5. その他の自由記述から

図書館に本を返そうと一歩中に入ったときに地震になり、近くにいた学生さんのような女の子と近くの机の下に潜りました。松葉杖が遠くに行かないよう女の子がしっかり押さえていてくれました。図書館の職員は皆冷静でした。駐車場の車の中でラジオを聞いていると自宅付近に津波警報が出ていることが分かり、一晩車で過ごす覚悟をしました。ラッキーだったのは近くの区役所に車椅子用トイレがあり水も出て夜電気が点いていたことです。区役所の2階は横になれるような場所があるようでしたが、エレベーターが使えないと言うことで、行ってみませんでした。夜遅く図書館のある建物に案内され、建物の中で一晩過ごしました。部屋の奥に入ると出るのが大変なので、入口付近にいましたが、寒くて困りましたが車の中よりはましでした。自宅付近はそれ程被害はないようだと分かったのは、次の日の午後ラジオ、給水情報等で知りました。自宅は海岸から4から5㎞のところですが、東部道路が防波堤となり家も飼っているネコも無事でした。その後、色々不安なことが増えまして、携帯の充電用バッテリーをカバンの中に入れています。区役所で充電コーナーが作られましたが、自宅から充電器を持ってきた人しか使えず、持っていない私はがっかりしたためです。

同じアパートの人と6丁の目の集会所に避難したが、正式な避難所ではないので東鶴ヶ谷小学校に行った。しかし、そこは損傷が激しかったので、鶴ヶ谷中学校に避難した。1回目はなんとか寝ることができた。その後実家で20日ぐらい過ごした。4月7日は夜中で、部屋の被害は前より大きかった。避難所のトイレは一応車椅子用だった。しかし、仮設で外にあったので、靴の着脱が大変だった。雨の日などはなおさらだった。区役所職員が福祉避難所のことを話していたので確かめたところ、まだ決まっていないと言うことでがっかりした。

  1. 障害者等の社会的弱者は自分で自分のことを守らなければならない。
  2. 障害者等の社会的弱者は、総ての救済は最後になることを確認した。
  3. いわゆる有識者の方々の無責任と勝手な発言にはあきれ果てた。
  4. 現在の被災地の状況と被害者の状況の真実をマスコミで流して欲しい。きれい事だけでなく真実を認識すべきだ。
  5. 障害者は避難所で生活できないどころかシカトされてトイレにも行けないのが現実。かつ薬物依存者同じに扱われている。
  6. 政治・行政・公的福祉団体は全く障害者を無視している。
  7. 障害者のコミュニティーを作ろうとしても障害者同士がいがみ合って調整できないのが現実です。

建設的な提案は考えていますが、どういたしましょうか?

震災時自宅に戻れない(エレベーターが停止)事が解っていたので、自家用車で二日間過ごした。幸い当地には障害者をサポートするNPOがあり、そちらで水などを分けてもらった。このような事態では人間力が一番大切なのではとつくづく思った。経済的自立も大切だが、常日頃どれだけ多くの人との関係を築いているのかが、ためされた震災でした。

町内会の役員の方が1週間後でしたが様子を見に来てくれました。

3月11日当時妻とテレビを見ながら雑談しておりました。突然マンションが嵐の中で船に乗っているように大きな音と共に左右・上下に揺れだしました。妻は転びながら出入り口を確保、私はあまりの恐怖に動くことができず、マンションの崩壊・死を一瞬覚悟しました。一時揺れが治まったとき、頭が痛くなり吐き気がして気を失いかけました。妻に避難を促され必死でマンション5階より松葉杖で下ることができました。その夜は妻と車で一夜過ごし側柴田町の妹の家に移動、1週間避難生活をしました。現在も余震が続いています。余震に敏感になり夜は熟睡ができず治療を受け睡眠剤を常用しています。しかし、何時までもこのような生活をしていてはと自分に叱咤しながら日々前向きな生活を目指し、やがては社会に役立てる自分を夢見ながらがんばりたいと思います。

割れた食器の後片付けが心配で食器棚を必死で押さえ、地震が収まるのを待ちました。あの揺れは大きく長く夢のようでした。どこへでも一人で出かけていた私ですが、あの日から外へ出られなくなり体力・気力共に落ちこれから先の自分が大丈夫かなあと・・・。

余震が続いたのでベッドで休んだのは2〜3日後でした。それでも補装具をはずしてしまうと、いざというとき歩けないので1ヶ月間はパジャマを着ることもなく補装具を着けたまま休みましたので真から休めることはありませんでした。主婦ですので食事は、ある物で何とかやりくりしましたが、一番大変なのは入浴でした。周りの人たちは温泉に行ったりしていたようですが補装具を着けている私はそれもできず娘の家に何度か通いました。それでもガソリン不足で思うように行けずガスが通ったときはホッとしました。その後入浴は家人がいるときの日中入るようにしていました。現在家族がいますが、私一人の時このような地震が起こったら、食料買い出しや水の入手はどうするのだろうといつも頭から離れることはありません。

その日は会社内で地震に遭いました。食堂で作業中でした。3月11日の地震より4月7日の地震の方が強かったように思います。ホールでビンの倒れる音のする中、車椅子で外に出ました。そこは駐車場、お客様が外に出ていました。余震が何回も来まして、そのうち停電、マネージャーから帰っても良いよと言われ4時30分頃出発しました。4号線バイパスが渋滞で車のガソリンも少なくなりました。太白区にげたところ長町は暗くて車が混雑してアパートに着いたのは8時頃です。暗くて寒くて大変でした。

石巻市中央一丁目の旧宅が全壊しました。蛇田の新宅は幸いにも被害なし、震災時は偶然新宅にいて被害を免れました。しかし、そこはまだ生活本拠ではなかったため食品はなく大変でした。直後に並んで入手したインスタントラーメン等を太陽光発電で湯を沸かし過ごしました。皆様からの温かいご支援ありがとうございました。

皆様の温かい気持ち義援金をいただきありがとうございました。前回の宮城県沖地震、今回の地震も仕事の関係で宮城県にいなかったので実際に巻き込まれず恐怖感は体験しませんでした。我が町石巻に帰ってくると「どうして、どうして」と言葉になりませんでした。姉の家にお世話になり落ち着きましたが、落ち着けば落ち着くほど今までの生活への想いが強くなり、元の生活に戻れるか思案中の毎日です。

テレビで障害者の避難場所のことを偶然見ていました。福祉協会の渡辺局長が話していたのを見て分かったのです。情報が伝わると良いと思います。

仕事が休みだったその日、障がいの無い方の左足膝の痛みがひどく、午前中に整形外科に通院した後は疲れもあり、自宅二階で休んでいました。目が覚め起きようとした瞬間、とてつもない揺れに身動きができませんでした。本棚とか上に積み上げているものがほとんど落下し、部屋中どうしようもない状況でした。そして、中々おさまらない揺れに、いつもの地震との違いを感じてかなりパニックなっていたことを覚えてます。ようやく揺れがおさまり、いつも使用しているエレベーターが停電のため使えず、痛む膝をかばいながら階段を降りました。やはり物が倒れ、食器棚が開き食器類がかなり破損して、裸足であるくには危険な状態でした。幸いに家族に怪我はなく、少し片付けた後は町内会の役員もしていることから町内の様子を見るため、痛む足をかばいながら自転車で家を飛び出していたのです…

震災の後職場から自宅に帰るのに苦労した。

障害者の避難所があることさえ知らなかったと言う知人の声を多く聞きました。情報は多くの人が知ることが大切だと思いました。

3月11日、私は家にいました。揺れが酷く椅子から立ち上がることができず自分の身体を支えるのに精一杯!!息子が休みで家におりシャワーを浴びていたときでした。パンツ1枚で助けに来てくれたので一安心。一人の時だったらパニック状態だったかも・・・。我が家は幸い瀬戸物が割れ壁に少しヒビが入った程度で済みました。被災された方々は、どれほど怖かったでしょうね・・・。三日後に電気が復旧し、テレビの映像を見たときはびっくり、映像を見るたび、被災者の方々はきちんと食事を取っているのかしら、寒くないのかしら・・・などと考えると食べ物ものどを通らず、涙が出て悲しかったことを思い出されます。子供達が5時間並んでの食品購入、長蛇列でのガソリン購入など大変でしたが暖もとれ、ライフラインが復旧しない不便さは感じましたが幸せを感じたものでした。今まで便利な文化生活に慣れていた毎日、私の子供も含め世の中の多くの人は贅沢になっているので、震災で改めてものの大切さ、不便さ、ありがたみ・・・・など色々痛感したのではないでしょうか。地震以来我が家も節水・節電など色々なところに気をつけるようになり良い教訓になったと思います。これからも復興するには時間がかかると思います。何か私にできることは少しでも協力していきたいと思っております。障害があることは確かに不自由ではありますが心は大丈夫です。無理せず健康に心がけ、笑顔を忘れず楽しく前向きに前向きの悔いのない人生を送っていきたいと思っております。

デパートにいました。揺れが酷く怖かったけれど近くに人がいたので声を掛け合って、割合冷静でいられたと思います。一人だったら・・・と思うと家にいなくて良かった?帰る手段がないので、ホテルはどうかと考えホテルに行きました。余震は続いていましたが、暖かいし飲み物・軽食等も用意していただき安心していられました。夜、家族と連絡が取れ迎えに来てもらいました。助け合うことの大切さ、命の大切さを考えます。毎日を大事に丁寧に過ごしていきたいと思います。

地震の時一人で、食器が落下するのをただ見ているだけでした。家の者は帰れず、近所の家に避難し一晩泊めてもらいました。次の日から、雪の降る中近所のスーパーに並びました。品数が少ないのに大変でした。オール電化で熱源は不自由しませんでした。毎日カップ麺を食べていたような気がします。一週間ぐらい断水し風呂にも入れず足が痛かったことが忘れられません。水は若夫婦が運んでくれたので何とかなりました。学校が4月18日まで休みでしたので、3人の孫の昼食の用意が大変でした。

今まで経験したことのない強く激しく長い揺れの中、瀬戸物がガチャガチャ壊れるのを見ながらテレビを押さえ、戸を開けて出口を確保。揺れが落ち着いてから娘家族の安否確認。その日の夜は電話不通、停電の中余震と寒さで不安と恐怖で眠れぬ夜を過ごしました。食料は2日分ぐらいあるものの、その後は店頭で2〜3時間並んで買い出しをしました。ガスが不通のため卓上コンロ、数日経ってから電磁調理器で何とか暮らしました。今は総てのライフラインが復旧しいつもの日常生活に戻れています。今大変不安なことは福島第1原発事故による放射性物質で汚染されているあらゆるものが不安です。ライフラインが元に戻り、日常生活がこれほど大切だと改めて実感しております。

今回トイレの利用が大変でした。幸い一人で動ける方なので自宅前の畑で済ませていましたが移動が困難な人は大変だったろうなと思っています。各市町村の障害者避難所の明確化が重要だと感じました。

当日私は会社にいました。今まで経験のない激しい揺れが長く続き、女子社員の悲鳴も聞こえていました。机の下に潜っているのが精一杯でした。会社は終業となり家に着くとライフラインは遮断されていました。余震が頻繁に発生するため車の中で一夜を過ごしました。家の中は物が散乱し、風呂場はひび割れ、外壁は破損している状態でした。私の住まいは蔵王山に近い所なので津波の心配はありませんが海岸部の被害の状況を聞くと胸が痛くなりました。今は、ようやく一歩一歩前進していますが、福島原発問題も含めこれからが本当に大変な道程になるのかなあと思っています。家の修理も様子を見ながらやっていくつもりです。今回の災害で色々な人からご心配をいただき大変感謝しています。最後に震災の夜、車の窓から見える星がきれいだったことが印象に残っています。

津波のことで一言、昔から至るところに、ここ迄津波が来たと石碑や言い伝え等があるのに、全く無視してその下に町を作る愚かな行為。歴史学者が指摘をしても行政・業者は聞く耳持たず、時が過ぎればまた繰り返す。悲しいことですがこれが人間なのでしょうか。

薬が無くなったので病院へ行きました。両脚をベッドに縛り付け、足の後ろと腰に電気をかけているときに大地震。身動きできずにいるところを看護師さんに発見され一番最後に外に連れ出された。大急ぎで帰宅。家は少し傾きモルタルの外壁は剥がれ中はめちゃくちゃ。店、居間、台所、二階と通路の植木鉢類が散乱、古い家なので5㎝厚の土壁がもろに崩れる。壁に止めておいた茶箪笥もはずれ食器はめちゃめちゃだった。とにかく一カ所ずつ整理、土壁運び、娘に手伝ってもらい運びおろしの数時間。気づいたときは買い物を忘れていた。すぐに行ったが何処も食べ物は空っぽ、家内は老人ホーム勤務で大変、帰りが遅いので何も買えず。停電なのでファンヒーターは使えず、ガスもないのでお湯も沸かせず。カップ麺等何も食べられず、雪も降っていて冷えて寒かった、備蓄もあったのだが期限切れを気にせず食べてしまい残り少なくなり、少しずつ大事に食べた。昼も夜も土とガラス片付けの毎日。家内はバス不通のため片道40分の徒歩通勤。私は歩けないので避難所は無理、そこで家の掃除をしながら待機。食料探しは娘頼み、飲食店で店頭販売でと、とにかく探し回って買ってきてもらった。娘は町内会のチームに参加して南小泉小学校に避難している人たちへの炊き出しに通った。但し、ボランティアの食料は、原則として、もらえないが障害者がいるので特別に少しだけ、いただいてきたことがある。水とパンだけの時もあり、1週間で3㎏痩せた。1週間後スーパーが開いたが、4〜5時間並んで一人3点までしか買うことができなかった。近所の乾物屋で店頭販売してくれたのですぐ食べられるものを買って過ごした。1週間も過ぎた頃にやっと電話が通じた。みんなが心配してくれたが運送会社が動いていないので送ってもらうことができない。2週間後やっと荷物が届き助かった。でもガスが使えない、その時古いストーブを仕舞っておけば良かったと考えたり、10日目に電気が通じたときは電気コンロも捨てなければ良かったと思った。薬は1週間後届けられ助かりました。家は一見して傾いていることが明らかで全壊の判定だった。東南の角、台所の方が3〜4㎝下がり二階は、はっきり真ん中から折れたように傾き坂になっている。5月17日から7月7日までの50日間の工事でやっと住める状態になった。外壁のひび割れは、総て足場を組んではずし、店前は補強の柱を入れた。開かなくなったガラス戸、2階の壁をジャッキで上げ押さえて下がらなくして、戸の開閉ができるようになった。足場の会社、外の工事をする会社、中の壁を直す建具大工さん、外壁を直す左官屋さん。屋根屋さん、水道屋さん、ガス屋さん、毎日地震が来ているよう、土埃が掃除機をかけてもきりがないくらい、外壁は見違えるようきれいになっていった。内壁は大きく崩れた壁に厚いベニヤ板を張っていく仕事、左官屋さんは大きな扇風機2台で進めて行く。水道屋さんは家の重みで折れそうになった管をなおしたり、今思えばそれぞれの職人さんが一つにまとまって家を直してくれた。それぞれの人に感謝したい。生活はできるようになってきたが、お客さんは、まだ本当に少ない。今後が心配であるが、大変な人達もいるのでがんばる。娘は5月9日からボランティアで一本杉の教会が拠点となる被災地に送る物資の整理やパソコン集計係としてがんばっている。先日は20人で出かけ救援物資を全部配布し避難所の人達に喜んでもらえたと話していた。備蓄のリュックを調べると水が止まらなかったのと家があまり壊れなかったので減っている物がすくなかった。使用したのは、小銭(フィルムケースに入れていた)、氷砂糖入り乾パン、水を入れるとすぐ食べられる餅等ほんの少しだった。携帯の充電器はダメになっており役に立たなかった。娘がちょうど一緒にいたので食事など助かったが、いなかったら避難所に行くしかなかった。そうなったら杖二本で支えて歩く身では大変だったろう。今一度備蓄を見直し食料はそろえようと思う。太いローソクは助かった。単3乾電池はたくさん必要だった。その他使わなくてすんだ物、携帯用小用ポット、大用便袋、ペットボトルの水30本、20㍑の水、消臭剤、ちり紙、ロール紙、ラップ、一人用飲用ポット。でもよく頑張れたと思う。

あの日3月11日は職場にいました。グラッと来たときにはドアを開けに入口に走り、後は机の下です。書棚は倒れ書類が散乱、そして悲鳴!!少し治まった後に駐車場に避難、安否・今後の連絡確認等を済ませ、三時間かけ多賀城の自宅まで歩きました。自宅とは一度のメールのみで安否確認できました。この年で“半べそ”状態での帰路でした。余震・寒さ・怖さ・・・・。その夜は集会所で4世帯での一夜を過ごしました。石油ストーブ3台、子供達が多く余震の度に消しました。仙台港の火災が目前に見え、一睡もできませんでした。ラジオからは大変な状況、津波のニュースが流れていました。一緒に避難していた方の御実家が沿岸部で、とても心配しておりました。後で、家ごと流出し身内が亡くなられたことを知り言葉になりませんでした。翌朝から新聞が配達され避難所にも届けられたことを知りびっくりしました。翌日より近所の家族が三日間、我家で過ごしました。高校生・小学生の子供達が自転車で開店しているスーパー・コンビニを探しました。長いこと並び食材を入手してきたときは頼もしくもあり助かりました。電気の無い暗いところでの食事も、子供達がおにぎりを作ったり工夫して楽しくしていた様子で、気分的に助かりました。普段は挨拶程度の方々同士で差し入れがあったり、水やガソリンの情報交換をしたり改めてご近所のおつきあいの大切さを感じました。子供達も水や電気のある生活がどんなに大切か彼らなりに感じた様子でした。電気の点いたときは皆拍手でした。幸いにも自分で行動できる私ですがもっと身体が不自由な方、高齢の方など大変な思いだったでしょう。何の手伝いもできない自分を責めました。なくなられた方、命が助かっても何もかも流出してしまった方、本当にかける言葉が見つかりません。大変なことでした。「何気なく過ごした今日は、昨日亡くなった人のどうしても生きたかった明日」
命を大切に明るく元気に、それなりにがんばろう!

わたしたちの会に国内外の方々から暖かいお見舞いと義援金をいただきありがとうございました。皆様がお心にかけて下さった気持ち本当にうれしい限りです。あの日から4ヶ月がたち生活は徐々に普通に戻ってきています。わたしたちが生きているかぎり亡くなられた方々のことは忘れることはなく、折に触れ手を合わせていくことでしょう。私74歳、昭和20年の先の大戦、仙台大空襲を受け自宅全焼、その後宮城県沖地震、そして今回の地震を体験しました。その度思ってきたこと“人命一番、平凡で静かな生活を”これが最後の出来事であって欲しいと祈るばかりでした。しかし生きているかぎり何が起こるか予測できません。つらいことは早く忘れてしまいたい、忘れることができたらどんなに良いだろうと思っているこの頃です。現在、義姉と同居していますが一人暮らしとなったとき、水の運搬、食品の買い入れなどできるか、いや出来ないどうしよう、と不安です。

全国ポリオ連絡会の皆様へ皆様からの御激励、義援金、深く感謝申し上げます会員の「絆」「つながり」「支え合い」の大切さとありがたさを感じています。東日本大地震直後、事務局は直接または間接的な方法で会員全員の安否を確認しました。しかし、会員の多くが自宅家財に大きな被害を受けました。5月1日に寺門敏彦副会長が急逝された悲しい出来事もありました。現在はとても大変な毎日ですが、会で「絆」「つながり」「支え合い」を大切に今後とも会活動の充実を図りたいと考えています。

家は角田よりの丸森です。40分程度で福島県境に出ます。山際でしたから地震も津波も大丈夫でした。近所で地盤の弱いところは家が傾きました。角田の商店街も古いお店はガラスが割れ、神社の鳥居の上部は落下しマンホールは1メートル地面から飛び出しています。道路も沈下したり亀裂が走ったり、通行止めで回り道がおおくなり、正常に戻るまで2ヶ月近くかかりました。水道は3日、電気は1週間、正常に戻るまでかかりました。こちらはプロパンガスでしたので食事作りはとても助かりました。当時はまだ寒く湯たんぽやホッカイロを使ってしのぎました。冬は雪に備え買い置き生活でしたし、タイミング良く病院で飲み薬ももらったばかりでした。一番困ったのはガソリンです。長蛇の列に並ぶのは大変です。正常に戻ったのは2週間後でした。当時は携帯ラジオで情報を得るしかありませんでした。電気が来てテレビを付けたときの驚きは言葉になりませんでした。遅い春が来て桜も咲きましたが何も感じませんでしたね。テレビの映像を見てしまってから気持ちも沈んでいました。正常に戻ったのは小さな子供と接してからでした。今も強い揺れが来ると当時のことが頭をよぎります。

自宅にいました。玄関先まで孫と出たけど、長い揺れに“これは宮城件沖地震とは違う”と直感、ただ立ち尽くすだけでした。電気とガスが止まり水だけは翌朝まで持ちました。家族6人一つに結集したように思えます。七輪で炊いたご飯に7歳の孫が“美味しいね”。水の大切さを本当に身に染みて感じました。トイレ、台所・・・洗面と、ペットボトルに詰めて少しずつ大切に・・・、風呂と洗濯ができず友だちや実家でお世話になりました。ここでも家族6人の洗濯物の量に苦労・苦労。口コミ情報で近所の“絆”が深まりお互いに助け合いました。七輪ご飯が好評で、ご近所に炊き出しをして助け合いました。余震でも皆でお互いを確認し合い一つになりました。

日頃の備えが以下に大切か痛感したが、ある程度できる事とできない事があるので、そこをカバーしてもらえる人(気楽に頼める人)が絶対必要。普段からコミュニケーションを取っておくことが大事。携帯のばかり頼っていたので、これが使えない時(連絡手段が無くなった時)の連絡方法を考えておく必要がある。自分だけでなく、他人にも心配をかけるので考えなければならない。でも思いつかない。

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