支援者による手記
「〜大震災〜福祉施設の利用者はどこに避難したのか?」
鴨川青年の家 派遣応援体験手記 後藤五十六
鴨川青年の家
千葉県の南端、鴨川の海に面したところに「鴨川青年の家」という公共施設がある。この施設が2011年4月7日から東日本大震災被災者の「避難所」となっている。
ここに避難しているのは原発事故があった福島第一原発の15キロ圏内にある知的障害者施設5施設の200〜300名。利用者数に比べ職員の絶対数が足りず、福島県の知的障害施設関係の協会から千葉県の各障害者施設に職員の応援派遣要請があった。私は、千葉県内の知的障害者施設の職員として1週間ここに派遣された。
事故後、福島県双葉郡富岡町周辺は避難区域に指定され、住民全員が避難した。当然、この地域に施設入所していた知的障害者も避難を余儀なくされた。しかし、「どこに避難すればよいのか?」施設職員はその時途方に暮れたようだ。奇声、失禁、徘徊など行動障害のある利用者と一般の被災者が同じ空間で過ごすには無理がある。かといって他に行くところはない。震災直後は避難先も定まらず、福島県内の系列の施設や避難所を数回移転したという。
この間、施設職員は施設を「移転か?解体か?」という選択に迫られた。施設利用者の保護者引き取りも検討したが、保護者自身も被災し避難所生活をしている人が多かったため断念。施設利用者が分離することなく全員で避難できる場所を探し続け、震災から約1ヵ月経った4月7日、ようやく「鴨川青年の家」に一時的に避難することとなった。
2011年12月9日現在、いまだ帰れる見込みが立たず、鴨川で避難生活を続けている。
被災時の状況(職員に聞く。)
地震直後は、施設で過ごす。翌日から避難先から避難先を点々とする。
震災から1週間はかなり混乱していたようだ。
3月11日 被災
- 原発10キロ圏内 施設内で一夜を明かす
- 停電によりかなりの寒さ
- テレビつかず情報が入らない
- 館内放送がかからない
- 水が出ない→排泄物の処理ができない→悪臭
- 各居室から大部屋に全員避難し一夜を明かす
3月12日
- 街の無線で避難勧告
- 避難後、(避難命令出ているが)利用者のくすりや書類など、最低限必要なものを看護師が防護服を着て施設まで取りに帰った
- 夜、原発から25キロ離れた系列の施設へ避難
- 食糧がない→1日で1人おにぎり2個
3月13日
- しかし避難した場所も25キロ圏(ここも避難勧告がきて移動を余儀なくされる)
- 移動するにも、受け入れ先が無い
- ガソリンがない
- 道路が陥没していて通れない
- 主要道路が全て渋滞という状況→「一般の避難所では(知的障害者が)一般被災者に迷惑をかけるのでは?」という意見があった。しかし、ガソリンの補給ができず、(利用者を乗せての)車での移動は断念。やむなくこの一晩、一般の避難所に大勢の知的障害者が避難した。そこが大変だった。→知的障害者と一般避難者の共同生活。
- 体育館、極寒。1日2食1人おにぎり2個。
- 一般被災者からクレームがあった。
- 人の毛布はがす。食べものを取られた。
- アーアーウーウーという利用者の声→「眠れない」
- 「帰りたい」とパニックになる利用者。
- 利用者が失禁しても水道出ない。流せない。
- 施設職員は一般被災者と利用者との同じ空間での共同生活は無理と判断。
- あてはないが、翌日この避難所を出た。
3月14日
- 利用者、職員全員放射能検査を実施→靴の裏が特に高数値たった。
- 原発から50キロ離れた、法人系列の施設へ避難できることになった。
3月14日〜4月6日までここで過ごす。
(この間に移転先を模索。) - ここでの食事は毎日おにぎりとパンのみ(賞味期限切れ)だった。
- 普通は避難所しか救援物資が来ない。しかし、市の計らいでこの施設にも救援物資をまわしてくれた。
- 3月末までは職員、不眠不休が続いた。
3月下旬
- 移転先を検討。利用者、施設の分離案も出た。
- 鴨川が候補にあがる。
- 幹部職員が鴨川を視察。
4月7日
- 千葉県鴨川青年の家に避難
- 200〜300人が分離することなく移転できた。
- 千葉県への移転に伴い、移転を希望しない利用者9名が退所(保護者が引き取った)。
- 移転を希望しない職員(全体の25%)が退職
問題
- 保護者自身も避難所生活や他人の家を間借りして生活している(とても利用者を引き取れるような状況になかった)。
- 福島に帰りたいという気持ちはあるが、福島県内は、賃貸住宅全く空きが無い→福島に仮に戻っても職員の住むところがない。
その他の課題
通院・投薬
- 利用者が風邪、発熱時の対応、スペースがなく非常に困ったようだ。→患者を隔離する場所がない。
衣類・生活用品
- 利用者の洋服は全て救援物資。仕分ける場所もないため、名前を書かず、着まわしている。
- 洗濯物が大量。干す場所が足りず、コインランドリーに。
- 記名はしない→仕分けするスペース、手間がないため。
【積み上げられた援助物資】
出典:㈶消防科学総合センター http://www.isad.or.jp/
救援物資
- 救援物資は1つの箱にいろんなものを入れるのではなく、1つの箱に同じものを100個の方がありがたい(例:シャンプー100個、歯磨き100個など)。→仕分け作業がスムーズになる。
- 日用品がありかたいようだ(洗剤、ティッシュ、タオル、シャンプー、洋服、ぞうきん、衣類、使い捨て手袋など)。→時間を持て余すため、トランプ、ゲーム、音楽などの余暇物品も救援物資になると感じた。
鴨川青年の家という施設
- しかし、全国的に見てもこれだけの人数の知的障害者を受け入れられる施設を探すのが困難である。
- この施設はあくまでも公共施設である。「強化ガラス」などハード面、整っていない。私のいる間にも、利用者の「壁、ガラスの破損。無断外出等」があった。
- 利用者が頭突きし、窓ガラスが2箇所割れる。
- 滞在期間が長くなるほど、施設内の破損箇所も増えているように思われた。
被災者としての心境(職員に聞く。)
- 放射能を浴びたおそれがあるとして、病院も立ち入り拒否された。
- 原発の避難区域のため、自宅に帰ることができない。警察がいて区域内に入れない。
- 親、兄弟、友人みな失業している。福島での生活望んでいるが、福島では仕事がない。
- いつまでここにいるのか分からない。また、ここを移動になるかもしれない。
- だから、生活用品など高価なものは購入できない。
- 被災の日から家の中そのまま。食べ物もおそらく腐っているのではないか?
- 牛、豚、鶏業者は動物を逃がした人も多かった。
- 避難所はプライバシーないが、物資が届いた。一方、仮設住宅はプライバシーあるが、物資が届かない。どちらを選ぶべきか?
最後に
「もし、大地震が来たら?」
施設職員の方に問いたい。あなたならどういう行動をとったであろうか?電気、ガス、水道、電話全て止まる中、私たち施設職員はどうやって利用者を守ればよいのか?施設から避難と言われても、利用者をどこに連れていけばよいのか?ガソリン不足。食糧不足。次から次へと起こる難題。テレビや電話、情報も遮断された中、職員は瞬時にどのような判断ができるであろうか?うそのような話が現実に起きたのである。私ならうろたえて何もできなかったかもしれない。原発の問題は終わりがない。想像以上に深刻であった。
私か滞在している間、「帰りたい」と大声で泣く利用者がいた。「帰れない」となだめる職員。彼らはいつになったら帰れるのか、いまだ再建の目処が立だない。いまだに被災が続いているのである。長期に渡る避難所生活。利用者は時間を持て余していた。こういう時こそ、利用者を楽しませる力、すなわち「余暇力」が大事と感じた。音楽やゲーム、レクなど。こういう形の支援も被災者支援になる。
今後も自分にできることで継続的な支援をし、この経験を今後の防災対策に役立てていきたい。
<追記>
鴨川青年の家に避難していた福島の知的障害者達は、2012年1月にようやく故郷の福島に帰られました。しかし、施設は避難区域にあるためは、いまだ施設には戻れず、まだ福島県内の公共施設に移られたそうです。
- 【ペンネーム】
- 後藤五十六(ごとういそろく)
- 【年齢】
- 38歳
- 【備考】
- 千葉県内の知的障害者施設職員
私が伝えていかなければいけないこと 今野まゆみ
患者と家族の優先順位
私は、在宅緩和ケアチームの一員として、ケアマネジャーの職に就いている。
3月11日、患者さん宅訪問中に起きた。何?いつまで続く?この家つぶれる?私はここで終わり?と、嫌な言葉しか出てこない。長い揺れがやっとおさまった。事務所に戻りながら、「患者さんは?」「人工呼吸器や在宅酸素はどうなっているだろうか」と考えていると、A看護師より「Bさん無事」のメールが流れてきた。Bさん宅は海のすぐ側。大津波の速報がラジオから流れ、「遠くに逃げてください」とアナウンサーがしきりに呼びかけている。まずいと思った。これはいつもとは違う、くると感じた。Aさんに電話をするも繋がらない。「逃げて」とメールをするが返信がない。どうすることもできない。イライラしながら、他の患者さんの安否確認を行った。「自分と家族の安全を確保してください」と、理事長よりメールが流れた。家族のもとに帰れると思った。それまでは、家族より患者さんと思い安否確認をしていた。理事長のメールで、楽になった。表現はおかしいかもしれないが、家族のことを考えて良いんだと初めて思えた。
A看護師との対面
情報はラジオだけ。死者の人数を聞き、何かどうなっているの?と、想像すらつかない。三日目に勤務先に行くと、業者さんから情報を得られた。位置的にご自宅は流されているだろうとのことだった。その後、A看護師からも何の連絡もない。5日目に娘さんより、三人無事らしい。両親とA看護師であるうとスタッフに歓声があがった。C事務員に確認に行ってもらった。Cさんより連絡が入った。「Bさんご夫婦はお元気でした。A看護師は、水の中に沈んだと言われた。悔しいです。」と。あの喜びは何だったのか。Cさんには、辛い思いをさせてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ガソリンがあれば飛んでいき、両手でC事務員の肩を包み一緒に泣きたかった。でも、救出されている可能性もある。17日にA看護師の叔父さんと従姉さんが遠方来られた。お二人は、気持ちをどこにぶつけたらいいのか、その思いは強い口調で私たちにもむけられたが、ご親族の思いは当然だと心に刻んだ。お二人は、Bさん夫婦から直接話しが聞きたいと、搬送先の病院を訪問。安置所でA看護師のご遺体と対面することとなった。ご遺体で見つかったと連絡を受けたが、亡くなった現実を受けとめることは辛く悲しいことだった。A看護師は私たちのもとに帰ってきた。とても冷たくなっていた。看護スタッフが泣きながらAさんをきれいにしてくれた。私たち皆、A看護師の死に納得はしていない。
A看護師の最後
Bさん夫婦は、故郷にもどられる決意をされた。このままBさんに会わないでいいのか?Bさん夫婦に会いに行った。
「地震が発生しアスファルトが剥がれている道路を通り、入り口の倒れた木をかき分けて入ってきてくれた。来てすぐに物が落ちてこない位置にベッドを移動し、携帯電話をワンセグテレビにして足元におき、私に覆い被さり守っていてくれた。テレビから“大船渡に津浪がきて、すごい被害のようです。”と聞き、“私の家も駄目だな”と、言っていたのよ。でも、まさか家に津浪がくるなんて私は思っていなかった。きっとAさんも思っていなかったと思うよ。地震から1時間後くらいに主人が帰ってきた。その数分後、庭の方でサーサーと気持ち悪い音がして見ると、水があがってきていたの。主人が私を抱きかかえ、Aさんが二階に逃げるために戸をあけてくれたんだけど、開けたとたん水が天井付近まであがった。主人の後ろにいたAさんも鴨居に手をかけて耐えていたが、手が離れ水の中に消えていったの。その姿を私は見たのよ。私達は水の中をくぐり二階へと避難することができた。Aさんがいたから生きていられる。感謝している。Aさんの最後をちゃんと伝えないといけないと思っていた。最後を見たのは、私だから。」と、話された。
私が伝えていかなければいけないこと
東日本大震災が発生してから9ヶ月が過ぎようとしているが、私の中では何も整理できていない。何故、A看護師が犠牲にならなくてはいけなかったのか?何故、地震が発生してからBさん宅にむかったのか?と、常に問いかけている。返事は返ってこないが、A看護師の行動はすばらしいと認めたくない。私たちの力には限界がある。行かない、逃げる選択をする勇気が必要だと、痛感している。決して命を犠牲にしてはいけないということ。今後、A看護師と同じ犠牲者をださないためにどうしたら良いのかを考えていくことが、私の仕事だと感じている。だが、実際に自分が同じ立場になったとき、行かない、逃げる勇気が持てるかと問うと、多くのスタッフは自分だけ逃げられないと答える。スタッフだけに辛い決断をさせるのは酷だとも感じる。スタッフ一人一人の心構えでとどまるのではなく、法人としてもマニュアル化し法人の考えに従うということが重要だと思う。行かない、逃げる選択をして、患者さんに何かあったとしても個々の責任ではないこと。法人の考えとしその確認は常におこなえるようにすることも重要だ。
5月1日 宮城県亘理町一帯
高速道路脇の畑に流れ着いた多数の車
photo by 伊藤たてお
また、患者さんとご家族にも理解を頂くこと。数日間支援がなくても生活できる準備はもちろんのことだが、今回のように津浪から逃げる方法や他人を犠牲にしない心構えも持っていただくことが、極めて重要になってくる。それをどのように理解していただくかも今後の課題である。
とても冷たく厳しい言葉になるが、A看護師の死は美しい死ではない。人を思いやる人だったから、その入らしいなんて…そんなことは嘘だと思う。叔父さんと従姉さんが、「この死を美談にしないでほしい」と、話されていた言葉が忘れられない。私も同感であり、決して美しい死ではなかったということを伝えていかなければないと、感じている。
今回のことは、私の中で終わることのない、一生背負っていかなければならないことである。
- 【名前】
- 今野まゆみ(こんのまゆみ)
- 【年齢】
- 49歳
- 【被災場所】
- 亘理荒浜