子夫婦に任せてからは、よく母や父の話し相手になってくれた。
他にもたくさん、数々の思い出を作ってくれた人達が、一瞬のうちに家とともに流され、虹の橋を渡り、大空の星になってしまった。

多発性硬化症という神経難病を患ってから、視力が落ち、視野が欠け、時々、ストライキをおこす私の体。
痛み、庫れ、脱力。
誰かの手を借りる度に、感謝しながらも、自分自身が情けなくなる。

こんな私が助けられ、生き残ってしまった。
逝ってしまった人達の無念、これからの長い人生を思うと、涙が止まらない。
息が出来なくなる。
苦しい。

主人もまた、数々の辛い思いを抱えているのが痛いほどわかるから吐き出したい自分の気持ちをぐっと飲み込む。
主人も同じ様に飲み込んでいるのだろう。
二人で居ると空気が重い。
お互いに気を使い過ぎて疲れ果てる。
仕事も仮設入居も決まらず、不安ばかりが膨らんで二人だけでは笑う事も忘れてしまう毎日。
お互いに些細な事が気に障る。
少しずつ、少しずつ私達の関係が変わっていった。

昼間は毎日、家の中の瓦礫や泥をかき出し、思い出の品1つ1つを洗った。
泣きたい心をおさえて洗った。
1つのおにぎりを分けて食べた。
不思議な連帯感があってほっとした。

日が落ちると、明かりも音も無い中、着のみ着のまま、黙って眠る。
そっと手を繋いで眠る。
手の温もりで「この人と生きるんだ」と実感する。
涙でなかなか寝つけない。

目が覚めたら今日が夢であってほしいと願う。
太陽が昇り、1日が始まると、またゆううつになる。
そんな毎日が続いた。

10月、仮設に入居し、今年仕事が決まると、お互いだんだん優しくなれてきた。
薄皮をはぐように少しずつ、少しずつ。
まだ、先行き不透明で何も見えてこない。
何も決まらない。
それでも、私達は変わってきた。
3月11日以前の二人に近づいてきている
その事が私には何よりも嬉しい。

今、仮設に入居し、1年が過ぎた。
風防室の雨もり、室内の湿気、カビ、寒さ、暑さ、狭さ、各段差、響く生活音、etc
不満や不便は贅沢だと気づく。
食べる物も、着る物も、安心して寝る場所も無く途方に暮れた日々。
今は幸せなはず。

3月11日直後は誰もが同じ方向をむいていた。
ただ、一生懸命に生きること。
誰もが、隣人に優しかった。
お互いの辛さがわかるから。

今、あんなに思いやり、励ましあい、助けあった被災者間に見えない壁ができてきた。
その多くが、経済的な差から、始まっている。
寂しい、本当に寂しい事だ。

今、ひとり仮設の天上を見上げる。
不安で不安で押しつぶされそうになる。
胸があつくなる。
涙が次々と溢れ出てくる。
この先、どうなるんだろうか
どうしたらいいんだろうか
「なるようになるさ」って主人は言う。
わかっているけど。
あの日から1年9ヶ月。
生かされた私は今もまだ辛く、苦しい。

【名前】
鈴木明美(すずきあけみ)
【年齢】
52歳
【病名】
多発性硬化症
【所属】
宮城県患者家族団体連絡協議会 (MS虹の会)
【被災時の居住地】
宮城県石巻市
【被災場所】
自宅

”震災と難病” − “The earthquake and Intractable Disease“ Ayano Hisa

震災関連のシンポジウムで、宮城県難病連絡協議会の小関理さんに出会いました。被災地に行くと、私は崩壊した建物の写真を主に撮っていましたが、小関さんから被災地の難病を患った方たちのお話を聞き、今回の旅では人の写真も撮ろうと思いました。そして小関さんから紹介していただいた方が鈴木明美さんです。(余談ですが、鈴木さんのご実家は、私の母親の実家から石ノ森萬画館をはさんだ対岸にあり、近所であることがわかりました)

What if M9 earthquake happens in your country? Are you ready for that? People who have experienced the disasterare the only ones who can tellyou how to educate the society and get ready before it comes. This story is about Mrs. Suzuki who suffers from MS and still livesin the badly damages area. (Sorry for my English!)

At a symposium of the 311 earthquake related matters, I met Mr.Osamu Koseki who isamember of the group of intractable diseases of Miyagi prefecture. After the earthquake I have been mainly taking photos of collapsed buildings. however, when I met Mr.Koseki and heard about the people with intractable diseases in the Tohoku area. where the tsunami hit, I decided to take photos of the people, too. Mr.Koseki introduced me to Mrs.Akemi Suzuki. (After we met we found out Mrs. Suzuki and my uncle were neighbors.)

鈴木さんはMS(多発既硬化症)を患っています。目が不自由で、右半身が思うように動かせません。MSの特徴は、疲れや体温が上がると体調が著しく悪くなり、ひどい日は寝込んで動けないほどになります。鈴木さんの障害は重度の1級ですが、写真からもわかるように、体調の良い日は、見た目からは障害があることが全くわかりません。鈴木さんは目が見えなくなってから人と対話するための訓練を受けたそうですが、お話をするときも、こちらの目をしっかりと見てお話をしてくださるので、こちらは鈴木さんの目が不自由なことを忘れてしまうくらいです。

Mrs.Suzuki has Multiple Sclerosis(MS). She is almost blind and has trouble moving right side of her body. As a symptom of MS, when she gets tired or her body temperature goes up. she becomes tremendously ill and when the condition is bad, she cannot even move. Mrs.Suzuki has disability rate of 1 (meaning her disability rate is the highest; most severe), however, as you can see from the photo of the left, when her condition is good, it is hard to tell she has the heavy disease. After she became almost blind, she took lessons to talk to people in person and is able to look at the person’s eyes when talking, which makes the person forget that she is blind.

鈴木さんはあの日、1人で石巻の家にいました。地震の後、家の外に出て戸惑っていると鈴木さんの体が不自由なことを知っている近所の方が探しにきてくれて一緒に逃げてくれたそうです。もし、近所の方が探しに来てくれていなかったら、鈴木さんはおそらく逃げ場を失うことになっていたのかもしれません。震災の日には鈴木さんのように幸い助かった障害者の方ばかりではありませんでした。命が助かった障害者の方達も、震災後の生活の中で大変つらい思いをされてきた方がたくさんいます。

朝日新聞の“プロメテウスの罠”という震災関連の記事がこのことについて連載しています。是非読んでみてください。(http://digital.asahi.com/articles/list/prometheus.html)

On the day of the earthquake, 2 years ago, she was at home in Ishinomaki city by herself. After the massive earthquake, she went out and was not sure what to do by herself. She heard her neighbor calling her and had a huge relief. They ran away from the water together after soaked in water up to her chest. If the neighbor, who knew that she was blind, did not come to help her, she would probably not be here now.

鈴木さんの障害は見た目からはわかりづらいこともあり、仮設住宅に入る際も障害を考慮してもらえませんでした。鈴木さんご夫妻は障害者用の仮設住宅に応募しましたが、普段は車いすを使わないという理由で、障害者用住宅へは入居できませんでした。通常の仮設住宅へ引っ越してみると段差が多く、手すりもなく、体調の悪い日には四つん這いになって歩かないとならない状況でした。障害者の仮設住宅改造のための資金が国から出ているという話を聞き、震災から7ヶ月を過ぎた頃、手すりをつけてもらえないかと市に交渉したところ、実費でつけてくれと言われました。結局交渉の末、翌年1月につけてもらえることになりましたが、石巻市では公費で手すりをつけてもらったのは鈴木さん宅がはじめてだったそうで、市の方たちが手すりの写真まで撮りにきました。他の障害者の方たちは市に取り合ってもらえないため、ボランティアの方達につけてもらったり、実費でつけたりしていました。障害者用住宅がどういうものなのか、疑問に思った鈴木さんは、知り合いの住宅を訪ねると、車いす用のスロープが住宅の前にあるだけで、入り口が車いすの幅よりも狭く、家の中に入るには車いすを降りないと入れず、住宅の中の造りは通常の住宅と同じでした。障害があり、助けが必要な人たちがたくさんいるから助けてほしい、と鈴木さんは市に訴えましたが、聞き入れてもらえず、状況はなかなか改善されませんでした。そんなとき、市から、保健士さんが派遣されることになり、鈴木さんは助けが必要な障害者の方たちや壊れた家に住んでいる高齢者の方たちのことを思ってうれしかったそうです。

Because sometimes it is not easy to tell how ill she is. she had difficulties getting into a barrier-free temporary home. She applied for the barrier-free temporary home for disabled people, however, because she does not always need wheel chair depending on her condition, the city assigned a regular temporary home for Mr. and Mrs.Suzuki. The regular temporary home had a lot of steps and no grab bars. When her condition is bad. she had to walk on all fours to move around in the house. After about 7 months since the earthquake. she heard that the government is funding for fixing houses for people with disabilities and went to the city hall to ask to add some grab bars in her house. The office clerk told her that she had to pay for it. After talking with them again and again, in January on the next year. they agreed to install the grab bars. Later she found out her home was the firstone where the cityinstalledthe grab bars and the city even came to take photos of it as a record. Mrs.Suzuki’s friends with disabilities had their bars installed by volunteers or by themselves because the city rejected to help. One day Mrs.Suzuki wondered how the barrier-free temporary home is. and went to see it at her friend’s. What she saw there was not something she expected. There was a slope so the wheelchairs can go up, however, the door was narrower than the width of regular wheelchairs and the chair cannot enter the house unless the person gets up and fold the chair. Mrs.Suzuki went to the city hall again to talk with them because she knew there were lots of people with disabilities who need help. After a few months. they told her they would send some nurses to people who need special care. She was glad to hear the news thinking about the people who have been asking for special help and elderly people who have been living in collapsed homes.

派遣されてきた保健士さんから、「私はこの地域担当ですけどここに要支援者の鈴木さんが住んでいらっしやるのを知りませんでした」と言われ、鈴木さんは驚きました。鈴木さんは障害者手帳も持っているし、定期的に役所で手続き等も行っているのでてっきり自分の名前もその名簿に載っているものだと思っていました。詳しく聞くと、障害者の中でも神経難病の患者さんは、市ではなく県が管轄になって名簿を作っているらしく、市と県のつながりが成されていなかったそうです。“プロメテウスの罠”に南相馬市での例が詳しく書いてありますが、震災後、個人回報の保護という理由で要支援者の名簿が市から福祉施設に開示されなかったために障害者の方達が逃げ遅れたり、災害が起きたことを知らずに家に取り残されたり、という問題が起きました。鈴木さんの場合は、個人情報保護のためだけではなく行政のつながりが出来ていないために把握されていなかったことになります。特に石巻市は被害がひどかったせいもあり、震災後はしばらく自治体としての体をなしていなかったといいます。鈴木さんは、行政は障害者のために障害者の視点で障害者について考え直してほしいと訴えます。

When the nurse came to her home and said “I am in charge of patients around this area but I didn’t know you, with such heavy disease, live here”, Mrs.Suzuki was shocked. She is registered as MS patient with disability level 1 (most severe) to the government and totally thought the city knew about her, too. After talking to the nurse she found out that patients with intractable disease are organized by the prefecture. not city. and the prefecture was not sharing the information with the city. During the 311 disaster, a lot of people with disability lost their lives because. due to the privacy law, each city did not share the list of the patients with non-government volunteering groups. who were eager to save them. Although the privacy law should be kept within the government except for emergencies. knowing the troubles caused during the 311 disaster. she thought the situation had become better but she was wrong. Although Ishinomaki city, where she lives, had the worst damage because of the tsunami, and the city was not working correctly right after the tsunami, the situation should have gotten betterif the government learned from the disaster. Mrs.Suzuki wishes the government reconsiders about the situations of disabled people in case of emergency from the viewpoint of the people with disability.

鈴木さんは、復興のニュースを聞く度に複雑な気持ちになるといいます。「テレビでお店やレストラン等、震災後に再開したところが取り上げられるけど、震災前の石巻の姿をよく知っている地元の人たちは、再開できたお店や会社はほんの一握りで、ニュースには取り上げられていない再開できなかったところの方が多いことを知っています。復興ばかりに照明が当たってしまうと取り残された気分になる。」鈴木さんご夫妻も、鈴木さんのご両親も、妹さんご夫妻も、この先、仮設住宅からいつ出ることができるのか目処は立っていません。

“I don’t know how I am supposed to feel” Mrs.Suzuki says. “When lsee and hear news about the recovery process of my home town, for people. who do not know about the town since before the earthquake, it may seem like a lot of businesses are reopening and recovered from the disaster. However, the stores and companies that reopened are only small part of the huge damage caused in my town. I know there are much more people who has not been able to restart their business than those who were able to restart. because I know the town since before the tsunami. l feel I am left behind when news spot-light only the recovering part of the town. “Mr. and Mrs. Suzuki, her parents and her sister’s family still have not figured out when and where to move from their temporary housing.

周囲のお店や会社が少しずつ再開していく中で、再就職をする人たちが増えて行きました。鈴木さんのご主人も、震災前にしていた仕事とは全く違う内容の仕事ではありますが、再就職しました。障害者の就職について私が疑問に思い、聞いてみると、やはり鈴木さんの顔は曇りました。被災地に住む人々が就職先を探すに当たって、地元から周辺の会社では被災者枠が設けられました。しかし、その被災者枠の中には障害者枠はなかったのです。震災が起きる前までは、障害が比較的軽い人たちの中には働いていた人たちもたくさんいました。障害が軽いために障害者年金の額は少なく、それだけでは暮らして行けないから働きたい、そういう方達が、震災以降、再就職できないでいることはあまり知られていません。

As businesses in the town gradually reopens, people in the area started to find jobs. Mr.Suzuki also found a job although it is totally different type of job from what he used to have before the tsunami. I wondered about job hunting for people with disability and asked. “When people in this area started to look for jobs, companies around this area decided to have some openings specified for victims of the disaster. However, there was no openings specified for disabled victims. If there are two candidates with and without disability, companies would naturally hire the people without disabilities” she said. Before the 311, a lot of people with relatively light disability had jobs. “Because their disability is light, they do not receive much disability pension and they need to work.” This issue of people with disability is also outcasted under the massive troubles caused by the natural disaster.

「40代でMSを発症しだけど、私は自分を障害者だとは思っていなかった。障害は個性だ、誰だって病気になることもある、くらいに思っていたんです。」しかし、震災直後、救いの手が障害者たちに届いたのは、多くの場合、健常者たちが逃げた後だった。救いの手が届くのが遅すぎて命を落とした障害者たちもいる。震災後も、障害があるせいで就職も後回しにされている。「震災後の経験で、私たちは普通じゃないんだ、障害者なんだ、って認識させられました。」鈴木さんとお話していた中で一番考えさせられた言葉でした。

“When I found out that I have MS in my 40s, I actually did not feel that I was disabled. I was thinking what I had was just my originality but not disease.” However, right after the 311, she experienced and witnessed that people with disability were left behind until everybody else was saved. A lot of people with disability lost their lives because nobody came to save them although they could have been saved if the government was more organized for disabled people. Even after two years. a lot of her friends are still having hard time finding jobs because problems they encountered have never been even noticed by public. “All the experiences I had during and after the tsunami made me realized l am a disabled person.” This words from Mrs.Suzuki made me think deeper about the natural disaster.

もちろん、鈴木さんが、障害は個性だ、と言えるようになるまでには、色々な葛藤がありました。鈴木さんは美容師をしていました。結婚してからも美容師になる夢を捨てきれず、家庭を持ちながら美容学校に通い、やっと掴んだ美容師の仕事でした。MSを発症し、ハサミを握れなくなり、絶望しました。自殺も考えました。鬱病にもなりかけました。それでも立ち直り、鈴木さんは自分が病気になったことに意味を感じるようになり、発症から7年を過ごしました。そして、震災が起こりました。生まれ育った場所が壊滅し、幼い頃からの友人たちを失い、自宅や持ち物も失いました。それでも死ななかった、自分は生かされているんだ、この経験を発信しなければと思った、といいます。

In fact, it was not easy for Mrs.Suzuki to became able to say her MS is her originality. She was a hair stylist. She could not give up on her dream to be a hair stylisteven after she got married and had kids. She went to a school to be a hair stylist while taking care of her family and finally gained her dream job. One day, she could not hold her scissors. She found out about her disease and became completely depressed. She even tried to commit suicide. However, she still recovered from the depression and started to think that there must be a reason why she became sick. For the seven years after the emergence of MS, she strived to stay positive and psychologically overcome the sickness. Then, the earthquake happened. She lost her home, friends from childhood and the home town. “I still survived. I did not die. I am alive. I must send my story off to as many people as I can.”

今では病気や震災のおかげで物事を違う角度から見つめられるようになったので、これでよかったのかな、そう思うしかないよね、と。そんな鈴木さんでも夕暮れから夜の間はやはり心細くなると言います。

“Now I am able to see things differently because of my sickness and the earthquake. I think my life has been supposed to be this way. Well, I have to at least let myself accept this fact like this… “Even Mrs.Suzuki, who overcome several hardships in her life, feels lonely when the sun goes down thinking about her future, past, people who lost their lives and her fellow patients.

毎週水曜日には、仮設住宅にやってくる移動販売の花屋さんで500円分のお花を買って生けるそうです。2月に私か訪れたときは、菜の花と桃の花がとてもきれいでした。指の体操のために作ったという可愛らしい折り紙の爪楊枝入れをいただきました。お話を聞かせていただく前は、目が澄んでいて笑顔がすてきな女性だな、と思っていたのですが、お話をしてくださっている鈴木さんを見ていると、その明るさの中に力強さが見え隠れして、鈴木さんの使命のようなものを私も感じました。

Every Wednesday is her favorite day. A moving florist comes to her temporary housing complex. She goes out with a 500 yen coin in her hand and picks her favorite flowers. When I visited her, I saw rape blossoms and peach blossoms nicely arranged in a vase. When I was about to leave. she gave me some beautiful origami tooth-pick cases which she made as part of finger exercise. When I first saw her, I thought she is a nice lady with the lovely smile and clear eyes. When we finished talking, I saw a strong-minded will forher mission, which she assigned herself, in those beautiful clear eyes.

Ayano Hisa Photographer http://www.ayanohisaphoto.com/ より転載

病に甘えず、生きていきたい 小原美里

液状化による被害の大きかった私のふるさと
地面から突出したマンホールは、あの日を忘れないためにか、そのままになっている

崩れ落ちた川岸の上手にある病院前のバス停は、まだ工事中
再舗装された道路を走ると、ジェットコースターに乗っているように身体がバウンドする
すべての関節が緩い私は、バウンドするたびに首と腰の脱臼を起こすのではないかと心配

エーラス・ダンロス症候群は、コラーゲン組成に異常がある病気
細胞と細胞をつなぐ役目をしているコラーゲンの働きが悪いから、関節だけでなくて血管心臓器も、
すべて脆い
身体の支持組織すべてが弱いのだ
でも、普通に歩けるから、長く立つと足の甲に点状皮下出血するような病人には見えない
消化機能が弱くて、食べ過ぎて嘔吐すると吐血するような病人にも見えないだろう

あの日は、避難所でビスケット配布の仕事しかできなかった私
皆は、自衛隊と一緒に給水作業をしたり、トイレが使えない家に便袋配布にまわった
男女問わず、土嚢作業さえ加わった
私は、避難所への情報提供と、帰ってきた同僚に「お疲れさま」と頭を下げるだけ
「身体が壊れても、皆と一緒に汗を流したい」と、子どもじみた願望さえ抱いた私
公僕として、市民の役に立つことが見つけられなかった
大変なときに、病気を理由に安穏としているようで、病を抱えて生き続けるのがつらかった
「生きとし生きるものが幸せでありますように」という祈ることで支えられた
でも、私はまだ動けるのだから、祈るだけで責任を果たしたと思ってはだめだ
自分ができることを探し続けるのは、病に向かう姿勢と同じ

せめて専門性が活かせるようにと、震災後の心のケア研修に欠かさず参加し始めた
支援なくしては生きていけない被災ペットの寄付を始めた
被災ペットは、そこにいるだけで支援の手を差し伸べたくなる、いたいけな存在
人の役に立てなくても、生きている存在そのものに価値があると頭ではわかっていながら、祈ること
以外に、自分にできることが見つかって、安堵した

地面の支持組織が弱いために起こる液状化は、埋め立ての街では再び起こりうる
でも、液状化に対する最善の対策を市全体で考えている
液状化対策を練ること自体が、市の復興への大きな柱であり、市民の希望である

支持組織が弱く、対応法が未確立の点て、液状化現象と私の病気は似ている
単なる風邪なのに「診たことない病気だから」と診療を断られることがある

私自身を拒否された疎外感から、生きる気力が萎えてしまう
でも、親身になって診てくださる医者や研究をしてくださる医者もいる
年を重ねた私は、自分の病歴をまとめて、幼い子の参考にしてもらおう
治療法がなくても、研究してくださる医療者の存在が、難病者の希望となっている

どんなときでも、希望があれば、生きる力になる
誰かのために生きようとすると、生きる力が涌く
病に甘えず、生きていきたい

【ペンネーム】
小原美里(おはらみさと)
【年齢】
49歳
【病名】
エーラス・ダンロス症候群
【所属】
あせび会
【被災時の居住地】
千葉県浦安市
【被災場所】
千葉県浦安市

2013年3月23日 飯舘村。
放射能の影響で住人がいなくなった地区にも春はやってきます(「福島」を肌で感じるツアー)

あの日あの詩 西野孝敏(患者・盛岡市)

岩手県難病・疾病団体連絡協議会『TSK通巻753号』筋ジストロフィー協会会員寄稿p45〜46より転載

あの日、ひとりでテレビを見ていたのですが、突然地震の予報が画面にうつりだされました。とりあえず頭上に物が落ちてこないところで、すぐ外に出られるようにと、普段出入りしている窓の近くへ移動したところでゆれが始まりました。いつもならすぐに収まるのですが、この時は、だんだんゆれがひどくなり、テーブルの上のものが飛び始めました。短時間の事なのですがとても長い時間のように思われました。我が家の被害は、食卓から落ちて割れた食器が数個程度でしたが、その後発生した停電と断水、それにガソリン不足といった二次被害といったものが大きいものでした。ちなみに私は、反射式石油ストーブはあったものの、寒さのために風邪をひいてしまい、通院もできず妻に薬を取ってきてもらう始末でした。二・三日して震災の様子がテレビを通して見られるようになり、災害の凄まじさに愕然としたものです。難病連の根田さんからは安否確認の連絡があり、誠にありがとうございました。その際、わが筋ジス協会の内舘君と連絡が取れないと心配されていたのですが、その後の情報でご家族全員が亡くなったとのこと、とても残念でなりません。ご冥福をお祈りします。私が一番困ったことは、停電とガソリン不足だったのですが、私達筋ジス協会員にとっても、人工呼吸器等、直接生命に関わる深刻な問題があります。早速自家発電装置を購入した会員もおりますが、電力等エネルギーについては、脱原発を含めて国家規模の問題として考えなければならないと思います。次に避難についてですが、我が家の被害はごく軽微なものだったのですが、これが家屋の倒壊や火災だったとしたら、かない深刻な情況だったと思います。私達車椅子生活者や難病患者は、自力での避難は不可能です。数年前から市でも、民生委員の方々を通して対策が考えられ始めていますが、今回の災害で難病患者、民生委員、介護職員等の被災が多かったと聞くにつけ、早急な対策を求めたいと思います。最後に、児童生徒の様子ですが、テレビで放映された他県の学校の痛ましい状況に接するにつけ、本県の児童生徒の犠牲者が少なかったこと、特にも釜石東中の避難の様子に感心させられるとともに、防災教育の成果、本県の教育水準の高さに、元教育職員として何らかの希望をもつことができたような気がします。

2013年3月23日
家主がいない家が並ぶ飯舘村/販売再開を伝える自動販売機(「福島」を肌で感じるツアー)

あの日の思い 畠山久恵(患者・一関千厩)

岩手県難病・疾病団体連絡協議会『TSK通巻753号』筋ジストロフィー協会会員寄稿p46〜47より転載

あの日はいつもと同じ生活の始まり、午前中は晴れていた。洗濯をしていると、時々玄関の方や床の間の方から「ピン」とか「ピシ、ピシ」と、すごく乾いた初めて耳にする音がして、「何か変だなあー」と思いながら過ごしていました。午後になり、夕食の支度と思いネギを切っていた。「あっ、地震だ。チョット大きいぞ」とテーブルの上にまな板を置き、ファンヒーターのストーブを止めた。裏口のドアを開け、柱に掴まった。5分、10分、15分いつまでも揺れは止まらなかった。電気は停電、水道の水も止まってしまった。電話も使えなくなり、全てのライフラインが止まり、津波で気仙沼の街が大火事になっていた事も知ることはできませんでした。姉と姪が病院の帰りに立ち寄り無事を確認できた。姉たちは車を運転中に地震に遭ったとのことでした。夕方から雪が降り出し、寒い夜が始まりました。夜も強い地震や弱い地震が繰り返し、寝ていた家族は飛び起き、顔を見合わせ「早く、明るくなってください」と願っていました。わが家の被害の様子は、家財道具がバラバラ、ガチャガチャ、本はグチャグチャの程度でしたが、停電と断水のため食事の心配がありました。実家が直ぐ近くのため、ご飯や飲料水を貰い暮らすことができました。プロパンガスが使えたので、お味噌汁やカレーライス、お茶など温かい食事を採ることができました。また、姪が「でんがく」などのおかずを作って届けてもらうなどお世話になることができました。この震災でたくさんの人に支えられ、本当に大切な物は何なのか考えさせられることばかりでした。全てが大切なものであり、家族、両親、親戚すべての人に支えられ、毎日が過ごせる幸せを感じています。こんなにありがたいことは無いと思いました。あの恐ろしい地震から早々9ヵ月。時折放送されるテレビの映像に涙が流れ本当に心が痛みます。「がんばろう東北」。今ある生命を大切に生きる、これが私の目標です。皆様お体ご自愛くださいますように。

2013年3月23日 あちこちに瓦礫袋が積まれている(「福島」を肌で感じるツアー)

ごく普通の春に突然 金子清子(患者・陸前高田市)

岩手県難病・疾病団体連絡協議会『TSK通巻753号』筋ジストロフィー協会会員寄稿p47〜48より転載

ごく普通の春を感じさせる日、突然東日本大震災に遭遇しました。私が通う障がい者支援施設で一日の作業が終わり終礼の時でした。揺れがどんどん、どんどんと強く大きくなって止まらなかった。職員の方の支えで、3人でテーブルの下に入りました。揺れが弱くなったので、身を動かせないもどかしさを感じながら車いすで外へ出ると、「津波が来るぞー」の大きな声。高台への避難のために、施設の職員に背負われて高台へ登り助けられました。目の前に灰色に渦巻く大きな波が押し寄せて来ました。「怖かったー」。もしも、あの時自宅にいたなら、また町に用事で行っていたならと考えると身が震えます。自宅も流されてしまい、施設の職員や仲間達と避難所を転々と3か所も移動した。3日目に家族と会うことができ、互いに無事を喜び合いました。高田の街や住宅が全て津波で流されて無くなっている風景が信じられませんでした。自宅で留守をしていた母は、自宅裏にあった林の急な斜面を登り助かりました。主人は仕事で出かけていた仙台空港で津波に襲われ、バスで逃げて無事でした。私は高台へ、母も夫もあの巨大な津波から奇跡的に逃れることができました。その後、実家で避難生活をしましたが、追い打ちをかけるように雪の降る寒さのなか、電気も無く暗い、昔ながらの暮らしでした。でも、湯たんぽや食事を分け合い、助け合いの生活を実感することができ、何とかなるものだの精神を覚えました。身体の不自由な私たちにとって、緊急時にどのような心構えで生活しなければならないのか考えさせられることばかりでした。様々なことを日々考えております。「運を天に任せる」とは言っても助かりたいです。そう思いつつ津波で亡くなっていった仲良しのおばちゃん、おじちゃん、たくさんの知人の心を思いますと一日一日が大事なことと感じております。「辛いのも、生きている証」と考え、小さな幸せを日々探そうと思います。自衛隊の方々や今も続いているボランティアの方々、全国からのご支援のお陰で仮設住宅の生活することができています。また、患者会や難病連の方々から温かいご支援を頂きありがとうございました。

2013年3月23日 南相馬市小高区。
そこで生活していた人がいたことを思い出させる(「福島」を肌で感じるツアー)

無題 深谷敬子

福島第一原発から避難している原発難民です。あれからもう少しで2年近くになります。

震災の年は生きるのに精いっぱいでした。着のみ着のままで逃げるのに大変な思いでした。 食べる物、着る物、住む所など何もかも初めての経験で必死に生きたような気がします。

今は借り上げアパートに住み、食べる物も食べたいだけ食べられ、着る物も贅沢を言わなければ間に合うし、最低の物は揃ったし。生きるのには何とか事足りていますが、震災前の生活とあまりにもかけ離れていますので少しでも前の生活に近づけるのが課題かも知れません。

去年あたりの心境はとにかく切羽詰まって、毎日慣れない土地で淋しく孤独感におそわれ何をしても力が入らず不安でいっぱいでした。先が見えず長いトンネルに入ったようで苦しい毎日が続きました。1年8ヵ月がすぎ近所の人の顔も見えてきて、習い事をする心境になりましたが何をしても満たされない。心のどこかに穴があき、いつも体の中をすきま風が吹いている感じで、前と違った不安が重くのしかかるのはなぜでしょうか。50代60代の知っている人が自殺し事の重大さを伝えているのかも知れません。賠償の問題も進まず何もかもが先が見えず「私の死に場所はどこになるんだろう」と心配するお年寄りも少なくありません。持病をかかえて避難している私達にとっていちばん支援してもらいたいのは、孤立しないように、孤独にならないように、電話なりハガキなどで一声かけてもらえれば一人じゃないんだと思えるようになれるかも知れません。

11月25日一時帰宅して来ました。

春に行ったままでしたので久々の帰宅でした。間口から草がのび放題で草を苅らなければ入れない状態。家の中は動物の糞だらけ。ドロボーが入りグチャグチャ。雨が漏り、黒カビだらけ。何も持ち出す事は出来ません。きっと家の中も放射能だらけでしょう。

40年かけて築いたものが全てなくなりました。私の人生なんだったのか解らなくなりました。

【名前】
深谷敬子(ふかや けいこ)
【年齢】
68歳
【病名】
関節リウマチ
【被災場所】
福島県双葉郡富岡町

2013年3月23日 南相馬市と浪江町との境目。
ここから先には進めません。(「福島」を肌で感じるツアー)

地震に遭って 夏井延雄

震災後一年半も過ぎ、今一番大事なことは、近所の方々、役所の方々、ボランティアの方々などに、自分は見守られていたことに気づかされました。いざ緊急災害時に欠かせない常日頃の対応は、近くに住んでいる方々や町内の方々に分かっていてもらえるようにするためには、自分や家族が他人に対して、できることへの協力や、お手伝いとか何らかの自分たちの意思を伝えていくことが必要で、自分たちの行ないが認知につながっていくことだと思っています。震災後、ライフライン(電気・ガス・水道・トイレ・その他)は、全国から復旧に、それぞれの関連の仕事に、多勢の方々が来仙してくださって助けられました。そして、その方々のお話を伺うと、遠くからいらっしゃっているので、その度ごとに驚き感謝の気持ちでいっぱいになり涙があふれることがありました。

仙台市内でも、私たちの方面は断水せず、飲料水とトイレの水の心配はありませんでした。使用しませんでしたが、家の外に1.5の水を入れたペットボトルを30本以上、家の中には10飲料水ポリタンクを2つ用意し、2〜3ヶ月ごとに水を交換して備えていました。他に、携帯用の小使用ポット、大便用の袋(約4回は使え、水分は固化されて、家庭ゴミとして出せるもの)、防臭剤などでした。常々備蓄は少しずつ買い揃えていました。家族の意見をまとめておけば良かったのでしたが、賞味期限に関して、取り替える時は事前に購入しておくべきでしたが、うっかり食べてしまい、残りが少なくなっていました。

地震発生当日、家の壁土などの片付けの後、買い物に行こうと気づいた時には、お店に食料は、ほとんど残っていませんでした。家族3人で、水だけで柔らかくして食べられる餅や、冷蔵庫に残っていたものを少しずつ食べていました。私は、歩くことがままならず、避難所に行けない身体だったので、10日間くらいは、家族が食料を探し歩く毎日でした。

5日くらい経って、ボランティアの方々が家の片付けを手伝ってくださると声をかけられ、とても嬉しかったのですが、家族で、おおよそ部分的な片付けは終わっていました。地震後、傾きが大きく、全壊の判定を受け、3ヶ月かかって補修が行われ、内装と外装も順次仕上がり、住めるようになり、現在に至っております。この辺は地盤が弱く近所だけで、5軒全壊で解体して更地になり3軒は新築されました。

ようやく落ち着いてきた頃、10年来の腰の痛みを薬で抑えていましたが、地震後の片付けなどで力を出しすぎ、痛みが増していきました。11月には、我慢ができない痛みで12月に整形外科に即入院。初めての病院生活。診断は(腰部脊柱管狭窄症と脊椎変形側弯症)で、今年1月、7時間あまりの大手術でした。手術の結果は、痛みは消えましたが、本来続いていた麻痺が以前より強く感じられ、歩行困難のため杖2本でやっと移動できる状態です。もう治せないのかどうか、気がかりです。体力作りは、人それぞれであり、動けない自分は筋肉のトレーニング(押し、伸ばし、たたき、摩り)などの動かして鍛えるリハビリの方法を実践しています。

この度の地震で、見逃していた、気づかされたことがありました。

備蓄食料、単3電池、卓上用の電気コンロ、ガスコンロ、小銭、厚みのあるビニール袋(肥料・土などの袋)、ヘッドライト、小さな塵取り、ほうき、釘抜きなどは重宝しました。

今後の地震に対しても、心と物の両面の準備を進めていきたいと思っています。

【名前】
夏井延雄(なついのぶを)
【年齢】
72歳
【病名】
弛緩吐麻琳(脊髄性小児麻庫)による左下肢機能障害
【所属】
仙台ポリオの会
【被災時の居住地】
仙台市若林区
【被災場所】
仙台市若林区

良い夫婦の日に思うこと 土屋雅子

今日は語呂合わせで、良い夫婦の日です。

私は今、夫の介護を受けて自宅療養中なので、殆どの方が「ご主人良く介護されますね。」と声を掛けて下さいます。仕事。介護。家庭の内外の事。地域の役割。本当に夫は良くやってくれています。ゴミ出し。買い物。食事の支度。掃除。洗濯。通院の運転手。何でもこなします。本当に夫には感謝しています。

もし立場が逆だったら、精神的、体力的、経済的にとても大変で、私は家庭で介護を続ける事は出来ないと思います。でも現実には、夫が倒れて妻が介護している夫婦の方が多いと思います。でも残念ながら妻が夫を献身的に介護していても、当たり前みたいな考え方の人が多いのが残念です。

「奥様良く旦那さんの介護をしますね。」等と奥様に労いの言葉を掛けるどころか、経済的な理由で働いている妻に「病気の旦那さんをほったらかして、外に出ている。」などと陰口を叩く人さえいます。お互いがどちらでも倒れた時に助け合っていけるのが良い夫婦だと思います。

今、私は倒れたのが夫では無くて自分で良かったと思っています。

身体の不自由な思いや苦しみ疼痛を味わうのは私だけで良い。夫には元気で長生きして欲しいと願っているからなのです。

希望の五ッ葉のクローバーはわが家に芽生えたクローバーです。まだ知らぬ難病の友に届けたいと思います。

【名前】
土屋雅子(つちやまさこ)
【年齢】
59歳
【病名】
線維筋痛症
【所属】
線維筋痛症友の会
【被災時の居住地】
静岡県富士市
【被災場所】
3/11 静岡県富士市、3/15 入院先の富士宮市の病院

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