インタビュー
森田良恒(もりたよしつね)氏
生年月日:1951年(昭和26年)(インタビュー当時72歳)
出身:和歌山県紀の川市
高野山真言宗不動寺住職。1980年に生まれた次女が生後2〜3ヶ月で胆道閉鎖症と診断された。和歌山県の近くで治療できる病院の情報がなく、遠く離れた仙台の病院に入院させ、夫婦で看護する生活をつづけた後、5歳の時に肝硬変で逝去。その後、1989年に和歌山県難病団体連絡協議会を結成。20年ほど会長を務め、現在は顧問。2002年から2003年まで日本患者・家族団体協議会(JPA)副代表、2003年にNPO法人難病患者障害者相談支援センターNSCを設立。難病の子どもや当事者、家族に寄り添う活動を続けている。
主な著書
田舎坊主のぶつぶつ説法 文芸社(2002年)
田舎坊主の愛別離苦 文芸社(2009年)
田舎坊主の七転八倒 文芸社(2015年)
田舎坊主の求不得苦 文芸社(2013年)
田舎坊主の闘病日記 文芸社(2019年)
田舎坊主の合掌 文芸社(2022年)
YouTube:田舎坊主の森チャンネル
PODCAST:田舎坊主の読み聞かせ法話 - 田舎坊主 森田良恒
2024/1/30、和歌山県不動寺
【インタビュアー:伊藤たてお、永森志織】
【文:永森志織】
難病の人のための活動を始めたきっかけは次女の病気
伊藤 | どういう動機で和歌山県難病連を作ったのかを教えてください。 |
森田 | 1980年に次女が生まれて、生後2〜3ヶ月頃に白便、白い便が出てきて、それでいくつか病院に行ったんやけど、最終的に大学病院に行ったら、胆道閉鎖症という病気で、もう半年で死にますと言われたんです。それを聞いて、その当時はインターネットがなかったんで、医者をやっている親戚に、この病気の先生を探して欲しいと言ったんです。そしたら東北大学に葛西森夫(かさいもりお)という世界で一番と言われる先生がいると教えてくれて。それを聞いてすぐに仙台に飛んで行って、その時に助教授だっんたかな、大井龍司先生っていわれる方がおられて、その人が診てくれた。2、3日ちゃんと診察、診断をしてくれて、この子は手術したら助かるなって言ってくれたんやね。その時にその先生が何て言うたかというと、あなたは和歌山県やね、和歌山県の人がなんでこんなところまで来たん?っていう。その先生が兵庫県神戸のこども病院にものすごい数の手術をして成績のいい先生がいてるから、そこへ行くしかなんぼか早く診てもらえて助かる可能性もあるのにって言われて。その時びっくりしたのが、なぜその神戸の子供病院の先生を、一番最初にかかった大学病院で教えてもらえなかったのか、そのことが悔やまれて・・・。結局仙台でお世話になることになって1年半、手術をして、その後に兵庫県のこども病院に行って入院して、大丈夫と言われてたんやけども、入院したその日にはしかの子供と行き違って、結局、全身感染で肝臓も傷められて、それでまた悪くなってきて、結局、和歌山県の近くの病院で診てもらおうと思って、あっちゃこっちゃ行って転々として最終的に和歌山県立紀北病院で5歳と一ヶ月と10日で肝硬変で亡くなりました。 その時に、闘病期間もそうやし、子どもが亡くなってからでもそやけども、何で病院間でというかな、大学病院の間ででもそういう連携があって、すぐ近くのところで診てもらえるような、そんなことできないのかなと思って、これはもう患者さんが声を上げなければと思った。その当時は和歌山県の胆道閉鎖症は3人ぐらい。それではしかし、力にならんし、でみんなに何とか患者団体に呼びかけてということで、その時に協力してもらったのは、新宮の近藤正笑さんです。 |
伊藤 | リウマチの? |
森田 |
そうです。リウマチやったな。患者団体をいろいろ探してもらって、1989年に7の患者団体、約1,000人で和歌山県難病団体連絡協議会を結成しました。
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森田 | その7つほどの団体と他の疾病団体、病気の人たちと、最初は1,000人、患者・家族数で1,000人の立ち上げがあったんですね。それが平成元年(1989年)5月。県庁で記者会見をして、その辺が転機であります。それから、いろんな何ていうのかな、県も日本でも初めてのこども保健室を作って。和歌山県難病・こども保健相談支援センターを平成18年(2006年)7月に開所しました。 |
伊藤 | 和歌山が初めてですね、難病のこどもの相談室みたいな。 |
森田 | そうですね。それを作ったんで、国が難病相談支援センターというのを作ることになった時に、僕らが当事者の団体として運営をしたいという、そのために僕が理事長になって、NPOのNSC(難病相談センター)というのを立ち上げて、県と交渉したんやけども、全部県の職員がしますということになって、場所も医大の3階につくりますということで、しかもそれは内容は本当に相談だけです。ただ相談だけ。だからその時も呼ばれましたけれどもね。ちょうどその前に県知事選があって、そのとても人気のあった人と、もともとの人とという戦いの中で、もとの人がこども病院を5年以内につくりますと言われた。それで、患者会としてはあまり政治にも関わりたくないし、団体、政治に偏りたくないしという思いがあったんやけども、それを約束してくれたんや。5年でこども病院をつくりますと。それなら応援しますとなったんやけども、結局当選してしもたら、予算がありません、無理ですって。結局、その相談センターに落ち着いたんですよ。その時のNHKのテレビのニュースで私ちょっと言葉を求められた時に、こども病院でなくてこども相談センターだけでという、そんなんでお茶を濁されても困りますと。知事と約束したこともあります。その辺のところは守ってほしいということをいうたら、県から怒られました。なんであんなことを出したんやと。 |
多くの災害の被災地に寄せる思い
伊藤 | 東日本大震災の後に森田さんと一緒に被災地に行って、仙台の日和山でお経を上げてもらったことがすごく印象に残っています。 そういうようなことは結局結びついているので、森田さんという人を通して。僕たちからみたら、森田さんは和尚さんでも住職さんでもなくて、和歌山難病連の森田良恒さんですと、いうことなんですよね。でも、やっぱりここ、森田さんのお寺まで来ると何かそうでないものをやはり感じることができる。それ大事なんですね。ご近所に住んでいる人は、森田さんが難病関連の活動をしていたとかというのはあんまりもう記憶にはない? |
森田 | いや、まだ、こないだ、昨日、一昨日の時もそうやけども、初不動大祭で、東北の大震災、東日本大震災の時の話も少しして、で能登半島地震の話ししたん。命なくした人がいっぱいいる中で、家をなくした、家つぶれたって、そんなことで、「ない」という贅沢は言えないという。今、命あることだけも幸せですという人がいっぱいてるって。そういう当事者自身は、そうは言いながらも本当はやっぱり明日の生活どうしよう、将来にわたって家はもう二度と建てられない。家族が何人か死んだっていうそんな思いをしている人がいっぱいやのに、ああそれでも命あって幸せやったと言える、そんな人たちの立場に少しでも寄り添うことってとても大事だなと思って。ああ、自分でなくてよかった、ここの土地でなくてよかった、あの難病になった人もいてるけども、私は難病でなくてよかったって。そう思ってそこで止まってしまったらあかんの違いますか。それで自分が当事者やないのは何かの、支援というか力添えというか、それは今つらい思いしている人たちはどうぞ安らかに、早く過ごせますようにと手を合わせて祈ること、それだけでも寄り添うことになるというような話を昨日した。一昨日したんですよ。 |
坊主から広がる地域とのつながり
森田 | 私が難病のことをしてるというのは、地域の人らもわかっていて、紀の川市なんかでも人権とか何とかで呼んでくれる、難病のやつでやってたからっていって呼んでくれるんですよ。そんなんで話をしに行ったりするんです。 |
伊藤 | 難病の問題に取り組む前は公民館だったり、公民館の仕事やってますしね、毎日新聞にエッセー書いてたり、インドやネパールに行ったりしていた。もともとはだから、そういう土台のあったところにご家族、可愛いお子さんを亡くされて、これじゃあいけないと思うというふうに結びつくというのは、割と僕は普通に結ぶ、ストレートに結びついている話なんじゃないかなと思って、感心してみてるんですけど。インドに何か見に行った人たちやバックパッカーたちもいるんだと思うけど、帰ってきてからそういう活動を、福祉やら医療に関する活動に入っていった人とか、自分の宗教観を高めていった人なんていうのはそんなにたくさんいるようには聞いてないんだけれど。 |
森田 | 僕の場合ひょっとしたら、坊主になるのイヤやイヤやって逃げまくってたから。基本的には。だから大学で社会福祉学科を卒業して、それで高齢者施設へ入る予定、就職する予定やったのが、もう田舎へ帰って坊主になれというようなことになってもうたんで、だけども、なん十年か経って自分が、子どもが死んだり家内も病気になって、その中でやはり社会福祉を学んだことは学んだけども、坊主として自分が経験したことと重なって、本当の仕事はひょっとしたらこっちの方と違うかな、拝む方ではなくて、要は人との関わりとか大変な目におうてる当事者の立場に立って、そんなようなことも本当は僕の坊主としてやるべきことやないんかなと気がついたっていうことなんですね。 |
伊藤 | 宗教とかそういうのは関係なくても、この患者さんたちが活動に参加するみたいなそういう時ですよね。初めは何かもっといい情報が欲しいとか、助けてほしいとか、同じ病気を語り合うような仲間が欲しいというところまではたくさんの人が来るわけですよ。そこからさらに患者会の仕事に入る、イコール自分も経験してきた病気の患者の集まりや家族の集まりに自分が準備をしたり支援したりするという立場に、ある急にころっと変わる、変わりますよね。そういう転換点と似ているのかな。ただその時にその転換の仕方も基本になるどんな生活や生き方をそれまでしてきたかによって関わり方が少し違ってくるというのが患者会の普通の姿なんじゃないかなという。普通と言ったらおかしいけれど。 |
書くことで伝える使命
森田 | 僕の場合ひょっとたら、自分の現実というか環境というか、そういうものが何か後押ししたような形での活動経験かもわからないですね。 |
伊藤 | でも、根っこのところに、患者会以外の様々な経験をずっとしてきたということがあるから、その後の発展というか、みんなから親しまれたりあるいは「田舎坊主のぶつぶつ説法(2002年発行、文芸社)」でしたっけ、ああいうようなものに昇華していったのかなあって。それは他のはもうできないことなんですね。決定版だなと思って、もうそれは他の人は、同じ患者会のことをやっていても書けないことだし、お坊さんやっていても書けないことなのでね。本当にすごいなと思って、それはそういうものがあったり、そこが何か違ってくるんだなと、あれ読んでつくづく思いました。 |
森田 | ちょっと自分が生きたっていうのも、私が死んだら私に関わりがあるものはみんなみんなどうせ捨てられるのは分かっているから、本にして残しておけば。 |
伊藤 | そうですね。 |
森田 | こんなこと書いてるけど、こういう人やったんやなっていうことはあとのものも分かるしと思って。 |
伊藤 | 患者も手記書いている人もいっぱいいるけれど、森田さんがやっぱり読ませるものがある。すごい。 |
森田 | 恐縮。 |
伊藤 | この患者さんこんな経験したんだなあ、どこもみんな同じような経験しているんだなという程度をちょっと超えているんですよね、森田さんの文章は。それすごいなと思って。なかなか書けないんですよ。いろんな人と出会って、いろんなことを考えてきたけど、書けと言われると書けないですよね。どこで書くの覚えたんですかね? |
森田 | 分からん。まああのー、日記をつけるというか、ある程度は記録に残すという癖があって。 |
伊藤 | なるほど。 |
森田 | その一つとして、最近はFacebookもそやけども、自分の歴史やと思っているんですよね。そんでそんなことを残して積み上げてくれば、1冊の本になるっていうかね。Facebookは今までの全部まとめてでもダウンロードできますしね。そやから。ああ、こういう考えこの時していたなと思って、少しコピーして新しい本に変えたりとかっていう、そんなことも積み上げたのもあるね。 |
伊藤 | 森田さんのFacebookも何かやさしいですね。読んでいてほっとする。へぇぇって。こんなことを考えながらやっているんだというような。すごくいい。でもしかしこれはやっぱり坊主なんだからなという雰囲気はありますよね。ファンも一杯いるし。僕らまだ何ていうか、まだ道の途中みたいなもので、あれも書こうこれも書こうと思っていると、書いているうちに、何書いているのかよく分からなくなる。欲張り過ぎになっちゃうんですよね。 |
森田 | 伊藤さんなんかやったら大きな一冊ができると思うけど。一つ残されたらどうですか? |
伊藤 | もうね、書くのはもう勘弁してほしい。面白くもない活動報告だろうとか何かアピールだとか一杯書いてきたらもう書くのイヤになってきてね。 |
森田 | 仕事のうちになってしまうんやな。 |
伊藤 | だから、そうでない。心から出てくる言葉を書いていけたらいいのにねと思うんだけど、どうしても何か、自伝的なというか、これは書いてはいけない。これはこんなのはどんどん書いた方がいいとか、あれもこれも書けとか、何かそういう頭に途中からだんだんなってくる。感動したものを書こうと思うんだけど、途中からこんな活動報告みたいになっちゃうんです。自分の活動報告を書いても面白くもなんともない。誰も拍手もしてくれない。 |
永森 | 次の質問を。 |
伊藤 | いやいや、質問はもうなんか、森田さんとそういう話をしたかった。 |
永森 | まあそうだろうなと思いますけどもね。 |
地域での新たな挑戦と家族の介護
森田 | 20周年をして、伊藤さんにも来てもらって、それで僕退任するんですよ。 |
永森 | あ、そうだったんですね。 |
森田 | その2年前平成18年(2006年)から、その時に紀の川市の団体を作って、僕はもう会長にはもちろんなれへんね、できるだけ近いところで家内もその時はだいぶ看病必要やったし、できるだけ近場の患者さんがたに何か相談でも受けられるようなということで、平成18年かな、紀の川市の患者集めて。 |
伊藤 | それがきほく? |
森田 | それがきほくです。 |
伊藤 | そのことも聞こうと思ったんですね。どうしてこの紀北に作られたのかなと思っていたのと。 |
森田 | そんな形で地元で、県でやっている人というのを知らん人はいっぱいいてるし、そういう難病連の取組を知らんやろし、僕は紀の川から、その当時は紀の川市ではなかったけれども、2006年から那賀地方患者家族会「きほく」を作って、僕が事務局になって会長は吉村さん現在は神森さん、それで今もやっているんですけどね。 |
伊藤 | まだ続いておられる? |
森田 | やっています。平成20年に難病連の会長やめて、卒業させてもらって。それからパーキンソン病友の会の副支部長を今やってます。けどもパーキンソンだけは日に日に活動できなくなってるね。 |
伊藤 | 昨日も兵庫の相談室の人たちもそういってましたけどね。いろんな病気の治療法なりなんなりいろいろでてくるんだけど、パーキンソンだけは何かなかなかこれといった治療は出てこないですね。 |
森田 | いっときiPSでものすごい希望高まったのになあ。だめですね。 |
永森 | 奥様が病気になられたのは何年ですか? |
森田 | 平成15年(2003年)。娘が高野山に上がった年やねん。ヘルパーをしてて、高野山へ行って尼さんになるって言うた平成15年にパーキンソンの診断を受けてん。 |
伊藤 | 何かいつも笑っているというか、にこやかな楽しい人たちだと思うんですけれども。 |
森田 | 家では妄想のせん妄の・・・。 |
伊藤 | せん妄あったんですか。 |
森田 | 大変でした。精神症状が出て。 |
伊藤 | どこかの何かの会合の時に奥さんも連れて東京まで来たことがありましたよね。 |
森田 | あります、あります。行ける時はできるだけ。 |
伊藤 | その時はそういう状態というのは治まっている時? |
森田 | 治まってる時です。薬である程度コントロールできた時です。で、本人も行きがったところもあるし。 |
伊藤 | 割とこう、いろいろな活動をしたいという人のように見えたんだけれども、 |
森田 | うん、ずっとパーキンソンの患者さんのボランティアをしていたから、パーキンソン病友の会のボランティアがあってね。 |
伊藤 | まさか自分がなるとは。 |
森田 | そうなんです。自分がなるとは思ってなかったし。だからできるだけ普通でいたいというふうに見られたいという思いで、かなりやっぱし薬多かったように思いますね。 |
伊藤 | 何かあまり最近いいニュースというのはないんだよね。映画になったりしてるけど。ニュースと一緒だね。なんか一時期は山中伸弥先生のところね、研究にすごい期待して、お金も集めて寄付したりなんかしてね。 |
森田 | パーキンソンからもだいぶ寄付したと思います。 |
伊藤 | いつかは実るんでしょうけども、今ちょっと先は見えてない。 |
森田 | 見えてないし、数が増えれば増えるほど、もう一般疾病と同じような扱いになっていきそうな気配やし。 |
伊藤 | まあ、でも一般の病気ですとまだ治療法がある病気の方が多いけど、パーキンソンはないですよね。合併症みたいな顕著なものもそうないし。 |
森田 | ちょうど家内を見て、家内の介助が大分必要になってきた頃、うちの母親がここお寺でいてたんですけど、その母親も認知症になって徘徊するようになって、お巡りさんにお世話になるようになりだしてから、それまでは僕がここへ来て、朝ご飯食べさして作ってできたんですけどね。だんだんもう、一人で置いとけないもんで下の私の居宅で2人を見てたんですよ。家内と母親と。そして寝る場所2階なので、2階から2人一緒に下ろしてくるんやけど、両方に抱えて階段細いとこを降りていくんやけども、そんな日々が続いてんけども、ある時に二人抱えてて、もう耐えられなくなって、母親を一番下の、階段の一番下のところで、まあいうたら落としたんですよ。そしたらちょうど、1メーターもないんやけども、廊下の向かいの壁のところへ頭をぶつけて、で、そんなこともあったんで家へ何とかエレベーターをつけられへんかと思ってつけたんです。2人を同時に介助看護したので大変やったんや。結局はもう東京にも行けなくなったので役を引かしてもらったけど。 |
永森 | JPCの副代表をされていたのはいつからいつまでですか? |
森田 | いつからいつまでかな? |
伊藤 | 僕らも全然記憶がない。 |
永森 | じゃあ、記録資料から探してみます。 (※筆者注:JPCの仲間70号より、2001〜2002年に副代表幹事と判明) |
伊藤 | あまりいつからとか何とかって思わないですもんね。記録にもいつなっていつやめてとかっていうのも、そういう報告というのはしなかったし、 |
永森 | 年表を作っている方は書いてある場合があるんですけど。 |
伊藤 | 全部書いている人がいたら、その人の数字から見て、あ1年早かったとか遅かったとかったとかってやるのは分かるんですよね。 |
森田 | そうね。 |
娘さんが長く入院した仙台のことを思い東日本大震災で寄付
伊藤 | でも大変でしたよね、そういう時にね、東京まで来て、何か急いで帰ることとかありましたね。 |
森田 | お通夜へ来てくれって呼ばれれば僕しかやってないから。住職しながらやったから。 |
伊藤 | 今はだから、娘さんやその旦那がやってくれるから楽になったんですね。 |
森田 | そうなんですよね。副住職(娘さんの旦那さん)は般若心経も知らなかったのに高野へ上がってね、修行してくれて、坊主になるっちゅうてくれて。そんなで、この村に、副住職は地元橋本、実家が橋本。橋本へ、嫁に行ったんやけども、だけどもこっちへ住んでくれると言うて、家も建てるこっち側で建てると言うてくれたんで、2010年頃かな、その時に、ありがたいし、できたら何か援助しようかなと思って、自分の個人のお金で、税金がかからんと言うて1,000万円補助できる、援助できるというのがあったんですよ。そうして用意してた時に、3月11日の震災があって、あの子らに、すまんけど仙台へ寄付をさせてくれへんかいうて、それで寄付してん。 |
伊藤 | すごい金額の。あれは全部、直接向こうの方へ? |
森田 | 紀の川市や。 |
伊藤 | 紀の川市へ? |
森田 | 紀の川市もまだ募金というかやってなかった。だから直接行きますと言うて、家へ来て、とりに来てくれたんや。それからあとに市の募金が始まってんね。僕、テレビであの空港へ津波よせるっていうのを見た時に。初めて飛行機乗って初めて行ったのが仙台やったからね。お世話になったんで、これはちょっと是非とも力になりたいと思って形にしたんやけどね。 |
伊藤 | なるほど。それで、そういう思いがある。それ聞こうと思ったんです。お子さんの時に仙台に通いますよね。あれは何を使って通ったんですか。 |
森田 | 車で。 |
伊藤 | 車で。自分で運転して。ここから仙台まで車で。 |
森田 | そうです。それでね昔のでね、私の車って。アクセルが硬かったのかな、ずっと今のオートクルーズみたいのないから、向こういったら、もともと安い靴下やってんけど、親指の裏が穴あいてんねん。ズーッとそんなことで使っていたからね。向こうへ行っても、宿へ泊まるお金はないさかいに、車で寝て。 |
永森 | それは駐車場ですか? |
森田 | そうです、そうです。 |
伊藤 | 普通の乗用車?バン型? |
森田 | 普通の乗用車です。 |
伊藤 | 姿勢としては苦しいですよね。ちっちゃいお子さん抱えて。 |
森田 | 家内が付いているの代わってあげようと思って代わると、男の人がここで付き添いはだめですって、同じ部屋のお母さん方が言うて怒られてね。それで結局僕はちょっと買い物したりとか、洗濯物を出したりとかっていう、そんなことしかできなかったけれども、結局家内がずっと付き添い。 |
永森 | 奥様、1年半ずーっと病院にいらっしゃった? |
森田 | 病院で付き添いしました、うちの家内がね。 |
伊藤 | 病室で寝るか、寝るところもある病院もあったけど、あとは病院の近くで部屋を借りて、それはどうしたんですか、部屋借りた? |
森田 | いやいや、全部車で、車中泊。 |
伊藤 | それは疲れるわ。 |
和歌山でのペアレンツハウス設置を長年要望
森田 | だから、県への要望を毎年開いていた時のその要望書の中に、ペアレンツハウスを作ってほしいということでずっと言い続けてきた。 |
伊藤 | あれは結局和歌山でも実現したんですか。 |
森田 | してない。 |
伊藤 | しなかった。何かそういうようなことをやるとか、ニュースなんか出たりしたんですね。さっきの話に戻りますけど、そういう約束、公約をして当選したのに、しない状態なって、普通そういう時はね、何か言いますよね。これじゃ困ると、約束果たしてほしいとか。言ったら、県庁が怒ってくるなんていうのはちょっと、どんなもんかと思いますよね。 |
森田 | 本当にもうね、まあ忸怩たる思いというのはあったと思います。 |
永森 | なんていうお名前の知事さんですか。 |
森田 | そこに書いている西口勇さん。 |
伊藤 | でもね、北海道だってそうだったんだ。ちょっとした批判がというか辛口の評価が新聞なんかにパッとでっかく出しますでしょう。それでね、今でも口のきかない知事がいて、その記事を書いた人が飛ばされてしまったし、そんな心の狭いことでどうするの。北海道の人もみんながあんたを支持しているわけではないわけだし、公平に見たって、道民全体の知事なわけだから、そこはわきまえない知事だったね。一番初めに難病センター作った時の知事たちはみんな大人、ちゃんと約束果たして、その知事さん、次に自分選挙負けるなと思った時に、難病センターの予算をどんと付けて、で、先に資材とその他全部を買って手配してしまって、選挙に出ていただいたので、対立候補の人も難病センターを作るという、両方共作るという話になっていましたから、どっちが当選しても良かったんですけれども、そういう具合に自分が負けたらということを予測して、先に手配しておく、すばらしいなって思いましたね。批判は批判しますし、要望は要望しますよね。それに対しておいしいことを言って、そのあと予算がないどころかちょっと批判すると。やっぱり役人の性なんですかね。知事が。 |
森田 | 最初からやる気がないというように思えましたね。 |
伊藤 | それはひどいね。 |
森田 | 片一方が随分その時は人気があったんやけども。 |
伊藤 | でも何か随分あのころ言っていましたよね、和歌山、子どもの難病に関する施策は進んでいるんだという。そうならなかったと。全国交流集会をやった時、マラソンか何かあの時も難病相談支援センターというの和歌山は必要ないんだみたいなことを県庁に言ってましたよね。子どもを中心にやりましょう。それがならなかったんですね。それはがっかりしますね。 |
森田 | 難病こどもセンターとあちらのできた新しいところに加盟している団体というのは、全部和難連からの名前を全部上げただけの話や。横取りして。 |
伊藤 | そういう団体ができちゃったんだ。 |
森田 | そうそうそうそう。その難病子ども保健福祉センターかな、それがするようになった。 |
伊藤 | 運営する。そういう経緯があったんですか。いろいろ和歌山難病連は、受託団体に入っていないっていうのね。 |
森田 | そうそう。 |
伊藤 | なるほど。ちょっと複雑ですね。 |
森田 | 当時はいろんな思いがありましたね。 |
伊藤 | で、「きほく」を作ったというのはその裏っ返しみたいなところがあるわけですか。 |
森田 | うん、そうですね。まあ思い通りできるというか、自分の地元でもあるし、自分の活動ができるし、近くの声が聞ける。そんなこと。 |
伊藤 | 今も和歌山難病連はあるんですよね。 |
森田 | あります。 |
伊藤 | で、そのもうひとつの子どものもあると。 |
森田 | あります。 |
伊藤 | 県庁との関わりは? |
森田 | 県庁の方で、例えばピアカウンセリングの講習・研修があるとかというような情報はすみませんけれど、紀北から流してくださいとかね。まあまあ私は気持ちよう「きほく」のホームページに載せてますけどね、開催のお知らせみたいなもので。 |
伊藤 | なかなか和歌山県庁もいろんな策略を練るんですね。 |
永森 | びっくりしました。 |
伊藤 | どこもよくそんな話を聞きますけど。いうことを聞く団体だけ集めてとか、いろんな審議会なんかも。 |
森田 | 薬務課かな、県にあって、そこの部長さんとあの患者団体の一人が随分懇意にしてるというところも、もう、扱いが違ごたりする。何で難病連の中にこんだけ団体があってそれを同じ立場で同じ位置にいてんのに、なんでこの人が特別なん?っていうので。 |
伊藤 | 北海道も初期のころはそれ随分ありましたね。特定の政治家とくっついている団体とかね。そういうところは結構配分金が大きいと、それをひっくり返して、みんなで平等にやろうよとかっていってやったもんだから、やはり、本当に役所からは嫌がられましたね。でも、そういうようなことをやっていると、職員の中で、道庁の職員の中にもね、こっそりと支持してくれる層ができるんですよね。それで随分助かった。厚労省にもそんな傾向がありますよね。いうことを聞いて、頻繁に出入りして、というところは、ずかずかと部屋に入っていっても怒られないとかね。そんなんで誇示するような団体があったり、特定の政治家との関係をすごく厚くしている団体はいまだにもあるんですね。僕らそういうことをしなかったから言われたんだと思うんだけども、今はまだわからない。 |
森田 | 患者会の中にいる代表者で政治が好きな人って、やりにくかったですね。この県議つこうたらええんやって。この議員つこうたらええんやっていう、そんな言い方ばかりでね。 |
伊藤 | ねえ、言うのね。 |
森田 | イヤやったわ。 |
伊藤 | 関西圏ってそういう人が割と多かったんじゃないですかね。なかなか一緒にまとまらなかったり。まあ、随分いろんな総会開くたびに、いろんな質問、ありがたーい質問をいっぱいいただきましたね。勉強になりました。ね。だからあの頃、森田さんのような受け答えをしていると、結構難しい場面で森田さんに代わりに答えてもらったのもあった時期。 |
森田 | そうそう。 |
伊藤 | すごいな、森田さんのそういうお話だと誰も反対しないし、文句言わない。そのうちに終了の時間が来て。以上をもって終わります、みたいな。 |
森田 | それでも長いこと高知の山岡さんは、怖かった、怖かったといまだに言いいよんねん。もうやめときっていんうやけどね。そんな怖いことを言うたことないで!っていうんやけどね。 |
伊藤 | そういうふうに、森田さんが副代表として代わって答えているというふうにそれで決まりみたいなところがあったからでないですか。逆らえないなこれはという。あの人は大ファンですものね。森田さんがいうとこだったらどこでも行きますと。 |
森田 | JPCの時は、伊藤さんのうしろに隠れて、ああ怖かったっていうて。 |
伊藤 | だって、森田さんの話って、ちゃんと背筋を伸ばして聞かなきゃならないお話。まじめに。茶化してはいけない!というふうな感じでしたからね。 |
JPC(日本患者・家族団体協議会)全国交流会の思い出と患者運動の変遷
伊藤 | あの頃はいろんな人いましたね。 |
森田 | いましたね。 |
伊藤 | 多士済々というか。 |
森田 | そうですね。 |
伊藤 | 特色があるような人がいっぱいいましたね。それが良かった、だから、久保さんもいたけれど、それこそ赤い旗どころか、黒い旗ももってでも走り回りそうな人とか、組合の役員をやっている人とか、政党の役員とかというのもいましたし、議員さんいたし、まあいろんな人いましたね。だけど、何か、みんなでカラオケ行こうよとか、そんなところもありましたからね。 |
森田 | ありましたね。 |
伊藤 | 僕はだからついていっただけだけど。好きなんだろ、カラオケなんていって、ガンガンやり合った後にカラオケ行くんですものね。 |
森田 | 伊藤さんにバーへ連れていってもらった時もあるし、なんか田舎でいてたらこんなこともないけど、何か大人になったみたいなとか思うたことある。 |
伊藤 | へええ、森田さんこそ大人。 |
永森 | 大丈夫ですか。聞き逃したこととかありませんか。 |
伊藤 | ここはいろんなごちゃごちゃも出てくるから、あんまり掘り起こしたくはないのでいいんですけど、全国交流会をやらせてもらいましたよね。 |
森田 | やりました |
永森 | いつ頃ですか? |
伊藤 | あれはいつだったかな。 |
森田 | 全国交流会は・・ |
伊藤 | よく参加した人は記憶に残ると言われたと言っていたけど、北海道から。数珠作りなんか |
森田 | ありましたね。 |
伊藤 | ワークショップあったりして。 |
永森 | 数珠作りワークショップ、いいですね。 |
伊藤 | なんかいろいろなワークショップやったんですね。 |
森田 | そうですそうです。 |
伊藤 | それぞれ希望者を募ってて、森田さんのところでは数珠作り、でもそんなに人いかない、参加しないかと思ったら何かたくさんいったらしくて。そして北海道の連中なんかもすごい喜んで。それで覚えているのはもう中村さんぐらいしか残っていない、亡くなったり動けなくなったりして、ワークショップに参加した連中ね。 |
永森 | 大体JPCができて何年くらいっていうふうな感じで言っていただければJPCの仲間を辿って、何年だったか探します。 |
伊藤 | JPCの全国交流会としては、その次の栃木をもって終了した。 |
永森 | じゃあJPCが終わる前くらい?最後の頃に。わかりました。 |
森田 | 2004年の11月20日、21日、二日間。 |
永森 | ありがとうございます。 |
伊藤 | ほんとこれが最後だったのかな。2005年にJPAにしたんだから。そのきっかけになっているのは、全国交流集会のこともあったけれど、もう一つマラソンで日本1周している中で、地域の活動の大事さというのをすごくひしひしと感じて、 |
森田 | そこ(の本)に書いてあります。 |
永森 | わかりました。 |
森田 | 全部年号を入れてますね。 |
伊藤 | こういうのもまめだなー。 |
永森 | いやあ、ほんとですね。私が来てからの資料は大体あるんですけど、伊藤さんご本人のは、もうどこかに積んであるんだろうなっていう感じです。 |
伊藤 | まあでもそういうようなことがきっかけでJPAを作らなくちゃだめだという、再結集だよね、あの当時。全難連もぐだぐだ言わないで参加しなさいって言っているうちに、本当話し合って参加、一緒にやるはずだったのが、向こうがまた進路変更したもんだから。だから、じゃあ来る団体だけでやっていこうという話で、見切り発車したんだよね。 |
森田 | 最初のころは腎臓病の会は難病と違うとかいうたり、ねえ |
伊藤 | 今の全腎協も全然路線違ってしまって。 |
森田 | ああそうですか。 |
伊藤 | 活動には参加しません。古くからいる全腎協の事務局員もこの間一人辞めたしね。そしてまた、従来の透析患者さんって、移植の対象になる人が多くて、一回移植して成功すると活動から離れていくんですね。 |
森田 | そんな考え方がずーっと地域難病連にも広がっていましたよ。そやから正式ではなくてオブザーバーやっていうようなことを言い出しました。 |
伊藤 | なるほどね。そんなふうになるな。いずれにしても。何かをつくろうというときには、さまざまな形で集まってきて力を発揮するけど、ある程度いろんな制度ができたりしたら、やっぱり活動力は低下してくる、これはもう仕方のないことでしたね。それも覚悟して、だから、難病法づくりのときも、最後まで迷ったのはそういうことですよね。ある程度良くなっていくと、患者会は逆に衰退すると。ある意味、治療法が進んで来ている病気も多くなってきているというのがあるんですね。胆道閉鎖なんかも劇的に違いますでしょう。早期に発見できるし、 |
森田 | 患者が子どもを産んで大きくなっているもんねえ。前は考えられない。 |
伊藤 | 考えられなかった。子どもを産むようになるまで生きるとか。だいたい産めるのかって問題もあったけれども。 |
森田 | 胆道閉鎖症の会で東京へいって、CBAの会というのを、名前をつけたん僕なんですよ、日本CBA。その会議のときに何かのニュース速報で入って、どっかで飛び降り自殺で、あのときにも、その心臓、その肝臓欲しいと思っている人がおる、というようなこと僕も何かに書いたことある。亡くなっていく人はいろんな思いで亡くなっていくんやろうけども。生きたいと思っている人もいっぱいいてるということで、そんなようなことを何かに僕書いたと思うんですけどね。その命がほしい、その肝臓がほしい、生きる糧をほしいと。そんなんで必死になって知ってほしいなって思ったことがあります。 |
伊藤 | あれ画集の中にもその話書いてあったかと思いますよ。毎日新聞の仲畑流万能川柳とかというのかな、何かそんなような川柳が。いらない命、その命、その肝臓、腎臓を欲しい人もいるみたいな、そういう川柳が出てましたね。そう思う人もいるんですよね。もったいない、惜しいですよね。要らない命ということで自殺しても、そうではないというね。 |
森田 | いろんなこと、伊藤さんと話をしていたら思い出すな。 |
伊藤 | だって、全国総会なんかの後の交流会のときに、締めの言葉を随分森田さんにしてもらったんです。いい話なんですよ。シーンとして会議終わるバンザーイとかって、そんなんでもない。そうか、いい話を聞いた・・けどみたいな。その話の最後ぐらいが水道橋のホテルでやった。 |
森田 | そのとき永森さんのおられた時違う? |
永森 | そうですね。足、靴の話でした。そうそうそう。 |
伊藤 | 何か熊本の支援の話と森田さんの話ふたつ記憶してた。 |
森田 | どこかメモしてない? |
永森 | 伊藤さんのメモは散逸してしまう。大体その日のうちになくなってしまう。 |
伊藤 | 自分の記憶が残っている範囲内で。 |
患者会での楽しかった思い出
永森 | 面白かった思い出を話してください。 |
森田 | やっぱり面白かったのはバーへ連れていくって。 |
伊藤 | どこのバーだろう。割と新しいですかね。人形町? |
森田 | いやいや新しいない。だいぶ前。 |
伊藤 | 水道橋あたりかな。 |
永森 | いやいやバーの話をしている。 |
伊藤 | 水道橋だったら、あとホテルが・・どこぞのバーにいったのなんのかんの |
森田 | 伊藤さん、僕だけ誘うてくれたんや。みんなで行ってないで。みんなで行ったのはあんねんけどね。 |
伊藤 | 何か大事な話あったのかな。 |
永森 | 違うと思いますね。女性がいるとこなんですか。 |
伊藤 | そんなんじゃなくて、 |
森田 | あ、女の人いてへん。いてへん。 |
娘さん | 映画をみたとか。 |
森田 | 映画? |
娘さん | 違うかな。 |
森田 | 東京で映画はあんまり見たことない。そのバー・・ |
永森 | いいですね、そういう想い出。 |
森田 | 藤原さんらとあとはよう行きましたけどね、だけども、楽しかった、JPC。うん。 |
永森 | そうですか。やっぱり楽しくなければ患者会じゃないという感じですね。 |
森田 | そうなんです。楽しかったなあ。 |
永森 | その言葉聞けてよかった。楽しかった、と。 |
伊藤 | いろんな目標もいっぱいあったし、やらなきゃいけないことが山ほどあったから。ガンガンいう人がいっぱいいたからね。そのあと楽しくならないと、続かないんだものね。次の日もやる気でないじゃん。 |
永森 | いや、そうなんですよね。後継者があとから参加する人が少ないっていうのは、楽しいのが少なくなったからかもしれませんねえ。 |
森田 | 難しいこと話してても、ねえ、しんどいだけで。 |
伊藤 | 意見は意見としていいけどもね、その後は個人的に意見交換しようみたいな、あちこち最近言われるんですよね。あのころは楽しかったねって。 永森・森田 ああ、はいはい。 |
伊藤 | 僕はあんまりね、楽しい思いもあったけど、でも腹の立つような嫌な想い出も。 |
森田 | 難しいことばっかり考えていたから伊藤さんは。 |
永森 | でも行事は楽しかったですよね。難病連でやる行事はだいたい楽しかったって、今でもみんな言いますし。 伊藤 こっちはいつもはらはらしてて大変だった。ちゃんと無事終わるかどうかとか、病人出ないかとか。JPC とかJPAとかの時代というのはそうじゃなくて、なんというか、だんだん活動が高まってくると、ちょっと考え方の違う人たちがどっかで集まりを持ち始めるんだよね。それが今度は単なる質問とか意見じゃなくて攻撃になってくるんです。 |
森田 | 酒入ってきたら余計に。そういえば、着いた途端にお通夜やから帰ってきてと言われたときは、もう、何回かあったけどね。 |
永森 | 着いた途端でしたか。 |
森田 | こればっかしは帰らんとなあ。それはつらかったな。 |
伊藤 | 着いた途端というのはねえ。 |
森田 | 着いた途端で、明日のチケットはあるけども、今日のはないって。 |
永森 | そのときは新幹線か何かで? |
森田 | いやいや飛行機。 |
永森 | 飛行機でしたか。 |
森田 | 無駄になったのもあるし、替えたのもあるし。 |
伊藤 | あのころは飛行機といっても伊丹じゃなくて、関空が多かったですね。 |
森田 | 関空です。 |
伊藤 | 奥さんに送ってもらったとかって。 |
森田 | ほとんどもう車を置いといて、関空に。すぐ帰らなんのは情けなかった。それだけひょっとしたら楽しかったんやと思います。 |
伊藤 | 寂しい思いするぐらいだったら。 |
森田 | そうそうそう。 |
伊藤 | よく言われるんですよね。別に何か出し物をやっていたわけでもなし、落語をやったわけでもないし、 |
森田 | みんなの顔を見るのが楽しみだったと思います。 |
伊藤 | あの人も元気でまたやってんじゃないとかっていう、そんなものもあったかもしれませんね。何となく、仲間だという感じしますよね。そこへ戻ったら、第一線でいろんな要望もやったり県庁ともやり合ったりいろいろしなきゃならない。そんな仲間がっていうのはあったかもしれないですね。 |
森田 | この間、和歌山も近畿ブロックあったけど、やっぱり1日で帰ってしまってもう、日帰りになったらやはり寂しいなあ。 |
永森 | 日帰りだとバーには行けませんから。 |
森田 | いけないなあ、もう! |
伊藤 | 米田さんも言ってたね、日帰りになっちゃって、おもしろくない。 |
永森 | 夜の時間にいろんな話ができますからね。 |
森田 | そうそうそう。 |
伊藤 | そうか、そういうふうになっていくとやっぱり、明らかに活動力が低下しますね。 |
永森 | 今はリモート会議だから全然夜飲みに行けませんしね。 |
伊藤 | 別にそれでも行けないのならZOOMでいいんじゃないかとかね。リモート会議になっちゃうんだよね。 |
森田 | 前も伊藤さんとな、リモートで1杯飲みませんかいうてきたけどやっぱりリモートで飲むのとは違うもんな。 |
永森 | 違うと思います。 |
伊藤 | そうなんです。だからお話をしている感じ、直でやっているとね、なるけど、この画面の中だけで終わっちゃうと全然そういう余韻も何もないよね。はいさよならで、終わりました、で終わっちゃう。 |
永森 | 駅まで一緒に歩こうかとかがないですもんね。 |
森田 | そうです。 |
伊藤 | 何かそうだな、よくそんなのもありましたね、駅まで歩く間にあって、ちょっと活気の良さそうな店に入ったりとか、JPAの研修なんかでも三浦半島とかいろんなとこでやると、やっぱり帰り、話足りないなんてこともないぐらいなんだけど、会議とかでじゃあお昼一緒に食べていくかっていうようになって食べて、そのときの一つで覚えていますよね。 |
永森 | そうですね、部屋で夜通し喋ってたりしますよね。一生忘れないですよね、そういう経験があったら。 |
伊藤 | そういうのがあったから。 |
森田 | ちょっと、バー開く? |
伊藤 | ああ、いいですねぇ。 |
森田 | もういいですか。 |
永森 | ありがとうございます。 |