現地の患者・家族の会の活動等

福島県難病団体連絡協議会

東日本大震災から10 年、当時を振り返ると福島県は地震被害に追いかぶさるように原発事故による放射能被害があり、少し経ってからは風評被害もあった。そして食料不足はもとよりガソリンや灯油といった燃料の不足、さらに病院も被災したうえに薬局も閉鎖され、患者にとってはまさに大変な状況だった。

福島県難病連も震災により活動は思うようにできず、対応は加盟する患者会ごとにとっていただかざるを得なかった。会員のなかには一次避難、二次避難をされている方も多く、安否確認も完全にはできず会費を免除する患者会もあった。

<主な患者会の対応>

福島県腎臓病協議会では、震災直後の対応として「福島県の透析患者さんへ」と題したチラシを2011年3月から5月の間に10回配布。会員だけではなく約5,000名の全透析患者に配った。行政に対しては3月24日に県地域医療課、災害対策本部に「ガソリン不足解消の件」で要望書を提出。さらに7月15日までの6回にわたり「避難所の患者の透析医療の確保」「避難所にいる患者への食事指導、栄養確保」「避難所にいる患者への通院確保」「南相馬市の透析施設の再開」などを求めた要望書を提出すると共に、県議会各会派、マスコミに対して要望内容の説明を行った。また本県選出の国会議員を通して、水の補給のため自衛隊の出動を県知事に依頼してもらうことを確認した。個別の対応としては、避難中の透析患者からの連絡があれば随時、相談に乗るとともに、県内で透析ができる施設を紹介した。

日本ALS協会福島県支部では、東京事務局より会員の安否確認の指示があり、支部長、副支部長が手分けして役員の安否確認を行った。次に会員の安否確認を行ったが電話が通じなくなり断念。その後、本部に対して会費免除申請をした。

福島事務局では、役員が県内外の避難者から受けた相談事例を各県の支部長等と協議、リウマチ専門医師の紹介や避難先の地元会員からの情報を被災会員に伝えるなどの対応をとった。こうした活動では、友の会組織の連絡網がとても役立った。

全国膠原病友の会福島県支部では安否確認の他、通常の服用薬が手に入らないということもあり、災害時の薬(ステロイド剤など)の飲み方を本部の機関誌「膠原」2011年臨時号で解説した。これは後に「膠原病手帳」(自分の症状などを記入でき、本人の意識がなくても状態がわかる)から緊急医療支援手帳の発行へとつながった。

患者会を問わず、震災後福島県の避難者は約16万5000人(2012.5)、現在でも約4万2000人(2019.7)の方が避難しており、このうち県内への避難者は約1万人、県外へは3万1000人の方が避難している。今でも帰宅困難区域の方は自宅へ帰ることができない。

福島県難病団体連絡協議会 前会長 渡邊善広

【福島を肌で感じるツアースタッフとしての感想】

東日本大震災から約10年、多くの方が地震の被害、津波の被害、原発の被害にあった。復興が急ピッチで進んでいるが、震災前のような生活には完全に戻れない。原発被害のあった地域では、毎年の視察で散見したフレコンパック(汚染土の入った袋)もだんだんと少なくなった。相変わらず、汚染地域から中間貯蔵施設に輸送する大型ダンプが走っているが、あと数年で完了すると思う。しかし、中間貯蔵施設であって最終処理場ではない。

現在、日本の稼働中の原発が9カ所、これから稼働しようとしている原発が18 カ所と日本全国27カ所もの原発がある。10年経ってもまだ中間貯蔵施設の汚染土、原発敷地内の汚染水の問題は解決していない。もちろん原発本体の処理もできていない。せめて福島の原発問題を解決してから再稼働を考えてもらいたい。稼働している原発に100%の安全はない。絶対に第二の福島を作ってはいけないと思う。

最後に「福島ツアー」を企画していただいたJPAの方々、岩手県・宮城県難病連の方々、一緒に参加していただいた方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。

渡邊 善広

東日本大震災におけるMPC(宮城県患者・家族団体連絡協議会)の取り組み

あれから9 年半がすぎ、悲惨な光景は忘れようにも忘れられない鮮明な記憶だが、自分たちの行動を「記憶する余裕」はなかった。そもそもMPCとしての組織的な活動はなく加盟団体、MPC役員等が、それぞれにできることを無我夢中で取り組んでいただけだった。これまでもこうした記録を残す取り組みの中で、その都度、改めてなぞり思い出していた。

私の職場の人々(重度の障害のある人々)の生活を立て直し、物資等の確保を終えた10 日後から、ようやくMPCに加盟する難病及び慢性疾患の人々そのご家族を回り始めた。加盟団体の中には宮城県腎臓病患者連絡協議会などのように全国レベルでの支援を展開されているところもあった。そこで、小規模な団体で個人的に交友がある人、その方の知り合い等で、被災地域にお住まいの方をリストアップしながら、次々と訪ね安否確認と手に入れた物資をお持ちすることにした。その間にも無事を確認できた方もいて最終的に要確認リストとしては、30名ほどとなった。

被災地(宮城県沿岸部)を気仙沼から順に回り始めた。その結果、津波に呑まれて亡くなった方が5名。自宅が被災し住めなくなった方も5家族おられた。それ以外の方の無事を確認したが、自宅での生活に不安を覚えている方や、精神的に大きなショックを受けた方など、そのままにしておけない人も少なくなった。まずは、被災した5家族の方を中心に支援物資を継続的に送り届けることに集中した。5家族とも、自宅が被災しているが避難所で暮らせない事情を抱えておられた方々だった。中には非常に危険な建物の中で暮らす方、自宅は無事でもライフラインを絶たれている方、周囲の方々へ迷惑をかける、周囲に理解されないなど、共通した事情を合わせ持つ方々だった。

それらの方々に共通していたのが、避難所にいないために情報や物資が届かず、忘れられた存在になっていることだ。そして、病気の有無に関わらず近所に同様に自宅で過ごす、近所の方々がいることだ。物資はそういう方々に分けるとのことで、できる限りたくさんお持ちするようにした。ほぼ毎週1回、5人の方のところに伺い、必要な物資をお届けしながら、状態確認をさせて頂いた。

こうした関係性を大事にしながら、地域で生きて来られたことを痛切に感じた。石巻市(2か所)、七ヶ浜町、名取市、亘理町は、仙台市とは違い、震災前から支援体制・資源が脆弱だったこともあり、支援が行き届かない地域だった。

難病や慢性疾患特有の定期受診・服薬、環境整備に配慮した支援は後回しになっていた。保健師の巡回に出会ったことがあるが、他県から派遣され、担当として割り当てられたが、リサーチが出来ず、表面的な訪問で終わっていた。その保健師を責めることはできないが、訴えは届かなかった。

物資以外では、ひとり暮らしの方を仙台にお連れしてのリフレッシュはあったが、わずか数日でも家を離れることができない方や、ご家族も一緒となると簡単ではなかった。当時のセンター相談員は、自転車の荷台に荷物を積んで安否確認に向かう等の活動をしていた。

現在、MPCでは仙台市薬剤師会との連携、災害時個別支援計画の策定と、それに伴うネットワーク作りを進めている。

NPO 法人宮城県患者・家族団体連絡協議会 白江浩

東日本大震災、あれから10年の月日が流れ今でも、ふとした日常の中で、一瞬にあの日に体も心も戻る苦しい時間が有ります。宮城県難病相談支援センターの相談員、MPC で共に活動していた加盟団体の方々には多くの支援を頂きました。当時、石巻には福祉避難所は無く近くの避難所は、視覚障害で身体介護を必要とする私には安心して居られる場所では有りませんでした。みんな自分の事で精一杯の時、壁に貼ってあったらしい情報はなに1つ入らず人の手を借りるのも遠慮して主人が探しに来てくれるのを待つだけでした。主人と共に被災した自宅二階で避難生活をせざるを得なかったのです。行政からの支援が給水だけだったので、迅速に支援団体と繋げてくれた相談員とMPCの仲間達が頼りだったと言っても過言では有りません。患者会の意義をあれほど感じた時は有りませんでした。

石巻在住 多発性硬化症 鈴木明美

MPCの事務所風景 各団体の活動

岩手県難病連と難病相談支援センターの取り組み

1. 震災直後2011年3月~

岩手県難病連は、いち早く活動を開始したが、電話の不通、道路の破壊により、被災地の状況が皆目把握できない状況であった。こうした状況の中で3月20日以降やっと現地に入り始め、3月中は、避難所を中心に灯油や生活物資の緊急輸送を行った。

会員の安否確認等にも奔走したが、市町村役場及び各保健所は機能不能な状況であり、消息がつかめなかった。

当初、避難所には身体障害者や難病患者も避難していたが、集団の生活に困難をきたし、知人宅などに移動する方も多かった。

衛星電話等の配置が急遽進められたが、現地からの通話は、一人30秒以内というような制約があり、意思疎通が思うように機能しなかった。

その中で、3月末から4月上旬にかけて徐々に難病支援センターに情報が寄せられるようになり、体調を崩した方々の医療的ケア、病院搬送、薬品の補充など少しずつ支援が拡大されてきた。

4月初旬からは、全国的に支援の輪が拡大され、大量の支援物資が岩手県庁等に届けられ、岩手県並びにボランティア組織と連携しながら避難所への支援や搬送を行った。

4月下旬ころには、情報網が改善され、患者個々から必要な生活物資の依頼等が寄せられ、その都度訪問し直接お届けするように努めてきた。月に2~3回のペースで、支援物資をお届けしたり、声がけをしてきた。宅配業者は寝具等かさばるものは受け付けなかった。

岩手県難病連には、たくさんの支援金をお寄せいただき、支援金の総額は約400万円にもなった。全国身体障害者施設協議会や(財)愛知難病救済基金、中国江蘇省演芸集団チャリティー公演や各県難病連等合計7団体、27名の個人の方々に心からお礼を申し上げたい。皆様から頂いた御好意を、死亡者のご家族、被災者の皆さんにお見舞い金としてお届けした。

10月になって、各団体を通じて安否確認調査を行ったところ、会員の死亡者は11名、家屋被災は126世帯であることが判明した。その後の岩手県の調べによれば、沿岸部の3・11後の医療費受給者証の資格喪失者は37名とのことであった。

亡くなった一人、筋ジストロフィーを患い車いすの彼について、震災から3週間目頃に親戚の方から連絡をいただいた。彼は両親と共に避難している最中に被災。津波と火災で家族3人ともすべて亡くなられた。「それらしい遺体を発見したが、判別が困難な状態で、DNA鑑定に委ねられている。葬儀に使用する写真がない。遺影となる写真はありませんか」と連絡があった。津波で思い出の詰まったアルバムを失い、記憶のすべてまでもが奪われるような恐怖と不安に駆られていた。震災から1か月あまりすぎた日、遺体の鑑定結果が確定し、葬儀が行われた。祭壇には1年前親子3人で患者会行事に参加した時のスナップ写真を基に、笑顔の遺影を掲げ茶毘に付された。

また、ある内陸の住宅地では、今回の震災で停電と断水の為地域の集会所に避難して、共同炊事などを始めたが、一人暮らしで足の不自由な高齢者や、障がい者を抱える家族はその集会所に参加しなかった。参加しなかったというよりも、皆に負担や迷惑をかけるなどの遠慮と、急ごしらえの場所で、参加できなかったとしていた。

その後、その集会所に参加しなかった家族に対して偏見やべっ視があり、障がい者や体の不自由な人に対する理解のなさに悩んでいるとの声も聞かれた。被災から逃れた私たちは、たとえ不自由な体でも「生かされた命」であり精一杯に生きていこうと思います。との体験談も聞かれた。

2. 明らかになった課題

「備え」に対する課題

岩手県は数年前から要援護者支援や難病患者支援マニュアルの作成に努めてきたが、実際に市町村に浸透してはおらず、身体障害者・難病患者等に対する援護体制が不十分であった。

また、過度の個人情報保護法案にしばられ、本人や家族だけでは対応できない難病患者に対する支援チームは、不備の状態であった。

「津波てんでんこ」と言われるが、自力避難困難者、あるいはそれが不可能な身体障害者・難病患者の避難の在り方がさらに検証されなければならない。

避難所に指定されていたところが喪失したり、避難経路が寸断されたりして避難が困難であった例も報告されている。

また避難所は、高台にある学校の体育館等がすし詰めの状態であった。もちろん、バリアフリーとなっていないし、車いすトイレなども不備であった。各市町村とも、弱者にも対応できる施設設備などは、ほとんど整備されてこなかった。

医療体系の課題

医療施設は大方が流出し、避難生活の中で体調を崩したり、病気が進行したりして、避難所で亡くなられた方もおられた。

一方では、内陸部の医療機関の連携プレーにより、多くの命が救われたことも事実である。また、自衛隊によるヘリコプター輸送等も行われた。

腎臓透析患者は、移動が不可能であったことに加え、かかりつけ医が亡くなったことも重なったため、岩手県に緊急要請し、新たな透析病院の確保に至った。

生活支援の課題

避難者には、長い不自由な避難所生活が続いた後、仮設住宅が建設された。仮設住宅は、狭隘の上バリアフリーからほど遠い状況である。あくまでも、一時的な住まいであるとはいえ、難病患者や身体障害者は、不便な地に建設され、生活しにくい状況にあり、民間アパートや遠隔地の知人を頼って移転していった方も多い。個人宅に避難した場合は、支援物資は一切配布されなかった。

釜石市

震災発生後の12月には、被災者の方々からアンケートに応えていただいた。その中から、地震や津波発生時の被災実態が漸次明らかになった。

東日本大震災・被災難病患者アンケート調査(岩手県難病連の調査報告)
 (平成23年12月)

岩手県難病連は、被災された会員115名を対象にアンケート調査を実施し、108人(回答率94%)の方々から回答をいただいた。回答については以下の通り。

被災状況
  • 家が全壊した59名
  • 家が半壊した12名
  • 浸水した7名
  • 家財を失った13名
  • 家族を失った7名
  • 車を失った5名
被災時の体調
  • 体調を崩した32名
  • 寝込んだ3名
  • 具合が悪かった15名
  • 眠れなかった39名
  • 入院した12名
  • 特に変化がなかった28名
12月現在の生活場所
  • 自宅42名
  • 親戚宅5名
  • 知人宅4名
  • 仮設住宅37名
  • 入院12名
  • その他6名
被災時に困ったこと(複数回答)
  • 医療機器が使えなかった9名
  • 病院と連絡が取れなかった15名
  • ガソリンがなかった51名
  • 水がなかった48名
  • 停電だった79名
  • ガスが使えなかった25名
  • 酸素がなかった2名
  • 避難先で窮屈だった35名
  • 薬の不足24名
  • 食糧が不足34名
  • 灯油がなかった20名
  • 電話が使えなかった76名
現在の心境はどうか
  • 多くの人たちから支援をいただいて感謝の気持ちでいっぱいです。
  • 仮設では歩くことに最も不便を感じています。砂利が敷き詰められて非常に歩きにくい足元が不安です。
  • 津波で難病の家族が流されてしまいました。未だ発見されていません。
  • 支援を望む事すらできなくなりました。
支援の要望 
  • 災害に強いライフラインの整備をしてほしい。
  • 高齢者、身障者、難病患者に配慮した仮設住宅(砂利道で車いす使用困難)にしてほしい。
  • 元の場所に住みたい。
  • ストマ・自己導尿の患者の洗浄水が無くて症状を悪化させた。設備を持つ避難施設が欲しい。
  • 避難施設を設備してほしい。
  • 共同生活になじめずに苦労した。
災害を経験しての教訓について
  • 薬やかかりつけ医等を記した連絡メモを準備しておく(岩手難病連は「緊急医療手帳」を作成していたが、会員等への配布は次年度を予定していた)。
  • 災害時は履物に注意してとにかく逃げる。
  • 非常用持ち出しを準備しておく。
  • 非常時に使用可能な物品の準備と食料品等を備蓄しておく。
  • 日頃から近隣住民と良好な関係を築き協力し合う。
現在そして今後生活上の不安について
  • 自身の健康状態に不安がある。
  • 経済的に不安がある。
  • 将来に対する漠然とした不安がある。
  • 通院が不便、困難であることも踏まえ、医療機関の充実を望む。
  • 家族に迷惑をかけずに前向きに生きたい。
  • 両親の介護も含む家族の健康状態に不安がある。
  • 就労、仕事に関して不安がある。
アンケート結果より

未曽有の大災害に被災したにもかかわらず、多くの被災者が救援に感謝の気持ちを表していた。家族を失い、避難生活をしている方からもアンケートに回答をいただいたことに感謝したい。残された被災者は生き証人であり、後世へ語り継ぐ証言者でもある。あえて分析の考察は差し控えたい。大震災の被災状況やその心情を考査結果から受け止めいていただきたい。それが切なる思いだ。

陸前高田市

3. 災害を風化させない① 2012年3月~11月

震災から1年後の3月上旬。当日は生憎の吹雪模様ではあったが、岩手大学のモンゴルからの留学生8人と、事務局員総勢17人で、宮古市樫内の仮設住宅を訪問した。衣類や生活用品等の支援物資をお届けすると共に、モンゴル料理、焼きそば、甘酒の炊き出しを行い、住民の皆さんに喜んでいただいた。

午後からは、宮古ワークステーションのホールで、盛岡出身の韓国で活躍しているNAGISAさんの馬頭琴の演奏会も行った。広い広い草原を渡る風のような、どこか懐かしいような馬頭琴の音色が響き渡った。

4月中旬、宮古市で岩手腎臓病の会(以下、腎臓病の会)の会員さん24人の方々から、被災状況や被災後の療養の状況などを伺った。

内陸から初めて被災地を訪問した、腎臓病の会の事務局長は、「実際目の当たりにした被災現場の大きさに、言葉もなかった」との話しから交流会は始まり、始めのうちは大きな被害の痛手から、中々言葉も少なかったが、徐々に被災者から、小学校へ避難した際には、朝食にバナナが支給されたが、カリウムが多くて食べられなかったこと等、避難先の食事について困ったことなども話題に挙がった。交流会の終わりには、会員さん達は、「久しぶりにゆっくりと、昼食やお茶の時間を過ごすことができた」「お互いに無事で再会できたことがうれしい」との感想も聞かれた。

「セーフティいわて」からの支援物資の食料や衣類も難病連で直接お届けした。

4. 災害を風化させない② 2014年7月~11月

沿岸部13市町村と共催で、「障害者総合支援法」の周知を目的として「在宅療養支援のための交流・相談会」を開催した。

開催の動機は「難病患者の声を直接聞きたい」「市町村単位での交流会を開催してほしい」との要望があったことと、「災害を風化させない」という強い思いがあったことであった。

岩手県保健福祉部健康国保課より、2044人の特定疾患の受給者証保持者に案内を発送し、上記のうち、会に参加された方は129人だった。

参加者は、復興が遅れる中で、いずれの地域の方々も病気や生活とたたかいながら懸命に再起を図ろうと努めておられた。「皆さんと会えてうれしい。来年も来てください」と温かい交流の輪が広がった。

5. 亡き共に届け命の詩

震災から1年後、神経難病の脊髄小脳変性症を患いながら詩の創作に励み、作品を自費出版する澤山さんは、コンビで絵本を作成していた、筋ジストロフィー症の親友を震災で亡くした。澤山さんの物語に挿絵を付け、2006~2008年に絵本2冊を共著で自費出版していた。

震災後、親友の訃報を知り、ふさぎ込む日々が続いた。それでも、創作意欲は止まなかった。

「何もできなかった僕 くやしいよ もう ここにはいないのか」

亡き友にあてた詩等約30作品を生み出した。

それまでは日常をたんたんと、そこはかとなく描く作風が特徴だったが、震災後は「命の重さについてよく考えるようになった。イラストを描いてくれる親友はもういないけれど、これからも感じたことを詩の中で表現していきたい」と新たな言葉を模索し続ける。

桜の咲く頃

覚えていますか

あの日の空を

あの風と雲を

桜の花びらは

風に舞い上がり

それを一人で見ていた

熱い思いを胸に

友よ 別れの時

それぞれの道へ

歩き出す

頑張れ

応援しているから

桜並木を通るたび 思い出す

とびっきりの笑顔と

君のやさしさを

桜 咲く頃には

いつも いつも

見上げた空は桜色

桜の花が咲く頃

6. 現在

岩手難病連では、「在宅療養支援のための交流会・相談会」を市町村の福祉サービスの担当課、圏域保健所と共催で継続して開催している。

参加者からは「勇気を出して参加してよかった」などの感想が寄せられる。同じ地域にいても、自分が難病だと開示せずに生活している患者さんも多く、交流会の出席によって、「あなたもそうだったのね」と、分かることも多いようだ。市町村の福祉サービス担当課も、「当市町村にこんなにも難病の方がいるとは知らなかった」「直接要望などを聞けて良かった」と感想を述べた。担当者には難病患者に直接かかわり在宅療養支援の契機となることを期待している。

今回の震災から、必要な課題は見えたが、まだまだ解決する道のりはながいことを実感している。福祉避難所の設置、機能充実の必要性についても、繰り返し県や市町村に訴えていきたい。

誰もが罹患するかもしれない難病だからこそ、身近な人に理解いただきながら、療養していくため地元とのつながりは必要不可欠である。

今後ともこの活動は続けていきたい。

平成30年度 
難病患者在宅療養支援のための交流会と相談会

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