インタビュー
葛城貞三(かつらぎていぞう)氏
生年月日:1939(昭和14)年4月14日(インタビュー当時83歳)
出身:滋賀県大津市
2022/10/31、特定非営利活動法人ALSしがネット
【インタビュアー:伊藤たてお、永森志織】
【文:永森志織】
妻の難病(重症筋無力症)発症をきっかけに患者会設立に奔走
伊藤 | 葛城さんと難病の患者会の活動の経緯をお願いします。 |
葛城 | 最初は、家内、葛城勝代が重症筋無力症を発症したということ。1976年、昭和51年。 |
永森 | その時のお住まいは大津市ですか? |
葛城 | 大津市の坂本。延暦寺の近く。今もそこで住んでいるねん。 |
伊藤 | そこが患者、難病との付き合いのはじめですか? |
葛城 | 1976年に発症して、地域難病連作ったのが1984年なんや。だいぶ間があいてるのは、家内の入退院で子ども2人を面倒見ているときに、膠原病友の会の石井小百合さんとスモンの会の中西正弘さんが滋賀県難病連を作らへんかと声をかけてくれはったんやな。 |
永森 | 奥さまが重症筋無力症を発症されたときおいくつだったんでしょうか。 |
葛城 | 僕が37歳で家内が34歳のときや。 |
永森 | お子さんは何歳だったんでしょうか。 |
葛城 | 発症した当時は、下の息子は保育園の年長組で4つか5つ。上の姉が小学2年。 中西さんは京都スモンの会滋賀会で、この時は石井小百合さんは結婚する前で日比さんという名字で、全国膠原病友の会に入ってはった。 |
伊藤 | そこで患者会を知ったんですね。 |
葛城 | それで滋賀でも作りたいと思わはったんやね。中西さんは既にその時は、京都のスモンの会に入ってはって、滋賀県にスモンの会滋賀県支部を作ろうと、こう思ってはったんやな。 |
伊藤 | お二人とも京都で活動してたんですか。 |
葛城 | そうそう。京都の患者会で一緒になって活動してやはったんやな。 |
伊藤 | 滋賀には患者会はなかった? |
葛城 | なかったんや。スモンも膠原病も両方ともなかった。それで滋賀の人はみんな京都の会に入っててん。 |
伊藤 | なるほど。それで、京都難病、いや滋賀難病連というところにいきなり行ってしまうわけだ。それぞれの患者会をつくっての連合体というよりも。 |
葛城 | いや、石井さんと中西さんは自分の病気の患者会を滋賀でも作りたいと思ってはったんや、それぞれ個別にな。1984年4月28日、29日に岡山で第13回の地域難病連全国交流会があって、その時に行かはったわけや。石井小百合さんは前田こう一さんにいろいろ相談にのってもらってやはったみたい。地域難病連の集会があった時に電車の中でいろいろ聞いたはったらしいわ。ほんで機が熟してきて、この第13回の地域難病連全国交流会でやな、滋賀でもやろうやないかと思わはったんやろな、石井さんと中西さんの二人で。 |
伊藤 | 前田こう一さんというのは京腎協の人ですよね。 |
伊藤 | 石井小百合さんは京都難病連の一員として一緒に活動をしたんですね。それでその後、滋賀の方にはどういう形で? |
葛城 | 1984年に石井さんと中西さんが岡山の第13回の会合に行って帰ってきたわけや。僕がその時大津市役所にいてん。石井小百合さんも大津市の教育委員会にいはってん。ほんで葛城貞三の嫁はんが重症筋無力症いうことをそこで誰かに聞かはったんや。僕は労働組合で役員してたからな。ほんで、石井さんが、一緒にやれへんかと僕のとこにきはったわけや。ちょうど僕がその時にやな、子どもの世話とかな、それから家内が京都の宇多野病院に入院してた時に他の筋無力症の人はお金はろたれへんのに、なんで私ははらわんなん?と思とった。いろいろ話があった時やねん。で、わしもそれはもう相談するとこもないし、これちょうどええわ、もうやったろうというふうに、ほんで3人で意気投合したんや。で、その6月17日に僕とこの家で最初の寄り合い、準備会みたいなもんをしたわけや。もうそこそこの段取りを石井さんが考えてはったんやろな。その日は呼びかけ文も全部作って、そのあと県庁に持って行ったんや。 |
伊藤 | 石井さんがまだだいぶ若い時ですよね。 |
葛城 | そら若いわ。20代やから。それで6月17日にうちの家に集まったのは6人。日比(石井)小百合(膠原病)、石井正、奥村ひさ子(リウマチ)、松田正孫(腎協)葛城勝代(重症筋無力症)、葛城貞三。その時はまだ石井正くんと石井小百合さんは結婚してなくて、中西さんはみえてへんかったな。 |
伊藤 | 石井正さんは病気とのつながりはなんですか。 |
葛城 | 本人は病人ではなくて、ボランティアで筋無力症の支援をしとってん。 |
葛城 | それでうちの家の2階でな、そこで細かいことまで全部詰めたんや。 |
伊藤 | それで滋賀難病連を作ろうということになったんですね。 |
葛城 | そうそう。ほんでその年、1984年9月9日に滋賀県難病連が結成されてん。早かった。石井さんと中西さんがきちっとそれまでにいろいろ相談してくれたんやろね。26番目の地域難病連になったんや。 |
伊藤 | そこから患者会の活動に入っていくことになるんですね。 |
葛城 | そう。その時は必死やったけども今思たらようやったなと思うなあ。 |
伊藤 | 準備は前田さんと小百合さんの方で進めながら・・・? |
葛城 | その前にな、いろいろ勉強してはったわけや。 |
伊藤 | 結成したそのあとは、今度は葛城さん中心に回っていくと。 |
葛城 | まあ中心というか、今言いいよった6人が中心になって。 |
伊藤 | 初めて会ができて、即マスコミに発表するとか、県庁に行くとか、そういうことはしましたか? |
葛城 | 僕らが寄る6月までに石井さんと中西さんは別々に県の担当課(滋賀県医務予防課)に行って、その運動の助成をしてほしいという申し出をしてはったんや。だから県の担当者は、個別に来ないで一緒の団体になったら検討するとその当時は言われたらしい。だいたいどこでもそうやろ。京都でもそうや。なんせ、県としても一緒になって欲しかったんや。 |
伊藤 | そうですね。バラバラでなく一緒だった方が施策的にも受け入れやすいと。 |
葛城 | ほんで、うちの家で準備会して、その後の段取で県へ行こうと。その年、1984年度から補助金をつけてと言いに行ったわけや。県の担当者は、今年は既に予算ができているから補助金は交付できん、来年度考えようと、こう言いよったわけや。それで、マスコミにも県政記者室にも、やるでって出したわけや。それでその年の9月9日に結成したんや。6団体565人。そりゃ大きく載ったわ、新聞にね。それで石井小百合さんは会長になってな。女性の若い会長やろ。マスコミ喜びよったんや。 |
永森 | 石井小百合さんはその時、滋賀県難病連の会長だったんですか。 |
葛城 | 会長。初代会長や。ほんではきはきしてるやろ。受けたんや。で、あちこちの新聞ぎょうさん載せよったわ。 |
滋賀難病連を結成し、全国交流集会に取り組む
伊藤 | それから具体的にはどういうことを中心に活動されたんですか? |
葛城 | これはだいたいよその地域難病連も一緒やと思うけども、毎年要望書を作って県に持って行って、それで回答を受ける、だいたい年度末の県会、春の県会が終わった後にや。それで交渉の場をもったんや、ずっと。そやのに1990年に滋賀腎協の柳田貞男さんが滋賀難病連から離れたんや。多くの会員が腎協やのにな、腎協の会費が全然入らへんようになって往生したで。僕が一番困ったのはあの時や。自己財源確保いうのが課題になった。ちょうどその頃、伊藤さんが財源確保が大事やてあちこちで言うてくれてたんや。 |
伊藤 | この頃は確か滋賀で交流集会をやりましたね。 |
葛城 | 1988年に滋賀でJPC(日本患者・家族団体協議会、1986年6月結成)の第3回全国交流集会をやった。1984年に滋賀難病連を結成して1988年に全国交流集会。早かったやろ。1987年の「抱きしめてBIWAKO」の後やな。 (1987年、重症心身障害児(者)施設「第一びわこ学園」の移転費を捻出するための一大イベントで、琵琶湖一周235キロを16万人が手をつないで囲んだ。※筆者注) |
伊藤 | どういう経緯だったんですか。 |
葛城 | 小林孟史(たけし)さんにやれやれ言われたんや。「一つのことをやることによって、次のまた飛躍がある」と。小林さん、あの人は立派な人やわ。 |
伊藤 | 小林さんは当時、JPC(日本患者・家族団体協議会)の事務局長で全腎協(全国腎臓病協議会)の事務局長もしていた。全腎協は全難連(全国難病団体連絡協議会)にも入っていたから、全難連の方では副代表か何かの役割だったのかな。 |
葛城 | 他の役員は僕も含めて無理やと言ったんやけど、柳田貞男さんがその気にならはったさかいにな、できたんや。あの時はまだ柳田さんは一生懸命やったんやで。先頭に立って。 |
伊藤 | その頃の会長は? |
葛城 | この時の会長は柳田さんや。その前(1986年度)までが石井小百合さんやった。 |
伊藤 | 結成の時にマスコミとか、色々大きく取り上げてくれたっていうのですが、県庁との関係とか、医療界、病院とか大学とかとの関係というのは? |
葛城 | 僕はそこまで全然、病院とかのところには手は伸びなかった。県とだけ。県庁も当初は県庁の担当者だけや。僕は市の職員やったけど、その頃は市には請願とか陳情とかはしなかった。あとから大津支部を作るまでは何も関係なかった。 |
伊藤 | 葛城さんは市の職員だったから県との交渉には支障を来さなかったんですね。 |
葛城 | そういうことや。そんなことあまり気にならなかったなあ。 |
画期的な難病対策の文書が発表されたが絵に描いた餅に・・・
伊藤 | この時代でね、すごく印象に残る人だとか、あるいは何かエポックメイキングな話題とか活動とかってありますか。 |
葛城 | これはね、平成2年、1990年に『滋賀県における難病対策について』(※資料1参照)いうのを県側が何回も検討してまとめてくれてん。『滋賀県難病対策体系図』というのも。 |
伊藤 | それは患者会も関わりましたか? |
葛城 | いやいや。全然もう患者会抜きに。どういうことかいうたらね、保健所の保健師さんや所長、それから大津市は福祉事務所の主査、県の障害福祉課とか。永源寺町住民課とか。これは素晴らしい中身やってん。(葛城、2019、p288)。これをまとめた一人の前田博明さんという人が大津保健所総括専門員だったのが、後の難病関係の課長になったわけ。それは良かったけどそれ以外のところは非常に辛かったわ。県庁の担当課を訪ねて行ってもな、また来よったいうような雰囲気やな。ほんでこっちは腹立つしやな、もう何とかせいとか、よう言いに行った。そういう辛い目には遭ったけども、この難病対策についての文書は特筆すべきこととして評価できる。しかしながら絵に描いた餅や。作っただけ。議会にもかけとらん。予算化もできてへん。ただ絵に描いた餅。そやけど中身は素晴らしい。この前田さんはこれを作るのも公表するのもかなり苦労したと思うわ。昭和64年度にはこれだけの予算を使うとかいうとこまでも試算しててんで。素晴らしい中身やからお帰りになったら紐といていただいて・・・。それ以外は、少しだけ補助金を上げるとかいうような具合でお茶を濁しとったんや。課長やら部長が交渉に出てくるというのは何年かしてからやで。最初は担当課の係長やで。それが粘り強いわしらの功を奏してか、部長が出てきたりしよったわ、後ほどな。 |
難病の議員連盟ができて活動に弾みがつく
葛城 | やっぱりこの当時のJPCの請願署名がすごいで。1986年に滋賀県だけで6,600筆、42万4726円のカンパ集めてるもの。 |
伊藤 | 県の人口はそのころいくらでしたか。 |
葛城 | もう100万ぐらいいってたかな。 |
伊藤 | じゃあその半分ぐらい集めたと。 |
葛城 | まあ1人1円としたらな。この時に力出したのは腎協やねん。それはきばったでえ。カンパ集めるのに。 |
伊藤 | やっぱりそこら辺が大きな何か変わり目という感じですか。 |
葛城 | うん。あくる年の1987年にすでにJPCから打診を受けているわ。交流集会を滋賀でやってくれいうて。1987年に福島の二本松の岳温泉で25団体120人集まって全国交流集会があった。あの時、僕言ってん。来年は滋賀でやりますよ、皆さんおいでくださいって。ええかっこしてた。その明くる年に石井百合子さんが透析に入ったんやな。 |
伊藤 | 石井さんは京都の難病連と滋賀の難病連と両方を掛け持ちしてたんですか。 |
葛城 | 1984年に滋賀が独立した時に滋賀だけになった。そのあと宇治に引っ越して宇治難病連の幹事をやったわけやな。そして、そのあと一時期また京都に戻った。 |
伊藤 | 今は石井さんは京都で何かやってるんですか。 |
葛城 | 彼女は社会福祉か何か相談のってるんちゃうかな。ご主人の正さんが、宇治の市役所を退職して200何万円使って鍼灸師の学校へ入ってん。ALS患者さんや難病患者さんを支援するために。彼ようやりはったで。 |
伊藤 | 滋賀で交流集会をやったりした後、医療関係や保健関係との連携は? |
葛城 | 滋賀でやった全国交流集会は200人ほど集まってん。主に保健師とか看護師とか医療職が参加をしたというのが特徴やったらしいわ。僕は知らないけどJPCの機関誌にそう書いてあった。僕は具体的に各団体に呼びかけた訳ではないけど、それぞれの団体を通じて参加した。この交流会は僕らの自信になったと思う。 |
伊藤 | ちょっと話が寄り道しますけど、(2005年から2009年まで理事長だった)森幸子さんがよく言っているのは、嘉田由紀子さんが知事になった(2006年から2014年)ことによって、県との関係っていうのは劇的に変わったと。 |
葛城 | それは見方が違うわ。嘉田さんが知事になって、役員で会いに行こう言うて申し入れて、えらい延ばされてやっと会えたのが15分間だけやで。で、補助金を増やせというてもな、難病も大変ですねえだけや。僕の嘉田さんに対する評価というのは辛いで。 |
伊藤 | それは役員の人たちの中でも違う?。 |
葛城 | 違う。その前の国松善次さんは難病に対する思いやりがあった。当時の知事を前において、あんたではとか言われへんさかいに。そやけどね、2008年に僕の運動の中では一番大きなできごとがあった。2008年の9月に、全国で初めて滋賀県難病対策推進議員連盟が42人の議員中38人で、超党派で誕生したわけや。僕はそれをもっと評価してもいいと思うんやけども、その当時にJPCでは当時代表だった伊藤さんも含めて、あんまり評価されんかったなあ。なぜか言うたらね、あれができてから、滋賀県の難病連に対する姿勢がころっと変わってん。部長は出てくるわ、一生懸命に段取りもしよったわ、回答にもない知恵絞ってやるとか。執行機関と議会が関係していると思う。議員連盟ができたということは、今までそんなに重要視してなかった難病連に対する見方を県、執行機関自身が変えたということや。それがいろいろな対応にも反映するし、要求に対してな、何とかしてやりたいと思ってやな、知恵を絞る姿勢に変わってきたわけや。それって大きなことやと思うで。 その大きな原因は担当課長になった角野さんの働きや。角野さんは憲法25条を大事にしてやはった。国松知事にも理解があった。 |
難病相談支援センターの運営を受託
伊藤 | 県が難病相談支援センターを滋賀難病連に委託した頃のことを教えてください。 |
葛城 | 県から難病連への補助金が0になったんやな。2007年に難病相談支援センターを難病連に委託して最初の予算が820万円ついた。そのために補助金をゼロにした。あれは怒りを感じたわ。 |
伊藤 | 支援センターに補助金をつけるのはわかるけど、ゼロにした理由というのは。 |
葛城 | たまたま担当者がそう言いよった。だから県の中ではもっと上手にやれと思とったんちゃうやろか。僕はそれまで、難病連が難病相談支援センターの運営を受託したんやからな、その予算を使うべきでないということで、区別してきたわけや。そやけど、ゼロにしたということは、もうそういうのではなくて、そこから適当につこたらええやないかと、思っとるんちゃうやろか。 |
伊藤 | というか、本来別のものなのにね。 |
葛城 | 別のもんや。だから、怒り心頭に達したんや。だから自己財源を作らないかん、というふうに腹くくってん。ほんで一生懸命に入れ歯リサイクルの資金活動や賛助会員増やし、自販機などに全力を挙げたのや。 |
伊藤 | そうか、自己資金の必要性はそこでできたんですね。 |
葛城 | そうやねん。もうおんぶに抱っこではな、やっていけへんやないか。自己財源せなあかん、というので、県の病院協会の会議のとこへ行って、不要入れ歯リサイクルボックスをおかしてくれというたりな。それで2008年の4月に県の異動があって4月に角野文彦(かくのふみひこ)さんという人がどこかの保健所の所長から来て担当課長になってん。その前の月の3月に日本ALS協会滋賀県支部とうちの管理者が一緒になって、その県の議会議長に会いに行ったんや。その議会議長の議員になった出原逸三(ではらいつみ)という議長は、当時の民主党、今でいう立憲民主党や。あの当時民主党が政権とってた。民主党は2009年8月30日の選挙で勝ったんやな。それまでは自民党の議長やったんや。ほんで、ちょうど民主党政権のときに出原さんが議長になっていると思うわ。その時にたまたま議長にお願いに行ったわけや。国でやっている難病議連をなんとか滋賀県にも作ってほしいいうて。その出原さんの友達がALSやったんや。 話を聞いてなんとかしてやりたいと思わはったんやろな。そんでその9月に滋賀県に難病議連ができたわけや。 |
伊藤 | 議長の友人がALSだったということも影響して難病議連ができたわけですね。 |
葛城 | 3月に僕ら議長に会うて、4月に角野さんが課長になって、そして9月に難病議連ができた。議長が声をかけるとすぐに執行機関に伝わるわな。そしたら何とかせないかんと思うやん。角野さんが一所懸命きばらはったんや。そしたらな、この話ししかけたら終わらへんけど、僕らはね、難病連の事務所を公的機関の中におかせてと昔から要望し続けてきたんや。ほんで滋賀県厚生会館に移るように段取りしよったわけや。移ったらな、1平米あたりいくら言うて金出さなあかんわけや。あの面積を使おうと思ったら年間60万円かかるわけや。それまで18万円ですんでいたのが60万円。 |
伊藤 | それまではどこにいたんですか。 |
葛城 | その前は守山市にある県の障害者の療育センターやな。4畳半ぐらい部屋で年間18万円ですんでた。県の建物やから単価は一緒やな。それが今度は広うなったさかいに60万円になったわけや。家賃を折半していた腎協も出ていったのにとても払えへんやないかと。その時にちょうど角野さんと難病議連が上手にあいまったかしらんけども、県が考えよったのは、難病患者の交流の場所にそれを当てはめて、難病連に貸すのはこれだけの面積で結構ですということで家賃年間20万ですんだわけや。そういう知恵が働くわけや。県の職員は非常に賢いな。その気になったら賢い。その気にならすのが難病議連の存在や。 |
伊藤 | そういう中で相談支援センターの活動に移っていくわけですけれども、組織の活動としては何か目立つようなことは。 |
葛城 | 街頭署名活動とかな、JPCが呼びかけられたらカンパ集めるねん。カンパを集めるためには各団体がその気にならなあかんやん。今はつぶれたけど西武百貨店の前で1年に1回、拡声器を持って行って署名用紙みんな各団体から出てきて集めてた。それから県庁の労働組合や市役所の労働組合に署名を頼んでたわ。 |
ヨーロッパの研修旅行で受けた衝撃
伊藤 | 難病連ができてからその間までに葛城さん、ヨーロッパの研修旅行に参加したり、研修に参加したり、いろいろやりましたよね。それに本を出したり、大学に入り直したりしますよね。そのあたりの話をちょっと簡単にお願いします。 |
葛城 | 北海道難病連のやったヨーロッパ医療福祉視察旅行。1990年(平成2年)5月26日から6月8日の14日間。これに参加して僕は日本の社会保障制度というものの遅れを実感した。ショック受けた。これはあかんと。というのはあれだけ重度の障害の人が一人暮らししてな、自分で飯作ってる。けど僕は英語しゃべれへんさかいな、通訳の人に、自分で調理するというけどあんた手も動かへんし足も動かへんし、どうしてしはんのやと聞いてもろたんや。そしたら自分の指定するヘルパーに調理の全部、味加減も指示して、作らすんやと。びっくりしたわ! |
伊藤 | 当時の日本では考えられないですね。 |
葛城 | 平成2年の話やで。同じ部屋に泊まった人がビデオ撮ってくれはったから、進呈するわ。他に写真もたくさんあるで。 |
伊藤 | ありがとうございます。デジタル化して保存します。 |
葛城 | この研修旅行ではイギリス最初に行ったんや。 |
伊藤 | 参加者23人プラス旅行社からついてきてる人が2人ですね。この頃、1か所のホテルに長く泊まったから楽だった。 |
葛城 | 全部段取りしてくれて良かったであれは。おいしいのも食べたしよ。伊藤さんというのはもう神さんみたいなもんやで、よう段取りしてな。現地のああいう施設をくまなく視察してやな。この視察で、何度かショックを受けたね。こういう研修旅行をまたやって欲しいと思うな。 |
伊藤 | この頃は海外にはこうやって集団で行かなきゃいけなかったけど、今はもう個人旅行の時代ですね。 |
60歳から介護福祉士と社会福祉士を取得、そして博士論文執筆
葛城 | 平成元年、1989年3月に市役所を辞めて、民医連の坂本民主診療所の事務長になった。10年そこにいてん。60歳で辞めて、それからは僕の勉強の時代に入ってん。辞めた年、1989年4月に介護福祉士の学校へ2年行ってん。それに引き続いて2021年4月に仏教大学社会福祉学科の通信に入ってん。社会福祉士になろうおもて。 |
葛城 | そうそう。1993年3月に診療所を退職してるわ。4月に介護福祉士の学校に入ってるわ。2001年3月にそこを卒業しているわ。その4月に仏教大学の社会福祉学科に入学している。2005年の3月に卒業。4年間やな。翌年の2006年の4月に立命館の大学院に入ってるんや。2017年に大学院終わってんねん。その成果?・・・。 |
伊藤 | 2017年と10年もいたの? |
葛城 | そうやで。論文まとめるのにどんだけ苦労したか。それまでに姉の介護したりな。ALSの。 |
ALSの姉を介護した後に介護支援事業所を開所
伊藤 | ALSはお姉さんでしたか? |
葛城 | そう。実の姉が2001年1月に発病した。2005年の10月30日に亡くなってん。僕の介護している目の前で息を引き取ってん。姉は気管切開をして呼吸器をつけてでも孫の行く末を見届けたい。こう言うて、みんなにも公言してたけども、それが介護する態勢が整わず、やむなく命を絶ってん。それが僕の次の人生を歩ませたんや。 |
伊藤 | それから変わるわけですね。 |
葛城 | そうそう。今日のうのうと仕事させてもうてんねん。 |
伊藤 | 今やっておられるのは、ALSしがネット・・・? |
葛城 | 特定非営利活動法人ALSしがネット。これ2010年8月に認定を受けたんやな。訪問介護事業所ももこれが2010年10月1日にスタートした。その次の居宅介護支援事業所部門がスタートしたのは翌年の2011年6月1日。訪問介護事業所部門は介護保険法と障害福祉サービスの居宅サービスも併せてやってる。そこからや。 |
伊藤 | 結局それ以前の時代とまたちょっと違う時代に僕は入ったと思っているのね、患者会の活動の中で。だからその象徴だと思うんだけど、普通の生活をしているところに本人が発病か家族が発病か、どっちにしてもそういうものが降ってきて、それで闘病の生活あるいは介護の生活があって、患者会に結びついた。ところが葛城さんは初めのうちは自分のことじゃなくて、自分の奥さんのことがあったにしても、仕事もしていてそことの関係でいろいろな難病関係の人たちとも知り合って、そして職業柄、支援するはずだったのがのめり込んでいったという感じで。 |
葛城 | ちょっと違うな。この本を書いたのはそういう誤解をとくために書いたんやけどね。今言うたこと、簡単にまとめたんや。要素だけをね。滋賀県難病連を作ったのは、その家族の重症筋無力症の発症がもとで、そこで苦労して子育てとか生活に苦労して、それの相談するところはどこもなかったというのがちょうどその時に中西正弘さんと石井小百合さんの話を受けて、ああそれは大事やという風に思ったのがその始まりやろ。だから実姉、姉の2001年のALSの発症を介護を通じて、在宅で重症の難病患者が生き続けられる仕組みが必要や、というのは、この事業に結びついてるわけや。だからこの事業は、在宅で医療の必要な人たちが安心して暮らし続けるためのスタートになればいいなと思ってこれをやってきたわけやな、この12年間。確かに20数人の方のALS患者さんや重症難病患者さんの世話をしてきた。今も5人の方に昼夜を問わずやっている。しかし、それが広がれへんね。それが課題や。その課題をどうして広げるかっていうのが今取り組んでいる大津市と県に対して要望書をこの9月に出したんや。ここから次の戦いが始まるねん。それが1番大事。 |
伊藤 | 会の次のとっかかりね。 |
看護師資格のあるヘルパーが在宅療養を支える仕組みを考案
永森 | 今ヘルパーさんは何人ぐらいいらっしゃるんですか? |
葛城 | 16人。 |
永森 | 昼夜問わず? |
葛城 | みんながみんなちゃうよ。条件がある人がその条件を満たした時だけ働いてもらう、いわゆる登録ヘルパーというね。常勤で仕事しているのはうちの管理者とサービス提供責任者、これは常勤でなかったらあかんのでね、2人だけ。あとは全員登録ヘルパー。ケアマネージャーもあとは登録。だから2人だけで切り盛りしているさかいに、財政的にはそれなりの利益に結びついているわけや。このやり方がええか悪いかはまた別の話やけどね。もっと力蓄えて広めないかんという論理もあるやろうと思うけどね。今うちのホームページに財政も全部公表しているけども、今の繰越金だけで6,100万ですわ。 |
永森 | ええ?!そうなんですか。 |
伊藤 | 6,100万?ほお。でも率いいほうじゃないですか。 |
葛城 | それ何でかいうたら、いわゆる医療的ケアを多く携わっているからね。身体介護というのは簡単に言うたら1時間4,000円。買い物とかお掃除とかいうたら1時間2,000数百円や。身体介護の方がうちでは75%から78%、ずっと毎月ね。だから単価の高い仕事を多くしているから収入も増えるわね。もちろんヘルパーさんには、登録ヘルパーやさかいに、仕事のある時しかお金払わへんけどね。雇ってる側からいうたら効率はええわね。ええことばっかりちゃうで。その逆の場合はあるわな。いつでも応えられる状態にないわね、要望に。四苦八苦するわね。説得、お願いしていってもらうとかね。今も2人のヘルパーさんに1晩中ついてもらう障害福祉サービスの重度訪問介護ちゅうのをね、やってもらってるけどね、それはもう大変やで。僕はその仕事してへんさかいに、口でいうてるけども、やってる人はいつ何時にその人の呼吸が止まるかも分からんというような状態の中で介護してるんでね、目を離せへんわけや。それが晩の8時から翌朝の6時までずっと続くわけでしょ。誰でもできるわけではないわ。うちは、看護師資格の登録ヘルパーさんが5人いはんねん。それに支えられてるわけや。だからね、僕の発想はね、看護師を退職してはった人っていはるやん。60や70で退職しはるやん。その人たちが、もうちょっと力を貸してほしい。そういう組織ができたらね、何も在宅にいてもうたらええねん。その近所の利用者さんのところへ派遣して、行ってもうたらええんやから、どこかの事業母体があって、そこに登録してもうといてほんで連携しながらそこで行ってもうたらええんやからね。ここでなくてもどこの事業所でもええねん。訪問看護ステーションですと、1時間8,000円やわ。だからうちらの訪問ヘルパーの倍や。しかしながら、そこでいはる時間は30分から2時間まででしょう、最大でも。後は全部家族に任されるわけやろ。夜中、訪問看護ステーション行かはるか?行かれへんやん。早朝、深夜行く訪問看護ステーションあらへんやん。誰がやるんやっていったら今家族がやってるわけや。家族は疲弊困憊して、倒れる寸前や。やっと障害児に対しては法律ができた。各都道府県にはセンターを作らないかんいうた。しかしながら、親に代わってヘルパーがそれを賄うかというと、そこまでいってへん。法律ができてもそんな状態や。ましてや成人の場合はもうほったらかしや。 |
伊藤 | それは訪問看護の話ですよね。 |
葛城 | うちでやってるのは居宅支援介護。 |
伊藤 | あ、訪問介護だからだ。 |
葛城 | 訪問介護事業所。訪問看護ステーションは、伊藤さんとこの甥御さんがやったはるやろ。 |
伊藤 | それとは違うんですね。 |
葛城 | うちは訪問「介護」事業所。その訪問介護のヘルパーさんに看護師資格のヘルパーさん5人いはる。 |
伊藤 | 贅沢かも。 |
葛城 | 贅沢や。これはもう70近い人もいはるし。 |
永森 | 皆さん、長年やってらっしゃるベテランさんが多いんですね。 |
葛城 | 最初はもう何も、みんながみんなちゃうで。あ、うち、今やってくれたはる5人は、みんな連続してやったりな。退職してずっとそのまま来てもうてる。 |
伊藤 | 何か診療所の事務長をやった経験というのは何か生きている? |
葛城 | やっぱりそういうところのメンバーが協力してくれてはる。だからね、僕思うんやわ。各地域に病院あるやんか。病院を最後まで勤めたらもう家へ帰りはるやん。民医連もそうやし、日赤でもそうやし、市民病院もそや。そういうところのもう60、70の人たちが最後、5つの医療行為だけでいいわけやから、ヘルパーができる医療行為っていうたら5つしかないんやからね。それをやってもらえたらな、そんな大したことないわな。もうやってはったことやから。その力を全国的にそういうふうに、うちは全市的にやな、できたら面白いな。 |
永森 | こういう試みをやってるような、他の事業所ってあるんですか。 |
葛城 | 僕は聞いたことない。そういうようなものをもっとJPAなんかの発想に取り入れられへんかな。 |
伊藤 | 従来の訪問看護と訪問介護の間が切れてるんだよ。そのうまいぐあいに潜ってるんですね。 |
葛城 | ヘルパーと看護師でずっと24時間を埋めあわせるような仕組みをつくらないかん。 |
伊藤 | それはできる。 |
葛城 | ヘルパーとヘルパーの間は2時間空けなあかん。その間を看護師とか訪問リハビリとかいろんなのがあるやん。そういうのをつなぎ合わせて1日ずっと看るわけやな。 |
伊藤 | 訪問リハもやってる? |
葛城 | うちはやってへんで。伊藤さんとこ(みかん訪問看護ステーション)はPT(理学療法士)、OT(作業療法士)入れたら訪問リハビリできるな。 |
永森 | 葛城さんの方が詳しいですね、みかん訪問看護ステーションについて。 |
葛城 | 僕もヘルパーでたまには行くんやから。 |
伊藤 | なるほどね。でも巡回型ってのはやってない? |
葛城 | はいはい。そんなん大津市であんなもんでやれる採算とれるわけない。 |
伊藤 | 採算合わない。 |
葛城 | そんなんもっと要望一杯あったらな。ほんでちょこちょこっと、小さい地域を回るんやったら、出来るわな。うちの理事に寺田というのがいるんやわ。それは元市役所の介護保険課長やってん。彼が課長の時にわし行って、訪問の看護でどうやと、そんなもん葛城さんやめとき。あんなんは採算とれへんでって。うちはヘルパーやからな、できひんけども。 |
博士論文を「難病患者運動」として出版
伊藤 | 忘れる前に聞いておきます。この本のことをちょっと聞きたい。大事なことなんで。この本の発行は自費出版じゃないんでしょ? |
葛城 | これは自費出版や。けども立命館の大学院から補助金をもろうてるわけな。審査に通ったら100万円くれはんねん。あとは自分のお金出してとってん。 |
伊藤 | プラス自費と。これ出版社どこですか。 |
葛城 | 生活書院。僕が行っていた立命館大大学院は、だいたい自費出版するときにはこの生活書院をつこてんねん。要領ようわかってはるから。段取りがええねんやわ。 |
葛城 | このALSしがネットのニューズレター(※資料2参照)に「難病と関わって50年」って書いてあるやろ。これはほうっておいたら、僕だけの体験で終わるやろ。滋賀難病連だけでも今39年やろ。せめて記録として残す必要があるっていうのがこれを出す一つの動機やった。それともう一つは、ALSの姉の介護を通じて、生きたい人間が生かされへん、この矛盾をどうしたらいいんやというのが、ALSしがネットを作った理由や。今はその2つを理由に挑戦してんねん。 |
歴史に学ぶ、それを生かす、その視点を大切に
葛城 | 歴史を学んでそれを次の運動に生かすという視点は大事だと思うねん。それ言わはったん長宏(おさひろし)さんやねん。長さんが何かの交流会の時に、歴史に学ぶ、それを生かす、その視点を大事にせないかんと。それもこの本に書いた。伊藤さん、ここで一杯書いてあるで。ええことも悪いことも書いてあるで。 |
伊藤 | 悪いことも書いた? |
葛城 | 僕な、何に文句を書いたのかいったらな。地難連ニュースにあの時の伊藤さんの書いていることは、素晴らしいと思うわ。いわゆる障害施策の中でね、今の日本の障害の施策は等級を入れて、それに入らへんかったらもう障害からはずれるやろ。そういうのはおかしいやないかと。その人が生きるについて不自由なことあれば障害なんやからな。それを賄えるような法整備をせないかんというふうにいうとこあんねん。それは素晴らしいことやわな。それが2015年1月にできた難病法な、あこでは151疾患やったかな、2015年の時には増えたで。大きく増えたけども、あこで限定したわけやな151というのはな。そのことをJPAは推進したわけや。そうすっと、そこで取りこぼしちゅうのか、その当時やで、152とか3が生まれてくるわけやろ。その人たちをどうするのかということがな、見えてきいひんわけやな。JPAの役員の構成でもそういう人たちが主人公になるような運動にせえへんとな、いつまでもこれが続くと思うんやな。やっぱり全ての難病患者がその人の生きざまに応じて認定をしていくということをせえへんかったらな。僕はこれはちょっとおかしいなと思て。 |
伊藤 | 歴史に学ぶというのは僕らもそう思ってて、資料はいっぱり残さなきゃならないし、それを散逸したりなくなったりする前にきちんととっておかなきゃならないと、記録しておかなきゃならないと思ってやってるんです。 |
葛城 | これ、全難連の機関誌のこれ、第1号やで。 |
永森 | ええ!すごい! |
葛城 | 第1号からな、これ59号やろ。あと続いてへんのやけどな、53やろ、あとはもう集めるだけ集たんやな、抜けてるで。最後93や。これだけが載ってんのや、日本の患者会WEB版に。あと全部これに載ってへんからな。 |
永森 | 提供してください! |
葛城 | これが生かすも殺すも永森さんの腕や。腕にかかってるんや、これ。 |
永森 | 問題ありません。あっという間に。生かしますよ。 |
伊藤 | 滋賀難病連で今日話をしてきました。機関誌をぜひ載せさせていただきたい、検討してくださいと頼んできました。 |
葛城 | 滋賀難病連の機関誌もな、第1号から全部持ってんねん。向こうあらへんで。 |
永森 | ないっておっしゃてましたよ。 |
葛城 | 全部僕もっとんねんやもん。 |
永森 | そうなんですよ。 |
伊藤 | 検討するって言ってた。 |
永森 | 今日、滋賀難病連の方々が言ってたのは、葛城さんから資料を提供していただいて、日本の患者会Web版で電子化した後に、その資料を滋賀難病連に戻すってことはできますかって聞かれたんで、できますって。 |
葛城 | ほんま。そういうルールを作ってくれたのはありがたい。 |
永森 | ぜひぜひお願いします。 |
葛城 | 今日、かなり量があるからな。あとで送るわ。 |
永森 | ありがとうございます。 |
患者会の歴史を記録する「日本の患者会WEB版」に期待
葛城 | 日本の患者会WEB版に出してくれている地難蓮ニュース、あれがこの本に一つの大きな厚みを出してもうてんねやなと。それから全難連。最初の導入部分を使わせてもろてん。 |
永森 | 使ってくださってうれしいです。 |
伊藤 | 滋賀難病連の資料は載ってないのかな。 |
永森 | それは葛城さん個人が全部お持ちだから、滋賀難病連の資料は一つも載ってないんです。 |
葛城 | ほんでな、日本の患者会のとこに滋賀難病連にな、全部載せて欲しいと思ってんねん。全部材料あるさかいにな。 |
伊藤 | 滋賀難病連の機関誌も収録させてもらうと、葛城さんの言ってたことの一連の経過っていうのがわかるわけですね。 |
葛城 | それとね滋賀難病連の機関誌が日本の患者会WEB版に掲載されることによって、他の地域難病連にね、うちも載せようというふうになってもらえたらありがたいわけや。 |
永森 | 今のところ全部載ってる難病連は一つもないんです。 |
葛城 | そうやねん。あれ見たけどほんまな、もうもったいないわ。せっかくのコーナーがあるのに。 |
永森 | 代表が変わった時に全部削除して欲しいと言われることもありますし。 |
葛城 | それはほんまに情けないな。 |
永森 | そうですね。歴史的なものだって言ってもなかなかわかっていただけません。 |
葛城 | 周りがそういう運動で充実させていかなあかん、あれっ!これええんやというふうになればな、あれ活きていくと思うんや。 |
永森 | ありがとうございます。 |
葛城 | 唯一あれしかないんやから、日本の患者運動は。 |
永森 | 本当は北海道難病連の資料はすべて電子化してあるんですけれども、載せちゃいけないって言われてるので。 |
葛城 | それ、もう悲しいな。 |
永森 | かなりの資料なんですよ。本当は。すごく価値のある資料だと私は思ってるんです。 |
葛城 | 思うで。 |
伊藤 | しかもほとんどが僕の時代にあったことで、しかも書いたのは僕なのに、それを使えないって、そんなバカな話ない。1回公開してあるものを。 |
葛城 | やっぱり実際にそれを充実させていったらな、それをつこうてきたらだんだん値打ち出てくるし、そういう運動にしていかなあかんと思うわ。学んでもらえるものを残しといたらな、いつかまたそれも目通した時に気ついてくれはるやろ。大変やけどがんばれよ。 |
永森 | はい、ありがとうございます。 |
資料1
滋賀県における難病対策について
平成2年3月 滋賀県難病対策検討委員会
滋賀県難病対策検討委員会委員
- 委員長
- 浜川和子 草津保健所保健予防課長
- 委 員
- 前田博明 大津保健所総括専門員
青根明子 木之本保健所保健指導係長
松吉利子 永源寺町住民課保健係長
辻 恵子 甲賀福祉事務所主査
金尾 浩 大津市福祉事務所主査
大道隆和 障害福祉課育成係主査
中村昴一 医務予防課専門員(兼予防係長)
はじめに
かつて難病として恐れられた結核・がんなどの疾病も医学医術の進歩と関係者の努力により克服されつつある。しかし、原因も未だ解明されず治療方法も確立されていない疾病が数多くあリ、その数は200種類とも300種類ともいわれている。
厚生省は昭和47年に「難病対策要綱」をとりまとめたが、そのなかで難病とは①原因不明、治療方法が未確立であり、かつ後遺症を残すおそれが少なくない疾病、②経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護などに著しく人手を要するために家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病と定義付け、難病対策を国の施策の大きな柱として取り上げた。それ以来、調査研究の推進、医療費の軽減(治療研究事業)、医療施設の整備を3つの柱として対策を推進しているが、地方自治体における難病対策はまだまだスタートしたばかりといって過言ではなく、本県においても保健、医療、福祉さらには地域の人的資源を活用した有機的な連携による総合援助体制の確立が望まれるところである。
本県における難病対策の現状について
本県においては、昭和48年度から難病のうち厚生省が特定疾患として指定した31疾患(平成2年1月1日現在)に対し、特定疾患治療研究事業として医療費の自己負担分を公費負担とし、医療費の軽減を図るとともに、患者団体である滋賀県難病連絡協議会が実施する医療相談、広報啓発、調査研究活動等に対して補助をしている。
また、平成元年度には県および市町村の関係職員を対象に難病講演会を開催するとともに昭和63年度に実施した特定疾患患者実態調査結果をとりまとめた。
さらに平成2年度には、行政関係職員および特定疾患患者とその家族を対象に難病講座の開催を予定しているほか、疾病の説明、看護・介護方法等を内容とした「しおり」の配布、水口保健所において難病相談窓口開設にかかる調査研究の実施を予定しているところである。
先述の特定疾患患者実態調査結果を基にして「滋賀県難病対策検討委員会(委員会)」で総合的援助施策を検討しているところであり、いままさに本県における難病対策ははじまったばかりと言える。
滋賀県の難病対策として実施すべき事業内容について
本県が難病対策をすすめるにあたっては次の6項目について関係部局の取り組みが必要であると考えます。
- 推進体制の整備について
- 患者の把握と情報の提供について
- 啓発活動について
- 難病相談窓口について
- 地域ケアについて
- その他の施策について
以上、各項目について詳しく述べます。
1.推進体制について
本県の難病対策を推進するには、まずその体制づくりが基本である。ついては、地域における難病対策の核を保健所とし、保健所ごとに「難病対策地域推進会議(仮称)」を設置する。
ただし、この会議の位置付けとしては、既存の組織を活用し、保健福祉サービス調整推進会議の部会とするのが望ましい。
組織は、保健所、県福祉事務所、市町村(保健、福祉)、郡市医師会、地域中核病院、ボランティア団体とし、事務局は保健所とする。
また、構成は機関長レベルと実務者レベルの二段階とする。
なおこの会議で検討すべき事項は大きく分けて次の4項目が考えられるが、いずれも内容に適した人選によるチーム編成にし、実施はできるかぎり既存の組織の活用が望ましく、関係各機関への働きかけが必要である。
難病対策地域推進会議の検討事項
- 難病相談窓口の運営について
- 個別ケア、集団ケアの推進について
- ボランティアの育成について
- 構成員の資質の向上(研修)について
さらに事業の実施については、例えば訪問看護・介護、窓口相談、リハビリテーション等が想定されるが、窓口相談は保健所実施、その他については、主として市町村で実施するのが効果的であると考える。
2.難病患者の把握と情報の提供について
総合的施策を実施するためにも、また患者個々の状態に応じた個別ケアを実施するにも難病患者の実態把握と患者および患者家族等に対する情報の提供は、必要不可欠なものである。
はじめに難病患者の把握の方法として次の手段が効果的と考える。
- 定期的な情報交換の場の設定による把握方法
- 相談窓口における患者、家族から
- 特定疾患受給者証交付申請時の面接から
- 難病対策地域推進会議における情報交換から
- 保健所・市町村保健婦と病院看護婦との継続看護検討会の連携の中から
- その他の方法による把握
- 保健所単位に医師会と協議して届出協力を得る。これには患者の日常生活が向上する制度的なものがあれば協力を得やすい。
- 特定疾患患者手帳を所持することにより、医療ケアや福祉ケアを受けられる等メリットの付加からさらには難病患者の実態を把握して個別ケア等、実践に移すための準備が必要であり、それには聞き取り調査の実施による難病患者台帳(個票)の作成が必要である。
聞き取り調査は、特定疾患受給者票交付申請時を利用した面接が効率的であり、その内容は次の項目が想定される。現在の症状、日常生活、日常動作、現在の医療の状況、困っている内容、制度の利用状況、家族の状況等であるが、中でも訪問看護・介護等にむすびつけるためにも家族構成、経済力、家族の介護能力、家族の健康、主治医に対する信頼度や将来の医療に対する考え方、情報の入手経路の把握は重要である。
また、情報の提供としては次の方法、例が考えられる。
- 提供方法 保健所窓口、市町村広報、チラシ、民生委員、福祉事務所・役場・病院の窓口、有線放送
- 掲載内容例 相談窓口、リハビリ教室、交流会、制度利用、医療機関紹介、難病知識
3.啓発活動について
在宅療養が効果的に行われるには、患者および患者家族に対する継続的な啓発はもちろんのこと、難病患者を地域で支える環境を作り出すことが肝要である。
まず、患者および患者家族に対する啓発活動としては、在宅療養知識の普及や在宅介護の方法等の講習会の開催が考えられる。
これらをきっかけとして、患者同士また患者家族同士の交流を促進させることも可能である。
また地域住民の理解と協力による人的資源の活用することは、地域ケアの推進していく上に、最も重要でかつ、最大の課題であるといえる。それには地域住民参加による①家庭介護講習会。②中高年健康教室。③リハビリ関係者技術講習会等の開催が考えられ、これによってボランティアの育成を図る必要がある。また、既存の市町村社会福祉協議会登録ボランティアの掘り起こしも有意義である。
4.難病相談窓口について
本県においては、特定疾患医療費公費負担申請の窓口が保健所になっていることから、相談窓口を保健所に常時開設し、申請時に保健婦等が面接したり、簡単なアンケート方式の「療養に対するおたずね」などを作成し、問題が把握しやすいように努める必要がある。
窓口で、患者および家族の窮状を察知して早期に援助を開始することが肝要である。
また、保健所単位に一か月から数か月に一回開催を目処とした難病対策地域推進会議の実務者レベルによる難病相談会を開催することが望まれる。
この実施には身体障碍者巡回相談を利用することも一方策であり、移動相談の実施も検討に値する。
いずれにしても、相談をどのような形でケァや医療に繋げるかが、重要なポイントである。
さらにこの相談会を神経難病、膠原病、消化器系等に大別した重点的な開催とし、専門医同伴による相談会とすれば理想的と言える。
なお、相談内容としては次のものが考えられる。
病気の理解、不安の軽減、正しい治療の継続、福祉制度の紹介、早期の専門医療機関受診勧奨、重症化の予防、在宅医療の推進、医療機関の適正利用、補装具の使用指導、遺伝相談
おわりに
以上、保健・医療・福祉の連携を背景として各事業を述べてきたが、たとえそれらが完遂されたとしても本県は将来的に大きな課題を残しているといえる。
早期に病気を特定し、早期に適正な医療を受診できる体制が整っていれば難病患者にとってどれほどの救いになるだろう。
願わくば、県内医療機関在職医師による難病研究グループを育成し、その活動に対する研究費助成等を通じ、難病相談会への派遣を実現すること。さらには公的医療機関における難病診療窓口開設への努力が求められる。
滋賀県難病対策検討委員会開催経過
- 第1回 平成元年10月23日 厚生会館3-C会議室
- 議題 委員長選出、特定疾患実態調査結果について
- 第2回 平成元年11月30日 大東市
- 先進地視察
- 第3回 平成元年12月26日 厚生会館3-C会議室
- 議題 具体策の検討について
- 第4回 平成2年1月10日 草津保健所会議室
- 議題 同上
- 第5回 平成2年2月13日 大津保健所会議室
- 議題 同上
- 第6回 平成2年3月26日 草津保健所会議室
- 議題 厚生部長報告案について
以上
滋賀県難病対策体系図
〔昭和64年度〕 | (昭和63年度) | |||
---|---|---|---|---|
難病対策 | 難病対策推進事業 | 滋賀県特定疾患対策協議会の運営 | 1,162,000 | 1,038,000 |
(仮称)滋賀県難病問題懇話会の設置 | 702,000 | 0 | ||
難病講演会の開催 | 147,000 | 0 | ||
保健婦に対する難病患者看護研修 | 357,000 | 0 | ||
難病患者実態把握事業 | 保健婦による在宅患者等訪問指導 | 277,000 | 277,000 | |
難病相談所の設置 | ||||
難病患者実態調査 | 0 | 1,000,000 | ||
治療研究事業 (医療費補助) | 特定疾患治療研究事業医療費 | 163,291,000 | 143,166,000 | |
スモン患者鍼灸マッサージ治療費 | 1,296,000 | 760,000 | ||
特定疾患の治療研究委託 | ||||
難病団体育成事業 | 滋賀県難病連絡協議会運営費補助 | 500,000 | 300,000 (別途、全国大会開催補助 30万円) |
|
(合計) | 167,732,000 | 146,541,000 (146,841,000) |
資料2
難病と関わって50年
1976 (昭和51)年妻が重症筋無力症という難病に罹ったことがキッカケで1984(昭和59)年9月滋賀県の難病患者の患者会、 滋賀県難病連絡協議会を仲間と一緒に結成しました。当時は26疾患が医療費の助成の対象でした(今は361疾患が医療助成対象)。難病患者をとりまく環境は整っていなく多くの患者・家族は困っていました。患者会ができてからは主に滋賀県に対し毎年要望書を提出し交渉を重ねてきました。
次のキッカケは2001 (平成13)年に実姉が ALS (筋萎縮性側索硬化症)という難病に罹ったことで、2007 (平成19)年3月 ALS の患者会、 日本 ALS 協会滋賀県支部を結成しました。姉の介護を通じて世話をする家族の支援をしなければ在宅生活が成り立たないと、2010 (平成22)年10月“もも” すなわち特定非営利活動法人ALSしがネットをつくり、 “訪問介護事業所もも”を始めたのです。
難病患者と関わっておおよそ50年近くの間に、二つの思い出と一つの懸念があります。
思い出の一つは、2008 (平成20)年10月滋賀県議会議員38名で滋賀県難病対策推進議員連盟(難病議連)を作って頂いたことです。それまで患者会(滋賀県難病連絡協議会)と滋賀県行政はギクシャクしていました。それが難病議連ができてからは共同の運動に変化しました。もう一つの思い出は、2010 (平成22)年に特定非営利活動法人ALSしがネット(通称:しがネットもも)を作って、重症難病患者支援を始めたことです。多くの難病患者 さんと日々お付き合いをしています。神経難病の多くは進行し、 死に至る病気も少なくありません。ALS の実姉も 4年と11カ月で亡くなりました。姉は気管切開をして人工呼吸器を付けて孫の行く末を見たいと実弟の私に語っていました。家族にも地域にも姉の介護を支える介護体制が作れませんでした。4年11カ月の闘病生活を経て、 私が介護する目の前で息を引き取りました。
一つの懸念は、 姉の死と関わるのですが、 呼吸 器を付けて生き続けたいと願っていても、 介護する体制が整わず、亡くなる患者は今も変わりません。しがネットももは事業を始めて12年になりますが、この間に21人の患者さんに医療的ケアを提供してきました。今も5人の患者さんに痰の吸引や胃ろうの注入をさせて貰っています。しかし、ヘルパーも歳を重ねてきました。昼夜を問わず、夜中も支援できるヘルパーは限られています。今の大津市で医療的ケアを家族に代わってやれる事業所は非常に少ないです。安心して在宅療養ができる環境にありません。今、当法人は大津市や滋賀県に医療的ケアのできる事業所を増やして欲しいと要望しています。(文責葛城貞三)
(特定非営利活動法人ALSしがネット ももだより 7号 2022年11月発行より)