インタビュー

米田寛子(よねだひろこ)氏

一般社団法人兵庫県難病団体連絡協議会事務局長
特定非営利活動法人NPO神戸市難病団体連絡協議会
神戸難病相談室副室長
2016年に一般社団法人兵庫県難病団体連絡協議会が第68回保健文化賞を受賞

生年月日:昭和9年(1934年)11月7日(インタビュー当時89歳)
出身:静岡県

 

2024/1/29、一般社団法人兵庫県難病団体連絡協議会の事務所にて
【インタビュアー:伊藤たてお、永森志織】
【文:永森志織】

息子さんの腎臓病がきっかけで兵庫県難病団体連絡協議会設立に参加

伊藤 それではまず、形どおりになりますけれども、ちょっと質問をさせてもらいつつ話を進めたいと思います。好きなように話してくださって結構です。米田さんの、難病連設立のきっかけについてお聞きしたいと思います。あの頃、兵庫難病連でしたね、神戸難病連と両方でしたっけ。
米田 兵庫県難病連が先です。
伊藤 それは何年でしたっけ?
米田 昭和50年(1975年)の12月です。
永森 これは結成大会の議案書ですね。かなりの枚数ですね。
伊藤 兵庫県難病連設立のきっかけは何でしたか。
米田 私の息子が腎炎ネフローゼで、それでそれに参画するようになりました。
永森 米田さんはお仕事とかをされていて、この活動に参加されたんですか?
米田 いえ、そのころは全然。仕事はしてません。実母の面倒を見ていました。
永森 子育てをしていたような時期なんですか。
米田 そうですね。息子が9歳の時でした。
伊藤 一番最初に結成を呼びかけたのは、米田さんですか?
米田 じゃないです。ご存知かしら、兵庫県腎友会の藤原勝義です。それから中井肇(はじめ)という方が県の職員です。どちらも透析患者でした。その二人が中心になって難病連を作りました。
伊藤 (冊子を読みながら)藤原さんには随分結構厳しくされましたね、僕は。
米田 そうですか。これが、そのときのことを書いた冊子です。

「明日に向けての礎石とならむ−藤原勝義先生に・・・」2011年 神戸難病相談室発行

兵庫県難病連結成の中心人物は藤原勝義氏と中井肇氏

伊藤 兵庫県難病連って、神戸市の難病連ができて途中から2つになったんですよね。
米田 はい、兵庫県難病連が昭和50年(1975年)にできて、54年(1979年)に神戸市難病連(神戸市難病団体連絡協議会)が生まれました。

【編集者補足】

兵庫県難病団体連絡協議会の活動に政令指定都市である神戸市が含まれない等の保健行政上の区分の課題を解消するため、神戸市難病団体連絡協議会を設立した。

伊藤 向こうの方のビルですね、何か割と狭い突き当たりか何かだった記憶があるんです。
米田 そうなんです。海も見えて見晴らしは良かったんですけどね。狭かったんです。もうその部屋を探すのがやっとでした、事務所は。その頃、難病なんてみんなから、嫌われてましたから、難病ダメだダメだっていうようなことでした。
伊藤 よく事務所というかビルの中に入れてもらえたものですね。
米田 そうですね。神戸市の部分でしたから。向こうは本当に狭かったですけどね。
永森 神戸市に交渉に行かれたんですか。お願いに。
米田 行ったんです。藤原と、行ってずっと交渉しましてね、それでやっと借りることに。
伊藤 当時あちこちの県に難病連ができてて、みんな事務所を探して、なくて・・・。
米田 そうですね。探すのが大変でした。
伊藤 県とか大きい市だと市に要望して。結局公営のところに入ったところもあるけれども、ここは民間のところを借りて、補助金で家賃が出たということでしたね。
米田 そうです。
伊藤 それを初めは兵庫県じゃなくて神戸市で・・・?
米田 兵庫県と神戸市から両方から出たんです。
伊藤 看板を2本かけていましたか。
米田 はい。私たちは1990年7月にできたんですけど、同じ年の10月に兵庫県難病相談センターというのができたんです。ですから同じような名前じゃいけないからということで、神戸難病相談室っていう名前にしました。
伊藤 特にそれで問題はなかった?
米田 そうですね。私たちは機能的に難病相談センターにしたかったんですけど、細々とやればいいなということで始めました。
伊藤 オープンしたのはいつでしたか?
米田 相談室は1990年です。
伊藤 難病連ができてから何年?
米田 1975年に兵庫県難病連ができたので、15年ぐらいでしたかね。事務所がほしいということで、藤原と一緒に県の方に要望しました。ちょうどその頃、国でもそういうセンター的なものがということでやっと出来上がりました。
伊藤 兵庫県難病連にはすごい理論家が沢山いて、JPCができたころの総会でもその前の交流会で、がんがん発言しておられましたね。
米田 その頃はみんな血気盛んでしたけどね。
伊藤 西宮の市役所に勤めておられた方?
米田 石丸さん、あの人はJPC(日本患者・家族団体協議会)に行って、もうジャンジャンでしょう。
伊藤 いつもジャンジャンやられましたけど、でも、僕、なんか好きで、市役所まで一回会いに行ったことあります。色々な状況を聞きに行ったことがあるんですよね。石丸さんは、もう当然退職してますよね。
米田 石丸はまだ会の代表はしてるんですけど、体調が良くなくてなかなか出てこれなくなってしまいました。
伊藤 あの方はご自身が難病患者ではないですよね。
米田 子どもさんです。胆道閉鎖症で、移植をしまして。
伊藤 そうですね。石丸さんの後にJPCの役員になったのが関西の方。
米田 西口が行ってました。今、熊谷というのが行ってますけど。割と発言しているようです。
伊藤 とにかく兵庫県難病連の人たちというのは発言をばんばんする人が多くて。
米田 ご迷惑かけてたかもしれません。
伊藤 いやいやいや、前向きの発言ですからね。
米田 そうですかね。
伊藤 足を引っぱるような発言ではないからすごく良かったと思いますけどね。だいぶ勉強させられました。
米田 そうですか。
伊藤 懐かしい人がいっぱいいるなと思うんですよね。これ(冊子)も兵庫難病連の結成から書いてありますね。
米田 そうですね。その藤原が結成に関わりましたから。
伊藤 JPCの第2回全国交流集会もこのしあわせの村で、平成2年(1990年)ですかね。
米田 やりましたね。旗をいっぱい飾ったら、それはもうだめだっていって全部夜の内になおしてしまわなくちゃいけなくなったということがありました。
伊藤 それだよね。何かコピーを取りに走っていったのを覚えています。
米田 何にもできないですけど、私たちは大会等、開かせていただきました。
伊藤 結構この後、いろんな団体なんかもしあわせの村で大会をやったりしましたね。
米田 そうですね。
伊藤 筋無力症友の会もやったし、膠原病友の会もやったんじゃないかな。
米田 パーキンソン病友の会もやりましたしね。
伊藤 ちょっと離れているけども。
米田 みんなあそこがいいと言って。
伊藤 集中してますからね、いろいろな泊まるとこも、食事するところも。
米田 近畿ブロックの分は必ずあそこに行きます。遠いけどどう?っていって、でもあそこがいいとか。1泊するのに楽ですしね、安いし。
伊藤 結構遠かったよな~。
米田 遠いんです。バスに乗って行かないといけない。
伊藤 あの山の向こうだっていうからすぐかと思ったら、それが結構ある。
米田 そうなんです。
米田 この冊子に結成の頃のことを書いています。藤原は腎臓移植をしたんですけど、うまくいかずにまた透析に戻りました。事務所がなかったですから、初めのころは県の事務所に行って、いろいろ仕事をさせられたりしました。
永森 じゃあ県庁の中に・・・。
米田 中井が県の職員でしたから。藤原は透析病院の中でちょっと事務的なことは、やってました。
永森 そのころは難病連の連絡先は県庁にしていたんですか。どのあたりにされてたんですか。
米田 連絡先は、兵庫県難病連は中井のところ、神戸市難病連は藤原のところでした。

【編集者補足】

藤原勝義氏は、1937年4月26日岡山県生まれ。神戸大学4年の時に慢性腎炎の診断を受け、35歳より人工透析開始。神戸大学工学部助教授として、研究や教育に精進する一方、積極的に患者会活動に参加。神戸市難病団体連絡協議会初代代表幹事で、神戸難病相談室長を最後まで務めた。2006年9月11日に69歳で逝去。

中井肇(はじめ)氏は、兵庫県庁職員として勤務しながら、1975年から1982まで兵庫県腎友会会長を務め、1975年の兵庫県難病団体連絡協議会の結成時には代表幹事に就任。1983年3月に逝去。

伊藤 設立したときの患者団体は何団体で始めたんですか。
米田 6団体です。兵庫県腎友会、ベーチェット病友の会、兵庫県リウマチ友の会、全国心臓病の子供を守る会(兵庫県支部)、兵庫県「腎炎・ネフローゼ児」を守る会、肝臓病友の会。
伊藤 ちょっと珍しい取り合わせですよね。
米田 そうですね。患者会ができていたところを中心に難病連を結成して、その後、患者会が順次できていきましたから。
伊藤 これが1975年だから、厚生省の難病対策要項ができてから3年後ぐらいですね。
米田 そうですね。うちはちょっとよその県よりも遅かったですよね、京都、大阪より。
伊藤 そうですね、でも全国的には早いほうですね。
米田 まあそうですね。
永森 米田さんは腎炎、ネフローゼ児を守る会の役員さんだったんですか?
米田 はい。神戸も同じようにしてできました。
伊藤 腎ネフの会をやっていた関西の人というのはどなたかいらっしゃいましたよね。
米田 脇坂さんという方が相当活発にやってましたね。今では全然もうどうなったのかわかんないんですよ。年賀状をやりとりしてたんですけど、施設に入られて、その後全然連絡がつかなくなった。
伊藤 あの頃、ちょうど米田さんくらいの年配の方々、いろんな患者会なんかでも結構女性中心でやっている会がたくさんありましたよね。
米田 そうですね。
伊藤 筋無力症も関西は・・・。
米田 膠原病もリウマチも。
伊藤 そうですね。あの頃の年代の女性っていうと、まだご存命の方もいらっしゃるけど、結構みんな病気を持っていたからなかなか厳しいですよね。米田さんは何年生まれ?
米田 昭和9年11月7日です。
永森 お生まれの都市はどちらですか?
米田 静岡です。ちょうど終戦の年に戦災に遭いましてね。家が焼けてしまい。それで熊本に叔母がいたものでそっちを頼って終戦の日に旅立ちました。
永森 神戸にいらっしゃったのはいつなんですか。
米田 結婚してからです。
伊藤 子ども時代は一番長かったのは熊本ということになりますか?
米田 そうですね、もう神戸の方が長いです。
永森 50年以上ですね。
米田 そうですね。熊本は学生時代だけが向こうで、小学校5年の時に転校していきましたから。
伊藤 でもそういうのもいいなあ。いろんなところで・・。
永森 伊藤さんはそういえば、北海道しか経歴書くところないですもんね。
米田 でも熊本はあんまり愛着ないですね。学校時代だけで。
永森 多感な時期を過ごされていそうですね。
米田 そうなんですけどね。
永森 熊本で出会った方と結婚をして神戸に?
米田 はい。

阪神・淡路大震災(1995年)以降、毎年震災関連シンポジウムを開催

米田 ちょうど震災の時に伊藤さんが「行きます」っておっしゃったけど、来ていただいても、それこそ今の能登半島地震と一緒で、来ていただいても泊まることもできないし、で、お断りしたことがありましたよね。
伊藤 でも少し遅れて、JPCの時代ですけども、長宏さんをはじめ、役員会を神戸でやるということで来たんですよね。北野の風見鶏のあるホテルになんとか泊めてもらって、食事も1品だけなら出せますというレストランで、食べさせてもらったりで。でもねえ、結局我々ができることというのがなかったんですよね。
米田 本当に、やっぱり大変でしたねあの時。今、震災の事が時々出ますけど、能登も一緒だなと思うような光景がいっぱいありますから。
伊藤 結局、高齢の人とか病気を持っている人、重い障害を持っている人というのはどうにもならないんですよね、あれだけ。特に神戸の場合はいろんな社会資源が周りにたくさんあったからみんな集中しましたけど、能登みたいになっちゃうと助けにいけない、援助もしようがない、いけないんですよね。
米田 石川県に難病連ってないらしいですね。
永森 ないですよね。
米田 お聞きしたんですよ、JPA(日本難病・疾病団体協議会)の方に。そしたらないんですっておっしゃって。私たちは毎年、震災を記念してじゃないですけど、シンポジウムをしているんです。そしたらその時に能登の方の人をお呼びしようと思ったら、向こうは難病連がないということでした。(冊子を見せながら)こんなふうにして毎年しているんです。ずっと続いてるんです、毎年。これは県の方から助成金いただきましてね、やっているんですけど。いつも1月を中心にしてやっていましたけど、1月はコロナで2回ぐらい中止させざるを得なくなって7月にやっているんです。だから毎年こうしていろいろな先生をお呼びして、これは大手門学院の先生をお呼びしたり、それからずっと続いています。
伊藤 公開していますか。
米田 はい。皆さんにはお知らせしていませんけどね、報告書は大体送ってます。ずっと毎年です。今年も今計画中ですけどね。ですから能登の方が7月ぐらいだったら何とかたつかなと思ったのですが、今の状態で7月はちょっと無理ですから、お呼びする先生もいらっしゃらないなと思っています。
伊藤 あと、あそこは石川というか、金沢に民医連の病院があって、低肺の治療なんかでは有名だったんですけども。民医連病院、クリニックなのかな、は、石川県内にあるんですよ。
米田 ああそうなんですか。
伊藤 輪島にもクリニックというか診療所はあるというふうに聞いていますけど。
米田 でも7月までにはまだちょっと、いろいろつかめないんじゃないかと思いましてね。もっと、7月より伸ばして今コロナも5類になっていますから、もうちょっと先にしようかなと思って今年まだ考えているところです。
伊藤 輪島から珠洲にかけての救援活動をクリニックでやっているという。
米田 そうですか。
伊藤 唯一、医療機関でも連絡とれるのはそのぐらいですよね。
米田 兵庫の先生は、透析医師会災害対策委員長は災害地にすぐ行きますが、今回は全然入り込めないとおっしゃっていました。それで今回は現地の話が聞けないし、今考えています。
伊藤 そういう時に難病連とかそういうのでもあれば。
米田 そうですね、連絡を取りあえるんですけどね。熊本地震(2016年)のときは、もう亡くなられましたけど、熊本難病・疾病団体協議会の中山泰男さんをお呼びしました。クローン病で何センチしか腸がないとか言いながら、来てくださったんですけどね、いろいろいいお話を聞かせていただきました。
伊藤 あの人、活発だったけど、亡くなってしまいましたからね。
米田 北海道の胆振東部地震(2018年)の後もお呼びしたんですよ、会長さんを。増田さんですね。いろいろ聞かせていただいて、整理して報告書にまとめました。

がんばれ難病患者 日本一周激励マラソン(1999年)での兵庫県難病連の活躍

伊藤 いろいろな活動の中で書いていただいていますけど、日本一周の激励マラソンの時は、本当にお世話になりましたね。

【編集者補足】

「がんばれ難病患者 日本一周激励マラソン」は、1999年にJPC(日本患者・家族協議会)と北海道難病連が主体となり実施された、日本全国を巡るマラソンイベント。市民ランナーの澤本和雄氏が128日間で約6,000kmを走破し、全国47都道府県を訪問。各地で患者やその家族を励ますとともに、集会を開いて各県知事や当時の厚生大臣に面会し、難病対策の拡充を求める要望書を手渡した。JPC代表幹事であった伊藤たてお氏は、主催者の一員として運転その他を担当し、活動の実現に貢献した。

米田 いや、あれはよかったですね。(永森に)その頃はどうでした?
永森 私はまだ学生だったので、(北海道難病連の)職員ではなかったんです。実際には新聞を見て知ったくらいで、直接は関わっていないんですよ。
米田 そうですか。違うコースに行ったからと、次の日に走り直しでしたからね、あれには驚きましたね。
永森 そうだったんですか。
伊藤 いやそういう、なんていうか・・・。
米田 こだわりがあったんですね。
伊藤 澤本さんはそういう人なんです。
永森 ランナーのこだわり。
伊藤 絶対省略はしない。つまりね、予想以上に距離が長かったりするのにね、山道行ったりなんかして、そしたらみんな待ってるのに、これは間に合わないと思って車に乗ったのさ。伴走者が、乗ってきて、皆さん引き継ぎの場所まで行って、泊まってたな。翌日朝早く車に乗ったところまで車で戻って、そこから続けて走った。何カ所かそれがあるんだよね。
米田 兵庫県でもありました。9号線のトンネルは、すごく危ないところだから、そこは通らない方がいいって、違うコースを言ったら、次の日走り直すって、びっくりしてしまいました。赤穂の方は、加古川、赤穂、あっちの方では私走ったんです、ちょっとだけですが。
伊藤 そうだね。
米田 もういいよって言われながら。
永森 どれぐらい走ったんですか?100mとかじゃなくて?
米田 いや、もっともっと。
伊藤 何キロも走りましたよ。
永森 何キロもですか!?へええ!
米田 1キロか2キロか、とにかく走りましたよね。もうそれじゃあ追いつかないから、もういいよと伊藤さんに言われて。
永森 それは澤本さんと一緒に?
米田 一緒に走りだしたんです。
伊藤 すごい、突然走り出した。
永森 それは予定してたんですか?
米田 いえ、していないですよね。伊藤さんからもういいよって言われた。足手まといだなと。(笑)
伊藤 そんなことない、だけど、普段トレーニングしていない人がずっと走ってて、何かあったって大変だと。
永森 そうですよ、1~2キロってすごいことです。
伊藤 そのあと皆さんとき夕食を一緒にする予定があったから、そこにも早く着かなきゃならないしって、大変だった。
米田 写真にも載っていますね。
伊藤 すごく珍しいお酒をごちそうになった。運が開けるという開運だか何だかというのをごちそうになって。
米田 日本海の方を走った方が今でも西播磨リハビリテーションセンターの課長をしていましてね、あの時の写真を飾ってありました。で、あれは良かったですね。
伊藤 もっと早く着けとか何とか一杯言われたけど。
永森 その時、兵庫県難病連の皆さんはたくさん見に行ったりしたんですか。
伊藤 そうそう。
永森 どれぐらい・・・?
米田 たくさんいました。それがうちの方はこっち瀬戸内だけと思っていた。向こうもあるよということになって、それで今の課長になった人がこっちありますから参加しますということで、ええ!そっちもあるんですかって。
伊藤 急遽の変更だから大変だったけど、僕らのも兵庫県というのは神戸を中心にして考えてたから、向こうの方まで兵庫県だとは思わなかったんです
永森 確かに。
米田 だから京都から引き継いだんですよね。
伊藤 僕は地理は強いはずだったのに、ええって、こんなとこ走ったら、大変になると思って。
米田 そうですね。後から何となく。
伊藤 直して、予定を組み換えて、宿も取ってとかなんとかって、そんなに大騒ぎになると思わなかった。でも、すごいたくさん集まって。
米田 そうですね、お坊さんまで走ってくださいました
伊藤 帰りのこっちの姫路の方からも随分。
米田 そうでしたね。
伊藤 女子高校生の運動部の人たちだとか小学生のグループだとか。
米田 病院の方々もだいぶん。
伊藤 なんか知らんけども、すごいいろんな人たちが来てくれて、何か盛り上がりましたね。
米田 そうですね。すごく良かったです。
伊藤 子どもたちが走ってるやつは、お母さん方がまた別について行って、車でついてきたり、先に行ったりとかして。もうえらい迷惑だったな、交通渋滞の原因かもしれない。
米田 腎友会の宮本というのが全国の腎友会の会長しましたけど、尼崎で大阪への引渡しでエールを送り元気づけました。
伊藤 いや何かね、組織的な取り組みを随分しましたよね。場所を分けて責任者を置いたり。
米田 そうですね。神戸市の消防音楽隊が。
伊藤 ああ、そうそう。神戸市に着いた時でしたかね。何か警察、消防か、何かの音楽隊が。
米田 はい、神戸市消防音楽隊が演奏してくれました。
伊藤 そこに走っていく、到着するという演出で。凄かったよ。びっくした。事前にあまりそういう情報をもらわないで、とにかく、スケジュールに従って動いてたから分からなかった。
米田 よくあんなことしたなと思いました。
永森 ものすごくイベント上手というか、すごいですね。盛り上がりもすごいし人もたくさん参加されるし、企画もすごい。
伊藤 その頃よく、兵庫県難病連のことを「神戸株式会社」とかなんとか言ってましたよね。
米田 ああ、そうですか。
伊藤 そういう会社組織みたいにみんなで動くんだとかって言ってました。
米田 当時は盛り上がっていましたけどね。今はだんだん役員も高齢化してしまいましたから、なかなか、活躍ができなくなりましたけど。
伊藤 あの頃そうやって、すごく盛り上がった県もあるし、ほとんど素通りだったというみたいな県もあるんですけど、でも兵庫とか、往復2回だからね。
米田 そうです。
伊藤 日本海側と。内側とね。まあ、いろいろと取り組んでいただいて感謝です。
米田 大変でしたね、あれは。もう企画が大変だった。伊藤さんだからできたんですね。
伊藤 すごく文句を言われましたけど(笑)。
米田 全部県庁に行って。
伊藤 あれで何か県と難病連の関係というのはよくわかりましたよね。
米田 そうですね。
伊藤 やっぱり県との連携が良いところはスムーズにいけたし、そうでないところはさんざん門前払いみたいなのを受けて、それでも粘り強く要望書を届けに行きましたけどね。

50年間無報酬で毎日出勤

米田 辞める時期ってみんなね、70、私もそうですけど、70と思っていたのがだんだん延びて80ってのがまた延びて、(笑)ただ座っているだけかもしれませんけど。でもなかなか・・・。
伊藤 そうですね。でも米田さんは若々しいから。
米田 いやいや。
永森 米田さんは全然お変わりないですよ。声もしっかりしているしねえ。
永森 事務所には毎日いらっしゃっているんですか。
米田 私は毎日。
永森 ええ!?
伊藤 この何十年間か。
永森 えっ、本当ですか!?
米田 ええ、そうなんです。
永森 へえー、驚きました。
米田 休もうと思うんですけど、何かやっぱり県と市との交渉やらいろいろありますから。何となく来ることになってしまう。毎日来てる。
伊藤 毎日、給料も出ないで。
米田 でも亡くなった方がね、結構たくさん遺産を残してくださっているんです。
永森 それは遺産をご寄付くださったと?
米田 下さってるんですよ。
永森 役員さん?
米田 じゃなくて、全然知らない人です。はじめパーキンソン病の人でした。亡くなったら差し上げますと遺贈して頂きました。
伊藤 遺贈寄付っていうやつなんですけど、手続きはどのようにされます?
米田 銀行に手続きをしてもらいました。
伊藤 なるほどね。
米田 でないと、私たちではなかなか。
伊藤 わかんないですよね。ああいう遺言、遺書をきちんと書いてもらった。
米田 はい。書いてある。こんな難病の方に差し上げますということを書いてくる人、一人暮らしの女の方でしたけどね、ありがたかったですね。
永森 今、相談員の方って何名いらっしゃるんですか?
米田 相談員は看護師が1名、以前は2人で交代してたんですけど、今1人になりました。それから事務局の人がここ今来てますけど、毎日じゃないですけど、3人は毎日来てます。
永森 事務局が3人ってことですか?
米田 はい、3人。
永森 看護師1人と事務局が3人。
米田 はい。看護師も週に1回か2回、大体3回ぐらい。前は全部、5日間来てましたけど、ちょっと看護師がなかなかいないんですよね。このコロナで。引っ張りだこになって。ですから、今1人で、お見えできる日にきてます。月曜日はお見えくださっています。それから県のほうの会計、市の方の会計で別々にしてますから、それは交互に来るとか。
永森 会計さんもいらっしゃるんですか。
米田 会計は今、木村が県の会計。市の会計は今日休んでますけど。
永森 米田さんにはお給料が支払われているんですか。
米田 それがね、この間まで全然、それこそ、50年近くなんにもなく、それはもう全然なかったんですよね。ですから県の方から1人分だけ出してます。だから1人分を3人来たら3人で分け分けとか、そんなところに入り込めないですよね。ずっともらってなかったんですけど、今度そういう遺産をもらうことになって、やっぱり出した方がいいんじゃないかというのが税理士の方から話があって、それで先月からいただくことになりました。
永森 えっえっ!?先月から!?約50年間なかったのに先月からですか?
米田 そうなんです。

「難病ヘルスノート」を毎年1冊ずつ発行

伊藤 それで僕らも記録をきちんと生の声で残す必要があると思って、いろんな苦労をたくさんしてこられましたよね、そういうのが本になって出てると・・・。
永森 たくさん苦労されていると思うんですけど、印象に残っていることはありますか。
米田 もう、これはもう随分古い時代のものになりましたけど、難病というのがまだ皆さんに分かってない時代ですよね、私たちが作った時は。その時の分は難病ヘルスノートっていうのをずうっと作り始めましてね、1番から。これを各患者に配ったんですけど、これは神戸市の方からの助成金をいただいて作ってずっと。もう作る団体がなくなって終わったんです。
伊藤 なるほど、そこまで来たんだ、
米田 そこまで来た。それでもう終わりましたけどね。
伊藤 毎年一冊でこれだけ。
米田 毎年一冊。
永森 毎年っていうのが本当にすごいことですよね。
米田 初めの頃は相談室のね、この状況やらいろいろ載せてたんですけどね、相談室のもう載せることもなくなってしまって、やめることになって、色々こんなして、ずーっと作ったんです。
伊藤 これ結構、画期的だったですね。
米田 これはパーキンソン。
伊藤 病気ごとに作ったんですね。
米田 病気ごとです。
永森 すごい!
米田 膠原病ですかね。これ先生にいただいて、それで作ったんですね。
永森 すごい!何年分ですか、そこにあるのは。
米田 これが20まで。
永森 20年!
米田 網膜色素変性症で終わったの。もう患者会がなくなりまして。
永森 そういうことなんですね。
伊藤 だからこの20年の間にしかし、医療は随分変わりましたね。
米田 はい、ですから、もうこれはあんまり役に立たなくなってくるのもありましたから、腎ネフ(腎炎・ネフローゼ)なんか、もう一度作り直しますとかいうふうに言われたりしましたけとね。だからそれぞれの団体が、頑張るところもあればこっちは・・
永森 これはわかりやすいですね。今と違って、この頃は筋無力症は・・。
米田 筋無力症は3回目ぐらいですから、筋無力症で頑張って作った。
永森 一番最初がパーキンソン?
米田 パーキンソンです。毎年、締め切りに追われましたけど。患者会の分を全部網羅して終わりました。これで。
伊藤 なんていうかな、関西圏でもいろんなことに取り組んでやってきていることが、なかなか全国的には広がらないっていうのが。
米田 今では私たち、一度伊藤さんにお尋ねしたことあるんですけど、相談室の活動ってどういうことをしたらいいでしょうかって。(笑)何かなかなかすることが、相談もなくなりましたからね。
永森 最近、そうなんですか。
米田 最近少ないです。
永森 ええ、そうですか。
米田 神戸市に難病相談支援センターができたんです。それから兵庫県難病相談センターは前からありましたけど、両方ありますから、こちらに来たのを向こうに振ったり、向こうからこっち来たりもしますけど、そんなんで。
永森 今、相談は年間どのくらいあるんですか?
米田 年間500はないぐらいですね。少ないです。
永森 以前はどれくらいだったんですか。
米田 前はね、随分多かったですね、2,000くらいありました。ここに肝炎の本がいっぱい並んでますけど、藤川は肝炎のことをね、日曜日に来て電話相談受けたりしました。今は肝炎も治療法が随分進みまして少なくなりましたけど。

音楽療法などのイベントを毎年開催

米田 今度私たちがやるのが、このイベントです。1月には新春の集いっていって、オープニングアトラクションをして、その後、2月は介護者を対象としたリハビリで、3月は、しあわせの村で大々的にやります。ここ2年間はコロナでできなかったんです。先生たちからはいろいろ執筆していただいた原稿で報告書だけ出してました。音楽療法の近藤清彦先生ってご存知ですか?その先生は毎年お呼びしてます。今は信州に行ってらっしゃいますから、そこからおみえくださる。ここで歌を歌ってくださっていて。これは楽しい1日です。こういうのを、ずーっと毎年やっています。

米田 せっかくみんなご執筆いただいていましたから、報告書にして出しちゃいましょうと思って報告書にしたんです。
伊藤 今は信州のどこですか?
米田 相澤病院です。以前は兵庫の八鹿病院で在宅の方をやってらっしゃいました。
伊藤 難病連というものが各県にできていて、相談事業なんかもやるようになっていった頃の難病というものと、今の時代のニーズというのは大きく変わってきていますよね。
米田 そうですね。難病で困ってる人っていうのは、みんなそれこそご自分でパソコンで調べ、ネットで調べますから、あんまり電話がかかってこなくなりましたね。
永森 そうですよね。
伊藤 難病情報センターのインターネットのアクセス数がすごいことになって。
米田 ネットでみんな、しちゃうんですよね。
永森 そうですね。相談はチャットですからね。
米田 いよいよ困った人は電話で聞いてきますけどね。
永森 相談は電話が一番多いんですか?
米田 前はね、先生がいらっしゃった頃は来室の人も多かったですけどね。今は電話です。たまにはお見えになる人もいます。
永森 面談はこのお部屋でされてるんですか?
米田 そうですね、ここですることになっています。
伊藤 そういう点でも変わった。患者さんやご家族を取り巻く状況って変わってきてるんですね。

以前は神経難病の患者さんの訪問事業が好評だった

米田 神経系の難病患者訪問をしたりしてたんです。これがすごく好評でした。近くではみんなお医者さんに診てもらったりもしていますけどね、実際に行ってお話を聞く先生と看護師と私と3人であちこち回りました。でももうだんだんそういう方々も亡くなっていたりして、訪問することもなくなりましたので、もうやめましたけどね。これがその記録です。
伊藤 「神経系難病患者への訪問記録」。
米田 相談室の活動として訪問がいいことかわかりませんけど、やっぱり先生がいらっしゃるということで、みんな安心していろいろなことが在宅以外で聞けることがあるってことで。
米田 これは全国難病センター研究会の第2回研究大会の時に発表しました。1回目が北海道で、2回目が東京で。今は発表することもなくなって。
永森 これだけの事業をされ、いろいろいろんなものを毎年やって、災害と難病のシンポジウムもやってというのを、次の研究大会で発表してくださったらいいと思うんですけど。
米田 こういうのを作りました。病院の紹介のガイドブックですけどね、これは神戸の震災の時はこれ持って、どこの病院がありますよとか言ってね。はじめ作ったんです。
伊藤 これもかなり画期的ですね。
米田 初めの頃はね。ですからお医者さんとか、それから私も編集に入ってますけど。
伊藤 こっちの訪問記録でも、この頃から就労という問題が出始めているのね。
米田 県の方は県でなんかいろいろ作りましたから。でもこれは震災の時は役立ちました。病院を紹介するのにね。ここの事務所がだめになってましたから。だから我が家に事務所を置きましょうってことになって。
永森 そうだったんですか。
米田 前の事務所が9階でしたからね。9階までその頃は歩いて昇りましたけど。今じゃ昇れません。
伊藤 マラソンを走るぐらいだからすごい。(笑)9階でも上がれるんだからなあ。
米田 いろいろやってきましたけど、今はだんだん細々と、毎年、市と県の、県の方からもらうのは相談会の費用とそこの相談室の費用をいただいています。神戸の方はいろいろこういう事業に対していただいていますから、何かしなくちゃいけないからやってますけど、みんな喜んで出席してくださる。
伊藤 そういうのを続けてそしてきちんと記録を残してきているというのは、こういう時代につながったんだと思うんですよね。本当に長い間よく続きましたね。

神戸難病相談室と他の団体との関係について

永森 今は米田さんは相談室の何ていう立場でいらっしゃるんですか?
米田 今、副室長。室長は神戸市難病連の森田というのが室長になってます。いろいろ家賃の手続きとかそういうのがありますのでね。
伊藤 神戸市難病連と神戸難病相談室の事務所は一緒ですか?
米田 ここで一緒にやってます。
伊藤 そっちは神戸市から助成金をいただいているから、どうしても神戸市難病連の事業ということになっていると。
米田 今ここで事務局が一緒に混在してます。私も混在したかったし。
永森 そうですね。分けていないんですね。
米田 ないんです。
永森 住所が一緒だなとは思ったんですけどね。一緒に仲良くされてるってことなんですよね。
伊藤 まあね、人が少ないわけだから分ける必要ないですよね。
米田 本当は県の名前で借りるのがいいんですけどね。市の建物じゃないですけど、ちょっと安くしてもらったんです、はじめ。敷金が払えないからということで安くしてもらって家賃に上乗せするとか、そういうことでの交渉があったので。藤原と一緒に交渉に行って、藤原が家主で契約したもんですからね。
伊藤 藤原さんが家主ということは、藤原さんが部屋を借りて・・・?
伊藤 さらに借りているという形にしてるんですね。
米田 はい。本当に、さっき申しましたけど、借りられるところがないんですよね。もうあっちこっちみんな探したんですけどね。難病なんて怖がられて、怖がる時代でしたからね。その頃は。
伊藤 僕らもはじめの頃そうでしたからね。
米田 封筒も使うなとかね。
永森 ああ、難病って書いてある封筒を、送らないでくださいとか、ありますよね。
米田 それから、神戸市内ではそうでもないんですけど、やっぱりもし膠原病の患者会に相談会するっていうと、なかなか人が集まらないとかね。やっぱり難病、奇病とかいってねえ、だいぶ言われましたから。初めはだから、保健所の懇談会みたいなので難病患者が全部発表してました。保健師さん自身があんまり難病のことをわかってない時代でしたから。
伊藤 今はね、こうやって事務所に行くのが当たり前みたいな感じだけれども、大変ですよね。北海道もそうだったけど、せっかく借りるというところまで行っても、途中でキャンセルされたりしてね。ビルの倉庫として使うことになりましたからって、変な言い訳で断られたりね。同じ入居者が嫌がるからとかね。赤旗を立てるんじゃないかとか、そんなことはする元気もないのにね、みんな。そんなことも言われたし、泊まりがけで勉強会をやろうとしても、病気の人はお断りしているんですって、何かあったら大変だから。
米田 そういう時代でしたね。
伊藤 ちゃんと医師も一緒についているんですけど、って言ってもね。だめだっていうことで。保健所から指導が入っても、そこの社長は頑としてだめだという。そんな時代でしたからね。
米田 以前、ここで先生が相談を受けているときは、どんな病気の相談も受けていた。今は難病相談センターでは、指定難病の人。指定難病って限られてるんですよね。
伊藤 いや、そんなことないんですよ。
米田 でしょう。そうおっしゃったけど、そういうふうに書いてありますね、難病指定の人って。お医者さんが相談を受ける、って書いてある。
伊藤 厚労省の方はね、このあいだ、そのあとでも確認しているんですけども、そういうことがない。ちゃんと通達に出しているんだって、だからまた改めて出しますみたいに言ってきましたけどね。広げないと結局発見もできないんですよね。医療に関する相談。
米田 お医者さんもそうなんですね。
米田 でも県の方は初めできた時は、向こうは神経難病が割と中心で、こっちには膠原病系とか、そういうのは全部こっち回して割り振りしてやってましたけどね。
永森 県の相談事業と市の相談事業って、電話番号が違うとか、そういうことはないんですか?
米田 一緒です。ここ相談室は一緒です。
永森 じゃあ受けた後に数えるときに分けるとかそういうことですか。
米田 相談室は県と市から両方から折半でもらっていますから。だから、一緒の報告書を出す。
伊藤 そりゃそうなんだよね。その方がいいんだよね。ところが北海道と札幌の関係もそうなんだけど、何か知らないけど、厳密に分けたりして、実際は同じ人が同じに取り組んでいるわけだから。形ばかりで分けても意味ないような気がするね。
永森 県によっては何々市にお住まいの方はこの番号にかけてください、それ以外の方はこの番号にかけてくださいって分けている県がありますよね。
米田 そうなんですか。
永森 北海道がそうですよね。札幌市に住んでいる方はこの番号とか分けているので、患者さんにとってちょっとわかりづらいなとは思います。
米田 私たちは、だから県の方の、神戸市の人の相談のときはこっちに回すとか、県の人はこっちに回すとかいろいろ分け分けはしてますけどね、でも神経難病とかそういうので病院とか施設とかそういうのを紹介するのは県の方が強いから、県の方にまわしてと、適当にこっちでやってます。だから市のほうの相談センターって、書いてないです。神戸市の難病相談支援センターですけども。
米田 このごろは難病患者の実態調査しなくなりましたけど、昔はよくやっていましたね。もう今はしなくてもいいぐらい。
伊藤 結局そういう患者会の働きがいっぱいあったと思うんですけど、それが定着してきたんですね。行政がこうやって、力を入れてやるようになりましたからね。予算もなしで。
米田 そうですね。保健師さんもね。
伊藤 相談支援センターがある。僕は全国にも難病相談支援センターができたというの大きいと思います。
米田 大きいですね。伊藤さんのおかげですよ。
伊藤 いやー、そんな。僕のということないけど、結局みなさん地域地域で頑張っていったのが、国としても相対的に認めざるを得なくなっきて、やっぱり行政がそういうものを作って補助金でも何でも出してれば公のことになりますもんね。
米田 そうですね。
伊藤 それと、医師にしても保健所にしても無視することができなくなってくるのでね。1番良かったのは保健所が良かったんじゃないかという気がするね、いろんな業務もあって大変なところを難病に関しては別に作った感じですから。
米田 そうですね。
伊藤 よかったんじゃないかなと思うんですけど。

2016年に一般社団法人兵庫県難病団体連絡協議会が第68回保健文化賞を受賞

米田 県の方から推薦があって、保健文化賞をいただいたんです。
伊藤 兵庫県難病連が受賞したんですね。
米田 そうです。これが賞状です。その時にいただいたものが色々あるんですけど、飾る場所もなくて、中にしまってあったりします。その時の記事はこちらの冊子に載せていただきました。活動のことやら、全部ここに書いてあります。よくまとめてくださってます。

参考資料

  • 「明日に向けての礎石とならむ−藤原勝義先生に・・・」2011年 神戸難病相談室発行
  • 『難病の克服を目指して』「公衆衛生情報」p22-23、2017年 日本公衆衛生協会発行

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