3.11 東日本大地震&福島を肌で感じるツアー全記録

JPAは、被災地で見て聞いて感じたことを家族や知人・友人へ伝え震災のこと、福島のことを語り継ぎ、一人一人ができる支援の方法を考える事を目的に、2013年3月から2020年3月までの7年間に8回のツアーを行ない被災地を訪問しました。これはそのときの記録です。

地図(福島県)

★:視察地点

第1回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

開催日2013年(平成25年)3月23日(土)、24日(日)
参加者21 名
宿泊ロイヤルホテル 丸屋(南相馬市原町)、ホテルラフィーヌ原ノ町(南相馬市原町)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅(10:00) → 川俣町(銘品館「シルクピア」休憩) → 飯舘村 → 南相馬市(道の駅にて弁当、仮設住宅 、小高地区の海岸線)→ 浪江町(希望の牧場等)→ ホテル(南相馬市)で学習会、交流会等を開催
ルート
(2日目)
ホテルを出発(8:30) → 相馬市松川浦(水産物直売センター跡) → 宮城県山元町(JR山下駅周辺)→ 名取市閖上(閖上水門、日和山周辺)→ 仙台空港・JR仙台駅(15:00)

第1回目のツアーは、すでに震災から2 年が経過しているものの浪江町(福島県双葉郡)周辺では依然として福島第一原発の事故による放射線量が高く、作業の遅れから津波により壊れた車や家屋など震災の爪痕が至るところで見られました。参加者の多くは、新聞やテレビのニュースと現実との違いに驚きと衝撃を受けました。被災地の視察は、これまでの私たちの生き方や価値観に少なからず影響を与えるものになりました。ツアーの参加者も多く、大きな反響を呼びました。

福島県南相馬市小高地区塚原周辺には壊れた家屋がたくさん残っていた

JR郡山駅から川俣町を通り飯館村

JR 郡山駅前は、少し人通りはあるもののあまり活気は感じられせん。西口からツバサ観光の黄色いバスに乗り込み、10時に出発。国道4 号線を北上、二本松市で県道39 号線に入り最初の目的地である川俣町、そして飯館村を目指します。

川俣町での線量は1.05μ Sv/h でした。ちなみに東京は0.04μ Sv程度ですからだいぶんと高値になります。そしてさらに飯館村まで来ると2.7μ Sv/h まで上昇しました。飯館村は原発事故以来避難指示が出ており、住居周辺に人の気配は無く農地も荒れ放題です。飯館村役場は、全国から応援に来ている警察隊の基地になっていました。大震災が起きなければめったに来ることのなかった地域ですが、これから先、何度も訪れることになります。

仮設住宅

南相馬市では「道の駅」のとなりに建てられた江井恵子エネイケイコさん(小高地区から避難)の仮設住宅を見学させていただきました。明るい住居内は清潔感があり、思ったよりは快適な感じがしました。それでも江井さんによると、「隣とは壁一枚なので隣の声や物音がよく聞こえるのでかなりストレスになる」ということです。江井さんは5 人家族で3 室あり、新しいので仮設の中でもまだ良いほうだということです。(追伸、お母様は残念ながら2018年にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈り申し上げます)

小高区から浪江町、原町のホテルで学習会及び交流会

南相馬市小高地区の海岸線は、地震と津波そし放射線による汚染といった三重の被害が出ました。震災からすでに2年が経ちますが、被災当時の状態が色濃く、壊れた家や車をたくさん目にしました。

福島第一原発から14キロ地点にある浪江町の希望の牧場(吉沢牧場)では、線量計の数値が9.999μ Sv/h を示し測定不能でした。あまりの高線量に、参加者の顔にも緊張感が走ります。放射線には色もついていないし匂いもしませんが、それがかえって静かな恐怖心を増幅させました。希望の牧場では、吉沢さんの「人間の身勝手で牛を殺傷処分にすることはできない」という考えに基づき、被爆した牛が飼育されています。今回は、外から牧場の様子を視察させていただきました。

視察を終えて、原町のホテルに到着するとすぐに学習会です。最初に小高地区の江井恵子エネイケイコさん(リウマチ患者)の体験談をお聴きしました。次に朝日新聞記者の青木美希さんが、これまでの新聞取材等で得た「手抜き除染」などの情報をお話くださいました。江井さんの体験談は、講演録(64ページ)に収載しています。

松川浦

2日目はさらに北上します。相馬市の松川浦では、漁港の水産直売センターの建物が津波でなくなり看板だけになっていました。海洋汚染で漁業ができなくなり、りっぱな漁船がずらりと並んでいます。現在は週1回の試験操業で線量を計測しています。徐々に回復しているとのことですが、若い漁師さんの中には船を降りて除染の仕事をしたり漁業をやめる人もいるそうです。

山元町

撤去を逃れたJR山下駅のトイレ
宮城県山元町のJR 山下駅やその周辺は、海岸線に近かったことから津波で大きな被害を受けました。視察時、駅舎や跨線橋は撤去されていましたが、線路や信号機などは残っていました。また、当初はJR が撤去する予定だった駅のトイレは地元住民の強い要望で残されました。イチゴの産地として有名な山元町では、農業の再開に向けて畑の塩害を取り除く作業が行われています。駅前の橋元商店は、営業を再開していました。店主の橋元さんは「隣近所の方も復興住宅に行ってしまいお客さんはかなり少ないけど、町の復興を願いがんばっている」と言います。ときどきバスでボランティアの方が来てくれるそうです。現時点では、復興計画はないということです。近くには、送迎バスごと津波にのみこまれ園児5人が死亡、4人が行方不明になった「ふじ幼稚園」跡がありました。

閖上(ゆりあげ)

津波の高さを示した水門
(赤丸のところ)
宮城県名取市では911人が津波の犠牲となり、そのほとんどが閖上地区の人です。閖上は、海岸に隣接することや人口が密集していたことで犠牲者が増大でした。町がまるごと一つ無くなったような感じです。視察した時点では、建物のがれき等は撤去されていましたが、復興は進んでおらず広大な更地となっていました。とても涙なしには見られない光景でした。

全体として、震災から2年が経ちますが復興はまだほとんど進んでいないという印象を強く持ちました。

(報告 藤原 勝)

参加者の感想

映像や写真では枠の中にはまっていて、その範囲しか観られませんが、こうして現場に来ると自然がどんなに大きくて、その中で人間がどんなに小さいか、それを五感で感じざるを得ません。自然の力のすごさを行政の人や議員さんは全員現場に見にくるべきだと思います。そして日本がいまこうだということを感じて、それから始めてほしいと思います。

昨日、福島の方にお会いして、りっぱな家があるのに皆さんを案内できないのが残念だと言っておられました。その前向きに生きておられる姿や他をあてにしていられない、自分が元気でやらないと、という気持ちを強く感じました。それに対してなにができるのか、今は答えが出ませんが、考えていきたいと思います。

(Y W)

被災地をまわり、いかにすごい大災害だったかということを実感できました。早くみなさんが元気になれるように祈っています。

(T M)

福島の原発事故の問題も含めて、まず人命を大事にする今後の対策が必要だと感じました。

(Y I)

百聞は一見にしかずと言いますが、2年経った今でもこんな状態であると非常に驚きました。被災者の方が明るいニュースを聞けるように、行政の方も含め早い対策をお願いします。

(S M)

テレビ新聞で見ておりますが、現地で見るのとは大違いでございまして、まさに肌で感じるツアーということで大いに参考になりました。早く復興を願っております。

(K Y)

2日間現場に入って、復興、復旧というのはいかにたいへんかということをあらためて強く感じました。たいへんいい機会だったと思っています。

(T H)

今、言葉にならない気持ちでおります。2年経ってもまだまだ道は遠いということを感じさせられた2日間でした。どうもありがとうございました。

(T T)

2日間とも、ちょっと立場の違うというか位置づけの違う被災地をそれぞれ見せていただきました。1日目は原発の被災地である福島。ここでは遅々として進まない復興の中で患者さんがどうしているのだろうということで、もう少し患者さんの声も聞けたらよかったかなぁと感じています。

2日目の今日は閖上を中心にたいへん津波の被害の大きい状況をつぶさに見せていただき、ここもまた別の意味での復興が進んでいない中で該当する方々はたいへんだろうと思っています。自分の組織に持ち帰って支援の糧にしたいと思っています。ありがとうございました。

(K M)

実際に来てみて、本当はそこにあるはずの家などがまったくないのに対して、そこにないはずの車などが畑の中にぽっこりあったりとか、これが同じ日本なのかという気がしました。まだまだこれからやらないといけないことがいっぱいあるでしょうし、2年経った今もまったく復興が進んでいないと現地の人が言っているということは、まだ先は遠いのかなぁと思います。これからなにができるのか、ちょっとずつ考えていければと思います。ありがとうございました。

(Y I)

私も地元なのですが2年経ってあらためて、亡くなった方の土地の土台のなかにお花がいけてあり、それを見るたびに涙が出てきて悲しくなりました。早くよくなってほしい、きれいになってほしいと思う反面、これはやはり忘れてはいけないものだと思います。

(K S)

2日間、現地に足を踏み入れまして自分の目で見るのと映像などで観るのとの違いを大きく感じました。特に1日目は原発事故による原子力の影響というのが、復興を非常に妨げているということを強く感じました。ありがとうございました。

(M K)

復興はぜんぜん進んでいない、まだこれからだということをこの目で見て、人からお話を聞いて強く実感した2日間でした。特に福島の悲惨さを強く感じまして、報道を見ているよりも反原発という気持ちを強く持ちました。

(Y Y)

2011年5月にほぼ同じようなところをまわったのですが、前はたいへんさが見えたのですね。ところが今は整備されて、たいへんな問題が見えなくなっているということがあります。見えなくなっているなかでの苦しみとか悩みという問題をあらためてたくさん発見したというか、勉強させていただいたというのが率直な感想です。それにそなえて、どうしたらいいかということを一緒に考えていきたいと思います。

(S N)

私たちは難病になって死への恐怖を何度も味わってきていますが、ここで亡くなられた大勢の方の、そのときの心境はどんなものだったのだろうと、そういう思いを感じました。また、家族との別れを味わった方たちの物的な復興はもちろんのこと、心の復興というのも早くできればいいなぁと思いました。

(Y H)

根本的な除染、つまり原発を無くすということがいちばんではないかと思いました。産業がどうのこうのと言うのであれば、原発よりも廃炉のための産業を起こすという考え方でやればいいなぁと今は考えております。とにかく、いったい金がどこに行っているのかわからないような税金の使い方は、やめるほうがいいと思っております。

(S K)

今回は皆さんのご協力により、たいへん有意義なツアーになりました。原発の件ですが、あまりにも後遺症が長くかかりすぎているというのが一つ。除染といっても名ばかりで進まないというのがもう一つ。あと、原発の放射能漏れをゼロにしてもらいたいです。まだまだちょろ出しのような状態なので、まずは止めてもらって、それから再稼働するかしないかという話をしてもらいたいと思います。それから、津波の被害のほうですが、思ったよりも復興が進んでいないのが現状だと思います。ただ、ガレキのほうは福島と違って宮城は処理が早いというのが感想としてあります。

(Y W)

今回は同行させていただき、どうもありがとうございました。今回「プロメテウスの罠」のこととか、私が取材していた閖上地区のところでご案内させていただきました。どこまでお役に立てたかはわかりませんが、皆さんの難病患者としての思いなども伺い、私としてもたいへん勉強になりました。また、今後もどうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。

(M A)

いろんなことを、あらためて感じさせられました。人類はどこまで行くのだろうか。人間と自然の力、科学と自然のバランスというのがどこかで崩れる。それをどこで受け止めていくのか。どのように利用していくのかということも考えなければならないと思います。

原発については、その被害の広大さ、時間的な長さというのも気の遠くなるような話だとあらためて思いました。今後、これをどのように展開していくのか。少なくとも広島、長崎を体験した日本人は、福島の原発についてあらためて考え、世界に伝えていく義務があると思います。

あと、閖上地区、山元町をはじめ宮城県の震災被災地、特に津波の被災地を見て、人間は自然に逆らった生き方をするべきではないと感じると同時に、なぜ被害が大きかったのか、防げなかったのかということも考えていかなければならないと思います。また、被災された方々の思いというのが、たいへん強く伝わってくるツアーでした。福島を忘れないように、今後もこういった活動を続けていきましょう。

(T I)

取材担当として、今回の貴重な体験を多くの人に伝えなければと思います。まだ復興には時間がかかりそうですが、被災地の方々が、あのとき生き残れてよかったなぁと心から思える日がくるまで、私たちも共に歩みたいですね。

(M F)

私とか、そのまわりにいる人たちが感じていることですが、まず一つが、「がんばろう福島」とか「がんばろう宮城」という言葉をよくみるのですが、何をがんばればいいのか。もう十分がんばっているのだから、ああいうのはどうかやめてくださいという話があります。もう一つは、何も特別な扱いはしていただかなくてもいいので、今までと同じように何ごともなかったように付き合ったり、物を仕入れてくれたり、買ってくれるのがいちばんうれしいし、それが復興のいちばんの近道ではないかという話をよくします。逆に、特別扱いされることが復興を遅らせているのではないかということを感じていまして、お偉い方々はもう少し考えていただけないかとなぁと思う日々があったりしています。

〔番外編〕運転手のSさん (23 日夜の学習会での発言)

第2回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

開催日2014年(平成26年)3月1日(土)、2日(日)
参加者8名
宿泊ロイヤルホテル 丸屋(南相馬市原町)
ルート
(1日目)
JR郡山駅(10:00) → 川俣町(銘品館「シルクピア」休憩) →飯舘村→浪江町→小高区→ホテル
ルート
(2日目)
ホテルを出発(8:30)→相馬市松川浦(水産物直売センター跡)→宮城県山元町(JR山下駅周辺)→名取市閖上(閖上水門、日和山周辺)→仙台空港・JR仙台駅(15:00)
江井さん宅の馬小屋(南相馬市小高区)

JR郡山駅から川俣町を通り飯館村

JR 郡山駅に着くと昨年と同じ黄色いバスが待っていました。昨年と同じドライバー、良い旅になるでしょう。川俣町までは順調に進みます。被災直後に感じた道路の継ぎ目は少なくなったように感じます。道の駅かわまたで休憩、名物スナックを食べながら地震でご自身も被災した運転手さんの話を聞きます。参加者に松葉杖の人がいてもそれとなく気を遣ってくれます。少し休憩を取ってから飯舘村に向かいます。飯舘村はまだ線量が高く草むらでは8μ Sv/h 以上、空間線量も1.03μ Sv/h あります。とても住める状態ではありません。畑や田んぼには草が生えており気が滅入ります。

道の駅南相馬で浪江町在住だった佐藤正男さん、南相馬市小高在住だった江井恵子エネイケイコさんと待ち合わせです。江井さんは除染がすむまで小高の家には住めません。そこで、道の駅近くの応急仮設住宅に住んでおり、昨年に続き住まいを拝見させていただきました。今まで見た応急仮設住宅では、広さや作りの良さで、他のそれに比べると良い家だと思いました。

浪江町

佐藤さんは国道6号線を南下する時、平成26年1月1日から3月31日まで有効の“ 浪江町通行証” を見せてくれました。指定車両のナンバーも記されており、この通行証がないと自宅へも行けないのです。太田川を渡る時、次のようなことを話してくれました。「動物の数や生態が変わってきている。やっと太田川に多くの鮭がのぼるようになった。でも、放射線の影響があるので捕ることはできない。放流事業をやっていないので今後どうなるかわからない。」電柱にとまっているトンビなどの数も多く感じられます。希望の牧場へ向かいますが、国道6号線も道路工事が入っており普段より倍近くの時間がかかってしまいます。途中、通行証確認中の看板があり方向転換、駐車場には帯広ナンバーの警察車両が駐車していました。宮城県の海岸線の道路でも他県ナンバーのパトカーがよく見られます。希望の牧場では出荷されない牛たちがのんびりしています。三好達治の『大阿蘇』を思い出すような光景です。しかし、入り口の草むらでは線量計が警告音を鳴らし振動しています。11.1μ Sv/h の高値を示しておりました。

JR小高駅周辺から江井宅の馬小屋

小高駅までの道は荒涼としており周りの畑や田んぼは草ボウボウ、除染作業の車と作業員だけが動いています。小高駅はひっそりとありました。駅構内へは自由に入れます。構内は草ボウボウで鉄路も錆びたままです。人影がない駅前には動かない自販機があり、遠くには信号機とわずかの自動車だけが動いています。自転車置き場には使われることのない多くの自転車たちがあります。さて、小高駅をあとにして江井さんの家に向かいます。普通車に比べると二回りも大きい小型バス、良くも入れたと思う小高い丘の上の家につきました。人恋しい犬はしっぽを振りながら近づいてきて、ネコは横目で見ながら走り去りました。母屋の向かいに厩舎があります。奥には馬を走らせる小さな広場もあります。毎年、相馬野馬追に参加しているとのことで数頭の馬がおりました。厩舎に入ると、大人数にもかかわらず鼻を鳴らしてうれしがり撫でてくれとせがみます。おそるおそる近づき鼻を触ると首を振って喜びます。ホントかわいいものです。馬たちの中に震災の津波で流され助けられた馬もいるそうです。家も、庭も農機具、そして馬も、普通に過ごして、そこにあるのに住むことはできない、言いようのない理不尽さを感じます。

ホテルに戻り夕食並びに懇親会です。それぞれの感想を興味深く聞きます。若く被災にはほど遠い地域から来た人は、どう伝えてくれるのか、と思います。松葉杖をつき避難所に避難経験のある人は、実際の震災被害を初めて見たと語っていました。二次会は被災した飲み屋が集まる屋台村(まちなかひろば) へ。ひしめき合う居酒屋はいつまであるのだろうと考えながら呑みます。

山元町

旧山下駅の前にバスを停めて周囲を視察
朝食後、国道6号線を北上して宮城県山元町旧JR山下駅に向かいます。山元町で国道から海岸に方向に行くと。道沿いにイチゴのハウスが建ち始めているのがわかり、ほっとします。震災前、イチゴ狩りに家族と行ったことを思い出しました。

旧山下駅では駅前の橋元商店が自主運営するみんなの写真館に入ります。震災前の写真と震災後の写真が展示してあります、私にはなかなか直視できません。駅前の看板には常磐線が元のルートを採るように書いてありますが、どうなるのか・・・。

閖上(ゆりあげ)

名取市閖上の水門は壊れたままモニュメントのように、そこにありました。上には津波が到達した高さが示されています。女川でも感じましたが、信じられない。その水門を背にすると、残った区画に花を手向けたあとがあります。右側には廃墟のようなお寺の講堂があります。前回来た時にあったオートバイ・・錆びたままで、そこに置いてあります。日和山の周りは本当に何もない・・。がれきを片付けるということはこういうことなんだな、と改めて認識します。そんな風景の中に壊れたビル、“ 佐々直” の看板がある。笹かまぼこの工場跡、いつ取り壊すのだろうと不思議な気持ち。日和山をあとに空港に向かいます。来年はどうなるのだろう。

(報告 小関 理)

参加者の感想

私は震災から3年たった被災地を回る、ただの訪問者でしかなかった。それなのに圧倒的な黒い渦のような塊りが、私の声や気持ちや体さえも押さえ込もうと、曇った空の上から、また、傷ついた大地の底から襲いかかってくるのを、ただ茫然と受け止めることしかできなかった。各地を回る中で、3年の月日が経っているのに、3年しか経っていない現実の光景と、除去しきれない放射能が広がっていた。

震災当日は仕事で大阪にいて、その時間には空港へ向かうタクシーの中にいた。緩い下り坂で車が止まりかけたとき、高速道路で突風にあおられた時のような、ういーんと唸るような揺れを感じた。急に変な風が吹くものだと思った。被災地では激震。そして刻々と津波が迫りつつあった。会社の現地社員や患者会の会員の安否はなかなかわからなかった。地震の少し後に連絡がついても、津波の後には連絡がつかなくなった者も多数いた。中でも気仙沼の患者さんとは、どうにも連絡が取れなかったが、数日後テレビに映っている姿が確認できた。現地社員も患者会の会員もみな命は無事だった。

各地を回る中で、伊藤さんは、少し変わってきたが大方はまだ変わっていないと言った。駅前に置き去りにされた自転車も、さび付いた線路も、ひっくり返った車も、行く先々の通行止めも変わっていないと言った。被災地の人の心はどうなのだろうかと思ったが想像もつかなかった。そんな中、実際に被災した患者さんの話を聞き、仮設住宅も見せていただいた。人は強いと思ったし、それでも生きていかなければならない人の辛さを感じた。ただでさえ難病患者なのに。

最後に訪問した閖上(ゆりあげ)は、3 年を経ても家の土台のコンクリだけが延々と広がり、その上をただ風が吹いているだけだった。しかしそれを見ている私は、やはりただの訪問者でしかないのだと思った。

(K T)

第3回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

開催日2015年(平成27年)3月14日(土)、15日(日)
参加者9名
宿泊ホテルみなとや(福島県相馬市尾浜字追川137)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅(10:00)→いわき市→福島県双葉群浪江町(苅野小学校、佐藤宅、希望の牧場)
(磐越自動車道→常磐自動車道「広野・楢葉」IC から国道6 号線を北上して浪江町へ入る)
→南相馬市小高地区(常磐線JR小高駅及び周辺、海岸線)→相馬市松川浦の「ホテルみなとや」(17:30)
ルート
(2日目)
ホテルを出発(9:00)→宮城県亘理郡山元町(常磐線JR山下駅跡及び周辺、八重垣神社)→ 名取市閖上地区(日和山、水門周辺)→JR仙台駅で解散(14:00)
日和山は、閖上港への船の出入りを見るためと、漁師が気象、海上の様子などを見るため、1920年に築造された山です。
標高6.3mの山頂には富主姫神社の社殿などがあり、地域の人々が集う憩いの広場として親しまれてきましたが、
2011年3月11日に発生した東日本大震災による大津波に飲み込まれ社殿が消失、石碑は倒壊してしまいました。
 震災後の2013年5月に現在の社殿が再建、日和山には多くの人が訪れるようになり、鎮魂の場として名取市全体の復興のシンボルとして重要な場所になっている。平成27年3月11日
名取市長 佐々木 一十郎
(案内板より転載)

JR郡山駅から

JR郡山駅のモニタリングポスト
JR郡山駅前の線量計は0.172μ Sv/h。東京は0.04μ Sv/h 程度なので少し高目です。今回は10人乗りレンタカーで朝10時に出発。南回りのルートをとりました。まず郡山から磐越自動車道で南下、いわき市で常磐自動車道を使って北上しました。富岡IC~浪江IC間は3月1日に再開したばかりです。途中で立ち寄った四倉PA では、閉鎖された売店の代わりに自動車による移動販売がありました。線量を示す掲示板では、常磐富岡ICで3.0μ Sv/h、浪江ICでは5.4 μ Sv/h の高値を示していました。私たちは周囲の状況を視察するため「広野」インターから一般道(国道6号線)に出ると、あちらこちらで除染作業を目撃しました。浪江町の近くまで来ると、帰還困難区域を示す看板とガードマンが立っており、ものものしい雰囲気です。それでも、幹線道路のためか交通量はけっこう多いことに驚きました。自動二輪、歩行者は通行禁止です。

浪江町

浪江町では地元の佐藤正男さんの協力を得て、居住制限区域にある苅野小学校を視察しました。(浪江町住民の車には通行許可書が発行されている)苅野小学校は原発事故のとき、情報が無いため放射線量の高いことを知らない住民が一時的に多く避難しました。現在はひっそりと廃墟のようになっており、グランドは雑草が伸び放題です。被災時、原発立地町の双葉町や大熊町と違い浪江町は政府や東電の対応が後手にまわりました。その典型例の一つが線量の高い地域への避難です。

浪江町でも、地表の土や雑草などをはぎ取ってフレコンバックという黒い保管袋に入れて積み上げる除染活動が行われていました。

次に希望の牧場(吉沢牧場)を訪問しましたが、今回は代表の吉沢正巳さんから直接お話を聴くことができました。牧場では、現在も被爆により経済価値のなくなった牛300 頭が飼育されています。吉沢さんの話は「原発の再稼働が始まろうとしているが、国民は福島の事なんて他人言、よそ事。実際に避難を体験しないとわからない。農業用ダムは汚染されて使えないし、ここでは米作りはできない。米の値段も下がっているので農家もバカらしくてやらない。浪江町の漁港は9 割の船がだめになった。町に戻ってなにをしますかという話。将来、解除になったときに帰るのはお年よりだけ。復興住宅の建設はオリンピックでさらに遅れる。除染はごまかし。見えるとこ除染、やっています除染という。浪江町は死の町、絶望の町と言ったほうがオレは正直だと思う。」といったストレートな内容でした。

小高区

南相馬市のJR小高駅周辺は避難指示解除準備区域になります。地震で壊れた家屋は取り除かれ、道路もきれいに修復されていますが、私たち以外に人影は見ません。まるでSF映画のような異様な雰囲気です。駅は閉鎖され、電車は不通のままです。

海岸線に近い場所は、壊れた車などは撤去され道路や電柱などのインフラ整備は進んでいましたが、復興が進んでいる様子はありませんでした。

松川浦

宿泊でお世話になった相馬市松川浦の「ホテルみなとや」さんでは、ごちそうをふるまっていただきました。震災ではみなとやさんも被災されています。ホテルから撮影したという津波のビデオを観ながら、被災された方々のご苦労をしのびました。松川浦では、他でも被災したホテルや旅館が営業を再開していました。地盤沈下した漁港などの修復工事も始まっており、福島県でもこのあたりまで来ると復興が進んできたことを実感します。ただ、おかみさんの話によると、漁船が漁に出るのは週に1回と決まっているそうです。理由を尋ねると、そんなにたくさん捕っても福島の魚は売れないからということです。

山元町

宮城県山元町では、JR 常磐線の高架による復旧工事が進んでいました。山元町の復興計画に合わせ、JR東日本でも津波被害の再発を防止するため軌道の一部を高架にして陸側に線路を移設しています。山下駅あたりで旧線から1kmほど陸側です。JR旧山下駅の前では、橋元商店が震災からいち早く営業を再開されていますが、今後の復興計画では駅など町の中心が内陸に移設されてしまいます。定期バスの運行があり、住宅も少しずつ再建されています。農地では、イチゴのハウス栽培が始まっていました。水耕栽培は塩害の影響を受けにくいのかもしれません。旧線の線路等は撤去されていました。

海岸の近くには津波で社殿などが流出した神社がありました。八重垣神社とあり、後日調べると、流出したのは安政2年(1855年)に造営された由緒ある社殿のようでした。みんなで再建された小さな祠(ほこら)に復興を祈願しました。

閖上(ゆりあげ)

日和山からの様子(北東方向)
名取市閖上の日和山(冒頭の写真を参照)は名取市全体の復興のシンボルとなっており、震災から4年目となるこの日は多くの人が慰霊に訪れていました。天気が良かったこともありますが、被災後初めて訪れた2013年のツアーと比べて全体の雰囲気が明るいというか少し変わってきた印象を受けました。近くで朝市の営業もありました。そして、目を引いたのは、海岸に巨大な防潮堤の建設工事が進められていることです。住宅地は、ほとんど更地のままです。そうしたなかで、多くの犠牲者を出した閖上中学校は、被災当時のままの姿で残っており車で横を通るだけでしたが大津波の恐怖を感じました。

3回目となる今回のツアーでは、地震、津波に加えて原発事故による放射線汚染のある福島県の被災地と、原発事故を含まない宮城県とでは復興速度の違いを実感することになりました。

誘導があだになり多数の犠牲者

東日本大震災で甚大な被害が出た宮城県名取市閖上ユリアゲ地区では、指定避難場所の閖上中の目前で、津波にのまれた人が多数いた。閖上公民館に避難した人々が閖上中に誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったという。同公民館も指定避難場所で、避難誘導は市の防災計画の規定にない。周辺の主要道路は、事故と信号ダウンなどで渋滞が発生。近くに高台がない地域で、避難者は大混乱に陥っていた。

(河北新報より転載)

(報告 藤原 勝)

参加者の感想

このツアーを初めて4年、3回目の実施でした。個人的には2011年4月から4回目の訪問です。開通した国道6号線を走りぬけました。そこは不思議な光景でした。富岡付近の線量は確かに高いものでした。2万人もいたという浪江の町は時間が止まって、動く、生きている人も動物も見かけることのない光景は不気味なものでした。ここには何万人もの人、家族がくらし、家があり、店があり、銀行があり、町が呼吸をし、動物が生きていた、ということは頭では理解できても、どうしても肌では感じることのできない光景でした。

南相馬の小高地区も毎年訪れていますが、昨年には感じることのできた住民たちの帰還への希望が今回は微塵も感じられなかったのはどうしたことでしょうか。時のせいでしょうか。確かに除染は進んでいるように見えますが、その街や畑だったところ、道端の樹木、どこもまだまだ高い線量でしたが、線量の問題だけではない、人が住むことができない、あるいは拒んでいる土地が醸し出す、悪意のようなものを感じてしまいます。時間がたつほど苦しさも増していくような気持にさせられました。

今年の宿は松川浦の一番海に近い端っこの「みなとや」でした。確かここは最初に訪れた時には津波の被害をそのままとどめていたホテルでした。そこに泊まり、ここで取れた新鮮な魚介類はまだ出せないけど、と言っていたおかみさんたちが精魂込めた料理は、全く豪華でおいしく、食べきれないほどでした。地元のお酒もおいしく、そしてこのホテルが呑み込まれていく様子を記録したDVDを見ながら、私たちは人的な被害がなかったから復興へこうして立ち向かうことができたのだけど、というおかみさんのお話を聞きながら、そして案内をしてくれた二人の地元の患者さんのお話を聞きながらの複雑な気持ちの夕食でした。でもまたきっとここに来たい、心づくしの料理とお酒をいただきたいという気持ちにもなった夕食会でした。

山元町は大きないちごのビニールハウスが立ち並び、復興を感じましたが、閖上は仮設市場も開き、観光バスで訪れる人も増えていましたし、大きな防潮堤の工事が進んで風景も一変していましたが、なんだかかえって殺伐とした物悲しい印象だったのは私だけなのでしょうか。

(T I)

生まれ故郷の福島の被災地の現状を見つめ、復興に向けて自分が出来ることを考えるために初めて参加させていただきました。しかし、このような大災害を前にして自分の無力さだけを痛感したのが今回の結論です。復興に向けて着実に進んでいるという報道を見ることがありますが、この話は、一部の地域の話であり、ほとんどの地域では、目処すらも立っていないというのが事実です。私にできることは、今回の体験を多くの人に伝え、一人でも多くの人に被災地に足を運んでいただき、現実を見てもらうことです。本当に貴重な体験をさせていただきました。

(Y H)

今回訪問した地域では、少しずつ復興している所、今後復興が期待できそうな所、今後も当分は復興の見込みがないと思われる所がありましたが、その大きな原因となっているのは原発事故による放射線の流出であることがよくわかりました。海岸線には大型堤防工事が着々とすすめられていますが、時間の経過と共に避難している人々の困難さが増していることを思うと、生活再建が先ではという思いがします。

(M F)

2013年~2015年と3回目の参加となりました。2011 年3月11日の東日本大震災から丸4年が過ぎ、国道6号線(通称6国)の全面開通(2015年9月15日)、常磐自動車道の全面開通(2015年3月1日)と目立つところでは復興が進んでいるように見えるが、6 国も通行できるのは自動車のみ、そして側道にも入ることができず、駐停車も禁止です。途中、放射線量も5マイクロシーベルトを超えるところもありました。

東京電力福島第一原子力発電所周辺は、昨年と同じで、新しくても生活感のない地区は、言葉には表せない、「復興」という文字がまだまだ見えないと思いました。一方、宮城県では住宅地の建設、堤防の建設等、「復興」の文字が少しずつ見えてきているような感じがしました。

毎年、「福島を肌で感じるツアー」としてJPAで企画していただきありがとうございます。次回は、暖かい時期に少しでも多くの方々が参加していただければありがたいです。今回は、レンタカーということで不慣れなドライバーの運転で失礼しました。

(Y W)

今回の訪問で印象に残ったのは、浪江町から避難した人の話でした。福島第一原発の立地自治体は双葉町や大熊町であり、浪江町は周辺自治体のひとつとしてその範囲で東京電力と協定を結んでいるとのことです。

実際に爆発があった段階では、双葉町や大熊町には約100台のバスが配置され遠方への避難が行われたが、浪江町に十分な情報が伝わらず、山手の小学校に避難していたものの線量が高いとのことで、更に奥の中学校に避難したが、そこには更に高い線量があった。

風向きが、丁度浪江町側に向かっていた不運もあったが、立地自治体の認定がない周辺自治体に大きな被害が及ぶことをあらためて実感した。

当然ながら、京都もその例外ではない。

(T I)

昨年のゴールデンウィーク、福島を中心とした被災地を回り、TV の画面だけでは伝わってこない厳しい現実を目にしたことで、当時と同じような状況を体感しながら、その後の被災地の変化を見たく、そして被災された人たちの生の声を聞きたくて、今回のツアーに参加しました。

地震と津波被害だけだった地域は復興に向けた様子が見てとれましたが、汚染地域は4 年という年月が経過したにもかかわらず、今も立ち入りが許されず警備の人が立っている状態。その差をまざまざと感じ、改めて放射能汚染解決の厳しさを実感しました。

また、原発のある町村ではない浪江町や飯館村が風向によって汚染され、全域が避難地域になってしまったという現実。

しかも、避難指示の対象地域から外れていたため、情報が届かず取り残されたという悲劇。そして今も避難生活は続き、空き家に残した金品・家財一切は盗りつくされ、復興どころか汚染が解消される希望はなく、戻れる見込みもない。時間の経過とともに福島のことは世間の話題に上らなくなり、存在が忘れられつつあるのでは…という怒り、悲しみ、あきらめ等が混在した彼らの話は心に深く刻みつけられ、福島での出来事は決して風化させてはならない、と強く思いました。

(S I)

福島原発被災地ツアー・・・。

国道6 号線、エフイチ手前では空間線量が6.2μ sV/hの数値を示しました。

浪江町帰宅困難区域にある佐藤さんの自宅へ伺いました。道を挟んで居住制限区域と避難指示解除準備区域とは見ただけでその差が解ります。背の高いアシが生い茂っている田んぼと除染され新しい土が入れられたそれとの対比はシュールな風景を形作っていました。畦と稲の切り株も無く、同じ色の田んぼの中には高い真っ白の塀に囲われた除染ででた土等の広大な廃棄物置き場が不気味にありました。

除染が済んだ家にはそれを示す立て札が立っておりましたが、戻ってくる人がどれだけいるか疑問だと佐藤さんは言っておりました。4 年の歳月は長すぎるのです。生活基盤を他の地域に移した人も相当いるそうです。

佐藤さんの家は震災後、相当メンテナンスしているようで綺麗な状態でした。それでも、牛が入ってきて空いた穴の跡、天井にはネズミが空けた穴などがありました。

宿泊した「みなとや」は一階の天井まで浸水したそうで再開できるとは思っていなかったそうです。そこで被災した瞬間の映像(みなとやが映っています)を見せて頂き大変な時期を思い出しました。宮城県に入ると建設中の巨大な堤防が目立ってきました。阪神・淡路大震災の時と同じようにゼネコンを太らせるだけの復興に怒りを感じます。

旅行の後に第3 回国連防災世界会議がありパブリックフォーラムに参加しました。本体会議では原発災害は話し合われませんでしたが、パブリックフォーラムでは相当のブースが原発被害に当てられています。このことは政府がどう動こうと無視できないと考えています。

福島沿岸以外の被災地は表面的には復興が進んでいるように見えます。でも、表通りから外れると更地が続くという状況です。エフイチ近辺は表通りの片づけすらなされていない、それを見て欲しいのです。

この行事は参加人数が少ないとは言っても、是非続けて欲しいと考えております。非常時には後回しにされるだろう我々の義務だと思うのです。

(S K)

第4回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

平成27年度 厚生労働省補助金事業「難病患者サポート事業」
開催日
  1. 2016 年(平成28年)3月12日(土)、13日(日)AM(スタンダードツアー)
  2. 2016 年(平成28年)3月13日(日)PM、14日(月)(オプショナルツアー)
共催福島県難病団体連絡協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
一般社団法人岩手県難病・疾病団体協議会
参加者
  1. 13名(スタンダードツアー)
  2. 11名(オプショナルツアー)
    (オプショナルツアーのみ参加の方3名)
宿泊
  1. ロイヤルホテル丸屋(南相馬市原町)
  2. キャピタルホテル1000(岩手県陸前高田市高田町長砂60-1)
ルート
(1日目)
JR郡山駅を出発(10:00)→川俣町(銘品館「シルクピア」休憩)→飯館村→南相馬市(小高地区海岸線)→浪江町(思い出の展示場、希望の牧場)→南相馬市(JR小高駅周辺)→ホテル到着(16:15)、ミニシンポジウム、交流会
ルート
(2日目)
ホテルを出発(8:35)→相馬市松川浦→宮城県山元町(JR旧山下駅とその周辺)→名取市閖上(日和山周辺)→仙台空港(12:35)
◆オプショナルツアー◆
仙台空港を出発(13:30)→石巻市(鈴木さんの復興住宅)→南三陸町(防災庁舎を車窓から視察)→志津川(車窓から視察)→岩手県陸前高田市気仙町(奇跡の一本松を車窓から視察)→キャピタルホテル1000(岩手県陸前高田市高田町)到着(17:50) 被災された方の話を聞く会、交流会
ルート
(3日目)
ホテルを出発(8:45)→陸前高田市の被災地(旧下宿定住促進住宅1号棟、旧道の駅「高田松原」など)→岩手県上閉伊郡大槌町( 旧大槌町役場跡)→山田町(山田町役場の屋上からの視察)→釜石で昼食→JR 新花巻駅(新幹線)、いわて花巻空港で解散(15:00)
40名の犠牲者を出した大槌町(岩手県)の旧役場庁舎

今回は震災から5年ということもあり、毎年視察している福島県から宮城県南部の被災地に加え、オプショナルツアーとしてさらに一泊して宮城県北部から岩手県南部の陸前高田市、大槌町、山田町までの広い地域を訪れました。内容も、視察と共に被災地で活動する人や被災した方々の体験談を聴くなど、充実したものになっています。

JR郡山駅から川俣町を通り飯館村

JR郡山駅を出発すると、バスは川俣町から飯館村に向かいますが、道路沿いの各地に除染による汚染土などを詰めたフレコンバッグが野積みされていました。2時間近く走ると阿武隈山系北部の飯館村(国道399 号線と県道12 号線が交差する臼石という居住制限区域)に到着しました。線量は2.07μ Sv/hです。周囲は全村避難で閑散としていますが、昼間は営業している事業所もありました。村は除染が終わっているようで、以前と比べると無人の家屋周辺もきれいになっていました。

小高区海岸線

南相馬市小高区の海岸線では、昨年のツアーで確認した数件の被災家屋が撤去されていました。このあたりは避難指示解除準備区域です。津波被害にあった地域は更地で広がり防潮堤も潰れたままです。少し高台の家屋は崩壊を免れています。

浪江町

吉沢牧場には「感 謝」の二文字があった
毎回訪問している希望の牧場(吉沢牧場)の出入り口には「感謝」の二文字がありました。代表の吉沢さんの心境も徐々に変化してきたのか、お聞きしたかったのですが、吉沢さんは出張中でした。餌にする干草ロールのストックもたくさん確認でき、300頭の牛たちも元気そうでした。線量は、現在も4.70μ Sv/hと高く、昨年とほとんど変わりません。

次に街中に戻り、無料で一般公開している「思い出の品展示場」を見学しました。ここには被災地から集められた生々しい展示品に目を奪われましたが、特に位牌や人物の写真は強烈でした。

JR小高駅周辺

小高区の避難指示は解除されておらず、駅前の大通りはひっそりとしていますが、日中に限って人の出入りが許されています。JR小高駅には作業車が停止しており、復旧作業が始まっていることがわかります。昨年まで、駐輪場には震災当時の自転車が放置されていましたが、それも撤去されていました。駅全体も整備されていました。政府の東京五輪・パラリンピック開催前の2020年春までにJR常磐線の全面開通を目指す方針に沿ってJRは工事を進めているようです。

アンテナショップ『希来( きら)』
隣には『双葉屋』旅館がある
駅前にはアンテナショップ『希来(きら)』という小さなお店が営業をしていました。店内には避難中の住民の方々が作ったグッズや小高商工会女性部の方々が手造りしたシルク手織りコースターなどが販売されていました。4か月後の2016年7月12日、小高区は避難指示が解除されます。

ミニシンポジウム

ロイヤルホテル丸屋
4時30分頃、JR原ノ町駅前のロイヤルホテル丸屋に到着。ここでミニシンポジウムと夕食交流会を開催しました。今回お話しいただいたのは、南相馬市立病院神経内科医師の小鷹昌明さんなど3 名です。小鷹さんは、医療活動の他に、HOHP(ホープ:H=引きこもり O=お父さん H=引き寄せ P=プロジェクト)を企画、男の木工教室や男の料理教室を開催して仮設住宅などで孤立しがちな男性被災者の支援をしているとのこと。その他にも、地元患者会との活動や介護福祉士の養成など、幅広く地域に根付いた活動を紹介されました。

食事をしながらの交流会の様子
次に石巻市で被災、仮設住宅での生活を経て現在は同市の災害公営住宅(復興住宅)で暮らす鈴木明美さん、そして浪江町の被災者、佐藤正男さんのお話をお聴きしました。詳細は66ページの講演録に収載しています。

ミニシンポジウムの後も、食事をしながら講師を務めていただいた方々とさらに交流を深めました。

2015年の国勢調査速報

2015年の国勢調査速報によると、福島県の人口は10年前の前回調査に比べて11万5,458人(5.7%) 減の191万3,606人となり東京電力福島第一原発事故による影響が大きい。全域が避難指示区域となっている大熊、双葉、富岡、浪江4 町の人口はゼロ。市町村別では、15 年9 月にほぼ全域の避難指示が解除された楢葉町は前回調査比87.3%減の976人。15年10月に東部に出ていた避難指示の大部分が解除された川内村も同28.3%減の2021人と大幅に減少しており、住民の帰還が進んでいない現状を示している。

一方、原発周辺地域からの避難者や除染などの復興関連事業の従事者の受け入れが多い福島、いわき、相馬市3市や三春町は0.6~2.1%増加している。福島県では、帰還を断念して避難先での不動産の取得や移住する人が増えている。

松川浦

相馬市の松川浦では漁港の改修工事は終わっており、昨年のツアーでお世話になった「みなとや」さんの前(水産直売センターのあった所)もきれいに舗装されていました。

これからが本格的な漁業の再開に向けての正念場になるようです。昨年より、漁師さんの姿も多く見られました。

漁業はまだまだ不安定状態には変わりない

岩手、宮城両県では水産業の再生が進んでいる。漁港などの施設が整備され、2015年度の水揚量は、宮城は震災前の78%、岩手は67%まで戻った。ただ、売上高の回復は鈍く販路開拓が次の課題となっている。

一方、福島県では魚種を制限した操業が続き、主力の沿岸漁業が試験的な操業にとどまる。2015 年の水揚げ量も震災前の15%にすぎない。試験操業は12年6月から始まり対象海域も拡大。魚種も3種類から72種類(16年1月27日現在)に増え、県外にも出荷している。今後は本格操業への環境は整いつつあり、原発20キロ圏内と定めた漁業自粛海域を縮小する方針である。ただ、これまでも原発から汚染水が流出したときは操業中断を余儀なくされており、不安定な状態であることに変わりない。

山元町

県道ルートの変更を示す地元新聞
毎年定点視察を続けていることから今回もJR旧山下駅跡に向かいました。駅前の橋元商店を訪れると、店主の橋元さんは同町のかさ上げ県道の移設で住民との間で問題になっている話をされました。山元町では、沿岸部を走る県道を最大で500メートルほど内陸に移設。4 ~ 5 メートルかさ上げして防潮堤の役割をもたせる計画ですが、海側に取り残される15 戸ほどの住民(笹野区)が県道ルートの変更を求めているということです。また、新しい県道ルートには、すでに補修した住宅が数軒ありますが、立ち退きを迫られているそうです。橋元さんは、町と県で責任をなすりつけ合いをしているが、すでに用地の買収に入っていると言います。線路などが撤去された旧山下駅跡は、雑草が生えてだんだんと姿を変えているようでした。

閖上(ゆりあげ)

新しい建物があった
名取市の閖上は津波で約700名の死者を出したところです。海岸近くではかさ上げ工事が着々と進んでおり、昨年とは様子が違います。巨大防潮堤の工事もさらに進んでいました。被災後も数年間は確認できた名取川の閖上水門が災害復旧工事 により、どこにあるのかわからなくなりました。日和山には多くの方が慰霊に訪れており、私たちも山の上からお亡くなりになった方々に手を合わせました。

仙台空港から石巻市

12時40分、バスは仙台空港に到着。ここで一部の方々とお別れして、昼食後はオプショナルツアーとして岩手県の陸前高田市を目指します。途中、石巻市で昨日のミニシンポジウムで体験談を発表していただいた鈴木さんを復興住宅に送り届けてからは、長い道のりを車窓から視察しながら走り続けました。

鈴木さんが入居する災害復興住宅
被災患者の鈴木さんの住居は、災害公営住宅とは思えないほど若い人向きのモダンな設計でした。昨日の体験談では「高齢者や障害を持つ者にとっては使いづらいこともあり、入居が決まってからのキャンセルもある」と話されていましたが、実物を見るとなるほどと思いました。

そしてバスは石巻市を過ぎると、2階で繰り返し避難を呼びかけた女性職員が逃げ遅れて死亡した南三陸町防災対策庁舎、陸前高田市立気仙中学校、奇跡の一本松などを車窓から視察。日暮となる6時ごろ、ようやく陸前高田市のホテルに到着しました。どれも被災地を報道する新聞やテレビのニュースでよく取り上げられる場所ですが、あまりに次から次と通り過ぎていくので、頭の中が麻痺してしまいそうな気分です。

陸前高田市

ホテルに到着すると休憩する間もなく、被災された方の話を聞く会及び夕食交流会と続きます。ホテルで岩手県難病連の千葉健一代表理事等と合流しました。被災体験をお話しいただ佐藤正さんは目に少し障害があり、鍼灸マッサージを生業とされ海岸から250メートルほどの自宅・治療院で被災されました。地震後は、津波を予想してただちに家族と共に高台に避難して無事だったこと。とても寒かったという被災当時のことや現在の暮らし。ボランティア活動が生きる支えになっていること、常日頃から防災意識をもつことがいかに大事か。それが生死を分けるといった話を聴かせていただきました。詳細は76ページの講演録に収載しています。

翌朝、ホテルは高台にあるため、明るくなると町の様子が手に取るようにわかりました。津波の威力は地形とも関係しますが、陸前高田市はリアス式海岸のV字型で急峻な山地に囲まれた平野部に住居などが集中していたことから、浸水面積に対して多数の犠牲者を出しました。視察からは、土木技術や科学が発達しても、人間が自然を完全にコントロールすることなど難しいと痛感しました。今後の防災対策もそれを念頭におくべきでしょう。ここでは1,750人以上の方々が犠牲となっています。これは石巻市に次いで自治体では2番目の多さです。気仙川に沿って津波が遡上したことも石巻市と共通する特徴です。

翌朝、私たちは8時30分に出発して、陸前高田市の震災遺構として保存されている旧下宿定住住宅及び旧道の駅高田松原などを視察しました。どちらも大津波の威力を伝えるには十分ですが、特に旧下宿定住住宅は海岸と並行して建てられ、5階建ての4階部分まで浸水(14.5m) した破損状況から、津波の恐ろしさが明確にわかるものでした。

4階まで破壊され5階はかろうじて助かった旧下宿定住住宅

大槌町

バスは陸前高田市を離れて三陸道を釜石・大船渡方面へと走り、終点から国道45 号線に合流、釜石をぬけて岩手県大槌町に入ります。道路も新しく付け替えられていたり、周囲が盛り土でかさ上げされたりで、震災前とはずいぶん景色が変わっているようです。寸断された鉄路はそのままです。大槌町では町長以下40 名が亡くなった旧役場庁舎を視察しました。無残な姿を近くから見ると、なんともいえない恐怖の念を禁じ得ません。ツアーも3日目となり、疲労感が蓄積してきた体に大きなインパクトを与えました。大槌町の震災による死亡者は、関連死も含め2019年12 月時点で1,286人です。

大槌町旧役場の解体

旧役場庁舎は保存か解体か議論されていたが、2019年2月に解体されて防災公園になった。町は防災遊地として、災害時に車を乗り捨てられる場所としての活用も見込み緑地化した。当時を示すものとしては、町外から寄贈された献花台とお地蔵さんのみが残されている。震災遺構への対応は各自治体により異なる。旧役場庁舎を解体した大槌町は、今後どのように震災を後世に伝えていくのかが問われるのではないだろうか。

山田町

大槌町からさらに45号線を北進、山地を下ると最後の視察地となる山田町(岩手県)が見えてきます。同町の東日本大震災の震度は5弱(観測地点:八幡町地区)ですが、ここもリアス式海岸の特徴から大津波によって町は壊滅状態となりました。

被災時の状況や今後の復興計画などは、千葉健一さん(岩手県難病連)の友人で山田町の町会議員をされている田村剛一さんに説明していただけました。特別に山田町役場の屋上に案内してもらうと、更地となった町の様子が一目瞭然です。田村さんは「復興は多重防災式といって、海岸に9.7メートルの防潮堤をつくり、その内側をかさ上げして商業施設にする。そして高台に住居を建設する。しかし、住民も震災直後は海が怖いということで高い防潮堤に賛成したが、落ち着いてくると高台に住むので必要ないのではと疑問視する人が増えてきた。陸からは海が見えないという不安もある。人が消えて防潮堤だけが残るのでは」と話されていました。山田町の震災による死亡者は関連死も含め2018年11月時点で824人です。

視察後、釜石で昼食の後JR新花巻駅で解散。一部は花巻空港で解散。宮城、福島からの参加者はバスと一緒に帰途に着きました。(追伸:田村剛一さんは2017 年7 月すい臓がんのためお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。)

駆け足でめぐった3日間でしたが、それでもすべての被災地を視察することはできません。あらためて東日本大震災による被害の大きさを実感しました。特に大津波よる被害の大きさには、絶句するものがあります。

また、国道にはダンプカーがひっきりなしに走り、あちらこちらで防潮堤の建設やかさ上げなどの土木工事など行われている様子にも圧倒されました。

(報告 藤原 勝)

参加者の感想

今まで新幹線などで早く移動してきたことが多かったので、ゆっくりと街並みを見ながらいろいろと考えることができて良かったです。街並みもそれぞれのところで違いますし産業も違うし、そこで行政が考えていることやおそらく住民の思いとのギャップがあったり、いろいろなことがひじょうに難しいのだろうと思います。地域の実情に根差したものが生まれていくというプロセスが丁寧に行われないと急ぎ過ぎても失敗するし、だけどスピードは大事だしというところで難しさを感じながら見ていました。

また、JPAの活動を続けていきますが、スピードばかりではなくて、きちんと基本的な部分というのも大事にしたいです。震災とかいろいろな災害に向けても私たちは災害弱者となることもありますので、そのあたりも見ていきたいと思います。

(Y M)

やっぱり昨年と今年では大分と違うなというのが印象です。小高の自転車もなくなっているし、閖上の水門もなくなっていていわゆる進んだというのか。そういうことが印象に残りました。岩手に来るとまだまだだなぁという感じで、宮古方面に行くともっと進んでいないような気がします。地元(宮城)ですので、またこっちに来る機会がありましたら、写真なんか撮っていきたいなと思います。

(S K)

いちばん来たかった南相馬や浪江町などが見られて良かったです。情報がぜんぜん伝わってこないので、実際に見ることによっていろいろあるのだなと思いました。

あと、JPAのホームページやフェイスブックは見ていたのですが、実際にフェイスブックをしている方がおられたので、これからはイメージがしやすくなりました。患者さんの声というのは大切だと思うので、自分の仕事で行うQOLの調査などで、チャンスがあれば製薬企業のいろいろなプロジェクトに患者さんの声を伝えていきたいなと思います。

(Y O)

初めての参加でとても有意義だったと思います。正直言って、復興という言葉がとても重くのしかかっているなと、私の中でいろんな意味で思いました。住んでいる方たちの思いがどこまで届いているのだろと考えると、とても悲しくなったり、これでいいのだろうかと思ったり、さまざまな思いが心の中に残りました。

来年はどうかわかりませんが、2、3年後にまた同じようなツアーがありましたら参加したいと思います。

(K S)

この2泊3日で見ると聴くとではえらい違いで、やはり来てみることに一見の価値はあるなと思いました。これでしばらく日本も震災がないことを祈っています。みんなの思いがどこまで通じるかはわかりませんが、私は私なりにいろいろとやってみようかなと思います。

(H H)

3県見たわけですが、原発の被害と津波の被害は違い、家があっても帰れないのと家がなくて帰れないということがありました。あと、家がなくなったのと土地がなくなったというか津波でがぼっとほられたのが衝撃的でした。まだまだ、放射能の線量が高い地区がありコントロールできればいいのですが。

(Y W)

被災地はとても広いことを実感しました。それから、震災からの復興は、患者団体の活動と似ているようなところがあってどこまで被災された当事者の思いが反映されるのかということが大事だと思いました。

(M F)

福島にしても岩手や宮城にしても被災地と他との違いというか 本来ならどこの町ものんびりとして、あるいは日常の生活がずっと続いているということを前提に町や村があったのだと思いますが、そうしたこととの大きな違いを感じました。特に岩手は、あんなに大きい大規模工事があってどうなのかと思ったのですが。

いちばん最初の年に行ったときはどういう復興になるのかということを考えることができないぐらい大きなショックを受けたのですが、それがこういう形になって少しずつ少しずつ進んでいくのだなあということを見て実感しました。たいへん良かったと思います。

また、福島の現状も一気に解決困難なものだと思いました。ただ、良いとか悪いとかいうのではなくて、普段何もできない、ボランティアもできない患者会が行って見て感じるということが大事だということで始まったツアーですけども、4年間続けてこられました。

そしていろんな方に協力いただけたことをたいへん感謝したいと思います。我々としてもせっかく続けたのですから、なんらかの形で少しまとめてみたいという気もします。また、機会がありましたらお声掛けさせていただきますので、ご参加いただきたいです。そして、どのように変化していくのかということをつぶさに見ていただければありがたいと思います。

(T I)

第5回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

平成28年度 厚生労働省補助金事業「難病患者サポート事業」
開催日2017年(平成29年)3月10日(土)、11日(日)
共催福島県難病団体連絡協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
一般社団法人岩手県難病・疾病団体連絡協議会
参加者8名
宿泊ロイヤルホテル丸屋(南相馬市原町)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅を出発(10:00) →川俣町→飯館村→南相馬市(JR小高駅)→浪江町(思い出の展示場、希望の牧場)→南相馬市(小高地区の海岸線)
ルート
(2日目)
ホテルを出発(9:00) →宮城県山元町(新JR山下駅、旧JR山下駅跡、八重垣神社)→名取市閖上(日和山周辺)→JR仙台駅で解散
旧駅より約 1000m内陸に建てられた高架の新JR山下駅(宮城県山元町)。 
2016年12月に相馬駅-浜吉田駅間が運転を再開、これにより岩沼駅から小高駅(福島県)までがつながった。

JR郡山駅から川俣町を通り飯館村

“道の駅かわまた”(銘品館「シルクピア」)
JR郡山駅では渡邊さんがワゴン車で待っていました。今回の参加者はそれ程多くない6名です。10人乗りのワゴン車にはちょうど良い人数です。途中いつもの薄皮饅頭屋さんに寄ります。車内ではいつも福島県難病連の渡邊さんに饅頭をごちそうになります。震災直後は4号線の継ぎ目に段差があり乗車時に振動を感じられましたが、6年も経ちますと気づかず時の流れを感じます。幹線道路沿いでは、震災の跡は見えません。しかし、幹線道路を離れると景色が変わってきます。フレコンパックが目につくようになってきます。黒い裸のパックも多いですが、緑の大きなシートをかけられ大きな台形?になった固まりが無数に続いています。農地だったところはフレコンパックと枯れ草の野原になっています。

“道の駅かわまた”でひとやすみ、飯舘村に向かいます。飯舘村では臼石自動車工場が稼働していました。放射線量は許容線量0.23μ Sv/hの2倍ぐらいになっています。

南相馬市JR小高駅

一部開通したJR 小高駅はきれいになっていた
JR小高駅は様変わりして、常磐線が岩沼駅から小高駅まで開通していました。構内は綺麗に整備され新しい路線図と時刻表が掛けてありました。線量計が掛けてあるのが“ここは福島”だと示しています。震災直後のように勝手に構内には入れません。

自転車置き場は、少し移動して新しく建て直されています。2011年3月11日から、そのままになっていた数多くの自転車たちは撤去され、少ないが新しい自転車が置かれています。小高の住民が帰ってきている事がわかり少しほっとした気分になりました。

駅構内には常磐線開通祝いの手作り看板が飾ってあります。いつも寄る駅前の小さな売店には佐藤栄佐久元福島県知事のドキュメンタリー映画のチラシがあります。何とも言えない気分になりました。

浪江町

6号線沿いの旧双葉ギフト店舗内では津波被災地で発見された思い出の品の展示を行っています。ひとつひとつに人々の思いがあると思うと何とも言えない気持ちになりました。震災ボランティアをしていた頃、仮設住宅で撮った写真を下さいと真剣に言われたことを思い出しました。すべて流されていたのです。

浪江町と小高の境にあり、いつも訪れている希望の牧場に行きます。今年も生きながらえた牛たちが迎えてくれます。事務所には被災直後の写真等の資料や、ここを題材とした絵本なども置いてあります。代表の吉沢さんは当時の牧場、繋がれたまま死んでいった牛の状況などを淡々と語ってくれました。

小高区海岸線

希望の牧場から海岸に出る道には“ 除染作業中” の看板があちこちにあります。パトカーも巡回しています。被災直後は県外のパトカーが目立っていましたが、今はほとんど福島ナンバーです。海岸は大分と整備が進んでいます。津波で壊れたままの家などは観られなくなって道路だけが真新しく違和感を憶えます。しかし、堤防の建設が進んでいます。田んぼや畑の向こうに綺麗な太平洋が見える海岸線がどんどん隠されているのです。どう見ても3.11の津波が超えそうな堤防を作る意味がわかりません。自然に逆らわない、もっと柔軟な発想が求められます。

海岸の崖っぷちには、綺麗な松林だった痕跡があります。そこに土地ごとに残された「一本松」たちがあります。それぞれの「一本松」に地域の物語があるのだと思います。

山元町

翌日3月11日は国道6号線を北上します。長い間、漁船や自動車があった畑や田んぼは、それらが撤去され綺麗になりつつあります。でも、耕作している形跡はほとんどありません。高台にさしかかると、どこでも“ 津波浸水ここまで” の看板があり高台にある国立病院機構宮城病院は何とか浸水を免れたことがわかります。震災時の事を話す今井先生(宮城病院ALSケアセンターの今井尚志医師)のことを思い出します。

1 キロほど内陸部に建設された新しいJR 山下駅
国道をそれて、旧山下駅に向かいます。新山下駅は大分内陸にあり綺麗に整備されています。でもまばらな住宅の中の、おおきくて綺麗な駅舎は不思議でシュールな感じがします。そういえば今日は3月11日、近くに東日本大震災6周年山元町追悼式の看板が立っています。10時半頃到着した旧山下駅ではモニュメントの落成の式典準備の最中です。会場では山元町東日本大震災慰霊碑除幕式会場の看板があり、名前が彫ってある円弧状の石碑と円錐形のモニュメントには白い布が掛けてあります。高校生から熟年までのボランティアがいて、周りには竹筒を切った中に蠟燭を入れた灯籠や紙の灯籠も見られます。ホームだけが残された旧山下駅には、砂で覆われ黄色があせた点字ブロックがあり6 年という時間を感じさせています。駅前の橋元商店には看板ネコが飼われており、愛嬌を振りまいています。

式典の邪魔にならないよう出発、町内の八重垣神社に向かいます。赤い鳥居と祠が一つだけ残った以外何もなかった境内でした。神社が再建されているところで、建物には工事の覆いが掛けてあります。小さい祠にお参りしました。来年は新しい社殿が見られると思います。

閖上(ゆりあげ)

閖上の日和山は荒野の真ん中にあります。3月11日ということもあり、テレビ局のカメラが忙しく動き、多くの訪問者が慰霊碑に手を合わせていました。ここに来るといつも思うのです、3.11の前、周りに多くの家があり賑わっていたとはとても想像ができません。

上から海の方を見ると、工事現場の土と橋だけが見えます。かつてはたくさんの松の木に囲まれたサイクルセンターがありました。かつてそこは多くのファンで賑わっており、私も仲間とママチャリレースに参加して楽しんでいました。

(報告 小関 理)

山元町の慰霊碑「大地の塔」

この慰霊碑は、東日本大震災で犠牲となられた方々を追悼するとともに、震災の記憶を後世に伝えることを目的に建立しました。

慰霊碑「大地の塔」は、「慰霊」「復興」「記憶」「願い」それぞれの思いが竹の地下茎のように大きく伸長し、大地から成長していく様子をイメージしています。塔の高さは、震災の日を表す3.11mとしており、毎年3月11日14時46分に塔の影が刻銘板に埋め込まれた「水晶」に重なり、震災の記憶を継承します。

(山元町のホームページから抜粋)

参加者の感想

今回、震災後初めて被災地を訪問しました。施設や住居の新しさから随分と復興が進んできたことが目に見えてわかっ た一方で、津波によって線路とホームの一部だけが取り残された駅の跡地や未だ震災当日のままとなっている住居など、 この震災の被害の凄さも感じました。特に浪江町の「思い出の品展示場」に展示された品物や写真などを見ていると、心 が締め付けられるような気持ちになると同時に、多くの人が生きたくても生きることができなかった未来をいま生かされ ている自分は何ができるのか、非常に考えさせられる機会になったと思います。実際に現地に赴き、自分自身の目で見て、 人との触れ合いを通じて肌で感じる、そんな大切なことを再認識させてくれたこのツアーに感謝します。

(K O)

第6回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

平成29年度 厚生労働省補助金事業「難病患者サポート事業」
開催日2017年(平成29年)12月9日(土)、10日(日)
共催福島県難病団体連絡協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
一般社団法人岩手県難病・疾病団体連絡協議会
参加者8名
宿泊ロイヤルホテル丸屋(南相馬市原町)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅を出発(10:00)→川俣町(山木屋地区・語らい処やまこやで昼食)→浪江町(津島地区、佐藤家、希望の牧場)→南相馬市(JR 小高駅、海岸線)→ホテルに到着、交流会
ルート
(2日目)
ホテルを出発→宮城県山元町(JR旧山下駅、八重垣神社)→名取市閖上(日和山周辺)
浪江町の津島区で帰還困難区域を示す看板
被災時、正確な情報が入らず、比較的安全だと思われた人口約1,400人の津島区に約8,000人が避難した。
しかし、ここも危険だということがわかり、多くは二本松方面に二次避難した。

JR郡山駅から川俣町(山木屋(やまこや)地区)へ

今回は友人の海子カイコさんに運転手を頼み宮城県から車を出すことになりました。朝早く10 人乗りのワゴン車を駆り郡山駅に向かいます。郡山駅でツアー参加者と合流、川俣へ。3.11 直後と比べると街の風景は元に戻ったように感じます。駅前の線量計も通常に戻っているようです。しかし、幹線道路を降りるとフレコンバックの山や集積場が見られるようになってきます。

川俣町に向かう道沿いに賠償相談窓口と書いてある急ごしらえの事務所があります。8 年近く経っているのに、どう言う訳か“東京電力賠償相談窓口”の看板は普通のプリンターで印刷し窓にセロテープで貼ってあるだけです。しっかりした看板は見たことがない、東京電力の姿勢が現れているようです。川俣町シルクピア近くで昼食後、浪江町に向かいます。114号線沿い、横道進入禁止の標識が見られるようになります。線量計の値も上がり出します。

浪江町

浪江町に入ると横道への進入禁止の看板とそのための柵が多くなります。進入禁止の場所には必ず警備の人が立っておりますが寒い日は大変だろうなあ。津島区の瓦屋根の立派な被災住宅は当時のままで青シートが経年変化で破れ6年あまりの年月を感じさせます。庭に植えてあった南天の赤い実が妙にキレイです。相変わらず分かれ道には警備員がおり進入できないようになっております。迂回路の案内や双葉への案内板を右に見ながら浪江町に向かいます。

浪江町津島公民館近くでは線量計は鳴り止まず2.79μ Sv/h(年間許容被曝量の10倍以上)をさしていました。114号線を6号線に向かう途中双葉町への道は閉ざされております。解除準備区域にある佐藤正男さん宅に向かいます。準備区域とそれにあたらない地域では除染作業で大きな差があります。道路一本はさんだ向こうは草ボウボウ、こちらは除染のための草刈り済みという感じです。何とも奇妙ではあります。途中、除染物の1haぐらいある集積所が何カ所かあります。高さ5m位ある白い塀で取り囲まれ中が見えないようになっています。中にはフレコンバックが山積みされています。近くの神社の石鳥居がまだ壊れたままになっています、人のいる地域は早々に修理され再建されているのですが・・・。

佐藤さんの家はリフォームされており綺麗になっております。囲炉裏や自在鉤もしつらえてあり家や地域への深い愛情が感じられます。家から海の方角を眺めると地変線のようにフレコンバックの集積場が見えるのです。廻りには除染がすんでも修理されないままの家が結構あります。6年という時間はあまりにも長いと感じます。

希望の牧場では震災後、出荷できない肉牛を飼育しています。牧場は満州を棄民になった代表吉沢さんの父親が開いたものだそうです。この話を聞くと、牛を見捨てて出て行けなかった気持ちが少しはわかります。震災を題材にした映画の中で、吉沢さんをモデルにした人物が育てている肉牛を見て“ こんな長生きした牛を見だごどねえ” といったセリフを思いだします。

長泥(ながどろ)地区の避難解除について

2012年1月施行の「放射性物質汚染対処特措法」では、東日本大震災による原発事故によって発生した環境汚染への対処を国の責務と位置付け、土壌等の除染等の措置を進めてきた。しかし、こうした除染活動も最近では曲がり角に差し掛かっているようである。帰還困難区域のうち、国が特定復興再生拠点に認定しているのは全体の8%に過ぎない。飯館村南部の長泥地区では17%を「特定復興再生拠点」に認定し、そこだけ除染して2023年に解除するとしているが、あとの8割超は「拠点外」として解除の見通しが立っていない。こうした背景には除染費用が巨額にのぼることが挙げられる。これまでの除染費用は3兆円になる。

一方、原発から北西40㌔の飯館村は、長泥ナガドロ地区を帰還困難区域とする避難指示を2023 年に解除してほしいという要望書を国に出している。拠点内と外で村が新たな分断を生じる恐れがあるからだ。長泥地区の放射線量は、事故直後は年50㍉シーベルト(mSv) だったが、現在は自然減衰等で国の避難解除基準とする年20㍉シーベルト(mSv) 以下になっている。国はこれまで避難指示解除は除染による環境汚染への対処を前提としてきたが、飯館村の要望は「除染しなくても一定の条件を満たせばいい」と受け止めている。こうしたことから、政府は避難指示の解除に、将来にわたり人が住まないなど一定の条件を満たせば除染を不要とする方式の導入についても検討するようになった。しかし、地元自治体によっては、国による除染を求める意見が根強い。

「特定復興再生拠点区域」とは、将来にわたって居住を制限するとされてきた帰還困難区域内に、避難指示を解除して居住を可能と定めることが可能となった区域のこと。

南相馬市

途中海岸で津波に流されずに残った一本松を見ます。太平洋側にあった松林はほとんどなくなりましたが、それぞれの地域に残った一本松があります。建設中の防潮堤は大きくて海が見えなくなる作りで不安になります。何時も寄っている小高駅では常磐線全面開通の準備をしています。2013年の自転車置き場にはうち捨てられた自転車たちが放置されていました。今は場所も少し変わり新しい自転車たちが駐輪しています。

さて、見学を終えて本日の宿へ向かいます。夕食では、それぞれの震災体験を話します、川を遡上する津波は恐ろしかったという話も。二次会、震災時から現在まで原発で働いているK氏の話を聞きます。作業環境の過酷さは相当なもののようです。

山元町

二日目は原ノ町の宿から国道6号線を北上宮城県に向かいます。国立病院機構宮城病院の前を通ります。ここのすぐ下まで津波が来たということです。JR旧山下駅跡には東日本大震災慰霊碑「大地の塔」と被災した人たちの名前と年齢を刻んだ石碑がありました。3月にも見ましたが改めて犠牲者の多さに心が痛みます。幼い子供と60歳以上の年齢の方たちが多くみられます。旧山下駅は駅舎と線路は無いもののプラットフォームは震災後のままです。点字ブロックが色あせて張り付いています。レールで出来た行き先掲示板は枠だけが空しく立っています。JR旧山下駅前の橋元商店では震災時の写真が展示されています。仙南地区で唯一の震災遺構になっている中浜小学校の写真等もあります。

八重垣神社は綺麗に再建されています。何も無いところに立派な松だけがありましたが、白木の真新しい社には住民の心意気が感じられます。

閖上(ゆりあげ)

閖上の日和山周辺は整備が進み訪問するごとに景観が変わっています。日和山から見えた津波到達地点を示していた水門は無くなり、新しく暴力的な大きい堤防が出来ています。震災後、海岸線には大きながれきの山があり処理していましたが、今はありません。元の街を思い出させるのは被災した水産加工工場だけです。閖上漁港に行く橋は新しい物に架け替える工事が行われています。震災前ママチャリレースでお世話になった自転車コースも整備されているようです。津波で下に落とされた石巻・玄昌石の石碑はまだ下に置かれたままです。石碑の一つには“ 地震があったら津波の用心” の文字、この警告は生きたのでしょうか?近くの草むらに錆びた街灯の基礎だけがあります。日和山では森田さん(和歌山県からの参加者)が御経をあげています。皆で合掌。

昼食は伊藤さん推薦の牛たんの店でいただきます。ここの牛タン定食は旨いですね。その後、仙台空港で解散です。2013年から毎年参加していますが、宮城県の復興と比べると福島の復興?は多くの解決困難な問題点を抱えています。先日、浪江町の海岸で酒蔵をやっていた鈴木酒造に行ってきました。浪江町のそれは跡形も無いですが、山形の長井市で続けているのです。近々、浪江町に戻って再出発する計画があると聞き少し心が軽くなりました。

(報告 小関 理)

参加者の感想

福島を肌で感じるツアーに参加して

栃木県難病団体連絡協議会 玉木朝子

去る12月9・10日「3.11東日本大震災 第6回福島を肌で感じるツアー」に参加させていただいた。何度か参加したいと思いながら日程の都合がつかずやっとご一緒できたというのが本音である。

6年前の震災時、私は衆議院の厚生労働委員会に所属していた。何度か委員会として、又個人として現地に行かせていただいている。しかしその当時は仮設住宅の建設状況や障害者の就労等、目の前にある問題に対処することで精いっぱいであったと思う。案内されたハローワークで被災者の方に罵声を浴びせられたこともあった。地震は天災、誰が悪いわけでもない、復興に力を注ぐべきとの思いで動いていた。しかし今回川俣町から飯館村、南相馬と案内していただき、自分がこの震災の点の部分しか見ていなかったことを痛感させられた。

昨春避難解除となった地域、現在も帰還困難となっている地域の国道を通った。至る所に線量計が設置され、通行止めの看板ばかりが目につく。特に住むことのできなくなっている住居は震災で傷んでいるわけでもなく、津波が襲ってきたわけでもない。放射能という目に見えない危険にさらされ避難を余儀なくされているのである。これを人災と呼ばないでなんと呼ぶべきだろうか。

被災された多くの方々が現在生活を立て直すための努力を続けておられる。復興作業に関わっている方の話も聞かせていただいた。避難解除となった農地に戻られた佐藤さんは自宅をリフォームし、戻ることのできない方々の土地も耕したいと語られていた。今回は前向きに話される方々に接し、嬉しく感じると共に、自分たちのこれからの役割を考えさせられたツアーでもあった。

私たち個人が具体的に何かができる訳ではないかもしれない。しかし常にこうした状況に対し関心を示すこと。それが被災されたかたがたに対する協力ではないだろうか。私たちは決してこの悲劇をつくった原因を忘れていない、許していないと訴えることが被災地に対する応援メッセージではないだろうかと強く思った次第である。

最後に、この度のツアーにあたりご協力くださった皆様に改めて御礼を申し上げたい。寒い中病気を押してご案内くださった宮城の小関さん、福島の渡辺さん体調は悪化なさらなかったでしょうか。伊藤リーダーお体に気をつけられて毎年この企画続けてください。ありがとうございました。

第7回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

平成30年度 厚生労働省補助金事業「難病患者サポート事業」
開催日2019年(平成31年)3月9日(土)、10日(日)
共催福島県難病団体連絡協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
一般社団法人岩手県難病・疾病団体連絡協議会
参加者7名
宿泊ホテル西山(南相馬市原町区旭町)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅を出発(10:00) → 川俣町(銘品館「シルクピア」休憩、山木屋地区(語らい処"やまこや"で昼食)→浪江町(津島区、津島中学校、浪江町役場周辺、請戸漁港)→南相馬市(JR 小高駅周辺、江井さんの仮設住宅)→ホテルに到着(17:30)、交流会
ルート
(2日目)
ホテルを出発(9:00)→宮城県山元町(旧山下駅周辺)→宮城県名取市閖上(日和山、海岸周辺)→JR名取駅、仙台空港にて解散(14:00)
朽ちていきながらもホームの一部とトイレが残っている宮城県の東南端の太平洋沿岸に位置する山元町の旧山下駅跡

JR郡山駅から川俣町(山木屋(やまこや)地区)へ

JR郡山駅のモニタリングポスト
JR郡山駅にはたくさんのタクシーや自家用車が乗り入れしており、バスを待つ若い人たちの姿に活気が感じられました。モニタリングホストの線量は0.128μ Sv/h。東京都は0.038μ Sv/h程度なので今も少し高目です。

10人乗りレンタカーで朝10時に出発。昨年と同じコースで国道4号線から県道51号線、国道114号線と走り川俣町の山小屋ヤマコヤ地区から浪江町を目指します。これまでの視察では、あちらこちらで見られた野積みのフレコンバック(除染等で生じた放射線量を含む廃棄物)がかなり撤去されており、風景から原発災害を感じられなくなっていました。フレコンバックは、原発立地自治体の大熊町、双葉町に建設した中間貯蔵施設へ順次輸送されているものと思われます。

川俣町のなかでも放射線量の高かった山木屋地区は、2017 年3 月31 日に避難指示が解除されました。しかし、このあたりまで来るとすれ違う車も人の姿も少なくなります。福島第一原発の事故で避難を余儀なくされていた山小屋小学校は、2018年の春から小中一貫校として地元での授業を再開させていますが、小学校は児童数ゼロ。中学校は児童数3名です(2020年7月)。私たちは山小屋地区で営業を再開したそば屋さんで昼食を摂りましたが、なかなかおいしかったです。

浪江町

浪江町津島区(帰還困難区域)は、震災後とほとんど同じような状態で人の姿は見かけません。津島地区は福島第一原発からは28km程離れていますが、いまだ放射線量が高く草むらでは2.67μ Sv/hを計測しました。今回の視察でもっとも高い地域でした。浪江町立津島中学校は休校中で、一時期、フレコンバックの仮置き場になっていましたが、現在はなにも使われていません。原発事故後は放射性物質が風で流れてきたとは知らず、校内に多くの町民が避難して数日間過ごしましたが、現在はひっそりとしていました。

浪江町役場本庁舎は2017年4月より業務を再開しています。役場内の敷地では、仮設商業共同店舗施設「まち・なみ・まるしぇ」(飲食店、ミニライブなど)により復興を盛り立てようとがんばっていました。役場に立てられた「おかえりなさい ふるさと浪江町へ」という明るい青色の看板が目を引きます。しかし、本庁舎周辺は、まだ人の住んでいない家屋が多く見られます。幹線道路の国道6号線は車やダンプカーが走っていますが、一歩中に入ればがらんとした感じでした。浪江町が実施した町民へのアンケートによると、放射線への不安と買い物の不便、医療体制の不備が帰還を阻害する主な要因となっているようです。

請戸漁港は巨大防潮堤工事の真っ最中だった
浪江町の請戸ウケド漁港は福島第一原発から約6キロ北の太平洋岸に位置します。そのため津波による壊滅的被害に加えて、多くの人が原発事故による避難生活を余儀なくされました。私たちが視察したときは、堤防や漁業関連施設などの復旧作業の真っ最中でした。しかし漁港周辺の多くは更地のままで、崩壊した家屋の基礎部分だけが残っているなど、今も深い震災の爪痕を感じます。震災後、漁船は津波で流されたり他の漁港に避難していましたが、避難指示解除に伴い2017年2月ごろから請戸に戻ってきました。「浪江町の復興は請戸漁港から」という大看板から関係者の意気込みが感じられます。漁業の復活には原発事故による風評被害の克服が重要ですが、政府は増え続けている福島第一原発の汚染水の海洋放出を検討しています。

請戸地区の犠牲者

請戸地区の死亡者は127人、行方不明は27人。船を失くした漁師も多く、請戸漁港に戻ってきた漁船の多くは新しかった。請戸小学校は1階の天井まで津波が押し寄せたが、校舎にいた児童計80人は教職員とともに迅速に山へと避難し全員無事だった。

南相馬市

常磐線の竜田駅(楢葉町)-富岡駅(富岡町)間6.9kmは2017年10月21日に運転を再開しました。浪江駅(浪江町)から富岡駅の約20㎞の間では、駅舎や線路などの復旧作業や周辺の除染作業が行われており、全線開通は2020年春頃の予定です。JR小高駅はきれいに整備されていましたが、駅周辺は今も閑散としています。私たちは、駅前で地元の農産品や民芸品を販売する地小さな店「希来きら」を訪問、店番をする年配の女性と少し言葉を交わしました。店主は隣の双葉旅館のご主人です。とても採算がとれるものではないけど、町の復興のために営業を続けているということでした。作家の柳美里さんが2018年4月にオープンさせた書店「フルハウス」にも立ち寄りました。小さくても雰囲気の良いお店でした。

続いて道の駅「南相馬」と道を挟んで隣にある仮設住宅に住むリウマチ友の会の江井恵子エネイケイコさんを訪問しました。江井さんは7年間暮らした仮設住宅を3月中に引き払い小高の自宅に帰ることが決まっており、現在の心境などをインタビューしました。

江井さんは、昨年、転倒により人工肩関節の手術を受けておられ、しかも実母を亡くされるという不運に見舞われていました。それでも気丈でお元気そうな様子でした。ただ「帰っても、もう農業はできないだろうから飲んで、食って、寝るぐらいしかない。」と語る声が寂しそうでした。

山元町

震災により637人の犠牲者を出した山元町JR旧山下駅跡は、わずかに残るホームのコンクリートとトイレ以外、駅の痕跡が無くなりつつあります。(P48の写真を参照ください)駅のすぐ南側は、線路跡が道路になろうとしています。旧駅前の橋元商店は残念ながら休業日でした。復興を進めている内陸側では道路の拡張工事が行われ、新たな家も建ち始めていますが、まだ更地も多く残されていました。JR旧山下駅跡より約1km内陸の新JR山下駅の横にはスーパーマーケット「フレスコ」が新規開店しており駐車場には買い物客の車が多数見られました。

山元町の人口

山元町の被災前(2010年10月)の総人口は16,704人だったが2019年2月末の総人口は12,235人となり震災が過疎化を加速させた。山元町の特産はイチゴだが、イチゴ農家の大半が津波で被災した。しかし、2018年は面積で震災前の75%、収量は最新鋭ハウスの導入効果で92%まで回復した。ただ、農家は65戸で震災前の129戸から半減している。

(山元町のホームページから)

閖上(ゆりあげ)

日和山から見た様子(北東方向)
閖上の日和山に向かう途中、津波で被災した名取市立閖上小学校、閖上中学校が一緒になった小中一貫型の「閖上小中学校」(2018年4月新規開校)の横を通過しました。同校は4階に食料や機材を備蓄するなど、災害に備えたさまざまな対策が施されています。

日和見山周辺は、年々少しずつ様子が変わっています。しかし、新しい町として再生するまで、まだ数年はかかるのではという印象を受けました。日和山の入り口には赤い鳥居が建てられていました。海岸線の防潮堤は完成している一方、かさ上げ工事は続いていました。かさ上げ工事には多大な時間と費用がかかるようですが、こうした「多重防御」が本当に必要なのか、現場を見てもあまり理解できません。11月には、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路・宮城野区蒲生から若林区藤塚まで総延長10.2km)が全線開通します。

閖上の人口

閖上の震災前(2011 年2 月)の人口は7,103人。2017年2月が2,159人。2018年2月は2,373人。2019年2月時点では2,645人。名取市の定住促進活動により徐々に回復傾向を示すが、震災前と比較すると大きく減少している。

(名取市のホームページから)

被災地を訪問すると、土木工事による復興は見た目にもわかりやすい。しかし、閑散とした住宅地など、人口減少が大きな課題になっていることも明らかだ。特に福島県の被災地は、原発事故による影響が復興への大きな足かせになっている。最近はあまり報道されなくなったが、災害公営住宅での孤独死など、精神的に取り残された人たちへのアプローチも復興への課題であることを忘れてはならない。心の復興は金銭で買えるものではなく、今後わが国がどういった社会を目指すのかといった基本政策のあり方とも併せて考える必要があるのではないだろうか。

(報告 藤原 勝)

参加者の感想

南相馬の町はけっこう賑わっていますが、やはり原発特需、震災特需だけなのかなぁという感じは非常にしました。見えるところの変わりようはすごくて、閖上は昨年とまるで違っておりましたが、これが北の方に行くとどうなるのか。あるいは今後、原発関係はどのようになるのか非常に心配です。オリンピックの後に万博などという変なことをやるのが気がかりでございます。

(K O)

2日間ドライバーを務めた宮城県の海子カイコです。昨年までは名取に住み海のある町の市民として暮らしていましたが、今年から内陸部の村田町に引っ越ししました。そこで感じたのは、感覚の当事者であるか否かといことで町を超えて引っ越しただけでもずいぶんと違いました。商売や仕事がなくなったりでひじょうに困った方もいれば、震災前となんら変わらない人もいて、このあたりのグラデーションはいつまで経ってもコントラストがきついままです。特に飯館村とかでは、年を追うごとにそのように感じるような旅でした。

(T K)

今回初めて参加させていただいたのですが、いろいろなところが少しずつ回復しているというのは、これまでにも何回か来ているのでわかりました。実際に住んでいる人たちがこれをどのように伝えていくのかといったことや、私たち自身が見たものをどのように伝えていけばいいのかを、今後整理して発信できればいいなぁと思っております。参加させていただきありがとうございました。

(S N)

今回で3年目になります。何を復興と定義するかにもよりますが、どこの町も概ね一歩一歩ですが、変わりつつあると感じることができました。浪江町では「まるしぇ」という活動が始まったり、町では人もちょっとずつ戻ってこられているのかなと感じることができました。一方で山間部の帰宅困難地域では、特に津島小学校のあたりはあまり進んでいる様子は感じられないと思いました。帰宅困難地域の道路も、べつに通れるのですが、それをひっくり返して新しい道路を作っていたりしていますが、それも意義のあることかもしれませんが、もう少し住んでいる人が戻ってこられる方向にお金を使っていただけるといいのかぁと感じました。あと、閖上が変わりすぎていてびっくりしました。

(K O)

福島、宮城と毎回来ているわけですが、福島は原発の影響がまだありますが急いで開通させたところもあり、簡易線量計では2.89という値を示し、まだまだ帰れない方、新しく生活を始めている方。浪江と南相馬ではぜんぜん違い、原発が絡んでいないと復興が早いのかなぁと思いました。今回、3・11前の開催で、各地で慰霊祭の準備をしているところがとても印象的でした。今年は江井さんが参加していただきありがたいと思います。南相馬の仮設が3月31日で閉鎖ということで、これも復興の一部ではないでしょうか。

(Y W)

原発事故による災害の大きかった福島とそれ以外の地域というのは基本的に大きな違いがあると思います。ただ、自然災害はいつどこで起きるかわからないのでやむをえないこともあるでしょうけど、復興に向けては山は山への親しみやたたかいもあり、海は海との親しみや海で生きていくということ、そして都市部は都市部の生活というものがあると思うのです。

そういうものを無視した復興というのはいかがなものかと。いずれそれも垣根がなくなるのだと思いますが、復興当初からそれぞれの地理的な違いを考慮した復興計画であった方がよかったのではないかと思います。ただ、原発というものを抱えた地域、福島の災害というのはまったく質の違う問題で、自然のように必ず起きるとか起きやすい地域というのは本来あり得ないわけで人為的に作ったものによって起こった災害であるということ。つい先日の新聞に湯川秀樹博士の「我々はコントロールできないモンスターを作り出してしまった」という言葉が載っていましたが、コントロールできないものまで作って追及しなければならないものとはいったい何だったのか。そして、今後どうなるのかということも考えなければならないと思います。とりわけいま、遺伝子の改変「ゲノム編集」による安易な遺伝子の改変が大きな課題で、将来的にも人類の大きな課題になると思います。それを思うときに、コントロールの効かない便利なものだといわれていた原子力発電というのが結局なにをもたらしたかということも合わせて考える機会にしたく、残りの来年、再来年に向けて追及していきたいと思います。

(T I)

3年ぶりの参加です。前回来たときは川俣町や浪江町で多く見られたフレコンバックが無くなり、これまでとは違う風景に見えました。中間貯蔵施設に集積したのでしょうか。復興五輪を意識した政府の復旧・復興対策とそこで暮らしていた人やいまも暮らしている人たちの気持ちは同じ方向を向いているのか気がかりでした。視察するだけでなく、そこで暮らしている人たちと寄り添える方法があればもっといいツアーになるかもしれませんね。

(M F)

第8回 3.11 東日本大震災福島を肌で感じるツアー

令和元年度 厚生労働省補助金事業「難病患者サポート事業」
開催日2020年(令和2年)3月7日(土)、8日(日)
共催福島県難病団体連絡協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
一般社団法人岩手県難病・疾病団体連絡協議会
参加者8名
宿泊ホテル西山(南相馬市原町区旭町)
ルート
(1日目)
JR 郡山駅(10:00)→田村市→大熊町(福島第一原発に近い夫沢中央台)→浪江町(JR浪江駅周辺、請戸漁港)→南相馬市(JR小高駅周辺、江井宅)→ホテルに到着、交流会
ルート
(2日目)
ホテルを出発 (9:00)→宮城県山元町(JR旧山下駅周辺)→名取市閖上地区(日和山周辺)→仙台空港・JR仙台駅にて解散(14:00)
福島第一原発から約 1.2kmの地点(大熊町夫沢中央台)
ここから先は通行証がないと入れない。後方に白い原発施設が見える。

JR郡山駅から三春、田村市方面

JR郡山駅のモニタリングポスト
いよいよ今回で最後のツアーとなります。総括的な意味を含めて8ページで報告します。

放射線量が高くても、野に花は咲く。
(田村市古道の国道沿い
いつものように、10人乗りレンタカーで朝10時にJR郡山駅を出発。今回は行けるところまで行こうということで国道288号線を東へと走り、3月4日に「帰還困難区域」の避難指示が一部解除されたばかりの双葉町、5日にJR大野駅周辺などの一部が解除された大熊町を福島第一原発に向かって走りました。途中、昨年10月の台風19号による大雨で河川が氾濫して壊れた道路の補修工事を行っているところに何か所も遭遇しました。被害が大きかったのか、まだ工事は終わっていません。この大雨では双葉・大熊の中間施設に収容前の仮置き場(田村市など)から、除染廃棄物を詰めたフレコンバック90袋が川に流出するという事故が起きています。周辺の放射線量や水質への影響は確認されていないということですが、周辺の方々は心配された事と思います。

車が双葉・大熊町に向かって進んでいくと、気になるのは放射線量です。JR郡山駅の線量は0.125μ Sv/h。それが三春町を抜けて田村市都路町古道のあたりで測定すると0.77μ Sv/hになりました。

フレコンバックについて

2019年10月12日夜、福島県を襲った大型の台風19号は、田村市、二本松市、川内村、飯館村の仮置き場に保管していたフレコンバック(除染廃棄物を詰めた保管袋)の一部が川に流出するという被害をもたらした。

これまで政府は、除染によって生じた約1,400万立方メートルの廃棄物をフレコンバックと呼ばれる保管袋に詰めて、居住地から離れた仮置き場に保管してきた。2016年11月、双葉町、大熊町に除染廃棄物を運び込む中間貯蔵施設の建設に着工、2017年10月から本格稼働した。これにより仮置き場の数や除染廃棄物は減ったが、県内にはまだ約930万立方メートルの除染廃棄物が約730か所の仮置き場に保管されていた。(2020年1月時点)

同様の事故は2015 年秋にも飯館村で起きている。村内の保管場所が大雨で浸水し、448袋が流出した。今回は再発になる。川に流出した除染廃棄物の放射線量が環境に及ぼす影響がほとんどなかったとしても、保管体制のあり方が問われる。

中間貯蔵施設建設の経緯について、政府は2011年に双葉群8町村に仮置き場から移すための中間貯蔵施設建設の検討を要請。双葉町(2015年1月)、大熊町(2014年12月)が、搬入から30年以内にすべての廃棄物を福島県外に持ち出すことを条件に建設を容認した。政府は見返りとして県と2 町に総額3,010億円を交付した。しかし、福島県外に運び込む最終処分場はまだ国内にはない。現在、中間貯蔵施設建設用地の取得は約7割。政府は2022年3月までに中間貯蔵施設への搬入を終えたい考えだ。中間貯蔵施設関連の総事業費は1兆6000億円になる。

参考資料:朝日新聞夕刊「現場へ」2020 年1 月20 日から24 日、環境省のHP

大熊町

JR 大野駅の横を通過、さらに南北に走る国道6号線を超えて県道252号線を海側に走り、たどり着いたのは福島第一原発から約1.2kmの地点。大熊町の夫沢中央台オットザワチュウオウダイというあたりです。P54の写真を参照ください。(大熊町は2019年4月10日に原発立地自治体として初めて一部の地域が避難解除され2020年3月5日にJR大野駅周辺などが避難指示解除されました)

周辺の放射線量は6.47μ Sv/hとかなり高値です。有人ゲートがあり、ここから先は通行証がないと通れません。パトカーが頻繁に巡視していました。道路から原発の一部が見えます。周囲の家屋は無住で、9年前と同じ状態かさらに朽ちているようです。雑草は伸び放題で、ここではまったくといっていいぐらい復興は感じられません。ちなみに第一原発の建屋周囲の空間放射線量は120μ Sv/hほどになり、これは8時間で一般人の1年間の被曝限度に達する高さということです。報道によると事故から9年になりますが、核燃料搬出作業はかなり難航しています。

JR常磐線は福島第一原発の事故により不通となっていた富岡-浪江駅間(20・8キロ)が3月14日開通、これにより全線復旧します。ただし駅周辺は除染しても、大熊町、双葉町などでは線量が高くほとんど人が住んでいないようなところを列車は通り抜けていくことになります。福島県放射能測定マップでは双葉駅の線量は0.28μ Sv/hですが、数百メートル離れた谷町集会所では4.38μ Sv/hを示していました。

国の避難指示解除の目安は3.8μ Sv/h(年間積算線量で20ミリシーベルト(mSv))以下とされています。しかし、長期的には1ミリシーベルト以下を目標としていることから、3.8μ Sv/h(年間20 ミリシーベルト(mSv))でもかなり高い数値といえます。車両内における空間線量率の測定では問題ないという結論かもしれませんが、どうも復興五輪に合わせての全線開通という印象が拭えません。

双葉町で初の避難指示解除

東京電力福島第一原発が立地する双葉町で、県内で唯一全域で続いていた原発事故による避難指示が、2020年3月4日午前0時、初めて一部で解除された。

双葉町で避難指示が解除されたのは、放射線量が比較的低い「避難指示解除準備区域」に指定されていた北東部と、比較的高い「帰還困難区域」にあるものの除染を行い低減させたJR双葉駅周辺の道路などあわせて2.4平方キロメートルで、町全体の4.7%にあたる。

双葉町は原発事故に伴って出された避難指示が、唯一全域で続いていた自治体で、事故からおよそ9年で、初めての解除となった。また、帰還困難区域で避難指示が解除されたのも初めてとなる。ただ、解除された地域では水道など生活インフラの整備が進んでいないため、戻って生活する住民はいないということである。

浪江町

全線開通を前にしたJR浪江駅
JR浪江駅前では何件かの飲食店が営業しており、私たちもここで昼食を摂りました。駅前の線量は0.21μ Sv/h(福島県放射能測定マップから)と除染により低くなっています。浪江町は2017年3月に帰還困難地域を除く地域の避難指示が解除されました。しかし、2019 年2 月末時点で同町に住民票を置く人は1万7526人ですが居住人口は910人に過ぎません。

そして次に向かったのは、昨年に続き2回目の視察となる請戸ウケド漁港です。現在、福島県では出荷制限魚種を除くすべての魚介類で試験操業が行われています。昨年は建設中だった災害時の避難所にもなる浪江町水産業共同利用施設が完成していました。とてもりっぱな建物です。他の漁港に避難していた漁船も戻っており、4月にはこの施設で待望の競りが再開されます。

福島県の水揚げ量は震災前の2割程度に留まりますが、低迷していた価格は徐々に戻っています(その後、コロナ禍の影響で再び下がった)。漁業の復興はいよいよこれからですが、政府は福島第一原発の敷地内にたまる汚染水の海上放出を検討していることから、漁業関係者の間では「これまで積み重ねてきた努力が水の泡になるのではないか」と風評被害が広がることを懸念する声があります。

請戸は放射線、津波、地震の三障害が発生しましたが、放射線量はだいぶんと低くなり、漁港の周囲では防潮堤の工事が進められているなど、この1年の間にインフラ整備は進んでいるようです。しかし、漁港の周囲はまだまだ手付かずの状態であり、基盤が整うにはまだ数年はかかるように感じました。請戸地区の住居は高台に集団移転する計画です。

漁港の外はまだほとんど手つかずの状態だった

請戸卸売市場が再開

東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた浪江町の請戸漁港で4月8日、請戸地方卸売市場が震災から9年ぶりに再開し、競りが行われた。これまで水揚げした魚は主に相馬市の市場に約一時間かけて陸送していたが、市場の再開により漁業者の負担が減り、水産業活性化が期待される。相馬双葉漁協によると8日、請戸所属の23隻、富熊(富岡町)所属の一隻が出漁した。ヒラメやナメタガレイなど約2トンが水揚げされ、午前9 時すぎに競りにかけられた。同漁協職員の掛け声が響き、仲買人が次々と競り落とした。

取引価格は低調だった。3月ごろは1キロ当たり2,000円だったヒラメが、この日は100~800円に落ち込んだ。同漁協は新型コロナウイルスの影響で首都圏などの料亭やすし店で消費が減り、需要と供給のバランスが崩れたと分析している。

( 福島民報2020年4月9日から抜粋)

南相馬市

南相馬市には、放射線量で地域が分断され賠償金などから住民同士の感情が交錯する複雑な問題があります。その南相馬で、私たちが当初から気にかけていたのは小高区です。全域が旧警戒区域(20km圏内)に入る小高区の人口は震災当時1万2842人。今年2月末時点での住民登録者は7346人まで減りましたが、さらに実際に住んでいるのはその49%の3663人にとどまります。2016年7月に避難指示が解除されましたが、帰還した人の約半数は高齢者であることから将来的には再び人口減少することが予想されます。学校や医療施設、買い物といった一定の生活基盤は整いましたが、若年世代の帰還には、地元での雇用確保が大きな課題となります。

それでも2014年から毎年定点視察を続けている常磐線JR小高駅周辺は、昨年とは少し違う印象を受けました。まず驚いたのは駅前でタクシーが客待ちをしていたことです。全線開通に備えて駅員も常駐していました。すでに更地になったところや無住家屋はたくさんありますが、人の姿もちらほらと見られます。小高駅前の小さなカフェOMSB(Odaka Micro Stand Bar) は、家族連れや若い人たちで賑わっていました。コーヒーをドリップする森山貴士さんは大阪府の出身です。3年前、キッチンカーから始めて1年8か月前に「人が集まれる場所を自分たちで作りたい」という思いから仲間と共にお店を出したそうです。私たちもここでしばし休憩、なんとなく落ち着く店です。となりの原町から来たという高校3年の男子は、毎週通うほどここでのひと時を楽しむそうです。やっぱり人は居心地の良さそうなところに自然と集まってくるのですね。

カフェOMSB のフェイスブック

カフェOMSB のフェイスブックは、情報がたくさん配信されている。

https://www.facebook.com/odakao.msb/

4月は新型コロナウィルスのため休業していたが、6月2日から営業を再開。休業中もネットでコーヒーの入れ方などをライブ配信していた。現在は新メニューのサンドイッチを販売するなど、コロナに負けないようにがんばっている。

若い人たちにかける期待は大きい。

本日の最後は、小高区の江井恵子エネイケイコさん宅を訪問。昨年のツアーで南相馬市の仮設住宅を訪問したとき、江井さんは仮設を引き払い8年ぶりに自宅に帰る準備をされていました。昨年は「家に帰っても農業をできるわけでもなく食べて寝るだけだ」と言っておられたので、その後の様子が少し気になっていました。そして1年ぶりにお会いできましたが、昨年の8月にお父様を亡くされるといったご不幸がありました。それでも「後片付けで忙しい」と言ってお元気そうな様子だったのでほっとしました。小高区は福島第一原発に近いことから避難を余儀なくされましたが、江井宅は少し高台だったので津波被害を逃れました。家には厩舎があり、大きな馬が3頭もいます。避難中も苦労して通いお世話をされていました。長い間主人の留守が続いて人恋しいのか、私たちはお馬さんに大歓迎されました。

5時ごろに南相馬市原町のホテルに到着。夜は近くのレストランで交流会を行いました。福島ツアーは、回を重ねるごとにリピーターが多くなり、参加者の連帯感が強くなっていることを感じます。

山元町

JR旧山下駅(海側のホーム)
2日目は朝から雨が降っています。雨は8回の福島ツアーで初めてのことです。きょうの視察は、宮城県亘理郡山元町(JR旧山下駅周辺)と名取市閖上ですが、この2か所は第1回のツアーから続けて定点視察を続けています。

イチゴを特産とする山元町の人口は12,235人(今年2月時点)です。昨年の同月比でマイナス52人なので、若干は減少したものの大きくは変わりません。現在はだいたい横ばいのようです。JR旧山下駅跡周辺は昨年見た状況と大きな変わりはなく、つぶれかかったホームがわずかに残っていました(その後、ホームやトイレも撤去されるが、視察時は知らなかった)。私たちは、ちょうど現地を訪問されていた地元の男性から話を聞くことができました。

2016年の第4回福島ツアーで同地を訪問したとき、山元町では沿岸部を走る県道を内陸に移設。4~5メートルかさ上げして防潮堤の役割をもたせる計画がありました。県はルート上にあり、海側に取り残される15世帯に対して立ち退きを要求していましたが、住民側は県道ルートの変更を求めていました。その後どうなったのか気になっていましたが、地元男性によると話し合いによる決着がついたとのことでした。

2017年に慰霊碑が建立されてから、毎年3月11日はここで追悼式典が開催されていますが、今年は事情が違います。昨年訪れたときは町の職員等が出て追悼式の準備をしていましたが、今年はほとんど人影がありません。結局、新型コロナウィルスの感染防止のため式典形式を見合わせて献花台を設置し、自由献花形式のみで執り行なわれたようです。ご遺族は残念な思いをされたこととお察しいたします。

地域コミュニティの維持に課題

山元町は2013 年に災害公営住宅の一部で同県内最速の入居を開始したが、入居は抽選方式を採ったことから元の住民はバラバラになってしまった。住民からは「被災地を切り捨て、町づくりを優先した」と不満が漏れる。震災で同町では3,300棟の住宅が半壊以上の被害を受けた。町は震災復興計画で「コンパクトシティー」を掲げ、6つの被災集落の移転先を3か所に決めた。地域性やJR線移設などを考慮し、「新山下駅」地区などを移転先としたが、場所の選定に住民の意見は反映されなかった。

国の防災集団移転促進事業では、東日本大震災は特例で5 戸以上を集団移転の条件にしていた。だが、山元町は「持続可能な町づくりにはある程度の規模が必要」として地区独自の移転を認めなかった。 震災前から過疎化も進んでいるが、地域コミュニティーの維持に課題を残している。

閖上(ゆりあげ)

最後は名取市の閖上です。いつものように、慰霊のシンボルとなっている高さ6.3メートルほどの日和山から全体を視察しました。最初の印象はさらに整地が進んだなという感じです。昨年は工事中だった日和山の正面は、きれいに舗装されて駐車場も整備されていました。山から見渡した様子でも、かなり遠くまで整地されていました。まちの基盤は整ってきたので、今後の課題はどれだけの住民が戻ってくるか、あるいは新たな住民を呼び込めるかということかもしれません。岩手・陸前高田など、他の被災地でもまちづくりはできたが人が戻らないため更地が残るといった被災地共通の課題があります。

これで2013年から始まった私たちのツアーは終了です。少し寂しいですが、私たちはこのツアーでの体験をけっして忘れることはないでしょう。被災地の復興を祈りつつお別れします。皆さん、お疲れ様でした。

名取市が復興宣言

名取市は3 月30 日、被災者の住まいの再建やインフラ整備、公共施設の復旧などをほぼ終えたとして「復興達成宣言」を出した。今後の課題として⑴被災者の心のケアとコミュニティー醸成⑵震災の風化防止と安全・安心なまちづくり⑶地域産業の再生・発展⑷防災集団移転跡地への企業誘致⑸閖上地区への定住促進と沿岸地域への交流人口拡大――の5項目を挙げ、取り組むことを明記した。

ツアー2日目の昼食に何度も通ったのが名取市の牛タン屋「一休」さん。地元では有名店のようで次々とお客が来る。

第1回のツアーでは、食事代は旅行代金に入っていると勘違いして、無銭飲食しかけたこともあったっけ。

2011年3月11日の大震災以降、福島第一原発は炉心の内部に格納された核燃料が高温により溶け出し、炉心を溶解・破損メルトダウン(炉心溶融)という危険な状態が続いていた。注水などの作業により、政府が「冷温停止状態」という言葉で「事故収束」を宣言したのは2011年12月のことだ。冷温停止とは本来、原子炉の運転停止操作によって水温が100度未満になり、安定したことをいう。しかし、燃料が溶け落ち、放射性物質が漏れ続ける事故炉に当てはめるには無理がある。そこで「状態」を付け、漏れが大幅に抑えられているといった独自の定義を新たに設けた。

冷温停止状態になったことから、政府は廃炉工程表(中長期ロードマップ)を作成、継続的な見直しを行いつつ、廃止措置等を進めるとして2019年12月までに5回の改定を行った。これまで廃炉作業は遅れてきたが、なぜか改定後も30年から40年後に廃炉を完了するという目標は変わらない。すでに事故から9年経っており、行程表では後20年から30年で完了しなければならない。しかし、この期間での廃炉完了は困難と見る専門家も多い。現在も高い放射線を放ち、再び核反応を起こす可能性も残るデブリを安全に取り出し保管しなければならないが、そうしたことに確立した技術はなく手探りの状態だ。さらに廃炉によって生じる廃棄物の処分という問題が残る。福島県など地元自治体は県外への搬出を求めているが、廃棄物を引き受ける自治体などあるのだろうか。

そもそも政府や東電は、何をもって廃炉完了というのかも明らかにしていない。一般の原発のように建物を解体して更地に戻すのか、建物などが残るのか。米スリーマイル島原発は、事故から40年後の2019年に今後60年かけて廃炉を進めると発表している。チェルノブイリ原発は、核燃料を建屋ごとコンクリートで封じ込めた「石棺」を耐用年数100年の巨大なカバーでまるごと覆う計画が進む。こうした他国の事例からも、あれだけの大事故を起こした福島第一原発の廃炉完了が30年から40年で達成できるとは考えにくい。また、専門家によると施設と汚染された土壌をすべて撤去できたとしても、発生する放射性廃棄物の量は800万トンにのぼるという。それをどこにもっていくかは大きな課題である。政府も東電も、そろそろ本音で事故原発の将来を検討してもいいのではないだろうか。

(報告 藤原 勝)

参加者の感想

私は岩手から初めてこのツアーに参加したのですが、平地の津波のすごさを見て驚きました。水が水平に流れて奥地まで届いたんだなぁと。そのなかで少しお家が再建されていて、やっぱり元に戻ってお住みになるのかぁという感じでした。

(K Y)

今回は2年ぶり3回目の参加になりました。家が建ったりみんなが仮設住宅から戻ってきたりしたのですが、大熊町の第1原発の近くまで行くと線量が高くて放射線はほんとうに怖いです。放射線というのは見えないので忘れがちですが何万年も残るので、やっぱり事故とかはだめだと思うので自然エネルギーになればいいなと思いました。あと野馬追の馬と甲冑を見たので行きたくなりました。震災を通じて、いろんな新しい知り合いの方ができたのは良かったと思います。

(K O)

静岡から2年連続の参加になります。昨年と今年で変わっているところ、変わっていないところなどいろいろありましたが、原発を遠くから見ながら今住んでいる静岡の原発を思い起こして、静岡で地震があったらどうなるのだろうと考えながら福島をまわらせていただいております。地震対策の重要性をとても感じる今年のツアーでした。

(S N)

やはり福島第一原発近くの線量が非常に気になりました。あの場であれだけの線量ということは、これからも線量は下がりようがないということだと思います。まわりの入れない家の悲惨さというか悲しさは印象に残りました。9年目であの状態ですから、これからどうなるのかと考えると非常に暗い気持ちになります。来年のツアーはどのようになるかはわかりませんが、やはりこうやってきちんと見ていかなくてはならないと思いました。

(S K)

今回のツアーは9 年目ということで、変わったことと言えば江井さんが南相馬の仮設住宅から小高の自宅に戻られたことがあります。福島は復興しているように見えますが、まだまだだと思います。フレコンバックの量がものすごく減りました。

処理場まで運ぶダンプ、また帰るダンプが忙しく動いておりました。福島は原発事故がありますが、宮城では原発がないので復興が進でいます。特に閖上は昨年とはがらりと変わっている状態ですばらしいことだと思います。少しずつ復興していけばいいなぁと思います。

(Y W)

私は3回目になります。今年はツアーの節目の年ということで来年はどうなるかわからないのですが、短い3年でも記憶だとか、震災遺構といわれているものの風化や忘却というのが進んでいることを1年ごとに感じており、今年も再確認したということがあります。災害というのは震災以降も起きていて、それはいろんなかたちで私たちの日常に大きな影響を与えるのですが、そういった忘却を前提にしてどういったことを学べるのか。これにはいろんな記録の仕方があると思うのです。そのなかで昔から人類がやってきた口承文化というか、文字とかに残さない方法が最近はもっとも大事なものを伝える方法になっているのではないかと、9年経ってあるいはこのツアーに参加して思うところであります。

(T K)

今回初めて福島第一原発の近くまで行くことができましたが線量も高く大きな衝撃でした。一方、浪江町の小高駅周辺では昨年とは少し様子が変わりカフェでコーヒーを飲むなど町の回復を感じることができました。ツアーに参加される方にはリピーターが多く、価値観を共有できる視察でした。

(M F)

このツアーも今回で最後になるかもしれないと。この後、10 年間の総まとめをしょうという計画でいます。今回は「Fukushima 50」という映画を観たせいか、原発の問題がよりリアルに感じることができました。今回は初めて郡山から双葉まで出るルートを通り、走りやすくて時間もたいへん節約できました。しかし、双葉近くの道路はあちらこちらで通行止めという状況のなかでかろうじて国道6号線に出ることができました。このあたりになると帰宅困難が解除されず、そのままの状態で放置されている家がたくさんあることが目につきました。9年も10年も放置された町に、人がはたして帰ってくることが可能なのかということで、たいへん大きな疑問を感じています。今までは高速道路かあるいは国道を素通りということしかできませんでしたが、今回は大熊町、双葉町のなかに入って見ることができましたし、浪江駅前では食堂も新たに開いておりそこで食事をしました。いろんな意味で、初めてということが多かった今年のツアーだったと思います。ただ、原発で町に帰れるかという問題だけでなく、原子炉の解体がどこまでできるのかという問題。そして地震、津波、原発という三重の災害に遭った人たちの心情というものを、たいへん強く感じることができたツアーだったと思います。

(T I)

地図(宮城県、岩手県)

★:視察地点

宮城県

岩手県

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