インタビュー

聖クリストファー大学大学院看護学研究科 川村佐和子教授

日本に「難病」という言葉がまだなかった1940年代に、スモンの患者会を設立、厚生省(当時)の難病対策要綱策定に関わり、難病患者の「在宅ケア」という用語と概念を浸透させ、難病患者のケアに奔走されてきた川村佐和子先生。これまでの道のりについてお話をお聞きしました。

2018/12/10、愛知県医師会会議室
【インタビューア:伊藤たてお、永森志織ほか】

保健師として難病患者に伴走してきた半世紀

日本に「難病」という言葉がまだなかった1940年代に、スモンの患者会を設立、厚生省(当時)の難病対策要綱策定の要請運動に関わり、難病患者の「在宅ケア」という用語と概念を浸透させ、難病患者のケアに奔走されてきた川村佐和子先生。これまでの道のりについてお話をお聞きしました。

伊藤 難病の患者会の運動の歴史を紐解いていくと川村先生に行き当たります。難病患者の支援をされることになったきっかけを教えていただけますか。
川村佐和子先生
(以下川村)
昭和40(1965)年、東大の疫学教室で助手をしていたとき、週1回埼玉県戸田市にあった中島病院の健康相談室で働き、そのときにスモンの患者さんたちに会いました。その頃はまだスモンと言う病名はなくて、釧路病、戸田病などと言われていました。
伊藤 SMON、(Subacute Myelo-Optico-Neuropathy)という、症状をとられたものの頭文字ですよね。戸田と釧路の病気が同じような症状だということは早くに気がつかれたんでしょうか。
川村 昭和37年の山形の清野先生が内科学会の地方学会で報告されたのが最初だと伺っています。全国スモンの会ができたのが昭和44(昭和1969)年11月です。その後、神経内科の先生方からの助言で、重症筋無力症やパーキンソン、多発性硬化症などの患者会設立のお手伝いをしました。
伊藤 スモンや他の難病でも自殺や心中がたくさんあった時期ですよね。私はその頃に患者会に入ってきました。その頃の患者会はどんな雰囲気でしたか。
川村 医師の中に、熱血というか、社会派というか、人情味に溢れている方たちがいらっしゃって、ハンセン病や結核など、特効薬もなく、社会から疎外されている時代の患者の苦境に「何とかしたい」という志で、自身の欲を捨てて、頑張ってくださった方たちが多くおられます。そのような気持ちを持つ医師たちが神経系の病気を病む人たちに接せられて「何とか援けたい」と考えられたんだと思います。同時に、その医師たちに共通することとしては、きっと第二次大戦で生死をかけた体験をなさっているなあと私は感じてきました。戦艦にのって戦った(終盤は敵の飛行隊に襲われ続けた)経験やたった10人の生き残り人の一人である経験や被爆された経験、終戦があと数日遅ければ戦禍に散っていた自分を話されたなど生々しいご経験を伺ったものです。中にはそのような経験には一言もふれず「川村さん、患者さんのためなら何でも言ってくれればできるだけのことはするよ」と静かにおっしゃっていた医師もいらっしゃいました。また、スモン研究班の班長をなさっていた国立予防研究所の河野礼作先生は「スモンの厚生労働省(当時厚生省)委託研究班の研究報告会に、手続きをしておいてあげるから傍聴に来ていいですよ」と毎回声をかけてくださいました。
戦禍によって失われた「いのち」が身近にあり、「いのち」の尊さを胸に深く刻んでおられたのだと思います。東大医学部長をされた神経病理学者の白木博次先生は被爆者の病理学も研究されており、ご自身の軍医としての経験も併せて、患者の側に立った活動をしてくださいました。スモンの会活動やスモン訴訟も支援してくださり、心強かったものです。
伊藤 私たちも神経内科の病気で東大受診をするとき、北海道から連絡船に乗っていくというような時代だったんですが、沖中内科という言葉だけは非常に印象に残っています。
川村 東大医学部第3内科(神経内科)教授であった沖中重雄先生は我が国で神経内科を発展させる基礎を作られた方だと伺ってきました。先生は医学者としてだけでなく、筋ジストロフィーを中心とする筋萎縮症の患者さんに対して、患者会を支援して患者を発見し医療につなげるための検診事業を土曜日曜になさっていました。新潟大学医学部教授であったときに、スモンの原因をキノホルムであると究明され、以来、スモンは発病者がいなくなりました。また都立神経病院の初代院長でもあります。都立神経病院の基礎を築いた宇尾野公義先生も沖中内科出身の方で、都立病院のベッド数が少なかったころ、緊急入院できずに亡くなった筋ジストロフィーの少年の枕辺に生花をもって弔問に行かれるという心を持った方でした。何回もご一緒させていただきました。
伊藤 話がちょっと飛びますが、難今の難病法を作る時に、難病対策委員会で大変活躍された金澤一郎先生、早く亡くなられて残念なんですが、この先生は当時そこで学生だったんですか?
川村 そのようであっただろうとは思いますが、金沢先生のことはよく存じません。
伊藤 この先生は神経内科だけでなくて、皇室の主治医をされて、社会的にも活躍されたと思うんですが。
伊藤 それで結構学生に人気があって、たくさんの先生方がそこから生まれていったという、そういう背景が、難病対策の中にあるなあと思っています。それは医師だけじゃなくて、看護職の方とかソーシャルワーカーの方とか、町の保健師の方々などをみんな巻き込んでいったということですね。そういう先生方は学生時代にほとんどみなさんアセスメントを経験しておられますよね。そういう精神的な流れ、社会的な流れでこの難病というのをみていただいていたと。
川村 スモンが発生した当時は今のような訪問看護や介護などの制度はなく、ご自宅で療養していらっしゃる方のお世話は市町村保健師が担当していました。第2次大戦直後から10年間ぐらいは、日本の国は医師不足で、医師の仕事の一部を保健師がやっていました。
伊藤 そうですね、北海道ではそのころ開拓保健婦と言っていて、慣れない馬車にのったりオートバイに乗ったりして回っていたという話をよく聞きます。
川村 私は今なら東京駅から1時間かからないほどのところに住んでいたんですが、そこも医師がいない村で、喀血したとか、高熱が出たとかいうと、保健師さんに訪問してもらう、そういう状況でした。
伊藤 結核とかそういう身近にあって、保健師さんたち自身の健康もかなり大変だったのではないでしょうか。
川村 そうだとは思いますが、それよりも使命感の方が強い。そういう気持ちだったんじゃないでしょうか。それと、村中の人と顔なじみでしたから、知ってる人から、「たいへんだ!来てくれ」と呼ばれると行かざるを得ないということもありますよね。
伊藤 批判するわけではないですけど、今は保健師が職業として確立してきて、当時は保健師さんって田舎の方では絶対的な存在でしたよね。
伊藤 そういうものを背景にしながらスモンという病気が出てきて、様々な研究や活動の結果として薬害であるということが分かっていったわけですが、その中で川村先生たちが全国スモンの会を立ち上げていったときの患者側の反応や参加というのはどういうようなものだったのでしょうか。
川村 初めは、みなさん名乗り出ると社会疎外にあってしまうので、患者さん同士の交流はめったになかったようです。スモンの会を作る時、私が編集長になって出した「スモンの広場」が一つの要になっていたので、私から何人かの方に声をかけて集まってきていただきました。集まった方々の会話には、「お宅、うちの近くだ」なんていうこともありました。
伊藤 スモンの広場という名前をつけることに、患者側からの抵抗や社会の偏見などはなかったのでしょうか。
川村 勝手につけた名前ですから。40年前、1969年に長男が生まれて次男が生まれて、という状況で寝る暇もなく手一杯だったので気にする余裕がなかったというのが本当の話です。私の家の電話代は大卒初任給より高い、3万円を超えていました。家族から慈善事業もいい加減にしたらどうかと笑いながら言われたりしましたね。
伊藤 当時、川村さんはあちこち出かけてやっておられたので、訪ねて行っても会うのが難しかったですよね。全国スモンの会の立ち上げの中心になられ、実態調査をされ、そのあと全国難病連の事務局として実質的に全部されていましたね。
川村 そうですね。短い期間ですが。
伊藤 患者だけではできない、立ち上げの時期に関わって作られていったものが、社会的に様々な広がりに出ていくというきっかけになったというふうに私は見ていました。
川村 評価していただけてとても幸せなことです。だいたい何かやっても、周囲からいつもけなされるという感じで生きてきましたので。
伊藤 「スモンの広場」の1969年の発刊にあたっての目次を見ると、川村先生だけじゃな くて、豊倉康夫先生(当時東大教授)や井形昭弘先生(当時東大医学部講師)、スモンの会の相良よし光会長など、本当にいろんな方々が目白押しに並んでいますね。スモンの会で実施した実態調査が大きな役割を果たしたのではないかと思うのですが。当時、患者会で小さな調査をやってもマスコミなどはあまり関心を持ってくれなかったんですが、これだけの調査を真っ先にやるとなると各社から質問やコメントを求められたと思います。どのような反応でしたか?
川村 根拠がないと誰もわかってくれないので疫学調査を実施しました。マスコミからの取材もありましたし、自治体や国がその資料をもって、説明に来てほしいと言われてました。
伊藤 患者会の調査として全く初めてのものですよね。
川村 そうですね。そういう調査はなかったですね。
伊藤 研究班以前の話なんですよね。すごいことをやってこられたのですね。資金的には様々な方々が協力されたそうですが、個人の支援がないと資金が出てこないという時代だったのでしょうか。
川村 私の家の電話代なんて誰も払ってくれないし、今だから言いますが、その時誰も聞いてくれなくて、「あなたのところはいつ何回電話しても通じない」とまで言われていましたね。どこか行くといっても交通費は全部自費でした。幸いなことに子育ては私の母がたくさん手伝ってくれたので良かったのですが。
伊藤 ご著書にお母さんが結核に罹患したと書いてありますが、当時地域社会の中では大変だったのでしょうか。
川村 当時は第2次大戦の敗戦直後でしたから、結核は治らない病気でしたからね。今考えると、小学生の私はクラスの中で友達がいなかった、絵の具を食べろとか言われたこともあり、今考えると、疎外を受けていたなあと思います。
伊藤 当時難病も含めてですけど、結核は公衆衛生の分野だと言われていましたね。政策として医学的に最後まで詰めていくというようなことがなかったと考えてもいいんでしょうか。
川村 私は違う考えです。結核は感染症ですから、感染対策は公衆衛生の課題ですけれど、治療法の開発は臨床医学などの進歩によっています。現在では結核の治療法ができていますし、感染対策もあるので、大勢の人が一度に発病するということもなくなっています。
伊藤 先生はそのあと、筋ジストロフィー協会や、特に全難連を作られましたね。そのころ地方でも難病患者の小さな団体が集まって自治体単位でできてきたんですけど、そういう盛り上がっていく中で、当時の難病対策要綱というのが発表され、医療費助成が始まると途端にいろんな患者会も自分達もその対象にして欲しい、研究の中にいれて欲しいといって続々と立ち上がっていった。その時にもずっと川村さんは関わられて、特に「難病患者と友に生きる」など、16ミリのフィルムなんか作られたりして、あちこちの保健所でもそれを購入して、難病をとりまく対策についての参考にされたと思うんですけども、それがこの1番忙しかった時期になりますか?
川村 それよりもスモンの患者会ができるあたりの頃が急な用事が起こってきて忙しかったですね。その後の活動は日程を相談して決めてできたので。
伊藤 その頃になると東京の府中病院から都立神経内科病院ができたり、厚生労働省が予算をつけたり研究班の助成のようなものがありましたね。活動が広がっていった時期よりも、その前の作りあげる時期の方がやはり大変だったのでしょうか。
川村 保健所の事業で呼んでくださるときには、交通費を出してくださることが多かったですが、そうなる前はみんな自費でしたから大変でしたね。
伊藤 各地でできた難病連ではまだ補助金というのは多くはなかったですが、そのころ東京都は相談事業にも補助金を出したりするようになっていましたよね。国が発表している疾患よりももっとたくさんの病気を難病対策の中に入れていったと。そういう中で各地域も、東京のようにはできないけれど、なんとか地域は地域なりにという時代に入っていったということですね。振りかえってみて、先生が中島病院に行って戸田病に出合った頃から難病対策の研究や様々な地域ごとの施策なども始まったという間ぐらいの中で、1番の想い出というのは何でしょうか。良かったこと悪かったこと、個人的なことも含めて。
川村 寝る暇がなくて忙しかった、ということですね。
伊藤 本もたくさん書かれて本当に大変だったと思うんですけども、国が難病対策を始める時も相当関わって提言されたり発表されたりヒアリングを受けたりというようなことをしておられたようですが。国は本当にやる気があってやっていたのか、世論に押されてだったのか、どういう感じだったんでしょうか。
川村 国が動くのは根拠があるかとかいろいろ大変なことらしいでした。スモンの場合は「世論がスモンは伝染病だから隔離せよ」などととても大きな力で国に意見をしていたと思います。それと、研究班に看護や福祉の研究を加えていただけたことですね。当時はまだビデオなんかありませんでしたが、私は看護の研究者としてどうしても患者さんの真剣な生活を知ってほしく、患者さんの協力を得て、皆さんの生活を16ミリ映画で映し、研究班に報告しました。それを見せに来いと多くの方が言ってくださって、中には国のお役人さんも5~6人で集まって夜見てくださった。私はまた何か叱られるかな、法律違反だなんて言われるかなと思っていましたが、見てくださった偉い人の中には涙を拭きながら、自分の親もこの病気で亡くなったとか、そういう話をしてくださいました。心に残る経験談でした。こういう方たちが、表面には出ないけれど、裏でいろいろサポートして下さったんじゃないかと思っています。医師会の要職にあられた医師が、難病問題は人々の良心を揺さぶってると言っておられました。みんなの良心が難病問題の解決に向けて支援したんだと思っています。
伊藤 そのころ地域でも難病対策の支え手っていうのはまず保健所の保健師さんたちでしたね。行政の中で唯一自分達の計画だけで外に出て行くことができる職種だといって、結構患者さんのお宅を回られたり、相談にのったりして、すごい活躍をしておられた。
川村 当時の難病であった結核の方たちのお家を回って、療養がうまくいくように支援していたのは保健師でしたからね。
伊藤 その経験をそのまま難病対策の方にまでひっぱってきたという感じですね。
伊藤 保健師というのは、ただ訪問してその人が安定して療養できればいいというだけの話ではなくて、その地域から浮かないように、一般的な言葉でいうと、孤立しないようにというそういう地域として考える、考えてくれる人たちなので、こういうお子さんがいて、学校に行けなくて気の毒なんだけど何とかなりませんかって、教育委員会にいってくれたりとか、それから、お母さんがとっても大変だから誰かボランティアで助けてあげてくれませんかとかね、そういうようなことを、地域を巻き込んでくれましたね。
伊藤 今だったら、それは保健師の仕事でないだろうと上司から怒られそうなこともどんどんやってたような気がします。いろんなことを経験し、職場の中で共有してそして、他の職種にも働きかけてくれましたね。病院や福祉や生活保護などの中心にいつも保健師さんがおられましたね。あの頃、都道府県だけでなくて、市町村でも難病に関する独自の条例を作ったりして頑張っていましたけど、あれも実はほとんど保健師さんの主導ですよね。実際は自分達で計画をつくっていながら患者さんにこれは必要だということ言わせて、というのは言い方が悪いですね。
川村 患者さん同士は先ほど言ったように交流がなくて、まとまっていくことが難しかったんですね。それで、集まる場を作りましょうかということになりました。そして、じゃあみんなが困ってるんだから、助けてもらいたいと市町村に頼みに行こうとかというような話になっていったんだと思いますね。
伊藤 保健師さんたちがそういう患者さんたちに行政や議会への陳情の仕方を教えてくれて、そして行政側はそのお答えを書くのに、難病問題ってよく分からないからということでその保健師さんに回答も書かせるという、そういうような関係はかなりありましたね。
川村 そういうような関係はあったのかなあと思いますが、よくわかりません。でも、議員さんたちも党派を越えて支援の立場に立ってくれたというようだったと思います。
伊藤 1973~4年ぐらいから80年代ぐらいにかけて地域に難病の支援がかなりの勢いで広まっていったような気がしますね。
川村 スモンの会ができてから、重症筋無力症やパーキンソンの友の会ができて、難病の指定を受けて、難病対策の対象になるという経緯でしたね。パーキンソンの患者さんは大勢いらっしゃいますよね、だから、難病はだんだん身近な存在として理解してもらえて、支援が広がっていったんだと思います。
伊藤 保健師さんたちを中心に、パーキンソンのリハビリ体操や音楽療法などもたくさん出てきた時代ですね。
川村 なかなか難しい病気もありますが、医師たちも熱心に取り組んで下さって、だんだん治療法が出てきましたよね。その当時は、医師たちは「患者さんには気の毒だけれど、医療も限界なんだよ」という感じでしたからね。
伊藤 その頃は、そんなに多くはなかったけれども地域での医療機関や保健所なんかで保健師さんと同時に医療ソーシャルワーカーというのが注目されて、患者会では、病院には医療ソーシャルワーカーを置いてくれという運動をやっていましたね。まだ理学療法士も作業療法士も本当に少なかった時代で、保健師さん、看護師さん、ソーシャルワーカーと医師でチームを組むというような、そのぐらいの感じだったような気がするんですが、東京ではどうだったのですか。
川村 あの当時の偉い医師の中には、医学で治せる病気については手を出すけれど、難病みたいに治らない病気は病院に来てもらっても仕方がないとはっきりおっしゃる方もおりました。府中病院に神経内科ができた時には、白木博次医師(当時東大教授)が他の国ではそういう考え方ではない、リハビリの職員を加えた方がいい、と指摘され、リハビリテーションの施設もちゃんと作られました。
伊藤 僕はその頃にそれを見に行ったんですけど、考え方が地域とはずいぶん違うなということを実感しました。それで、患者さんたちもだんだんリハビリというのに興味が流れていって、今はもう、リハビリを超えて就労支援というようなところまで流れていきました。でも、その流れの発端がそういう、ただ治療するだけじゃなくて、リハビリで病気が治るわけでないけれど、リハビリは非常に大切だし患者の苦痛も和らぐし生活の質を向上させるんだというふうにやっていったというのは、すごく大きいですよね。今の流れに結びつくものというか。
川村 そういうふうに評価していただけると宇尾野公義先生(当時府中病院副院長・神経内科医師)や白木博次先生(当時東大教授)も大変喜んで下さると思いますね。
伊藤 患者会も我々もそういうものを一生懸命作って、チームを作って地域を回って、保健師さんたちと一緒にリハビリ教室やったりしていました。今はどこでも相談事業とそういうリハビリ教室みたいなのが普通になってきたと思いますね。
川村 そうですね。
伊藤 神経内科でそういうことで盛り上がった時にだんだん自己免疫疾患ということでその代表的なSLE(全身性エリテマトーデス)だとか様々な病気も難病の大きなカテゴリーになっていきましたね。
川村 全身性エリテマトーデス(SLE)は第一回の難病指定に入っていたと思いますが。その後、自己免疫系の病気の指定も増えてもいきましたね。
伊藤 早かったですが、まだそんなにたくさんいないというのと、あまりリハビリやなんかの対象にはならなかった。どちらかといえば神経難病を中心に地域では取り組まれてたかなという気もしますけど。
川村 それはそうなんですよ。というのは、SLEなどの膠原系の病気は、内科で治療をしていたのですが、神経内科は昭和40年に診療科として独立したんですね。だから脳神経系疾患の診療の歴史が浅くて、専門医もそう多くはいなかった。そのため、診断もわからなかった患者さんが多かったということです。だから患者さんのニーズは高いんだけれど、医師グループがまだ質量的に育っていなかったといえると思います。
伊藤 今だったら神経内科の疾患でもMRI使っていろんなもの使って調べたりするけど、あの頃、そんなのはないから神経内科の先生は筆と針とハンマーの3つだけあれば診察できるって豪語したんだかそれしかないっていうのか、そんな時代でしたね。
他の膠原病系だとか消化器系や血液系はデータが取れる、血液で調べられるというのがあって、そこが違いだったみたいな気もするんですが、今は何かそういう領域の違いっていうのがだんだん溶け込みましたね。
川村 膠原系なんかですと病気が回復すると四肢の動きとか生活動作に関して回復して軽くなってくるというところがあるんですけど、神経系は障害が残りやすいですよね。
伊藤 むしろ、進行していく。
川村 そう。だから、なかなか大変だと思います。
伊藤 今の難病法の中でも大きな問題になっているのは、病気自体が軽いという人は指定難病からはずすといいながらも、そう大きな障害は生じなくても神経難病系はやっぱり進行していくし、完全に治るということはないという状況の中で、他の病気も同じように軽症と診断されちゃうと、施策の対象からはずれてしまうというのが問題になっていますよね。あれはやっぱり、僕たちからみればおかしいと思うんですが。それは医療者もみんな同じような考え方なんでしょうか。それが今よく分からなくているんですね。
川村 お考えはもっともで、私も悪化予防をするためにも賛成です。ですが、以前、難病指定は不要だという議論が出ていたりしました。1つは、社会の受け止め方、2つには経済的な要因があるんでしょうね。難病問題を主張した当時はバブルがはじける前で、衣食足りて礼節を知るといわれるように、生命が危険にさらされている人たちの健康回復のためにしてあげようという気持ちが湧いてきたけれど今はそうじゃない感じですよね。高齢者人口が増えて、高齢者対策にもっと目を向けるようにという声が大きい。バブルがはじけ国の経済が右肩上がりから停滞もしくは右肩下がりという人もあるくらいになってしまった。医療費をもっと下げろという声はとても強いですし、研究費だってすごい勢いで削減されていますからね。
伊藤 先生方が始められてそれからずーっと難病に対する社会の認識も研究者も取り組む医療者もみんな増えてきて、関心持たれるようになっていって、すごく広がっていった。それが途中で、地域の自治体の財政も苦しくなる、国の方も予算が増えないという時期がまたしばらく続いて、そしてまた増えたんだけれど、また減るような傾向にあるというような感じがするんですけど、やっぱりそんなふうに一直線には伸びるんじゃなくて、階段みたいになってるのかなと思うんですけども。
川村 そうかもしれません。ですが、高齢者(医療を必要とする人)は急速に増していますし、経済問題も厳しさが増していると思います。
伊藤 患者会では治療法の開発をすごくお願いしてきたんですが、最近の科学技術ってすごく伸びてきて、様々な治療法もでてきたんですけど、これみんな高額ですよね、相当。
川村 そうですね。
伊藤 そういう問題との兼ね合いといったらこれからもっと厳しくなるんでしょうかね。
川村 私の考え得る範囲を超えているので、なんとも言えませんけども。難病運動も方針転換をしていく必要があるのかもしれないですね。難病対策をどう進めていくかという。ある意味でパーキンソン病なんかは高齢者の疾患として当たり前みたいにおっしゃる先生もいらっしゃいますし。そうすると、難病性というのが薄れてしまうでしょう。
伊藤 高齢になっていくというのは治せないけれど、パーキンソンというのある程度症状を軽くしたりすることは、治療によって可能ですよね。
伊藤 でも同時にお金もかかる・・ということになるんですかね。財政問題。
川村 それをどのように解決するか、医療費負担をどう高額化させないかというのはまた新しい課題で、今までとは違った観点で分析して方向性を出さないといけないのではないかと思います。
伊藤 今盛んに言われているのは、医療経済学の分野からの発信がもっとあっていいんではないかということですが、あまり医療経済の人たちが難病問題で何か取り組んでいるという話も聞かないんですけど。そういう分野もこれからは必要になるのかなあとか。
川村 医療経済学の立場から考えれば、国の医療費をどうするかということが主たる課題ではないかと思いますから、最も医療費を占めている対象者つまり高齢者医療に関心が集まるのは当然だと思います。その中で、難病という問題をどのように扱うかを研究する集団は自然発生的にはできないわけで、難病運動のはじめのように、難病に関心をもって研究してくれる集団をどのように作っていくかを患者集団は考えなくちゃいけないのではないでしょうか?難病問題解決のための運動論として、スモンの会会長の相良さんを中心に、ずいぶん努力したと思い出します。そこで多くの専門医やマスコミなどの人たちが協力してくださるようになり、研究や生活支援策が実現してきたと思います。
伊藤 これからの話というのは、日本の患者会WEB版のインタビュー編の主な内容ではなくて、どういうような活動とかどういう思いで参加されたかということの記録をしっかり残そうというのが1番大きな趣旨なんです。先生はたくさん本を書かれていますが、ぜひ患者会とかいう当事者の方々に、川村先生としてはこれが1番何か想い出が深いとか、あるいは患者会にとっても役に立つんではないかと思われる本を推薦していただけますか。
川村 あまりそういうつもりで書いてきてないというか、その時その時の課題にそって、アッピールしたいことを中心に書いてきたので、そんな大それたことは言えないです。そのことをアッピールしたいなら、それについての研究成果を書いたらいいんじゃないか、なんて言われると「はーい!」てな感じでイージーにやってきましたから。
伊藤 イージーとはちっともこの中では思えないけれども。1970年代中から90年代ぐらいまでのこの先生の書かれたものと、最近の2000年越えてから書かれているものとは少し違うような、視点が少し更に変わってきたような気もするんですけども。
川村 最近は、難病について昔どうだったかという話をしろというのが多いので、振り返ってみてるものが多いですね。それと、今、私は教育の世界に移っているのと、やっぱり、難病の患者さんのサポートを通して開いてきた在宅ケアや訪問看護などが立ち位置になっているので、違ってきていると思います。
伊藤 私はあまり知らなかった言葉で今はごく普通に使われている、在宅ケアという言葉がありますよね。難病と在宅ケアって。そういう研究会を作っておられたわけですけども、そこから難病看護学会に発展していくんでしょうけど、この在宅ケアという言葉を使い始めたのはどういうきっかけでしたか。
川村 医学書院で「難病患者の在宅ケア」という本を書いた時に、どういうタイトルにしようかというので、当時の上司だった宇尾野先生たちと相談して作った用語です。医学書院の編集の方が一生懸命調べてくれて、何回も議論しましたね。 在宅診療班を府中病院で始めた当時(昭和49年)は一般的にはこのような診療事業を巡回診療と呼んでいたのですね。けれど当時の巡回診療を調べてみると、身体障碍者手帳発行のための診断だとか、1回きりの診療の場合が多かったのです。けれど、府中病院で始めた事業は一回きりではなく、自宅療養を継続できるための医療として継続的に行うというものでした。趣旨や訪問の回数が全く違うので、巡回診療という名称ではダメだということになりました。けれど、診療をすべて府中病院の神経内科が担うというのも大変なことで、地域の医師会の先生達と一緒になって(連携して)医療をやらないといけないということに気づきました。このところをしっかり教えてくださり、医師会とのパイプを作ってくださったのは当時国立公衆衛生院の部長をされていた西三郎先生(医師)でした。そして、地域の医師会の先生たちと話し合いができて、風邪や腹痛などの日常的な医療と緊急時の初期治療(府中病院から出向くのに時間がかかりますので)をお願いすることになりました。 この連携がうまくいくためには、事前に患者さんの近くの医院の医師と府中病院神経内科医師がお互いに情報交流をしていることが必要となります。電話1本で、今どういう状態なので、薬をこのように変更しましたっていう情報を双方の医師が共有できる、そういう環境を作っておかないとダメですよねっていうことです。その環境つくりや情報伝達支援を看護師・病院保健師が担いました。そこで医師だけでなく、看護師、リハビリテーション職員(PT、OT、のちにSTも参加)、MSW、心理療法士が参加したチーム医療となり、在宅診療班と名前が付きました。
「難病患者の在宅ケア」に戻りますが、この当時はまだ、医療は病院や診療所の外来や入院した病棟で受けるものでしかありませんでしたから、人工呼吸器をつけたり、気管カニューレをつけたり、胃や尿道にチューブを入れている人が自宅にいるなんてとんでもないという時代でした。在宅診療を受けている方々は近隣の医師をはじめ多くの人たちが支援をしてくれました。ボランティアです。その大きな支援の輪の中で、暮らしておられたので、支援者全員を含めた支援であるという意味を持って「在宅ケア」という用語を選ぶことになりました。
伊藤 この頃、地方ではまだ在宅ケアどころか、訪問診療も十分ではなくて、往診がせいぜいという時代だっただと思うんです。
川村 そうです。往診というのは、診療報酬上では緊急避難なんですね。一時的なことで継続的な診療ではないのです。突然具合が悪くなってしまったとか、突然怪我をしてしまって動けない、外来に連れてこいというわけにはいかないので、医者が行きますというものです。私たちが始めたのは、緊急時ではなくて、恒常的にずっと訪問して診療を継続していくということで全然違ったものなのです。
伊藤 地方からみると、こちらでやっている訪問診療とかそのあとの在宅ケアというのは、新鮮に見えたというよりも、すごく羨ましい話でした。ずっとそういう班を作って回っておられますよね。都立神経病院なんかを中心に。ああいうのは東京以外のところでは無理だって見えていたんですけど、今はどこでも結構在宅ケアっていう言葉も使いますし、在宅診療もしますね。
川村 その後、平成の初めに診療報酬制度に在宅医療という分類ができました。外来と入院、それに在宅という分類です。
伊藤 難病に対する取り組みというのは、16ミリで作ったケアの仕方など、先進的な研究をみんなが見て、感動して地方でもそれをやろうとしたり、本で在宅ケアという言葉に出会って、じゃあそれも地域でっていうふうにやっていったことが、結果的には日本の医療の全体を底上げしているものになるんだろうし、それからそこでやった様々な技術がありましたよね。人工呼吸器についての技術だとか、そういう人への看護とか、管理とかって。結局今一般的に他の病気も高齢者にもみんな応用できるって、そういう意味で、僕はよく国会なんかでもいってたのは、難病というのは特殊ではなくて、難病問題をきちっとやっていけば、日本の医療の技術とか考え方が総底上げされるんだと。だから難病という狭い領域で考えてそこに落とす税金が多い少ないという話じゃなくて、まずじゃあ難病を手厚くやれと。それは日本の国民全体に大きな福音といったらちょっと大げさですけど、何かやっぱり役に立つんだと。それを学ばせてもらったのがこの難病患者の在宅ケアだと思っています。僕らも16ミリを持って周りましたけども、そういうようなものがあったから、広がっていったのではないかと思います。今の社会ではそれ難しいかなあと思うんですが、どうなんでしょうね。
川村 広めていく方法論がもう変わってしまったと思います。昔はやってる人間たちがいて現場でこういうことを始めました、こうやったらこうなったんですっていうような、それを実際に一緒に同行できない、例えば医師会の先生とか何かに配布する、16ミリ映画に参加していただいて、実際見ると、ああ、あの先生やってんだ、という、川村は嘘ついてないっていうふうな感じで確認して下さって、それで広がっていったんだと思うんですね。でも今はもう、SNSやテレビなんかがすごい影響力をもってますものね。メディアの力が新聞よりも遙かに強いし。
伊藤 インパクトが違うというか、沢山のものがありすぎて、どれを選択していいかもあまり分からないというか。当時名古屋では名大病院中心に・・・?
川村 逸郎が神経内科で非常に一生懸命診療して下さっていました。
伊藤 愛知県医師会でもこうやって難病相談室をおいたりして比較的理解のある地域に住んでおられるなと思うんですけども。どうですか、愛知県難病連としては。理解のある地域にいたという実感はありますか?
愛知県難病連
牛田
ちょっとはずれるかもしれませんけど、先生の側からみて、患者会というのは何なんでしょうね。医療関係者だけが頑張っても何とかなるわけじゃなくて、当事者の力というのが、私はあったと思うんです。患者会のことをやっているんですけど、どういう局面でどういう患者会が役に立ったのか立たなかったのか、みたいなところが今ひとつよく分からないんです。そういうことでひとつ教えていただければ。
川村 全国スモンの会が設立した時(1969年)に、私はこの会の副会長で事務局長でしたから、このころのことについて話をする場合、私の立ち位置は患者会なのです。
牛田 先生が活動してみえて、こういう、例えばスモンならスモンやってみた、結核やってみた時に、結核病棟みたいなところがあって、そこがベースになって一定の患者会のようなものなっていたと思うんですけれども、そのへん当事者の力と先生の方からそういうのは一体全体どういうふうに役割を果たしたのかなということが・・
川村 スモンの場合は先ほど話したように、私は療養パンフレット「スモンの広場」を編集して、お渡しするという、そういうことで直接、患者さんと繋がっちゃったわけです。患者さん同士の関係がなくて、私との関係ばっかりになってしまったので、みなさんは私がスモン患者だと思われ、「軽症でいいね」とか、「患者さんはお父さんですかお母さんですか」みたいに、受けとられていたので、ある意味では当事者的な立場を要求されたような時もあるんです。実際は関係なかったんですけども。私がずっと考えてきたことは、当事者がこうして欲しいということがないと、周囲のものたちは何もできないと私は思ってきたんです。そういう意味で、患者の方がこうして欲しいということをはっきりおっしゃる、それはとても重要だなと思ってきました。
たとえば難病の患者の在宅ケアであれば、Eさんという方が自分はもう自宅で呼吸器つけて療養するから、おまえ手伝えというようなことで、その方が望むようにしていく。ただ、その方がそれを望んだけれど、その他の方も望んでいるかもしれない。その他にのぞんでいる方に対してどうやってそれをサービスしていくかということは、例えば北海道の方がこうしてくれと申し出てくださっても、東京にいる私は直接的なサポートはできない。そうすると、やっぱり制度として、国全体で、こういう方にはこういうふうにサポートしようと決めて、その予算や人員をどうするかということを考えないとできないわけですね。だから私の個人的な動きとしては、自分でできる範囲のサポートを行い、その望まれるところを運動で制度化するという役だと思っていました。
患者会の立場を離れて、サービス提供者側に立つと、患者会の方は次々に要求を出されます。それを全部、すぐやれないのはけしからんといわれることもありました。在宅診療班や訪問看護などは、世の中とか制度に反してやっていたわけですから、そんなに好待遇でやっているわけでもないし、一人の看護師(川村)で80名もの患者さんのサポートをしなくちゃならない。そんな状況で、すべての要求にこたえられるはずはないんです。そんな時は要求だけではなく、この在宅診療事業を患者さんたちがどう考えているかということをはっきり主張していただけるといいですね。サービス提供機関のなかだけの議論からちょっと違った価値観が入ってくる。金勘定だけじゃない価値が入ってくるのです。このようなことも患者会の活動に必要なことではないかと思っていました。
もう一つは、それは患者さんの立場だからできることをしてほしいと思うのです。例えば、身体障害者手帳の申請時に2級相当の状態で書いてあるけれど、1級相当の状態として書いてほしいなどというお話もあります。医師も何とか制度を利用できるようにしてあげたいと考えて一生懸命なのですが、嘘はかけない。制度の問題もあるのだけれど、それが伝わらない。そんなとき、患者会の立場として申請受付窓口で一緒に説明して応援してくださるとか、お互いの気持ちを共有して慰めてくださるとか。患者会として制度について申し入れをしてくださるとか。ピアサポートですね。私がよく患者会の役員の方にお願いしたのは、完治しがたいとか、進行性であるとか、そんな悲しい現実を医療者がお話したときに、同じ境遇にある者同士として気持ちを共有しあい、励ましあう仲間がいることを伝えてほしいと考えていました。不条理を受け入れなくてはならないときに、心を共有できることはピアサポートの核心だと思っています。私個人としては、宗教上のサポートも大きいと思います。
伊藤 そういう役割も患者会は持っているかもしれませんね。
伊藤 窪田さんも長い間ソーシャルワーカーとして関わったことで何かお聞きしたいことが1つ2つありませんか。
窪田 難病からは長い間離れているので、当時の話を聞くとなるほどなあと思って聞いていいました。北海道の場合は特に肝炎の患者さん方は幅広くみてもらっていて、北海道に絶対というふうに相談受けたこともありました。でもその頃から比べると急速に狭まってきていますね。診断書の事は細かくて、もうお医者さんは辟易していましたね。3回も4回も病名が変わっていくような患者さんいたな、とか思って聞いていたんです。何度も病名が変わるとお医者さんを信頼していいのかわからないとかというような状況もあったなあと。生活保護も、どうフォローしたらいいのか。年金の補償ということも一概にはいえない。身障手帳も出ない人もいる。そういう生活の障害というところとか、家族とうまくいかない、仕事も辞めなきゃなんないなど、今の方が多くなっているかなというような気もします。身障手帳や認定を受けられない人だと介護保険の絡みが入ってくると本当に込み入っていて、医療ソーシャルワーカーでも分からないこともありますね。今では介護保険、健康保険とか生活保護も、複雑で・・・。そんなのがあるなあと思って聞いていました。
伊藤 社会がある程度発展するにはいろんな制度がたくさん出てくるんだけれども、あまりにも多いと本当に大変難しくなってくる。知識も追いつかない。これやっぱり長い歴史の中で必要に応じていろんな制度が作ってきたんですけども、かえって関係が複雑になってきたという様な気もしなくもないですね。
川村 いろいろなものを活用して全体を網羅しないといけなくなるんですね。
伊藤 そうするとまた、書く書類が多くなったりして。矛盾が矛盾を生むという状況もありますね。
窪田 障害年金申請の時は症状が重そうに書いたり、この時はちょっと軽めに書いて、生命保険の給付金とかをもらわなくちゃとか、いろいろなことを考えたけれども、辻褄あわせができなくなってますね。
伊藤 1969年や1970年頃からの長い間のいろいろな問題や思い出をお話していただいたんですけども、ちょっとまた戻りたいと思います。スモンというのは日本にとっては難病対策上でも研究上でも大事なものでしたが、キノホルムが原因だと分かってきたころ、僕らは地方にいたのであんまりピンとはこなかったんですけども、患者会や関係者のみなさんって、どのような思いがありましたか。
川村 全国スモンの会を結成したのが、1969年11月で、原因がキノホルムてあるとわかったのは1970年8月です。スモンの会が1970年の3月の衆議院補正予算委員会で研究費を予算化してほしいと山田太郎衆議院議員を通して訴えて、4月からスモンの研究班が設置されて、8月にはもうキノホルムだと分かりました。10月には患者の新規発生はなかったと思います。皆さんホットしたと思いました。
伊藤 早いですね。
そこでスモンの研究班というものが非常に効率的というか有効だという事で難病の研究班もたくさん作るようになっていったというように聞いているわけですけども、そういうのは事実ですかね。
川村 その事情は分かりません。
伊藤 当時、スモン対策の上に乗っかって4疾患の研究謝金というのが出てきましたね。あれは完全にスモンの謝金制度に則ったものですね?
川村 謝金制度というのかどうかは分かりませんが、研究謝金でした。なぜ、難病指定の患者さんにだけ治療費の助成をするのかという理由付けに困っているということは聞いた記憶があります。そのときは、難病は原因不明なので、どのような治療に有効性があるかわからない。だから、現在行われている治療はつまるところ治療の研究・開発の1つのサポートとして患者さんが身を以て参加してしている、それに対して研究謝金を出すという考え方だと伺いました。
伊藤 そうですね。根本はそういうものになっている。ただ僕らからみたら、スモンというのは病気というよりも薬害だということが分かってきたわけですけど、そこから、難病対策までいくまでの経過のところがちょっと分からない。
川村 1970年4月に研究班はスタートしたんです。けれど研究助成は出なかったんです。具体化しなかった。45年の8月にキノホルムではないかという説を椿忠雄先生(当時新潟大学医学部教授)がだされて、9月の薬事審議会で検討されてキノホルムをとにかく使用停止にしようということが決まりました。その結果、9月のスモン患者の新規発生数は10人程度に激減した。疫学的な証明を得て、スモンの原因はキノホルムの副作用だ、薬害だということになりました。薬害に対する法律がその頃できて、それで薬害者に対しての救済措置ができたんですね。その中にスモンもいれるという話があったんですけど、スモンの会はお断りしたんです。薬害としてスモンだけは救われるかもしれない。しかし、他の難病指定の患者さんたちはどうするんだろう、病気は違っても、困っている人たちみんなが救われなくちゃいけないねって。こうやっていうとかっこよく見えちゃいますけど、本当にそう考えていたんです。
伊藤 スモンは薬害ということが分かったけれども、薬害救済の方に向かわないで難病対策に残ったと。その一方、行政の側では原因がはっきりしているんだから、原因がはっきりしないようなものに対するいわゆる難病対策の中では、スモンは異質だったと、そういう議論がずっとあって、今度の難病法ができた段階では指定難病にはならないけれど、対象にしていくという、非常に複雑な関係になりましたけども、それはそれでその当事者の人たちもそれを選んだということですね。
川村 そして、スモン患者は会の代表として相良会長をはじめとするスモン訴訟に向かっていきました。1972年5月25日に提訴して、そしたらもう翌日は私は岡山の会で呼ばれて訴訟の話をしにいったんですね。帰ってきたらもう新聞記者からジャンジャン電話がきていて、何かと思ったら、難病対策要綱を作るという方向で、厚生省が動きだしたということでした。訴訟の力は大きいんですね。
伊藤 訴訟というのが大きな役割を果たしたと僕たちは思うんですけども、当時の公的な病院なんかに勤めておられたりすると、そこの関わりとしては、否定的な要素ってすごく多かったですか?
川村 その時は東大の助手で、山本俊一教授は理解のある方で、川村さん、ここ(東大の助手)にいていいですよと言ってくださったのですが、いろいろ周辺から言われて東大を退職しました。
伊藤 やっぱりそういう具合になってしまうんですね。
川村 はい。私はあの時点で職業生活が終わっていたかもしれないと思い返しています。でも患者さんたちが、応援してくださって、ちょうど府中病院神経内科が設置されるというので、そこに入職できました。
もしスモンは薬害だと言っていたら、スモン訴訟の影響力はスモン患者だけのものだったんですね。難病の範疇に踏みとどまったから、難病運動の初動を切ったスモンと他の難病とが分断されなかったから、分断されることをスモン患者は希望しなかったから、だから、難病対策要綱ができ、今の難病法に繋がったと思っています。 また、その時に難病の法律を作れという助言もたくさんの方からお話がありました。でもその時も難病対策の法律だと、スモンは薬害だから除けといって、難病対策には至らなかったかもしれないと思います。毎日のように、白木博次東大医学部長室に大勢で集まって議論をしました。白木教授は他の難病患者を捨てるようなことはやめるようにとはっきりした立場をお取りになっていました。このころの討論には、東京進行性筋萎縮症協会(病気としては、筋ジストロフィーや重症筋無力症、ALSの患者さんも含めた大きな会でした)の石川左門会長も参加し、他の難病患者の立場から意見を出しておられました。とくに、進行性で当時は2-3年の経過で死に至るといわれたALS患者の方々は社会に苦悩を訴えることもできず亡くなっていかれるので、みんな、そのような患者さんこそ救済したいと考えていました。
伊藤 自ら望んで作ってしまうみたいな、それはしたくない。けれど、法律がないと行政は動いてくれないというジレンマの中でやってきている。だから絶えず監視をしていかないとつい行政の論理に全部呑み込まれてしまうと。難しいけど、そういう意味では患者会はそれを果たさなきゃならないですね。絶えず良いものにブラッシュアップしていきつつ、そういう縦割りの機構には呑み込まれないぞと。それはずっと川村さんたちがやってきた話がまだ実は続いているということかもしれないですね。
そういうことで、もうそろそろ終わらなければいけない時間になりました。最後になにか一言、何か我々にむけて何かこういうことを注意した方がいいとかがありましたらお願いします。
川村 全く、方針を出すようなことはできません。自由に必要なことをやっていただければいいなと思っています。
永森 難病対策要綱を作る前にも難病を法律化しようという議論がずっとあって、1年ぐらいずーっと議論されたっていうのを聞いて、どういう立場の方が法律にしたいとおっしゃったのか、どういう立場の方が反対されたのか、教えていただけますか。
川村 私が知っているところでは、行政の方から法律にしようと。そうでないと行政は動けない。でも当時の事情を思い起こすと、やっぱり、対策要綱でよかったというふうに思っています。
永森 行政以外の方はだいたい法律ではなく、要綱みたいな形で柔軟性をもって運用したいという立場だったのですか?
川村 お話したい理由は先ほど説明したとおりです。
伊藤 厚生労働省が言っていましたけど、法律でないのに要綱だけで40年も予算をずっと作ったり研究班をずっとやっているのも・・
川村 それは訴訟と患者の皆様の努力だと思います。訴訟は終わっても、スモン患者さんは今も生活しておられ、その方々には保障金がいまなお支払われています。事実上、終わっていないのです。
伊藤 それはね、難病対策以外にないって。
川村 難病対策要綱の問題点はいろいろ言われています。行われていることは医療費の助成や医学研究なのに、難病の定義に生活問題が混入していておかしいなどたくさんあります。けれど、難病の定義に混入している生活問題はその後の医療や福祉問題と深くつながっています。当時から、スモンの会の役員の方々は、難病問題が解決するならば、療養中の人々の主たる問題が解決すると考えていましたから、このような定義を望んだと思っています。
伊藤 本当は、これはもう半世紀にわたるお話ですから短い時間では終わらない話ですけど。
伊藤 今後ともなにかいろいろと教えていただきたいですね。どうもありがとうございました。

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