インタビュー

伊藤たてお氏

生年月日:1945年(昭和20年)(インタビュー当時80歳)

出身:北海道札幌市

5歳で重症筋無力症を発症し、妹を同病で失う経験を原点に活動を開始。1970年代に患者会や難病団体を相次いで設立し、全国的な連携を推進。北海道難病センター開設やJPA(日本難病・疾病団体協議会)結成に関わり、制度づくりにも尽力してきた。患者の声を社会に届け続け、日本の難病支援の基盤づくりに大きく貢献してきた、患者支援活動の先駆者。

一般社団法人日本難病・疾病団体協議会(JPA)顧問、特定非営利活動法人難病支援ネット・ジャパン代表理事(2025年11月現在)。

2025/11/11、難病支援ネット・ジャパン事務所
【インタビュアー:永森志織】
【文:永森志織】

1972年の夏、北海道庁の建物に入っていったのは、20代の若者だった。
赤いポロシャツにジーパン、足元は雪駄。
その手には、患者たちと一緒にまとめた要望書があった。

全国筋無力症友の会が生まれ、北海道にも患者会を――。
寝たきりの患者、家族の介護で外に出られない人、仕事を休めない人。
「日中に動けるのが、たまたま僕だった」。
伊藤たてお氏は、そう言って当時を振り返る。

一人で役所に向かったように見える行動の背景には、
同じ病と向き合う仲間たちの切実な願いがあった。
伊藤さんは、その声を預かり、届ける役割を引き受けただけだった。

後に長年の活動から「レジェンド」と呼ばれるようになるが、
それは決して一人で成し遂げた物語ではない。
運動は、いつも複数形だった。

「北海道にも、患者会を」――仲間とともに始まった1971年

永森 全国筋無力症友の会ができたのが1971年ですよね。伊藤さんは、どうやってその動きを知ったんですか。
伊藤 僕はね、東京のほうで患者会が立ち上がったらしい、って話を聞いたのが最初だね。
当時は情報なんてほとんどなかったから、「そういう動きがある」っていうだけでも大きかったんだよ。
永森 北海道にも、という話は自然に出てきたんでしょうか。
伊藤 自然というより、「必要だった」って感じだね。
北海道にも患者はたくさんいるのに、みんなばらばらだった。
病院ごと、地域ごとに孤立していて、横のつながりがなかったんだ。
永森 その頃、伊藤さんご自身はどんな状況だったんですか。
伊藤 僕自身も患者だったし、先が見えない感じはあったね。
治療法も限られていたし、制度もほとんどなかった。
「この先どうなるんだろうな」って、みんな思ってたんじゃないかな。
永森 患者会をつくろう、という話は誰が言い出したんでしょう。
伊藤 誰か一人が、ってわけじゃないね。
何人かで話してるうちに、「北海道にもあったほうがいいよね」って。
雑談みたいなところから始まってる。
永森 最初から、きちんとした組織をつくろうという意識はあったんですか。
伊藤 全然ないよ。
集まれる人が集まって、話をする。それだけ。
でも、それだけでも意味はあったんだよね。
永森 実際に集まり始めたのは、どんな方たちだったんでしょう。
伊藤 患者本人と家族だね。
体調のいいときだけ来られる人もいれば、家族に付き添われて来る人もいたし、手紙だけ参加する人もいた。
最初から「みんな同じようには動けない」ってことは分かってた。
永森 その頃から、「代表」という意識はあったんでしょうか。
伊藤 いや、全然。
できることを、できる人がやる。それだけだね。
僕はたまたま、比較的動けた。だから外とのやり取りとか、雑用を引き受けることが多かった、っていうだけ。
永森 北海道支部としての立ち上げは、いつ頃になりますか。
伊藤 1971年だね。全国の動きと、ほぼ同じ時期。
「支部」って言っても、最初は名前がついただけみたいなもんだけどさ。
永森 それでも、「一つになった」という感覚はありましたか。
伊藤 あったね。
一人で抱え込んでたことを、言葉にしていいんだって思えた。
それは大きかったと思うよ。

みんなで要望をまとめ、僕が届けに行った

永森 患者会が動き始めて、次に出てきたのが行政への要望だったんですよね。
伊藤 そうだね。
話をしていくうちに、「これは個人でどうこうできる話じゃないな」っていうのが、だんだんはっきりしてきたんだ。
永森 どんな声が多かったんでしょうか。
伊藤 医療費のこと、仕事のこと、生活のこと。
病気そのものだけじゃなくて、「どうやって暮らしていけばいいのか」が分からない、って声が多かったね。
みんな、それぞれの場所で困ってた。
永森 それを、要望書という形にまとめていった。
伊藤 うん。
最初から「要望書を出そう」って決めてたわけじゃないよ。
集まって話したことを、少しずつ書き留めていった感じだね。
「あ、それも困ってる」「それ、うちも同じだ」って。
永森 まとめ役は、どなたが。
伊藤 特別な役割分担があったわけじゃないけど、
僕が書くことが多かったかな。
手が動いたし、時間も多少あったからね。
永森 そして、北海道庁へ。
伊藤 結果的には、そうなったね。
誰かが行かなきゃいけない。でも、全員が行けるわけじゃない。
体調の問題もあるし、家族の事情もある。
「じゃあ、僕が行くか」っていう、それだけの話だよ。
永森 外から見ると、「一人で道庁に乗り込んだ」という印象になりがちですが。
伊藤 まあ、そう見えるよね。
でも、僕一人の考えで行ったわけじゃない。
みんなで話して、みんなでまとめた要望を、僕が預かって行った。
役割として、そうなっただけだね。
永森 当時の服装の話も、よく語られていますね。
伊藤 ああ、赤いポロシャツにジーパン、雪駄。
スーツなんて持ってなかったし、必要とも思ってなかった。
今思えば、ずいぶん場違いだったかもしれないね。
永森 役所の反応は、どうでしたか。
伊藤 正直、冷たかったよ。
「前例がない」とか、「制度がない」とか。
まあ、想定内ではあったけどね。
永森 そこで、記者クラブに行かれた。
伊藤 うん。
このまま帰っても、何も変わらないと思った。
だから、「こういう患者たちがいる」「こういう困りごとがある」って、外に向けて話したんだ。
永森 それも、個人としてではなく。
伊藤 もちろん。
僕が困ってる、じゃなくて、
「こういう人たちがいる」って話だね。
それは、ずっと意識してた。
永森 あの日の行動が、その後の運動につながっていくことになったんですね。
伊藤 結果としてはね。
でも、そのときは先のことなんて考えてない。
目の前の声を、どうやって届けるか。

雪駄に赤いポロシャツ、髭面で――相手にされなかった一日

永森 道庁に行かれたときのこと、かなり印象に残っているそうですね。
伊藤 残ってるね。
あれはもう、最初から最後まで、相手にされなかった。
永森 服装の話はよく出てきますが、そのときは。
伊藤 赤いポロシャツにジーパン、雪駄。
それに、髭も生やしてた。
今思えば、完全に場違いだよね。
永森 受付での対応は、どうだったんでしょう。
伊藤 けんもほろろ、ってやつだね。
用件を言っても、「どこの部署ですか」「担当が分かりません」って。
患者会の要望書を持ってきてるって言っても、
「そうですか」で終わり。
永森 すぐには取り次いでもらえなかった。
伊藤 全然。
しばらく待たされて、ようやく出てきた人も、
立ち話みたいな対応だった。
永森 要望書についての話は。
伊藤 ほとんどなかったね。
中身をちゃんと読んだ様子もないし、
「前例がない」「制度がない」「予算がない」
その言葉が先に出てきた。
永森 かなり、冷たい対応ですね。
伊藤 冷たいっていうか、
最初から「相手にする気がない」感じだった。
ああ、これはダメだな、って。
永森 そこから、どうされたんですか。
伊藤 正直、腹が立ってた。
エレベーターに乗って、「もう帰ろう」って思ったんだよね。
永森 そこで、記者クラブの看板が目に入った。
伊藤 そう。
エレベーターの中か、降りたところか、
たまたま「記者クラブ」っていう看板が見えた。
同じ建物の中だった。
永森 狙っていたわけではなく。
伊藤 全然。
本当に、たまたま。
でも、もう腹に溜まってたからさ。
「ここで話してやろう」って、そのまま入った。
永森 中では、どんなふうに話されたんですか。
伊藤 もう、ダーッとしゃべったね。
患者会でどんな話をしてきたか、
それを道庁が全然相手にしてくれなかったこと、
そのまま、全部。
永森 整理して話す、というより。
伊藤 そんな余裕ないよ。
怒ってたし。
でも、「僕が困ってる」って話じゃなくて、
「こういう患者たちがいる」「こういう声がある」
それだけは外さないようにした。
永森 記者の反応は、どうでしたか。
伊藤 ちゃんと聞いてくれた。
それが、まず驚きだったね。
質問もされたし、「それは記事になりますよ」って言われた。
永森 実際に、新聞に載った。
伊藤 載ったね。
そしたら、道庁の対応が、ころっと変わった。
永森 具体的には。
伊藤 連絡が来た。
「一度、改めて話を聞かせてほしい」って。
さっきまで相手にもしなかったのに、だよ。
永森 その変化を、どう受け止めましたか。
伊藤 正直、複雑だったね。
嬉しいというより、「ああ、そういうものなんだな」って。
中で言ってもダメなら、外に出す。
そうしないと、話が動かないんだって。
永森 かなり強烈な体験ですね。
伊藤 強烈だった。
でも、特別なことをしたつもりはないよ。
相手にされなかったから、
たまたま見えたところで、しゃべった。
それだけだね。

「一つにまとまれば、話ができる」――患者会連携という発想

永森 記者クラブでの出来事を経て、考え方に変化はありましたか。
伊藤 あったね。
個人とか、一つの患者会だけで動いても、限界があるなって。
道庁の対応を見て、はっきり分かった。
永森 「一つにまとまる」という発想は、そこから。
伊藤 そう。
向こうからすると、患者会がいくつもバラバラに来ても、
正直、扱いづらいんだと思う。
でも、「これだけの人がいます」って一つになれば、話は変わる。
永森 それまでも、他の患者会との接点はあったんですか。
伊藤 少しはね。
でも、お互いに余裕がないから、
病気ごとに、それぞれ必死でやってる状態だった。
永森 そこを、つなげていく。
伊藤 つなげる、っていうほど大げさなことじゃないよ。
「一緒に行きませんか」
「同じようなことで困ってませんか」
そんな声かけから始まった。
永森 反応はいかがでしたか。
伊藤 すぐにうまくいったわけじゃない。
病気も状況も違うし、考え方も違う。
「一緒にやる意味があるのか」って言われたこともある。
永森 それでも、続けた。
伊藤 続けたね。
道庁の中で、相手にされなかった感覚が、
ずっと残ってたから。
同じ思いを、他の患者会にもさせたくなかった。
永森 具体的には、どんな形で連携が進んでいったんでしょう。
伊藤 まずは情報交換だね。
医療のこと、制度のこと、
「どこでつまずいたか」「何が通らなかったか」
それを共有した。
永森 それだけでも、大きいですね。
伊藤 大きいよ。
一つの患者会だけだと、
「うちの問題」で終わってしまう。
でも、同じ話がいくつも重なれば、
「全体の問題」になる。
永森 やがて、北海道難病連へとつながっていきます。
伊藤 そうだね。
名前が先にあったわけじゃない。
必要に迫られて、形ができていった。
永森 そこでも、伊藤さんが前に立つ場面が多かったんですね。
伊藤 結果的にはね。
でも、前に立ちたいわけじゃなかった。
動ける人が動く、話せる人が話す。
それだけ。
永森 連携することで、変わったことは。
伊藤 変わったよ。
行政の反応も違ってきたし、
「患者会」という言葉の重みも変わった。
個別の要望じゃなくて、
社会の問題として扱われるようになった。
永森 それは、意図した成果だったんでしょうか。
伊藤 狙ってやった、っていう感じじゃないね。
相手にされなかったから、考えた。
考えたら、「まとまるしかない」って結論になった。
それだけだよ。

制度は待たない。必要なら、現場から作る

永森 患者会が連携し始めてから、具体的な動きも増えていきますね。
伊藤 増えたね。
連携したからって、すぐ制度が整うわけじゃない。
でも、「声がまとまった」ことで、次に何をするかが見えてきた。
永森 まず取り組んだのは、どんなことでしたか。
伊藤 補助金のことだね。
活動を続けるにも、お金が必要だって、だんだん現実的に分かってきた。
永森 それまでは、ほとんど持ち出しだったんでしょうか。
伊藤 そう。
会費もわずかだし、集まりの交通費だって負担になる。
患者会って、余裕のある人がやるものじゃないからね。
永森 行政との交渉も続けて。
伊藤 続けたよ。
今度は、前みたいに一人じゃない。
複数の患者会が一緒に行く。
それだけで、空気は違った。
永森 雇用の問題にも取り組んだんですね。
伊藤 うん。
病気があっても、働きたい人はたくさんいる。
でも、受け皿がない。
だったら、どうするか。
永森 「作るしかない」と。
伊藤 そうだね。
待っていても、制度は降ってこない。
だったら、現場でできることからやる。
作業所も、その一つだった。
永森 立ち上げは簡単ではなかったと思います。
伊藤 簡単じゃないよ。
場所を探して、理解を得て、資金を集めて。
でも、「必要だ」と思ってる人が複数いると、動ける。
永森 伊藤さんご自身は、どんな役割を担っていたんですか。
伊藤 調整役かな。
あちこち走り回って、話をして、
「じゃあ次はこれをやろう」って決める。
目立つ仕事じゃないよ。
永森 それでも、形になっていった。
伊藤 うん。
一つ一つは小さいよ。
でも、小さいことを積み重ねるしかなかった。
永森 振り返ってみて、「あれは大きな転機だった」と思うことはありますか。
伊藤 そのときは、転機なんて思ってないね。
いつも目の前のことで手いっぱいだった。
ただ、「困っている人がいる」っていう事実だけは、
ずっと変わらなかった。
永森 制度を作った、という自覚は。
伊藤 制度を作った、なんて大げさだよ。
穴があったから、塞いだ。
足りないものがあったから、足した。
それだけだね。

お金がなければ知恵を出す――難病センター建設への道

永森 活動が広がる中で、「拠点が必要だ」という話も出てきますね。
伊藤 出てきたね。
集まる場所がないと、何をするにも不便だった。
会議も、相談も、毎回どこかを借りなきゃいけない。
永森 専用の場所を持つ、というのは大きな決断だったのでは。
伊藤 大きいよ。
でも、理想から始まったわけじゃない。
「このままだと続かない」っていう現実からだね。
永森 難病センターの構想は、どのように固まっていったんでしょう。
伊藤 最初は、そんな立派な名前じゃなかったよ。
とにかく、患者が来られる場所、相談できる場所がほしい。
それだけ。
永森 資金集めは、簡単ではなかったと思います。
伊藤 簡単なわけないよ。
大きなスポンサーがついたわけでもないし。
だから、できることをやった。
永森 例えば。
伊藤 募金箱を置いてもらったり、バザーを開いたり、
物品販売をしたりね。
本当に地道なことばかり。
永森 華やかさはないですね。
伊藤 ないね。
でも、あれが一番確実だった。
「少しずつでも、自分たちで積み上げる」っていうやり方。
永森 多くの人が関わった。
伊藤 そう。
患者だけじゃなくて、家族も、支援者も。
一人が大きな額を出すんじゃなくて、
小さな力が重なった。
永森 建物が形になったとき、どんな思いでしたか。
伊藤 ほっとした、かな。
誇らしいっていうより、「間に合った」って感じだね。
これで、相談できる場所ができたって。
永森 センターができたことで、何が変わりましたか。
伊藤 まず、「居場所」ができた。
病気のことを隠さなくていい場所。
困りごとを、そのまま話せる場所。
それは大きい。
永森 それまでの運動とは、質が変わった部分もありますか。
伊藤 外に向かって声を出すだけじゃなくて、
内側を支える力がついた、っていう感じかな。
制度と生活、その両方を支える拠点になった。
永森 振り返って、あのセンター建設は。
伊藤 特別なプロジェクト、っていう感覚はないよ。
必要だったから、みんなでやった。
それだけだね。

「みんなの声を、持って行った」

永森 ここまで長い時間をかけて活動を続けてこられました。
振り返って、「自分が成し遂げた」という思いはありますか。
伊藤 ないね。
僕がやった、っていう話じゃない。
永森 それでも、伊藤さんの名前が前に出る場面は多いです。
伊藤 前に立つことはあったよ。
でも、それは役割だね。
動ける人が動く、話せる人が話す。
たまたま、僕がその位置にいたことが多かっただけ。
永森 では、何が続いてきたのだと思いますか。
伊藤 困っている人が、ずっといたってことだね。
それが、途切れなかった。
だから、活動も途切れなかった。
永森 伊藤さんご自身は、何を支えに続けてこられたのでしょう。
伊藤 支え、ねえ。
大げさなものはないよ。
目の前に「必要」があったから、それを埋めてきただけ。
永森 これからの世代に、何か伝えたいことはありますか。
伊藤 ないね。
永森 ……。
伊藤 それぞれ、その人たちが考えればいい。

「目の前に必要があったから。」
最後まで、その言葉は変わらなかった。
大きな理想でも、未来への提言でもない。
ただ、そのときそこにあった「必要」に向き合ってきただけだという。
もしまた必要が生まれれば、誰かが動くだろう。
それだけのことなのかもしれない。

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