3.11 東日本大震災から10年にあたって

「東日本大震災被災4 県の難病連・難病相談支援センター状況調査と激励訪問 一般社団法人日本難病・疾病団体協議会」
― 概略 ―

NPO難病支援ネット・ジャパン 伊藤たてお

2011年4月28日から5月4日

[4月28日(木) 札幌出発~函館]
伊藤JPA 代表理事、福田北海道難病連事務局長、カメラ担当新井さんの3人で札幌を出発。
[4月29日(金・祝) 函館~(フェリー)~青森~盛岡]
岩手県難病連・難病相談支援センター訪問・懇談。(現地で水谷JPA事務局長と合流)。
[4月30日(土) 宮古~石巻~仙台]
岩手県難病連代表理事の千葉さん、同副代表理事の矢羽々さん、相談支援員根田さんの先導で、三陸海岸沿岸部を視察。大槌で別れて、釜石市、陸前高田市を通り石巻へ。NPO ホップ石巻被災障害者支援拠点(レラ)を訪問。石巻から仙台市内に。(ホテルで野原JPA 副代表理事と合流)。
[5月1日(日) 仙台~福島]
(社福)ありのまま舎を訪問。被災した宮城県難病連事務局長宅(亘理)を訪問・懇談。(独)国立病院機構 宮城病院ALSケアセンターを訪問。神経内科・今井先生、MSW椿井さんと懇談。福島県難病連を訪問・懇談。(福島市内で玉木朝子衆議院議員・栃木県難病連会長・JPA幹事と合流)。
[5月2日(月) 福島~筑波~水戸]
福島県難病相談支援センターを訪問(福島市内)。茨城県難病相談・支援センターを訪問(筑波大学病院内)。茨城県難病連訪問・懇談(水戸市内)。
[5月3日(火・祝) 水戸~秋田]
 
[5 月4 日(水・祝) 秋田~(フェリー)~苫小牧~札幌]
 

2011年3月11日は岐阜で開催される全国難病センター研究会第15回研究大会の開催を前にして、JPA事務局長を含む研究会事務局メンバーは名古屋市内のホテルで日本患者運動史のインタビューを行っていた。高層ホテルは大きく揺れた。JPAとしては至急その場から情報収集と患者団体との連絡のために事務局長を東京の事務局へ急行させた。東京へ帰った事務局は帰宅困難などの中、全国の患者会の情報を集め始め、厚労省難病対策課との連携も頻繁に行われるようになった。

私たちはその災害の規模、被災者のあまりにも多いこと、想像を絶するものであり私たちに何ができるのかさえおぼつかなかった。その後JPAでは今後の対策を考えるために、取り急ぎ被災地の患者会の様子や難病相談支援センターの状況を確認し激励を兼ねて視察団を急遽派遣することとした。

視察は2011年4月28日(木)から5月4日(水)にかけて実施した。人員や車などは、北海道難病連が提供した。

すでに被災地を何度か訪問している岩手県難病連の案内で、盛岡を出発し山田町に入って津波のすさまじさに息をのんだ。自然の力とは人知、人力の立ち向かえないことを痛感した。

まだ道路が復活していない地域も多く、ガソリンスタンドや商店、宿泊施設もなく行動も予定通りとはならなかった。その後延々と続く被災地の状況から受けた衝撃は非常に大きいもので、その後数年の間、ひと時も脳裏を離れないものだった。福島第一原発の事故の影響で相馬市以南は入ることができなかった。また現地の方々から女川原発も間一髪だった、福島第二原発も危なかった、などと聞いた時には、引き続き視察を続けなければならないと思った。まだ相馬市松川浦ではその後風評被害が長く漁業を苦しめるなどということはその時には想像もできなかった。

その経験がJPAでは「3.11 東日本大震災 福島を肌で感じるツアー」を実施するきっかけの一つになった。

盛岡から三陸沿岸を南下し、道路が不通となっている南三陸町は迂回した。

仙台から見渡す限りの平野に車やがれきの残っている地帯を走り、相馬から迂回してつくば、水戸へと向かった。

参加者は、JPAからは伊藤たてお代表理事(全国筋無力症友の会、難病支援ネット北海道=代表理事)、福田道信北海道難病連事務局長(全国多発性硬化症友の会)、新井宏(難病支援ネット北海道)で出発し、盛岡から水谷幸司JPA 事務局長、仙台から野原正平JPA副代表(静岡県難病連代表理事、モヤモヤ病の親の会)、福島から玉木朝子衆議院議員(全国膠原病友の会、栃木県難病連会長)が合流した。

詳細は同年度から始まった厚生労働省の難病患者サポート事業の調査・記録事業「患者・家族の声」として「あの日の「記憶」を伝えよう」に掲載した(3.11 東日本大震災~あれから1 年半「今、伝えたいこと」も翌年度刊行。JPAのホームページにも掲載。記録としてはA4判175ページ、写真およそ2000枚となっている)。

防潮堤も底からひっくり返されていた(山田町)
水に浸かった陸前高田市のホテル
新しい家々も (山元町)

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