4. アンケートの自由記述から

Kさん

地獄を見たような気がしました。午後2時46分長い大きな地震と共に何もかもが変わった、人の心までも・・・。何週間も帰れずやっと半島に帰れると言われたとき万石橋を渡って30分で着くはずが崖崩れ、瓦礫等で道はなく2時間以上もかかって自宅のあった場所に着いた。何もかもなくなっていた。部落は全滅状態だった。高台にある何軒かの家に皆住んでいた。自宅も鉄骨が曲がり階段は離れ流された車が入口をふさいでいた。下まで水が来ていて家中めちゃくちゃだ。でも「住める」と思った。雨は漏らないように応急処置をしてもらい、曲がった鉄骨は息子が住めるように直した。わたしたちの部落でも20人以上の人が亡くなった。津波が前後から来た。私の介護のためついてきた娘が一言“お父さんがあの世で先祖様を皆集めてK家を守ってくれたんだよね、先祖を大切にしなきゃー”私も見えない何かの力に感謝したい。一雫の水が時には人を救うときもある。魔物になって何万人もの命を奪う。その海は何事もなかったかのように、穏やかな顔をして目の前に広がっている。

Tさん

【津波から逃れて、避難所生活の中、仙台ポリオの会からの連絡を知る】

私は町の役員で避難所(350人ぐらい)を離れることが出来ず、何処にも動けませんでした。五日間ぐらい頭や足があちこちという雑魚寝状態の避難所生活でした。夜トイレに行くにしても、自分の右足が言う事を聞きません。人の手に上がったり、頭をけったりするのではないかと色々考えて、ほとんど靴を脱がないで入り口付近で寝ていました。そのうちに娘たちが来て私の様子を見て「少しおかしいのではないか・・」と、言うようになりました。自分では何とも無いと思っていましたが、話し方とか行動がおかしかったようでした。そこで岩切娘の方に1週間、また岩沼の娘の方に1週間などと行ったり来たりしていました。三日前からですか、やっと自宅のライフラインも復旧し、お風呂のボイラーの修理も終わって、住める状態になりました。

娘から、ポリオの会の孝志さんが訪ねて来たり、パソコンでも捜索(後で、仙台ポリオの会の飯田さんと判明)していると教えられたので連絡を取った次第でした。

【舗装具の出来上がりが遅れた中での松葉杖の追加申請】

この3月に舗装具を申請して、5月に出来上がる予定のものが未だ出来上がっていません。厚生相談所に行き自宅の二階に生活をしていること、このような津波が来たら降りて避難できないので、何とか松葉杖も付けてくれないかとお願いしました。「今回は特別ですよ」ということで、つけてもらうことになり、現在に至っているところです。

【「地震=津波」の恐怖心が離れない】

未だに恐怖感があって、今でも地震イコール津波(地震=津波)という頭があって、ラジオや電灯なども用意して、地震が来ると怖くて、直ぐテレビを付けて「津波が無い」と出ると、安心して又眠れるという状態で、やはり当時は、行動とか話し方等が、少しおかしかったかなとは思います。

何回も言いますが、やはり今でも怖いですね・・・・。

目の前で、子供とお母さんがワンボックスカーの中にいて流されていくのを見て、手を伸ばせば届くようなところを、どうしても助けられず、「助けてー」という言葉が、今でも耳から離れないのです。

【障害者の避難所生活は、過酷なものです】

我々障がい者にとって、避難所生活は酷いですね、五日間居ました。トイレが出来ないし、人は寄せ合って寝ています。前にお話したように、入り口に寝ていますから、一 分ごとに人がトイレに行きます、その出入りで眠れないのです。

それから、御風呂ですね、自衛隊さんが設営してくれていますが、一般の人用には行けません。舗装具を外して入るということは、勇気が要ることだと思います。阿部会長が、河北新報に「これからも又このような災害が来るといわれています」と投稿していますが、障害者の避難所生活には難しいものがあります。

【被災者から見て、援助に慣れてしまった被災者たちへの残念な思い・・・・】

娘と旦那(塩釜消防署に勤務)の仲間たちと七ヶ浜に昼飯の炊き出しのボランティアに行った時のことです。被災者の方々が寄ってきて、今日のメニューは何かと聞かれたので、娘が「焼きそば」と言いました。その時「なんだ!焼きそばか・・・」と言われたという事です。娘は行かなければ良かったと言っていました。

女房の実家が登米ですが、私自身、その駅の道のソフトクリーム売り場でも同じような体験していました。被災当初、水もカップラーメンも無いということから考えると、「なんだ!焼きそばか・・・」とはいえないと思うのです。被災者だという立場に慣れてしまったのでしょうか?私自身、被災者の立場として何か残念な思いをしているところです。

この3月11日以降、生活が一変しましたが、何とか生かされましたので、今後は頑張って、何とかしてきますので、宜しくお願いします。

【地震発生から津波の被災まで】

当時母親と二人で家にいました。妻は仕事で仙台です。地震後、いち早く私は常磐線「浜吉田駅」近くの町指定避難所へ一人で自転車に乗り行きました。地区の役員なので早めに(15:25頃)つきました。避難所で近隣の人たちと話しをしているうち、東の空の色が、上はブルー、下は白色に変化したのを皆が気づきました。「津波」との声で老人子供等を2階へ誘導し、同時に家にいる母親に「津波が来るから早く来い」と携帯で電話(16:05頃)しました。避難所には350人位いました。私も2階へ避難した時、東側より高さ2mぐらいの「黒い水の帯」が押し寄せてくるのを確認しました。2階が最上階でした、1階フロントの大きなガラスが割れて水が入ってきた時は流されると思い頭が真っ白になりました。何か残さなければと思い、携帯のビデオのスイッチを入れパニックになっている人の隙間から撮影しました。後日見たら16:20でした。

余震におびえながら一夜を過ごし、翌日昼前、胸まで水につかりながら避難してきた 母親に会いました。今は妻と片付けながら自宅で生活しています。

Aさん

【地震発生と避難】

3月11日は13:00〜14:00まで啓生園となりのプールで1時間入っていました。自宅への帰り道での地震、電動車椅子での移動中近くには誰も居らず、何とか自宅へと向かいました。

【地震発生のとき宮城野区幸町5丁目のマンションでは】

自宅廊下の壁は崩れ車椅子で部屋に行くのは困難でしたが、近所の人に手伝ってもらい何とか部屋までたどり着きました。

地震の時、私の居た賃貸マンションは、ほぼ全壊状態となり、240世帯は全員避難所へ行きました。

【結局、避難所である小学校では過ごせないと思った】

小学校の避難所は、紐で区切られたぎゅうぎゅう詰めの所で、私の身体や車椅子では身動きが取れないな・・・・ここで過ごすのは、とうてい無理だと思い車に入っていました。夕方に雪が降ってきました。

そこで別な入居先へ行ったのですが、そこではトイレが使えなかった。しかし避難所の小学校の身体障害者用のトイレが一部使えたので、そこを利用しました。その後、移った入居先のトイレも直ぐに回復したので助かったのですが、その避難所の小学校の光景はショックでした。

【4ヶ月でやっと落ち着いたが、体調が悪化】

4ヶ月が経ち、やっと荷物の整理も一段落しました。行政手続も出来なかったのですたが、全壊扱いの為、義援金等が降りるようです。移転先は近くなのですが、このような状態での環境の変化でアレルギーなどが出て通院をしている状況です。

【中途半端な障害者“私の友だち”の人達は、買い物時の長時間の行列はつらい!】

買い物ですが、友だち(障害者ですが杖は使ってはいない)の車で行ったのですが、いつもでしたら、その友だちは、車から降りると直ぐにショッピングカートに掴まって、店内を回るのです。震災後にジャスコが開店という事で行きました。開店までに屋外での長時間の行列となり、従業員の指示による少しずつの移動。車椅子も杖も使っていない中途半端な友人のような障害者にとっては大変でした。

その人は泉区に住んでいるのですが、買い物ボランティアみたいな人や制度があると助かるな、と言っていました。

【地域のコミュニティーセンター等を事前に障害者や老人の避難所などに指定できないか】

トイレなども、この近くの中島病院なども行ってみたが、閉鎖されていたし、結局、避難所となっている小学校の障害者用仮設トイレに行ったのですが、寒かったし、コミュニティーセンター等を事前に障害者や老人の避難所などに指定できないか・・・そういう制度があっても良いのではないかと考えました。(この時「中島病院の隣のこの障害者センターが福祉避難所になっていたのですが」という発言がありました。情報発信の難しさがわかるやりとりでした)結局、我々のような障害者は、外に出ると災害弱者だということを、痛感させられました。

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