インタビュー

日本福祉大学名誉教授 児島美都子氏

児島美都子(こじま みつこ)氏
日本福祉大学名誉教授
地域にむすぶ高齢者の医療と福祉 出版社: ミネルヴァ書房 /社会福祉の法律入門 出版社: 有斐閣; 第3版版 /
新 医療ソーシャルワーカー論—その制度的確立をもとめて 出版社: ミネルヴァ書房 /福祉のこころ 福祉の実践
出版社:労働旬報社 /寝たきりを作らない福祉 出版社:ミネルヴァ書房

2009/3/25 名古屋市内の児島美都子氏自宅(長ハウス)にて
【インタビューア:伊藤たてお、永森志織】

戦後の結核病院での患者支援から医療ソーシャルワーカーの草分け的存在に

児島

私自身の経歴は、繰り上げ卒業で専門学校卒業して、軍需工場の女子寮の舎監になって、敗戦と同時に首になって失業している時に—失業者一杯だったんですね。兵隊さんみんな復員してくるしね—1947年新憲法が施行されて、戦後初の総選挙で39人女性議員が出た。食べるものがなくて住むうちもないし着るものもない、赤ちゃんがころころ死んでいく。この問題を取り上げて超党派の女性議員たちが牛乳製品対策委員会というのを結成して、その委員会のボランティアだったのが私の戦後の新しい出発なんです。

なぜそういうことになったかというと、たぶん社会科学研究会に所属していたからだと思うんですね。戦後失業していた若い人たちは、食料品の買い出しぐらいしかやることないんで、あちこちに社会科学の研究会を作ったんですね。私は軍需工場に勤めていた時の職員がちょっと意識の高い人で、慶応大学の学生さんといっしょに経済学の研究会をやって社会科学の勉強をやったんですね。それがたぶん、糸口になったと思うんです。この時に、社会を見る目と人を見る目が養われたと思うんですね。

私の父親は繊維関係の仕事をしていて、戦前に、毛織り、毛糸問屋とかやってて、繊維関係というのは浮き沈みが激しいのね、関東大震災、29年の世界大恐慌、戦争と、三回浮き沈みがあって、いい時もあったんだけど、すごいどん底の生活してたんです。私たち家族はみんな、父親が悪いからだ、父親が仕事しないから、うちは貧乏でみんなが苦労する、母が苦労するんだって思ってたんだけど、社会の、資本主義社会の仕組みっていうものを学んで、それで、ああそうじゃないんだと、社会に問題があるんだということが分かって、父親に対する尊敬の念を取り戻した経緯があるんです。

この時期には関東食糧民主協議会というのができたんです。これは市民のカンパニア組織です。この市民団体が集まって米よこせ闘争とか食糧メーデーとか摘発隊の運動とかをやるんですけど、その団体の中に患者団体の名前があったように思います。そこに出てたのが多分日患の、奄美大島出身の朝倉 純義さんだったような気がするんです

ここで患者運動というのにちょっと触れたのね。それがまあ、敗戦直後、昭和21年1946年ぐらいのことで、それから、私はこの対策委員会のボランティアになっていた時に調査をやったんですよ、牛乳乳製品の需給調査。そしたらそれを農林省今の農林水産の牛乳課長が、水口 宏三っていう安保国民会議の議長やっていた人なんですけど、そんなことは知らないのね、その時はね。その人がなかなかやり手で、すごい評価されたのね。たいした調査じゃないんですけど、女学校、専門学校で習ったような調査技術でやったんですけど、それが認められて日本政治経済研究所っていう研究所の研究員になったんです。

その研究所は花形の研究所で、そこにきているのは(鶴見 和子さんとか中林 賢二郎とか)名のあるような人が一杯きて、大卒でもない私がそういう中で農地改革の調査とかなんかやって、その時に農村婦人の非常に悲惨な実態に触れて農村婦人問題をやろうと思ったんですよ。丸岡 秀子さんという人が農村婦人問題やってたけど、その後を継ごうなんて思ったんですけど、あるきっかけで辞めたんですね。というのは、八丈島に農村調査にいった時に、私は農業問題の大家であるというふうに紹介されたんだけど、農家をまわってて足踏み脱穀機が何か分かんなかったんですよ。それで実態を知らないで、もうこんな恥ずかしいことはなかったんですけど、で、2年で辞めたんです

失業している間に家族が結核で入院して、その時にその外科病院の患者会のボランティアをやっていたんです。それが織本外科病院なんです。織本病院は胸部外科の病院で、短期入院システムをとっていたんですね。すぐ手術して、手術後1ヶ月で自宅に帰す。病院は活動家が多い病院で、ひとつは国立清瀬病院との関係があったんですね。清瀬病院というのは院長先生が共産党員だったとかで赤旗に出たりしたような病院で、いろんな運動の労働運動も患者運動も拠点だったんですね。

そこでは、婦長さんや、看護婦さんが何人もレッドパージ(赤狩り)になって、その婦長さんがいたり、事務長は東大経済学部で、全官労という今の官庁の労働組合の運動に関わっていたような人、患者さんも日患同盟やなんかの組織を通じて来る人が多かったし、そのころは診療所だった民医連のお医者さんたちがすごく患者さんを紹介してきたんです。

織本病院というのは中野の花街の真ん中にあって、昔は芸者さん、花街のおねえさんたちの盲腸の手術するような外科病院だったんですね。

その息子が胸部外科の手術を学びに国立清瀬病院にいって、清瀬病院との接触があって、それから高校時代の友達かな、長尾信之さんという事務長とも友達だったりして、この長尾さんという人は官庁の中での労働運動をやっていたような人なんですね。そういう影響があって、それと外科の医者というのはいつも生体実験しているようなもんですよね。だから、間違ってればすぐ結果がでるわけです。割に旧来の医者の考え方じゃなくて、短期入院とかそういうのは、千葉大の中山外科というところで胃腸で有名な先生ですけどね、多分リハビリのかな、医療の片鱗に触れてたかもしれないよね。

それで織本病院は活動家が一杯入院してるんだけど、すぐ切られちゃって、元気になるとすぐ帰されちゃうもんだから、患者運動ができないんですよね。それで私が患者会のボランティアをやったわけ。それで出したのがこの機関紙「新路」です。

それから、都患同盟と接触があって、都患同盟の初期の歴史に名前がでてくる人で前沢 宮内という人がいます。東工大の出身かな。ときどき新路にも出てきますけど、理論家ですね。あとから聞いた話ですけど、一番最初に、前沢さんのうちにも来て、長宏(児島先生のご主人)を見つけたのは僕だよって、僕が患者同盟、都患同盟につなげたんだよっていう話ですね。小島貞夫さんが大変気に入って採用したんですね。

それから近藤正雄さんという人もよく都患同盟の関係では病院に出入りしてました。この人はのちに山谷の靴の組合の事務局やるようになって社会復帰してね、その時は病院をあげて山谷の検診にいったり、そんなことをやったんです。

それから小島貞夫さんは、古汽車をもってきてそこを患者さんの住むところにする「汽車の家」とか作ったんですよ。そういう人ですね。

それで、都患をはじめ各日患の都道府県組織が、当時は胸部外科、手術をすれば治るんだけど、手術ができる病院がもう圧倒的に少なかったですね。それで手術を求めて地方病院からもたくさんの患者が入院してきたわけです。鹿島もそうです。北海道もそうです。

退院後、だからその患者さんたちはまた戻って来ますから、そこをたずねて訪問したりね、私もそういう遠くへいったりしたんですけどね、青森もあったかな。それから都内には15〜6病院ありましたね、そういう病院がね。それで、自宅に帰すのが原則だったんだけど、遠くから来た人は自宅へ帰せないんで、自宅に帰るまでの中間的な病院が必要だったんですね。そのころの病院事情は、戦争で息子が、医者にしたかったけど死んじゃったとか、院長が年とっちゃって、空きベッドが多かったんで、そういうところに手術後の患者さんを入院させると、あまりやることないですからね、とても歓迎されて、そういうサテライト病院が15〜6できたんですよ。そこを回って歩いたりしてね。

その時に、織本の患者は行く先行く先で患者会作っちゃうんですよ、なぜかね。それがね、給食改善なんです。病院の差がこんなに出てくるわけですよ。私は給食改善やったんです。織本病院の給食はすごく水準が高かったんですね。請負やめちゃって、カハイマイ(加配米?)も手続きして、私は家政科出身ですからね。

手術をした時はだいたいあまりみんな食べたくないけど、手術をして5日ぐらい経つと常食が食べられて、その時にちょっとお刺身出したりちらし寿司出したりというふうに献立に変化を持たせるとすごく楽しみになるわけです。それで給食改善したのが表目に出て、給食の差で病院の待遇の差がこんなに違うもんだから、それで患者会作っちゃうんですよ。だから都患同盟の組織は、あのへんはすごく増えたと思うんです。

その病院の1つに三鷹の野村病院というのがあって、そこに入院してたのが渡辺サダオさん。朝日訴訟の弁護士ね。そういう人もいたんですね。それで、都患同盟に加盟して患者運動の拡大に貢献したわけですね。

病院で異型輸血事件というのが起こるんです。この異型輸血事件で病院が取りつぶされそうになったのを患者の家族が都庁に行って談判して、たぶん患者運動の指導があったと思うんですけどね、それで病院が再開することになって、病院の方がなにか患者さんたちに役に立つことっていうんで、私がボランティアだったのが、MSWになったんですね。

その頃は付き添い制度が残っていて、付き添いさんの組合もありましたね。付き添いの組合の書記に回復者がなったりね、結構インテリが多くて、ここにも投稿してますね。

それから、在宅退院患者の会を組織したんですけど、このころは在宅患者の会を保健所が組織したかったんですよね。だけど保健所は成功しなかったんですよ。なぜかというと、医療と結びついてないから。医療がないところでは絶対育たない。本当にその通りだったんですね。

それで、東京都内最大の患者組織になって、700人を超えて千人を超えるという組織になったんですね。で、機関紙を出して、この機関紙は医師も看護師も付き添いさんも患者も投稿する。それからまだリハビリがない時です。OTもPTもいない。病院の中に売店を作って、それを作業療法の場にしたんですね。それである程度回復してくると、そこに通って社会復帰の準備をはじめて、それからその親和会というのは患者の総合援助、今の言葉でいうとピア組織でもあって、お互いに就職を世話しあったり療養生活のいろんな知恵を交流しあったり、そういうことをやった。

就労支援としては回復者を何人か病院の職員として採用したりね、それから結婚の援助というのもあったですよ。結婚というのは回復者、結核が回復したといっても結婚するなんてとんでもないっていう時代ですからね、啓蒙が必要だったんですね。それで、合同結婚式をやってラジオで報道されたりしたんですけどね、回復者同士で結婚したりね、そういうケースが何人かでてますね。

それから、朝日訴訟はカンパ集めたり私が証人になったりというようなことで、関わっていました。

朝日訴訟の時も日用品費の調査をやって、自分の病院と、それから山口県の山陽荘というところに行って患者さんたちの聞き取り調査をしたり、その資料に基づいて証言をしたんで、第一審は勝利したんですけどね。判決文には大分引用していただいていますね。

それからコロニー運動は朝日訴訟の守る会というのがあちこちにできて、佐賀の国立療養所の朝日訴訟守る会に平野さんという弁護士が入院してて、その人からある時、手紙もらったんですね。男性なんですけどね、手紙あけたら香水のにおいがパッとするような粋な人で。それで「佐賀に来ませんか、第三回コロニー会議が佐賀でありますので、そこに出席したらどうですか。」と。

その頃、手術すればどんどん良くなってくる人もいるんですけど、中には治らない人もいて、お焦げって、焦げ付いてたまっちゃうんですね。そういう人たちがやはり未来への希望が持てないし、荒れ気味だったんですね。それで付き添いさんとの関係が悪化したり、患者同士でいがみ合って本当はタバコすっちゃいけないのにタバコ吸ったりお酒飲んだり、中国語の講習会にいってますというから何やっているかと思ったら麻雀やったりとかね、遅くまでね、いろいろ療養規律を乱して、それでこれはどうかできないかと思ってた時にやはりそういう人たちの就労の場をなんか作れないか、というんで、九州地方のコロニー会議に出て、その帰りに山口県の宇部で下りたんですよ。

その時調さんは気管支瘻で背中がふさがらなくて、もう東京にいてもしようがない、治らない、これ以上よくならないっていうんで、宇部で江崎 誠致さんの影響もあって、小説を書いて一生終わるって言って故郷の宇部にいたのね。私も本当に無鉄砲で住所も何ももってないのに宇部で降りて、調さんを探した。そしたら、アパートで調さん夫妻がいるのが分かって、あのころは、岡本 一興っていってたかな、調さんというのは奥さんの名前ですね。

それでビフテキの肉を三枚買っていって、食べながらコロニーの話をして、調さんに東京でもコロニー作りませんかって話して、そして東京へ帰って来たんですね。そしたら調さんが、小説がうまく書けなかったとみえて奥さんと上京してきて、アパートの四畳半を借りて、ガリ版印刷機と和文タイプを一台おいて4人の障害者、回復者で東京コロニーを始めるんですね。その時のお金を集めたのがこの親和会、43万円のお金を集めた。

それで調さんすごい頑張って、野村 実さん、先生なんかもね、手伝った。協力してくださって、東京コロニーつくってゼンコロを組織するんですね。あの人はなかなか組織者ですからね。それでゼンコロの、私も東京コロニーのソーシャルワーカーでゼンコロの事務局長になった。そのうちに日本福祉大学から目をつけられてスカウトされて、それで福祉大学に来て、そこでコロニーとも会ともちょっと疎遠なる。

調さんは国障年の前の年に、国際障害者年日本推進協議会、100ぐらいの団体を組織して作ったでしょう。で、みんなが一緒にやったもんだから、国障年90年代はすごく福祉施策が前進するわけですよね。

その中で患者運動の理論ですけど、3つの役割、これは思いついたのは、ひとつは北練平先生の本です。それからもうひとつはこのころに三冊の雑誌がでてたんですよ。ひとつは「療養生活」っていう雑誌で、もうひとつは「保健同人」ね、ご存じですよね。もうひとつが「健康会議」ですよね。療養生活は療養生活の姿勢とか気力とかね、そういうのを主に、それか詩載せたり俳句載せたりね。

伊藤

どこが出してたんですか?読んだことないな「療養生活」っていうのは

児島

「療養生活」は古い本でね、一番古いです。出版社どこだったでしょうね。一番古いですね。「保健同人」は科学的知識、病気の科学的知識、健康会議は日患の機関紙みたいなものですからね、条件整備とか運動ですね。これがひとつのヒントね。それからもうひとつは北 練平先生は戦争と平和、病気と健康から示唆を受けて、それでこの科学的知識、姿勢、条件整備。ICFでいう、上田敏先生がリハビリでいう個人的要因をエンパワーして環境的要因条件整備をすると。それから足りないところは運動で。これは私が1人で考えたんじゃなくていろいろおっしゃった中で見つけて。私はMSWですからMSWもこうだと思うし患者運動もこうだと思う、ということ。

それから、イギリスとか海外の患者運動との関係ですけど、私は一番最初に日本福祉大学に行って3年目にイギリスに3ヶ月行ったんです。その時に一番最初に聞いたのは、イギリスに患者運動があるのか。あると思ってたんですよね、イギリスやヨーロッパの福祉というのは下から作り上げていく。ところがイギリスにはないんです。結核予防会みたいな団体があるだけなの。患者主体の組織はなかったです、この時。すぐ失望したんです。それで日本にしかないと思った。

ところが、スウェーデンに1980年に行って一月ぐらい滞在したんです。スウェーデン研究所の棚を見ていたら、スウェーデンの障害者運動っていう論文が見つかったんですよ。英文の論文で、スウェーデンには戦前から患者運動があるって書いてあったんですよ。それをみてもう、びっくりしたんですね。ああスウェーデンってこんなにあった。そこで心臓病と結核の患者会をすぐに訪ねた。そこで事務局長にあっていろいろ話を聞いて、それを帰ってきてから文献読んだりもらってきた本読んだりして、訓覇 法子さんにも手伝ってもらったりして、研究紀要にも書いた、これは探せばあると思うんですけどね。それでスウェーデンの患者運動が平和な歴史と関わりがある。スウェーデンは社会運動が生協運動とか市民運動が非常に盛んな国であるとか、それからスウェーデンの福祉は患者運動から始まっている。患者さんたちが日用品費の問題で市と交渉して成果が上がらなくて、勉強しようっていうんで国民高等学校を借りて勉強会を始める。その勉強会でいろんな市会議員とか学者とか政治家とかいろんな人に来てもらって話を聞いて、そして交渉して今度はうまくいって、それが発展してきて、いろんな団体、連合体ができるわけでね、そういうことを知ったわけです。スウェーデンの福祉の原点は患者運動、患者障害者運動。そういうことを帰ってきて話したりして、北欧の患者運動との交流が始まるんですね。それこそ小林さんとかと一緒にね。

伊藤

全患連ね。JPCっていう、そうじゃなくって、全患連の方。全国患者家族団体・・日患と全腎協と心臓とオストミーとかハンセンとかいう今でいえば長期慢性疾患的なグループ。そこと僕らがやっていた地域難病連が合体してJPCになるんですよ。

児島

まだ85年にはJPCじゃない?

伊藤

ないんです。まだ両方で実行委員会は作ってます、全難連含めて。86年にJPCができるとそのJPCに合流するにあたって全患連が解散をするんですね。10周年で解散を前にっていうことで行ったと言ってましたね。

児島

そうですか。そのへんの経緯は知らないから、全患連ですね。じゃそこのところは訂正しないといけない。

伊藤

ここにもう書いてるんです。ちらっと。うすいけど、全患連、北欧視察団。患者運動の前進のために。こんなの持って行って写真撮ったんですね。

児島

それで、それからずっと患者運動に関わってきたんですけど、患者運動から障害者運動に私は移ってくというのは、まあ、AJUと関係して。

伊藤

AJUっていうのは愛知・・

児島

愛知愛の実行運動。あれはね、何もなかったんですよ。何もなかった。今はもうね。勉強会から始まるんですよ。1948年に・・

伊藤

これ当時厚生労働省ではソーシャルワーカーの認定講習会というのをやったんですね。

児島

そうですそうです。最初はね。

伊藤

なんかそのころの方が生き生きしていたみたい。

児島

JPC、AJUとの関わりは1948年に朝日新聞から頼まれてヨーロッパの障害者福祉っていう話をして、そこから勉強会がはじまって、あの人たちは自分で学んだことをすぐに活かして自分の生活に取り入れて、そして次々といろんな施設を作って行くんですよね。東京を離れたら、患者団体とはもう全然関係がなくて、それで障害者団体、そうですねAJUとの関係がほとんどですね。患者運動と障害者運動は同根でしょう。同じでしょう。

伊藤

根底にあるのはね。

児島

ICFの考え方でも。日本式の考え方すると、障害が固定したら障害者でってなるけど。

伊藤

特に今のこのクオリティーオブライフなんかの考えですと全くICF用いないと解説できない。私たちはあれもこれもできないということと、そこから厚生行政が縦割りになってて、高齢者、障害者、っていうふうに分けちゃうんで、その中に入らないと運動も一緒にできないみたいなものがあってね。

児島

医療との関係は絶対必要ですね、患者の場合はね。

伊藤

今や障害の人たちも医療の発展によって神経細胞が再生したり様々なことでもう、ひょっとしたら治癒可能な障害になっているわけですからね。

厚生労働省の検討会で再生医療の制度的枠組みをつくる検討会っていうのがこの(2009年)4月にスタートするんですよ。そこで僕も入ることになったんですけどね。だから再生医療っていうのはもうすでにターゲットに入っていると、これはもう難病という病気だけじゃなくて、特に今まで重い障害だった方々、脊損とかああいうので神経が切れてって運動できなかった方々早めにそれやっていくと、つまり筋肉が完全に固縮してしまう前にやっていくと、その可能性はかなり高くなるという、そういう点では画期的なことだと思うんですよね。

児島

そうですね。

伊藤

部分的な臓器の欠損、機能低下なんていうのは当然対象になるだろうし、視力も回復したり聴力とか様々なところで可能性があるのでね。だからそうなるとますます障害と難病とか病気というのは分けるという意味は、厚生労働省の制度に従えば分けざるをえないけど、あまり基本的には意味がなくなってくるんですよね。いわゆる高齢化という年齢の問題もだんだん病気と高齢化というのは差がなくなってくる、障害とも差がなくなってくる。それから支援についてはもちろん同じ手法を用いることができるというふうにもう大きく変わっていくんだと思うんですよね。

先生そのAJUに関わったあと長先生と一緒に名古屋とか愛知の高齢者問題に関わっていきますよね。

児島

高齢者福祉研究会ね。

伊藤

これも児島先生や長(宏)先生中心に?

児島

これはね、全国老問研の会員が何人かいて、福祉大では高齢者老人福祉論の小池 保子先生ってお医者さん、全国難病連に近藤修司さんとかね、あの人たちが始めたんです。それでああいう研究会、福祉大の大学院生が事務局手伝ってやってたんだけど、小池 保子先生が会長やめて埼玉の所沢に行っちゃったもんで、あとを長が引き継いだ。それで長がやるのを福祉大の大学院生とか私のゼミの卒業生とかが一緒に手伝っていました。長が亡くなっちゃったんで世襲はいやよって私は言ったの。世襲なんておかしいからいや。で、水谷さんっていう人がやってたんだけど、彼も亡くなっちゃった。しようがないんで、世襲じゃないから私が。今はまた別な人で、地域福祉の先生に代わってもらってます。だから、高齢者福祉研究会の方は創設を手伝ったとかそういうことではないんですね。

伊藤

長先生、なかなか一向に進まない患者運動よりも、晩年の高齢者福祉研究会がすごく楽しいみたいなこと言ってましたね。

児島

ああそうです、そうですね。愛知に来たら、愛知の患者運動っていうのはあんまりなかったですね。

伊藤

レベルの低い患者運動よりもいろんな、同じレベルの高い人たちと一緒にやるほうが何か楽しかったのかなあなんて。

児島

そうですね。

伊藤

これ事務所「長ハウス」になっているんですものね。

児島

そうです。いまでも長ハウスになっている。いつもここに来ては作業やるんですよ。その時にいろいろ交流したり、クリスマスもここでやったりして、みんな楽しく。楽しくなければ福祉じゃないっていう。

伊藤

そういう点では議論ばっかりしている患者会は本当にうんざりしている。

児島

難病連はね、心臓の松本さんとかやってましたけど亡くなったですよね。次々に。それから伊藤 安治さんという人がいたけど、結核も治っちゃって、治るとどっちかというと結核の病院としての問題、もう回復しちゃうとね、自分の高齢の問題の方がね。伊藤 安治さんと山口 周吾さんという二人がいて、山口 周吾さんは低肺機能でしたけど、高齢者福祉研究会ずっとやってましたね。このごろちょっと認知症になったり骨折したりして。あんまり難病の方とは関わりなかったですね。松本さんも亡くなっちゃってね、心臓のね。あと難病連の近藤修司さんがもうこの高齢者福祉研究会の事務局は最初からずーっと支えて。

伊藤

愛知県医師会の難病相談室のね。

児島

あの人はすごい人ですよ。あの人でもっているようなもので。

伊藤

あの人なんか相談室から別なセクションになってからちょっと、意気がないけれど

児島

こんど大学院に、福祉大の大学院に行って、医療過誤の問題とかね、そういうことをテーマに

伊藤

医師会やめて?

児島

医師会の推薦で、医師会に籍をおきながらやっている。

伊藤

簡単に言いますけどしかし、この戦後から今日までの福祉やそういう問題の変遷に児島先生はもうどっぷりと立ち会ってきたというか、渦中にいたんですね。

児島

私ぐらいの年になるとみんな死んじゃったり、病気になっちゃったり。

伊藤

でもこれだけ幅広くあっちにいろんなこっちとかいろんなところに関わってきた人ってそういないんじゃないですか。みんな1つの方向だけでいっているような。

児島

運動面でね。ここにも書きましたけれど、本当はまにあうとよかったんですけど、去年の5月8日に日本社会事業所学会というところで記念講演やったんですよ。人権としての社会福祉。これはもうすぐ出ますので、学会紙が。できたらお送りします。

児島美都子氏資料

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