講演録

[第1回] 3.11東日本大震災福島を肌で感じるツアー
江井恵子さんの体験談

講演日
2013年3月23日(土)
会 場
ロイヤルホテル丸屋(福島県南相馬市原町)
講演者
南相馬市小高区の被災患者 江井 恵子(えねいけいこ)さん

今日は至らぬ案内でしたがありがとうございました。小さな車なら、もっと奥まで入って生々しいところも見られたのですが、バスなので私の自宅も案内できませんでした。

実は私は大きなペットを飼っています。馬2頭です。本当は津波の現場だけでなくて、私の馬も見せたかったし、牛や荒れた畑も見せたかったです。家はネズミの糞で納屋も蔵も離れもすごい状態です。かろうじて2年前に新築した家はなんとかもっているのですが、ぜひそういうところも見てほしかったです。

私はリウマチ友の会の役員をしているのですが、実は支部長を通してJPAから最初にこのお話をいただいたときはお断りしたのです。その理由ですが、なぜ今ごろ野次馬根性みたいにしてくるんだと言いました。そうしたら支部長がわかったと言ったのですが、ある程度日にちが経ってから「ぜひお願いできないだろうか」ともう一度きたのですね。それで私も、2年経っていることだし、皆さんはそういう感じではないのだとわかったのでお受けしました。

地震がきて津波がきて、原発事故に遭いましたが、その関係を少しお話したいと思います。

まず地震がきました。そして停電しました。津波の影響で、電線が切れてテレビも観られなくなりました。その日は暗がりの中で夕ご飯を食べて、着の身着のままで寝ました。次の日は、お天気が良かったので片付けなどをやっていました。もちろん、あの津波がきていたとは夢にも思わないです。わずか直線距離で2 キロか3 キロしか離れていないのですが。ヘリコプターとか救急車が搬送するサイレンの音がすごかったです。それで、毛布などがある方はぜひ持ってきてくださいという放送が流れました。

そうしているうちに、その日の3時35分ぐらいに突然爆発の音が聞こえたのです。家は原発から17キロなのですが「なんだろう、また地震がくるのかなぁ」と思っていたら、それが原発の第一号機の爆発でした。

私たちは、何も聞かされていないというか、何もわからないで家の片づけをしていました。そうしたら、次の日あたりから避難しろと言われました。それでも私は3、4日は避難しませんでした。足も痛いしトイレも洋式じゃないとできないし、体育館のトイレではできないと思ったからです。

そのうち、ヘリコプターが上空を飛ぶのですよ。そして、人影を見つけると指令がいくのですね。そうすると、あなたは避難しなさいと言われます。私は戦争を体験していませんが、艦砲射撃ではないですが、そういう感じですね。だから、夜は明かりを消して食事をして、日中は外に出ないで物陰に隠れるようにして4日間過ごしました。

そして、とうとうやっぱりだめだと、次の原発の建屋も飛ぶということで山の馬事公苑に避難しました。しかし、そこも間もなく危ないということで、それで中通りか会津の方に行かなくてはならないということで逃げました。

最初は、あと3か月で閉めようと思っていたという猪苗代の古びた温泉旅館で1か月過ごしました。その当時は、お金が免除になっていなかったから1日3,000円です。食事は自分たちで作りなさいと言われて、大きな風呂も自分たちで掃除しました。もう何が何だかわからなくて。仮設や借り上げ住宅を探しても、なかなか見つかりません。その後は転々と親戚とかをまわり、ようやく西会津に近い喜多方市のすごい山の中の豪雪地帯に見つかり、そこに一家で避難しました。

とはいっても夫は仕事の関係で南相馬に残り、両親と息子で半年間過ごしましたが、豪雪地帯で車の運転もできないということで、再び海が見える仮設か借り上げ住宅を探しました。なかなか見つからなかったのですが、やっと見つけたのが一昨年の12月、今日皆さんに披露した仮設住宅です。

それまでは父や母は何も言わなかったのですが、生まれてから80年、南相馬市で過してきたじゃないですか。あるときポロっと言うのです。「あのなぁ、会津では山から太陽が上がって山に沈むんだぁ」と。それまで太陽は、海から上がって山に沈むものだとばかり思っていたのですね。それぐらい、老人にはきついことだったのです。

南相馬の仮設に来たときは、活き活きしているのが顔でわかるのです。やっぱり生まれた土地というのは、こんなにいいものかと思いました。何も親孝行できなかったけど、私はこれで親孝行ができたなぁと自負しました。今の仮設は、車で15分ぐらいで家まで行けますし、暖かいし、こんな感じで暮らしています。

震災による原発事故で、私たちは犠牲になったのかどうかはわからないのですが、私はやっぱり犠牲になったとは思いたくないのですよ。こんなに辛い思いをしていてもです。原発でこういう状態になったのは、世界中の人に原発はこれだけ怖いものだと知らしめることに私たちは貢献しているのかなぁと思うようにしているのです。そうでないといたたまれないのです。私のところはそうでもなかったですが、本当に家族はバラバラです。だから、ストレスがすごくかかっています。

町で知っている人に会ってもわからないぐらい、顔も変貌しています。精神的にやられるとこうなるのだということを、まじまじと見せつけられました。今まであまり患者がなかった精神科も、夜眠られないとかなんとかで今は本当に多いです。

この震災で私がわかったのは「小欲知足」というのか、小さなもので足りるということです。だから家も、小さな仮設で十分です。あんな大きな家はいらないとか、着るものだって着替えが3枚あればもういいです。自慢ではありませんが、私はユニクロでトータルして3,000円ぐらいのものしか着ていませんが、それで十分です。今までは、あまりにも贅沢をしてきたのだなぁと思います。それで神様が、もう少し注意しなさい、昔のような生活をしなさいと怒ったのかなぁと思ったりしています。

こうやって今日の皆さんの自己紹介を聞いていると、やっぱり見てもらって良かったと思いました。

報道されているのは一部分だし、かっこいいことしか言っていないし、復興は進んでいるなんて言っていますけど、本当に進んでいません。皆さんには、目の当たりにしていただいて良かったと思います。

最後に病気の話を少しします。私はリウマチですが、20年ぐらい寛解状態で薬を飲んでいなかったのです。私は薬を飲んでいないぞと自慢していました。

それが震災の年の10月にすごく頭が痛くなり、これは普通の頭痛と違うと思い病院に行ったら高血圧でした。もう血圧が200以上あり、測定不能と言われ薬を飲むようになりました。そして、こちらの仮設に来てほっとしたのか何かで、突然リウマチが再発しました。数値がかなり高くなり、それでまた薬を飲むようになりました。

現在は薬が効いて落ち着いてきたので、このまま治まればいいなぁと思っています。だから本当に、人間は何の病気でもそうですがストレスは怖いと思いました。

ありがとうございました。

江井さんには、ご自身が暮らす仮設住宅を見学させていただいたり、小高、浪江町のガイドをしてくださったりと、たいへんお世話になりました。

編集部

[第4回] 3.11東日本大震災福島を肌で感じるツアー
ミニシンポジウム

講演日
2016年3月12日(土)
会 場
ロイヤルホテル丸屋(福島県南相馬市原町)
  1. 「南相馬市におけるコミュニテイ創出のための復興支援活動」
    福島県立医科大学災害医療支援講座
    南相馬市立総合病院神経内科  小鷹 昌明(おだかまさあき)さん
  2. 津波にあって
    宮城県石巻市の被災患者(多発性硬化症) 鈴木 明美(すずきあけみ)さん
  3. 福島原発被災の状況
    浪江町の被災者 佐藤 正男(さとうまさお) さん

司会 伊藤 たてお


「南相馬市におけるコミュニテイ創出のための復興支援活動」

福島県立医科大学災害医療支援講座
南相馬市立総合病院神経内科 小鷹 昌明さん

皆さま初めまして。この町で、医師として仕事をしながら復興支援活動のお手伝いをさせていただいている小鷹昌明と申します。いま、皆さまのご紹介をお聴きして驚きました。自分のお体のことだけで精一杯だと思うのですが、こうして福島で被災地を見ていただき、何か感じたこと、思うことがあるのではないかと、最初から感銘しております。

私の話が、どこまで皆さまのお役に立てるかわかりませんが、私は栃木県の大学病院を4 年前にやめまして、平成24年4月にこの町に移住してまいりました。なぜ大学病院をやめてここに来たかという話をすると、それだけで30分以上経ってしまうので、そこは置いておき、きょうはこの町に来て私が医師として感じたこと、実際に活動をしてきたことなどをお話させていただきます。皆さまの、ちょっとした勇気につながればいいなと思っております。

まずはこのタイトルにありますように、医者としての仕事の話をしても、お医者さんだからあたり前だということになると思いますので、医者としての話はいちばん最後に少しご紹介させていただきます。それよりも、被災地で何をしなければいけなかったのかということを、まずお話させていただきます。医療とは関係ありませんが、こういう変わったお医者さんがいるのかなとお感じいただければありがたいと思います。

自己紹介ですが、私は埼玉県で生まれました。神経内科医なので、多発性硬化症、成人スティル病などが専門領域かもしれません。

きょうの皆さまの行程表を見ますと、小高区それから浪江町の吉沢牧場を見学なさっているのですね。南相馬市というところは、地震と津波と原発災害というように世界初のトリプル災害に見舞われたエリアです。

いま私たちがいる場所は、だいたい福島第一原発から25kmぐらいです。小高区は20km圏内で、元警戒区域です。東京から福島第一原発までは、200km以上離れております。いま、震災のときのお話をあれこれしても実りあるものにはなりませんので、そこからどうなったかという話をさせていただきます。ご想像できると思いますけども、南相馬市は震災で人口の流出が起こりました。震災当時の人口分布と平成26年で比べると、若い世代の人がどんどん出てしまい高齢者世帯の割合が高くなりました。もともと南相馬市は、65歳以上の高齢化率は25%だったのですが、震災後は一気に33%まで上がり、3人に1人が65歳以上の超高齢化社会になってしまいました。そういう意味では、日本の20年後を一気に先取りしてしまったエリアになります。東京都でも20年後には、こういう人口分布になると試算されております。地図を見ますと、福島第一原発は大熊町、双葉町にまたがっています。南相馬市は、その北側に位置するのですが、南相馬市というのはもともと3つの町が平成7 年の市町村合併で合併した町です。

もともとは鹿島町、原町、小高町の3 つが合併して一つの市になったのですね。市町村合併は、いろいろとすったもんだするものですが、やっと一つの町として再スタートして仲良く暮らしているところに震災が起こってしまいました。こともあろうか小高区は20km圏内、原町は20kmから30km、そして鹿島区は30kmから外になり、それにより警戒区域だとか避難解除準備区域だとか何でもないエリアだとかに分かれ、今までやっと一つにまとまってきたところに再び分断が起きました。それが何よりも、南相馬市の最大の不運だと考えられます。

多くは語りませんが、小高区の住民がここには住めないということで、ほとんど鹿島区に避難したのですね。そうすると鹿島区の人と小高区の人が入り混じって生活しますが、小高区の人はほとんど保証が受けられお金が入ってきます。鹿島区の人は家が流されてもあまり保証がなかったり、そういうごたごたがいっぱいあります。それでも5年が経ち、なんとか少しずつ治まってきてはおりますが。私は震災後、1年してからこの町に来ましたが、まだまだ混乱の渦中にありました。

私がこの町に赴任して、医者として医療支援をスタートして気づいたことは、家が流されて仮設住宅で避難を余儀なくされている人、うつになったりアルコールに走ってしまう人など、要するに孤立する人が増えてしまったということです。先日(3/1)の福島の新聞にはまだ「仮設孤独死県内で 66人 毎年増加、目届きにくく」といった記事が載ります。岩手県、宮城県、福島県の被災3県の中で、断トツに福島県は孤独死というか孤独自殺をする方が多いです。しかも、まだ増えているというのが現実です。特に男性に多いです。壁に「原発さえなければ」「仕事をする気力を失いました」といったなぐり書きをして自殺された方もいます。

私はこの町に赴任してきたときに、こうしたことが起こるだろうと予見しておりました。なぜならば、阪神・淡路大震災のときに、4年間で6,000人(震災死・震災関連死)ぐらい亡くなられたということですが、孤独死されたのが244人というデータが残っています。その中で病気などがなかったかというと、中高年男性で、多くが無職でアルコール依存や慢性疾患を抱えている方が震災後に孤独死、孤独自殺するリスクファクターであることがわかっていました。だから、当然東日本大震災でも、孤独死が起こりうることが容易に想像できたわけです。

私も、そうした孤独死を少しでも減らしたいと思ったものですから、仮設住宅なんかに行って、仲良くするというか、特別なことをするわけではないのですが、お話をしたりみんなでゲームをしたりといったサロン活動をしていました。

このサロンに集まった人は、写真を見ても一目瞭然なのですが、ほとんどが女性ですね。やっぱり女性は逆境に対して強いです。男性はだらしないみたいなところがありまして、これが孤独死する方が男性に多いことと関連しているのではないかと思ったわけです。

それで、仮設住宅などで孤立しているような男性に何か趣味を持っていただけないか、引っ張り出して一緒に何かできないかと、病院のスタッフみんなで相談しました。そして、コミュニテイの創出活動をしたいということでチームホープ(HOHP(H:引きこもり O:お父さん H:引き寄せ P:活動))というのを立ち上げました。希望のホープにかけて、有志団体というかボランティアでチームを作り、お父さんたちに何をすれば興味をもってもらえるかを考え、いろんな議論になりました。

何をやったかというと、木工教室を始めました。2013年1月で、震災から2年経つかどうかです。私に何か木工を教えるスキルがあるかといえば、ありません。いろいろ考えて、協力を仰いだのは南相馬市にある建築組合です。全建総連といいますが、代表の方と会い、孤立防止の木工教室で教えてくれる職人さんはいませんかと相談したら、うちの会全員で教えますと即決をいただきました。そして、毎週日曜日の午前にスタートしました。いろんなご縁に恵まれました。アトリエや道具はどうするかといったこともありましたが、いろんなご寄付をいただいたりして、とにかく始めることができました。

ただ、木工教室をひらくというわけではなく、そこには仕掛けを考えました。まず、何を作るかというと、公共施設に置けるようなものとか、やはり町の復興のお役に立てるような木工製品にしました。各自がばらばらで趣味の範囲でプラモデルを作るようにするのではなくて、みんなで一つのものを仕上げるのがいいのではないかと考えました。あと、お子さんのためになるようなものとか、公園のベンチ、区役所のカフェの陳列棚、学校の図書館に本棚を寄贈したり、町のプランターを作ったり、企業の看板を作ったりしてきました。

地元では少し評判になりまして、福島民報に「力を合わせて木工制作」というように載りました。それから朝日新聞、日本経済新聞、読売新聞と載り、市から感謝状もいただき、一応世間からも評価をいただけたのかなと感じています。

もう一つのプロジェクトのお話をします。木工で気をよくしまして、次に何をやろうかと考えました。小高区は、震災から1年が経ち警戒区域を解かれたので入ってみたとき、駅前の「菓誌工房わたなべ」に「必ず小高で復活します」という看板が立っていました。たぶん店の主人は、これを書いて避難したのでしょう。私はこれを見て、強烈なインパクトが脳裏に焼き付きました。この「菓誌工房わたなべ」さんのために何かをしたいとかってに思いまして、小高区で料理教室をやろうと思いました。小高区は、当時まだ水も出ないのですが、第1回を2013年9月11日に開催しました。

「菓誌工房わたなべ」さんは、いまは原町区に店を移転させて継続されています。けっこう盛況ですね。水が出ないので、タンクで汲んでこないといけないことを想定して、できるだけ水を使わない料理ということでギョーザを作りました。このときも、私に料理を教えるスキルがあるわけではありません。また、考えました。

病院というところには、栄養士さんとか、料理が得意な人がけっこういるのですね。栄養士さんに、手伝っていただけませんかと言ったら、即「いいよ」と言ってくれました。原ノ町の人は、みんな気がいいというか優しいというか協力してくれるのですね。小高区役所にいついつやりますと言いました。水は出ないので汲んでいきますが、トイレは使えません。区役所は水が出るので、トイレは区役所を貸してくださいという話を進めました。

そうしたら、5日前に区役所から電話が掛かってきて、このときだけ水を出すようにしますと言ってくれて、会場で水が使えるようになりました。やればできるということですね。行政に対しては、無言のプレッシャーがいいですね。机をたたいて「どうしてくれるんですか」というのはあまりよろしくないです。「わかりました。でも私たちはやりますから」と声を荒げずに実行することで、行政というのは動いてくれるのかなと勉強になりました。

小高区には、避難してきたいろんな飲食店があります。そのマスターに一軒、一軒電話をして、小高区で料理教室をするので講師をしていただけませんかとお願いして、2か月に1回ぐらい展開しています。

純粋にごはんを作って食べて、楽しいですよね。南相馬市だけでなく、岩手や宮城でも料理教室を仮設でやっておられることが多いので、別に特別なことではありません。復興支援としては、定番といえば定番です。ただ、我々は旧警戒区域で、もともとそこで飲食店を営んできたご主人やおかみさんに来ていただいて、昔の味をみんなで楽しめるという仕掛けを考えました。

小高区出身で西 芳照さんという有名なシェフがおられます。サッカー日本代表の専属シェフなのですね。サムライブルーの料理人という本もあります。こんな有名な方が小高区におられるのだと思いお願いしましたら、このときはなんと60人ぐらいの参加がありました。もう会場に入りきれないぐらいです。小高区のポテンシャルもすごいなと感じました。

男とは?それはシャイでプライドの高い生き物であるということで、イベントをやるときは男性5人に対して女性1人ぐらいがちょうどいいです。女性5人、男性5人を集めて何かをやろうとしますと、たいがい女性の方が強いです。男は萎縮してしまいます。だからサロン活動などのイベントをやる場合には、男性5人に対して女性1人が入れば盛り上がります。

男性と何かをやろうとした場合、男はなかなかシャイなので、役割を与えないと活動できないということがあります。あとは「○○さん頼りにしてますよ」とか自尊心をくすぐることが大事です。例えば、木工教室で「○○さんちょっとこの材木を切ってください」なんて言うと「そうか」みたいな感じでやってくれたりします。

そして、作ったものがちゃんと公共施設に置かれて人の役に立っていることです。「あれはおれが作ったんだぜ」みたいなことで木工の技術がどんどんスキルアップしていきます。そういったことで、男性も活動的になっていくのではないかということを学びました。

これまで、コミュニティ創出活動の話をしてきました。最後に診療の話をします。私は神経内科医で、まさにここでの役割として難病患者さんをどうするかということに直面しています。

ALS患者さんは、この町には5人います。そのうち3人ぐらいを診ています。人工呼吸器を付けている人が1人います。そういう人に対してどうしょうかということで、大学病院ではけっしてやることはなかった在宅診療をやることにしました。ほとんどの南相馬市の総合病院は、震災後には在宅診療科があります。だから在宅をやる仲間がいました。だから私もすっと入り込めたのですが、その在宅診療科の先生と一緒に、神経内科に関して在宅診療をしています。

ただ、往診車がなかったのですね。先生たちは、みんな自分の車で往診に行くわけです。そうすると、事故を起こしたとき保険はどうするかという話になってしまうので、公用車が欲しいということになりました。

日産自動車に手紙を書きまして、車をくださいませんかとお願いしました。そうしたら、くれはしませんが、貸してあげると言われまして、日産リーフという電気自動車を持ってきてくれました。贈呈式がありまして、お偉いさんが来てでっかいカギを渡されたりして、ステッカーまで作ってくれました。これを今でも往診車として使っています。最初は1 年ぐらいリースという感じでした。それだけでもありがたかったのですが、1 年経ったら、もうめんどくさいからあげますと言われてもらってしまいました。

仮設住宅は密集してお住まいになられますので、インフルエンザとかが蔓延したらどうしょうもないと思いまして、インフルエンザの予防注射をボランティアで打ちに行く活動を始めました。これは毎年やっていて、今年もやりました。

やっと難病の話ですが、難病患者さんをどうやってケアをしていけばいいか悩みます。とりあえず、難病患者さんがどういう生活をしているのかというリサーチが必要です。患者会が2つあります。全国パーキンソン病友の会と認知症の人と家族の会です。残念ながら、この2つぐらいしかありません。一応、私も入会させていただいて、一緒に難病対策についてのような事業にも参画させていただいています。

つきつめると、全国どこでもそうだと思うのですが、介護士が足りないです。これは被災地にとっては、いかんともしがたい状況にあります。なぜならば、子育て世代のお母さんたちが避難していますから、介護士とかケアマネジャーさん、看護師がごっそり抜けてしまい、どうしょうもないあり様です。これはもう町で介護士を作りましょう、育てるしかないということで、そういった講座で講師をさせていただきました。あと、シルバー人材の復活です。リタイヤしても、元気なお父さんお母さんはいっぱいいますから、隠居する前に少し町のために働きませんかということをしていければいいなと思っています。

その他、いろいろです。私の活動範囲としては、ラジオのパーソナリティといいますか、コミュニティFMというミニ放送局ですが、ここで医療の実態についてなどのお話をしています。この町は、最近けっこう治安が悪いです。いろんな作業の人が入ってきてというと語弊がありますが、ありがたいことにいろんな人が復興のお手伝いに来ていただいて、ちょっとガラの悪い人もいたりして飲み屋さんで小競り合いのようなこともあります。

それでパトロールランニングをやりましょうということで、そういったチームを作りました。あとは、ものを書いたりするのが趣味なので、エッセイを出したりといったことをやりました。

南相馬市といえば『相馬の馬追』をご存じですか。初めて聞いたという人は、きょうは憶えてください。これは町の一大イベントです。7月にあります。馬に乗った武者が町を練り歩いたり、競馬をやったり侍のかっこうをしていろんなイベントをします。

私は馬に乗った経験はまったくといってありませんが、初めて馬追を見たときに、なるほどかっこいい、これはぜひ出るべしと思いました。とりあえず乗馬を習えるところを紹介していただき、冬の寒い雪の中、雨の時も練習をこなして出ました。2014年と2015年の2回、鎧を着て武者のかっこうをして馬に乗り町を歩きました。

平将門の時代に、将門が野生の馬を放ち、それを敵と見立てた軍事訓練をしたというのが最初の言い伝えです。しかし、それは大うそで、実際は400年ぐらいの歴史しかありませんが、その方がロマンがあるといことになっています。私もこの町でいろんな支援だけをしているのではなくて、自分でも楽しめることをしています。生きがいといってもいいかもしれません。今年も、馬追に出る準備をしていますから、楽しく南相馬で暮らしています。

まだまだ被災地で苦しんでいる方はいます。でも、たいへんだ、原発事故はまだ終わっていないのだと声高に言っても、けっこう都内の人は冷めています。あまりにも風化しています。だから辛いことだけを言ってもあまり共感を得られないというか、そういう時期は終わり、いまはけっこう充実して過ごし、楽しい町になってきているのですよということを、私はもう少しアピールしていきたいと思っています。

ご清聴ありがとうございました。

  • 木工教室や料理教室は、男性だけを対象にしているのでしょうか。
    実際には女性の参加者も多いです。ただ、アピールするときに「男性の」と付けないと男は来ないかなと思いました。最初から男女だれでもいいですよとすると、特に料理教室は圧倒的に女性が多くなります。だから「男の料理教室」という名前にして、女性も歓迎というようにしました。
  • なぜ、この地に来ようと思いましたか。
    大学では準教授という立場でしたが、この先なにがあるかなと思っていました。教授になるのは興味がありませんでした。だんだん管理的な立場になってきて、患者さんとは離れて病院の運営に携わるようになりました。それはそれで価値のあることですが、私にはどうなのかと、現場との隔たりを感じていました。そろそろ大学をやめようかなと思ったときに震災がありました。私は埼玉なのですが、埼玉に戻る前に福島かなと思い、一度見学に行ったらやはり医師が足りなくて、1年か2年ぐらいと思ったのですが、気が付けば4年いますが、まだ帰る気はないです。
講演中の小鷹先生(右端)と参加者

津波にあって

宮城県石巻市の被災患者(多発性硬化症) 鈴木 明美さん

鈴木と申します、よろしくお願いします。15分という時間で何を話そうかと小鷹先生のお話を聴きながら考えました。今まで4年間経験してきたことは尽きないのですが、きょうは仮設住宅にいたときのこと、そしていまは復興住宅にいるのですが、現在の状況をお話したいと思います。まず、仮設住宅に入ったのは震災の年の10月で一番最後でした。

これでもうおしまいというときに、障害者枠でも入れないし高齢者枠でも入れないし、私たちはどこに入れるのだろうと思っていたときに、キャンセルがあり入らないかと言われたところが石巻の仮設で一番いい場所でした。病院は近いし、銀行は近いし買い物も便利だというところです。それで、そこに行ったのはいいのですが、仮設により建てる会社が違うので他のところはどうか知りませんが、私のところはものすごく段差が多い住宅でした。

その段差を乗り越えるのに、這って歩いたりと本当にたいへんでした。あるとき、支援団体の方から、国からの通達で仮設住宅に入って不具合があった場合には公費で直していいというお知らせがあったと教えていただきました。その方が通達をコピーをしてくれて「鈴木さん、何年住むかわからないので、何かあったときにこれを出して自分の住みやすいように直してもらった方がいいよ」という話をされました。

しかし、役所に直してほしいと言ってもぜんぜん相手にしてくれなくて、あげくの果てには障害者手帳をお持ちですかと言われました。持っていますよと言うと、窓口の方がコピーをさせてくださいというので「何か必要なことがありますか」と言うと、障害を持っている人は障害福祉課で手続きをしてくれと言うのです。けど、実費だと思いますよと。「石巻ではみなさん実費でやってもらっています」と言われました。

そのときに、支援団体からもらった用紙を出して、実はこういうのが国から来ているのですけどご存じないですかと言ったら、窓口の人がびっくりしました。みんなで回し読みしているので、初めて見たようです。石巻では混乱していたのもあったのですが、それぐらい上からの通達が末端に届いていないことが多々ありました。

それで、交渉をして12月にやっとオッケーが出て、取りかかったのが翌年の1 月でした。あらゆる所に段差があったので、その段差を解消するのと手すりとお風呂。お風呂は、お湯と水の蛇口が別々だったのですが、少し感覚障害があるので、やけどしたら困ると思って混合弁に直してもらおうとしました。そしたら、ダメと言われましたが、本当はそれもオッケーだったのですね。

それをやってもらったときに、石巻市では公費で付けたのは初めてだったらしくて、とても貴重だというので市役所や地域のケアマネジャーらが写真を撮りにきました。何事だろうと思いましたが、それぐらい石巻は混乱していて、すったもんだの末、一応住みやすい仮設になりました。仮設住宅に行ってからは、だれも知り合いがいません。調子がいいときは、いまみたいに話をしたり歩いたりできますが、調子の悪いときはほとんど起きられない日があったり、記憶がはっきりしなくて思ったことをうまく話せなかったりと、いろいろと症状が出てきます。だれかサポートをしてくれる人が欲しかったのですが、周りは知らない人ばかりで、自分一人では外に出られないなという気持ちでいました。

とにかく自分のことをわかってもらわないと仮設では住めないと思いました。それから2年ぐらい、自分の病気のことを調子のいいときに言ってしまうと「この前はあんなに元気だったじゃない」と言われるので、午前中に調子が良くて午後から悪くなるときにイベントに行ったら、行くときは元気で帰りはもう歩けなくなっているので、その状態をだんだんとみんながわかってくれるようになりました。

最初は、あの人なんだか変だなという感じで、その内に病気を理解してくれる人が何人か出てくるようになりました。私より先に「明美ちゃん具合が悪そうだからその内に歩けなくなるよ」という感じで気づいてくれるようになりました。それで、とても過ごしやすくなりました。

仮設住宅にはいろんな不具合があり、二重サッシにしてみたり、断熱材を入れてみたり、カビが生えてくるので天井裏に換気扇を付けてみたり、すごいことばかりやっていたのですが、みんなに助けられてとても充実していました。

そうして4年半を過ごしました。そこでの生活にすっかり慣れてしまいましたが、復興住宅にあたりました。それも石巻の復興事業の目玉になる団地でした。これもたまたまなのですが、障害者用も一般用も落ちたのですが、キャンセルがあるから入らないかと言われて行ったところです。ちょっと想像がつかないかもしれませんが、2階だったのですが、それはエレベーターがあるからいいです。問題は家の前にベランダがあり、その前に通路があるのですね。その通路の前をみんなが通るので、それがすごく気になります。普通、2 階だったら調子の悪いときはパジャマのままでうろうろしていても気にならないのですが。

通路側には玄関があります。普通、玄関はベランダの反対側ですが、私たちが入っている石巻の復興の目玉になる団地はベランダ側の通路に玄関があります。だから、必ずだれかが歩きます。それがすごく不思議で、建てた会社に聞いてみました。そしたら、ここはもともと神奈川県の若い世代が入る団地だったらしいのですが、それがボツになったらしく、それを早く作りたい石巻がチョイスしたみたいです。

私はフラットな部屋でしたが、となりのおばあちゃんたちの部屋は、リビングダイニングが下にあり、階段があって2階に寝室があります。そういう部屋があったかと思えば、今度はダイニングキッチンが上にあり、おばあちゃんたちは上がったり下りたりしないといけません。私ではとても無理ですが、そういう部屋がいっぱいあります。一部屋ずつ違うというのは、神奈川県の施工主の話だと、ここは一戸建てのコンセプトだというのですね。

しかし、メゾネットタイプ(住戸内が2階以上に分かれるもの(複層住戸))に入ったおばあちゃんたちは結局断りますよね。そのキャンセルが、私たちみたいにどこにも行くところのない人にまわってきているわけです。私も、2階建てだったらキャンセルしたと思います。そういうことをぜんぜん考えないでやってみたりします。特別に石巻がそうだとは思いたくありませんが。

あと、同じ復興住宅でも、20年の借り上げがあります。神戸のときに失敗して2、3年前から騒いでいますよね。一人暮らしの80代のおばあちゃんたちが行くところがなくて。それを石巻で建てたのですよ。そこにいま、60代、70代の方が入っています。その方たちも20年後には90代になりますよね。どうするのだろうと何回もかけあったのですが、一市民の声としか聞いてもらえません。それどころか「あなたは病気を持っているといっても自分で歩けるし話もできるし、こうやって私たちのところに来られるじゃないですか。他の人のことなど気にしないで自分のことだけを考えなさい。いまは自分が大事」というのです。私は自分がいいからそれで終わりというのはすごく嫌なのです。残されたおばあちゃんたちや障害で車いすの方とかもおられるので、こういう人たちのことも考えていきたいです。仮設住宅ですごく失敗したので、どうして復興住宅では失敗しないようにと考えないのか不思議です。

けれど、そういうことは現地にいる私たちはわかりますが、まわりの方はりっぱな仮設からりっぱな復興住宅に移ってというニュースしか見ていないだろうと思い、きょうはそういった話をさせていただきました。石巻はそうした現状で、ちぐはぐな感じです。

そこに入りたくても、生活できないからキャンセルしていることをわかってもらいたいと思います。おばあちゃんたちが少しでも暮らしやすいようにと思い、微力ですがみんなと活動していますが、なかなか石巻の行政の人たちには届かないみたいで悲しい毎日を送っています。

福島原発被災の状況

浪江町の被災者 佐藤 正男さん

佐藤です。行政の人もたいへんだったと思いますが、阪神・淡路の経験がぜんぜん役に立っていないとつくづく感じました。今になってみれば、もう何を言っても仕方ありません。言えば、あなたらのひがみだととられます。行政など、資料をいっぱい持っているところは早く安全な場所に逃げたといいます。そうした資料が何もこないところは、放射線量の高い所、高い所へと逃げていきましたが、浪江はその典型的な例です。とりとめのない話になってしまいますが、震災から少し落ち着くぐらいまでの話をしたいと思います。

私の家は浪江町です。浪江町は、帰還困難区域、避難指示解除準備区域、居住制限区域にわかれています。私の家は、居住制限区域です。それは後になって線を引いたものです。震災のとき、私は群馬県の水上にいました。娘が2人目の子どもをお産するということで、向こうに着いてお茶を飲んでいたら地震がありテレビで放送されました。これはだめだと息子に電話をしたら、福島県の浜辺は全滅だという話になって、その日は泊まる予定でしたがとりあえず帰ろうということになりました。

群馬県を出ると、関越道は通行止めです。信号は点滅していたり、点灯すらしていません。17号線を下ると、群馬県に空っ風街道というのがあります。そこを通り渡良瀬街道を通って日光を抜けて4 号線に出てきました。信号が点灯していないので怖いです。スピードを落として、ぶつからないようにしていきました。須賀川や白河にきたら、ダムが壊れているのですね。地盤が悪くて4号線が通行止めになりました。今度は東に行って三春に出ました。向うを夕方の明るいうちに出たのですが、双葉町に着いたのは明け方でした。

そうしたら、双葉町の人たちは「もうだめだ」と言って288号線を通り郡山の方に向ってどんどん逃げていきます。私が双葉町に入るころ、後ろから救援の大型バスが大熊町や双葉町にどんどん入っていきます。協定を結んでいる所には、情報が入るのですね。浪江町には何もきません。FAXで送ったとか送らないとか、いまになって堂々巡りです。

浪江町に着いたら、浪江の人たちは地震で倒れたタンスなど、家を片付けています。それで原発は危ないということで、親戚が114号線に津島地区というのがありますが、そこに3 日ぐらいいました。いまにして思えば、一番線量の高かった所です。そして今度は原発が爆発しまして、これではだめだということで、とりあえず中通りに逃げようということになり、他の人が逃げた後に浪江の人が逃げました。

郡山に行っても受け入れてくれるところがありません。郡山のスポーツセンターでスクリーニングというのですか、体の線量を計り、そこで線量をあびている人は裸になってシャワーを浴びるという状況でした。

私らは県の農業センターに避難しろと言われ、そこに2週間ぐらいいました。本当は家族といたかったのですが、私は仕事を持っていました。浜通りに仮設住宅を作るということで応援にきてといわれ、新地・相馬の方に行きました。原ノ町のホテルから行くのですが、朝6 号線を通ると、戦争みたいに一番最初に自衛隊のバイク隊が来て、その次に6輪の装甲車が来ます。機関銃を外しているだけです。次に大型のトラックやトレーラー、そして一番後ろに衛生班の赤十字の付いたジープが付いていきます。そういうのを見ながら仕事をして、週末は郡山に帰る生活をしていました。

そして今度は、浪江町の人は土湯とか猪苗代に避難しろと言われました。私たちは猪苗代のホテルにいたのですが、親父ががんを患ったあとで、体調を崩して猪苗代の病院に入院しました。次に、相馬に大野台というのがありますが、そこの仮設住宅に入ろうということになりました。しかし、私は仕事をしている関係で仮設は無理だということになり、ツテをたどって借上げをみつけ、そこに入って家族とバラバラになりました。その頃は夫婦関係もおかしくなり、刃物を持ち出すとか眠れないとかね。すごい状況でした。

頭もおかしくなって薬を飲まないと眠れないとか食べられないという感じでした。でも、仕事はしないといけないというか、総理大臣命令だということで仮設住宅の建設工事をしていました。新地町の仮設が終わった後は白河市をやって船引町をやりました。その頃は2週間ぐらい、食べられなくて眠れず、目つきもへんになり6キロぐらい体重が減りました。

それでも何もやらないよりはいいだろうと、病院やホテルを復興させる仕事や老人施設などをまわっていました。相馬市に飛天というホテルがあります。天皇陛下も泊まったほどのホテルですが、玄関に自衛隊や死人の回収作業をする人の長靴が並べてあったのには驚きました。

それからずっと家族とは別れ別れで、1か月も連絡しないとか、感覚が違ってくるので会えば喧嘩になります。そのころ私は犬を置いてきました。その犬のことが気になり、犬の話をすると、家族と犬とどちらが大事なのと喧嘩が始まります。酒に酔いながら帰ってくるとかね。このまま離婚してもいいかなと思いました。

そして1年が過ぎたころ、小鷹先生と会うことができました。昔から山歩きと魚釣りが好きだったので、先生や知り合いの方と山歩きなどをしました。昔の友だちは中通りに行ってしまい、私は浜通りでポツンと独りぼっちになり、仕事が生きがい、仕事が趣味といった生活をしていました。いまになって引きこもりとか言っていますが、私は自分の震災後1、2年の経験から、こうなるだろうということはだいたいわかっていました。なぜ阪神淡路大震災の教訓が生かされなかったのだろうと思いました。

浪江町の役場は二本松にあるので、現実を見ないで遠くから理想論だけです。ある人が浪江で野菜を作り始めると、町や県とか農協が反対してきました。でも、その人がテレビに出るようになると、否定できなくなりました。有名になると、今後は町や県、農協が後ろ盾になるという感じです。

その後、少しずつ落ち着いてきましたが、今度は薬依存症になってしまいました。薬を飲まないと夜中に目が覚めるような気がして、薬を飲むとほっとして寝られるという感じで、いまは3種類を飲んでいます。みんなに会うと何を飲んでいるかと、薬の自慢話になります。震災前には考えられなかったことです。

犬は、震災直後においていかれたということがあるので、朝、私が会社に行くときは寂しい顔をします。今度、帰ってくると本当に喜びます。自分にとっては、家は新しくなりましたが、精神的にも落ち着いてきて、これでかまわないのかぁという気持ちです。かみさんも、だんだんわかってきたみたいです。かみさんは、仮設ではみんなでわいわいとやっていましたが、仮設を離れるとやることがなくなってしまいました。毎日、いろんな理由をつけて仮設に行きます。やっぱり、先ほど小鷹先生が言った、楽しみとかをこれからどのようにうまくやっていくかです。

仮設で仲良くなっても、復興住宅は抽選で新しいところにいくから、またばらばらになります。新しい家をつくっても、そこに知っている人がだれもいないから、また仮設の知り合いなどに会いにいくしかありません。そういうところを、これから国や行政がどのように考えてくれるかです。もう、浪江には帰れないですからね。

私の健康年齢でいくと、人生はあと10年か15年です。そのなかで楽しく死んでいきたいという感じです。息子はまだ独身で転勤族ですが、息子には言った言葉が一つだけあります。お墓と仏壇だけは、どこに行っても守ってくれと頼みました。

仕事はいくらでもありますから、仕事をしているときは楽しいです。家に帰ったら犬と遊んで横になってテレビを観て、それが一番のいこいなのかなぁという気がします。贅沢といえば贅沢かもしれません。ただ、故郷とかすべてを否定されてしまった町ですからね。以上です。

[第4回] 3.11東日本大震災福島を肌で感じるツアー
被災された方の話を聞く会

講演日
2016年3月13日(日)
会 場
キャピタルホテル1000(岩手県陸前高田市)
講演者
陸前高田市の被災者 佐藤 明(さとうあきら)さん (盛岡市在住)
補 足
岩手県難病・疾病団体連絡協議会 代表理事 千葉 健一さん

佐藤明と申します。難病連には直接かかわっていなかったのですが、千葉健一代表とはあるボランティア団体でお世話になっておりまして、もともとはこっちの出身なのですが、そのつながりできょうは体験談を少しお話させていただきたいと思います。よろしくお願いします。

私は陸前高田市の出身で、距離的にもここから歩いて10分ぐらいのところに住んでいました。大きなマンションみたいな災害公営住宅がありますが、その向こう側です。海岸から250メートルぐらいの距離にいたのですが、沿岸部に住んでいる者は親代々、子どものころから地震イコール津波という意識があります。今回の大きな揺れは尋常ではなかったし、停電というのは初めての経験ですから、これは異常だという認識で揺れが収まってすぐに逃げました。それで助かってここにいるということでございます。

私は自営業で鍼灸マッサージの治療院をしているのですが、あの日はちょうど患者さんの治療が終わりお会計をしている最中に揺れがきました。物はいっせいに落ちるし停電はするのでびっくりしました。自宅が同じ敷地にあり、まず母屋で暮らしている両親の様子を見にいったら無事でした。たまたま上の息子の仕事が非番で家にいたのですね。それが幸いして、息子の車に両親を乗せて避難所に逃げるように言いました。私は視力障害の弱視なので、家内の車に乗せられて逃げました。

意外と自分の想定というか、地震が来たら津波をイメージしていました。子どもの頃から何十回と地震に遭っていましたし、これほどのレベルではないにしても津波の経験も3、4回ほどしています。父親は大正15年生まれなので、昭和8年の三陸津波や昭和35年のチリ地震津波を経験して逃げています。今回は3回目だったので、3回も生き延びた運の強い親ですが、高齢による心配もあり即避難ということでした。

私自身も意外と冷静で、携帯電話と充電器、それからラジオと電池、デジカメを入れて丁寧に玄関のカギをかけました。あとで帰ってから片付けるつもりでしたから、自分の物には手を付けませんでした。私は業界の役員も務めており、そちらの預かり金があったのでそれは持ちました。不思議と自分のお金を持たなくても、人様のお金は持つのですね。停電でレジが開かなくなったというのもありますが、そんな状況でした。

その日の夜はラジオを聴いていると、陸前高田市は壊滅の模様であるとアナウンスされるのですが、壊滅ってどういうことかイメージがわかないのですね。明るいうちは町内の仲間たちが、とても異常なことだといった話など、見聞してきた様子を伝えてくれます。暗くなると気仙沼の町が赤くなり、どうも火事らしいのです。空が赤いのですね。あとで知ったわけですが、ご存じの通り気仙沼は火の海といった状況でした。

ラジオを聴くとおびただしい遺体というのですが、想像がつきません。私の町内会は77世帯あり、高台の7世帯は無事で、平地の70世帯は全部流れました。1世帯2、3人として200人前後の住民がいたのですが、その中の18人が亡くなりました。1割弱になります。

夜はとにかく寒いのです。女性や子どもは和室にいて、緊急避難用の毛布などがあり、ストーブで暖をとれます。男どもはホールとか会議室です。反射式ストーブに車座になったりしますが、床がコンクリートですから寒いのです。それで思いついたのが、ビニールのゴミ袋を履くとなんとか足元が温かくなりました。そうやって朝まで寝ようと思うのですが、寝られないのですね。そうして一夜を明かしました。その日は、小さなおにぎりを口に入れられました。

私は町内会の総務部長という役員をしておりましたが、震災の3、4年前から行政主導で防災組織を作り、避難所に食料の備蓄等を更新する担当でした。それでかたちだけですが、1箱のインスタントラーメン等を更新していました。ちょうど震災の1年前に、チリ地震津波警報というのがありました。そのときも朝から夜までみんなで避難しました。そういう経験があり、食料の備蓄をもっと増やした方がいいのではといった意見もあったので、少し増やしておきました。また、各家から毛布を寄付してもらって、避難所にストックしておきました。石油ストーブも新しいものを買っておきました。

昭和35年のチリ地震津波以降、毎年5月には避難訓練をしていました。町内会全体で訓練をしていましたから、それは図らずも幸いしたようです。あそこに逃げればいいという意識をみんながもったのですね。毎年行っている訓練に参加しなかった人は、申し訳ないですが亡くなっています。常日頃から、なにかあったらあそこに逃げようという意識がないと、とっさのときに思い浮かびません。訓練していたから助かりました。ましてや町内会の役員なので、訓練には率先して参加しないといけないということもありました。訓練は大事だといまになって思っています。

町内の本体は、大きな公民館に避難していますが、二晩目からは氷上山ヒカミサンという山があるのですが、たまたま私は不思議なめぐりあわせでそこの小さな集落の公民館に避難しました。そこで私の家族は3週間過ごしました。それで助かった命なので、生きなければならないという明確な意識が出た感じがしました。6人家族の柱として、守っていかなければならないという意識が自然とありました。

その日を暮らすにはどうすればいいか。とりあえず食べ物と水ですね。すぐに支援物質が入ってきたので、本当にありがたいことでした。食べ物には事欠かなかったので、あとは着る物とか衛生ですね。

私ら家族が寝泊まりしていたのは、いわゆるダイニングキッチンみたいなところで、床はフローリングに薄いカーペットが敷いてありました。そこに座布団を並べて寝たり、毛布を3 枚ぐらい重ねて寝ましたが寒いのですね。3日目から自衛隊さんが入り、1 週間ぐらい経って布団が支援物質で届きました。布団を敷いて寝たら温かいのです。綿の布団がこんなに温かいものだとしみじみ思いました。ただ、朝布団をたたむと、下から冷気が入り体温とでじめじめするのですが、和式布団の温かさに感動でした。

どんどん支援物質が入ってくるので、部屋がいっぱいになってきました。高台では、家は無事でも被災しています。店にはなにもないので、地域の人たちにも配らなければならないということになりました。しかし、こちらも腰が痛くなったりで、荷物を受け渡しする体力がありません。ここには2家族しかいなくて、もう一家族の方はご夫婦とも学校の先生で、仕事があるので日中はいないし子どもは小さな女の子2人です。私のところには、中学を卒業したばかりの息子がいたし、あとは年寄りの両親と女房ですが、結局わたしが事務局長みたいなことをやりました。

もう一家族のご主人は高田高校の先生で、奥様は2番目の息子が小学校5年のときの担任だったこともあり、このご夫婦には息子の進学のことで助言をいただくなどお世話になり、天の計らいかと思いました。そうこうして、県の方から温泉に二次避難をしてはどうですかと声を掛けられ、岩手の内陸で秋田との県境になる西和賀町にお世話になりました。

3月末の段階で、ようやく携帯電話がつながるようになりました。先のことは考えられず、どうしたらいいのかわからない状態でした。その日を生きるのに精いっぱいです。あるとき、盛岡の業界の仲間から、盛岡に出てこないかという言葉をもらいました。「あっそうか盛岡もいいな」と直感が働いたのですね。それで盛岡に、一家6人で移住することを決めました。

ただ、息子は震災2日前の3月9日に、高田高校を受験して合格していました。それで高田高校に行きたいという息子を説得して、盛岡の高校を探すことにしました。通常では難しいのですが、特例ですね。一家6人で転住することであれば大丈夫といってもらい、4月の半ばには盛岡の高校の面接と入学式がありました。そのときに私と家内は西和賀町から1時間半ぐらいかけて盛岡に出ていき、家探しをしました。仕事柄治療院を併設する間取りを考えた上で、6人家族なので少し大きな家を決めて4月の末に引っ越ししました。5月末にはある程度治療院のかたちを整えて、開設できる状態にしました。早く日常を取り戻したいと相当急ぎました。

当時、千葉健一先生は市会議員をされていて、ウチの業界の外部監事をしていただいていたものですから、私のところにすぐに飛んできてくださいました。役所に行ったり支援物質のことなどで親身になっていろいろと動いていただき、お世話してくださいました。それがあったので、盛岡での生活が比較的スムーズに始めることができたのかと感謝しております。

それから7月頃になって、被災地復興支援のボランティア団体を立ち上げるので体験談を話してくれということになり、会の事務局も少し手伝ってくれという話になりました。私は、仕事も落ち着かないし内心は厳しいなと思いました。結果としては事務局長ということで、会の活動をさせてもらっていますが、自分の仕事と生活を思いながらも、なにか協力したいという気持ちがすごくありました。なにができるのか考えていたとき、内陸に避難された方は何千人とおられます。一時は3 千人とも4 千人ともいわれていましたが、そういう方々がネットワークというか交流できる場をつくればいいのではという話になりました。さっそく交流会を企画しまして、第1 回目は講師に鳥羽太市長(陸前高田市)にお話をしていただきました。一般市民も含め60人ぐらいの参加があり盛会でした。

こうした活動からコミュニティをつくり、励まし合っていけないかという思いから交流会を3 回程度行いました。ところが元気の良い人ばかりではなく、どちらかというと家に引きこもっていたいという人の方が多いみたいで、なかなかそうした場所に出てきてもらえない現実がありました。私は声を掛けられると、どこにでも飛んで行くような感じでいたのですが。

私は全部なくしましたが、命だけは助かりました。前向きに明日に向かって生き、家族を守らないといけない、息子に教育を受けさせなければならない、親は高齢で弱ってきている、働かないといけないというのがあったので、落ち込んでいる暇なんかなかったのですね。それでまったく知らないところにぽんと行ったわけですから。名刺を配ったりしましたが、なかなか患者さんも増えなくて、正直なところ苦労していました。たまたま家内が盛岡出身で親戚・縁者が何件かあり、精神的なよりどころにはなっていましたが、直接支援を求めて行ったわけではありません。

自分たちで生きていこう。やり直しというか、生きなおしという気合だけは高かったです。その活動力になったのが、仕事以外の地域活動のボランティアでした。新しい人たちと、積極的に交流を増やしていきたいという思いがあり、その糸口というかきっかけをくださったのが千葉健一先生です。ボランティア活動でいろいろな方との交流も増え、いろんな経験もさせていただきました。その一つの例が歌声喫茶です。日曜日にバンドに来てもらい、歌の好きな方々、地域の方々を招いてみんなで合唱するのですね。声を出すと元気になります。

アラマキツトムさんという方を招いて、盛岡県民会館でコンサートを開いたときは、満席になってアラマキさんの声に感動して最後はみんなで泣いたという感動的なステージになりました。私は運営面で協力させていただきましたが、やっぱり歌は良いと思いました。

「ここです」と、陸前高田の自宅跡を指さす佐藤さん。
土地はすでに市に買い取ってもらったという。
津波到達地点に、桜の苗木を植える活動をしている団体がありますが、その方々が桜を植えているドキュメンタリー映画があります。短編の短い映画ですが、その自主上映会に取り組みました。内陸の盛岡が第1 号でやりましたが、これも大成功に終わり防災意識を日ごろからもってほしいということを訴えました。映画を作った方や桜を植えている団体の代表の方がお話をされて、みんなすごく感動しました。やっぱり防災意識って大事だよねということで、自主上映会と講演会は3 回行われましたが、私どもの活動が先駆けて成功したことが次の上映会につながったかなと、内心喜んでいるところです。

それから、現地に直接出向いて苗木を植えたいということで、私の参加しているボランティア団体のメンバー8名が最初に行ったのは一昨年の11月です。私は故郷に帰り、直接こういったお手伝いができたことに、私自身の中ですごく感動しました。桜を植えるのは3月か11月がいいそうですが、昨年の12月に訪問したときは、ちょうど安倍晋三総理の被災地訪問と一緒になりました。

そんなこんなで、ボランティアをすることが仕事でも役に立ったし、自分の生活にも張り合いになっています。正直なところ、仕事面では震災前の半分にもなっていないのが数字的には実情です。本当のところ厳しいです。しかし、2番目の息子が高校を卒業して4月から大学の3年生になります。息子は小さいときから、お父さんのあとをついで鍼灸マッサージをやると言っていたのですが、医学の勉強になるからといまは大学の看護学部にいっています。自営業もなかなか厳しい所もありますから、将来的には病院等の現場に入ってもらえばと、親心としては思っています。

あと2年間は盛岡でがんばるという気持ちで現在はおり、その後は未定です。よく聞かれるのです。「この先どうするの」と。正直、返事に困ります。戻りたい気持ちはありますが、まだ戻れない状態です。土は盛りましたが、かさ上げが終わるのは3年後です。いちばん早い所では今年の11月から建物が建てられるようになるらしいですが、かさ上げが終わり建物が立って商店街や町並みが見えて、大分とできてきたと実感がともなうのは5年後になってしまいます。いろんな事情があるのでしょうが、想像以上に時間が掛かります。いま生活が成り立っている盛岡で生きていくしかないというのが実感でありまして、複雑です。盛岡の人たちからは残ってほしいと言われるし、高田の前の患者さんからは戻ってきてと言われるし、どちらもそうしたいのですけどね。

震災を忘れないでほしいというのは、ずっと言ってきました。けど本音では、少し忘れたいなという思いも出てきました。そういつまでもこだわっていられないという実感も出てきて、みなさんには忘れないでほしい、自分は少し忘れたいといった複雑な心境です。

私が今日ここでお話したかったのは、最初に言ったことですが、どこでなにが起こるかわからないということです。津波だけではなく、火山、大雨による洪水あるいは火事だとか交通災害など、どこでなにが起こるかわかりません。そうした現実のなかで、危険を察知する感性というか本能や直感力。今回のことだって右に行けば助かり、左に行って亡くなったという話があります。その瞬間が分けてしまいます。

常日頃から安全に避難するところ、少なくとも家族と落ち合う場所を決めておくとか防災グッズの準備など、一人ひとりの心掛けが必ず身を救ってくれるということを、私の体験からも思います。こういった機会をいただいたときは、普段からの心掛けが生死を分ける局面になるのではないかということをお話させていただいています。

ありがとうございました。

千葉 健一さん
(岩手県難病・疾病団体連絡協議会 代表理事)

陸前高田市は、ほんとうに美しい町でした。数千本の松林がございまして、初心者でも泳げる長い砂浜がありました。私たちは、子どもを毎年のようにここに連れてきては思い出を刻んでいたのです。ところが、ご覧のようにすべてが奪い取られました。

陸前高田市だけでも行方不明者も入れて1,800人ぐらいが亡くなりました。私の友だちも命を失っていますが、逃げられなかったのか、逃げなかったのか。私の友だちの場合は、高齢のおじいさんをかかえていました。おそらく、その人を見捨てることができないで、そのままどうしたらいいかと迷っている間に波にさらわれたものと思うのです。逃げられなかった人、逃げなかった人というのは、ここまでは来ないだろうと。なにしろ津波は海から3キロも4キロも新幹線以上の速さで侵入してくるわけですから。本当に経験した人でなければ、この恐ろしさはわからないと思います。

いまも話がありましたように、昭和8年に大きな津波があって住民には毎年避難訓練をするなど、かなり徹底していたはずなのです。それでも逃げなかった、逃げられなかった人たちが大勢いたという事実。そのなかには、障害をもった人たち、それから病気の人たちがずいぶんいたということです。割合でいえば、普通の方々の倍以上がお亡くなりになっているのではないかと思っております。

きょうこられました佐藤さんは、一家6人で盛岡になに一つなくやってきました。全部失っています。そのなかで持っている技術をいかして仕事を始められて、ともかくも軌道に乗っているわけですが、それだけにとどまりません。盛岡には1,500人ぐらいの方々が避難しています。彼は、同じような状況にある人たちのためになにかできないか。被災した人たちの心の支えになることはできないかということで、みなさんを集めて現地で健康相談を行ったりしています。自分が被災して生きるのが精いっぱいなのに、このような人がいるということをみなさんに知っていただきたかったことが一つでございます。

また、佐藤さんのように廃墟のなかで一生懸命がんばっている人たちもいますが、一方ではすっかり人生に絶望して、この間も岩手県で孤独死がございました。そういうことが仮設住宅のなかで連鎖的におこっています。こういったこともご理解いただきまして、これからも政府などに対しましては特に強い要望をお願い申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

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