支援者による手記・詩
私が伝え続けたい理由 今野まゆみ
東日本大震災から一年九ヶ月が過ぎた。何か変わったか、まわりを見渡してみる。自分自身に問いかける。瓦礫は片付いてはいるようだが、人々の心の中はどうだろうか。私はやはり何一つ整理がついていない。震災直後と同じだ。実際に家を流され、現在も仮設で生活されている患者さん家族とお話をすると、家のこと、仕事のこと、施設に預けている母親のことなど、今も悩み苦しんでいる。しかし、その一方では、あの震災を忘れかけている人もいる。同じ宮城県人なのに何の違いがあるのだろうかと考えるが、自分自身もそうなのかもしれない。悲しいことか、幸せなことか、時間がたてば忘れる時間か増える。良いことなのか、悪いことなのか。悲しい出来事を乗り切るためは、とても必要なことだが、日々頭の片隅にでも置いておかなければないこともある。
患者さん、家族、そして私たち関わるスタッフも、災害時の対応について話をすることが少なくなった。東日本大震災で得た教訓を忘れていないだろうか。同じ悲しみを繰り返してはいけないと誰もが思っている。そのためにお伝え続けなければいけないと考えているが、どのようにして伝えたらよいのだろうと考えていた。今回、伝える場を与えていただいたとに深く感謝したい。
患者さんとご家族を助け、自分自身が犠牲になったA看護師のいとこさんよりお手紙をいただいた。そのお手紙には、いとこさんのお気持ちが綴られており、胸が苦しく三月十一日が鮮明に思い出された。
また、そのお手紙には、A看護師との思い出を書いて返信してほしいと、白紙の便せんが同封されていたが、私は未だ書くことができないでいる。私の中で、A看護師の死がまだ受け止められていないのだ。A看護師が、自分の命と引き替えに助けたBさんが、今年春亡くなられた。人工呼吸器の装着を最後まで選択されなかったので、その時が近いことはわかっていた。震災後、その時がきたら私の中で何か一つ整理がつくのではないかと思っていた。しかし、実際にBさんが亡くなった知らせを聞いた自分の気持ちにビックリした。整理がつくどころか、混乱した。A看護師の死の意味は何だったのか。A看護師は、あの世でBさんをどのように迎えたのだろうかと、いろんなことが頭の中で渦巻いた。A看護師の死に一番責任を感じ、心痛めていた理事長とBさんが亡くなった三ヶ月後に話をした。「自分は違うな。Aが助けた命だから、Bさんが亡くなってもその死を受け止めるだけだ。AはBさんを恨んでないと思うよ。みんなそれぞれの気持ちを抱えて過ごしているだろう。Aのことをみんなで話をすることが大切だよ。残された人の心を少しでも穏やかにするためには、話をすることが一番だ。これからは、そういう時間を作っていきなさい。命日などにこだわることはないよ。そういうことが必要なのだ。」と、理事長の考えを話された。その後、Bさんが亡くなったことに関しては、受け止めることができた。A看護師の死については、みんなで話をして、気持ちを共有することから始めたいと思うが、みんなで集まる場はまだ作れてはいない。
一番伝えたいと思っていた理事長が、A看護死の話をした二ヶ月後に亡くなった。昨年の手記を書いたときに、理事長に目を通してもらった。その時に。「これからお伝え続けることが、自分達の役割だからな。」と、言われた言葉を思い出す。私か伝え続けたい理由の一つである。あの世で理事長とA看護師は、美味しいお酒を飲んでいるだろうか。2人ではなく、今まで看取った患者さんも一緒に飲んでいるかもしれない。私も何十年後にあの世にいくでしょう。その時に伝え続けたことが、報告できるように活動をしていきたい。
- 【名前】
- 今野まゆみ(こんのまゆみ)
- 【年齢】
- 50歳
- 【被災時の居住地】
- 仙台市
- 【被災場所】
- 仙台市
南相馬市におけるALS患者の現状 小鷹昌明
南相馬市市立総合病院神経内科
※日本ALS協会 JALSA №87 p42より転載
7月14日に東京国際フォーラムで開催された、「さくら会」主催の「被災者に聞け、進化する介護2012:被災地支援シンポジウム東京大会]にパネリストとして参加した。そこでの発表内容を報告する。
私は、世界初のトリプル災害(地震・津波・原発事故)を受けた福島県浜通りにある「南相馬市立総合病院」に、2012年4月から勤務している。「神経内科」の常勤医として、この街の神経難病の診療に当たらせてもらっているが、赴任当初ALSに限って言えば、通院している患者は1名だけであった。「この市にはALS患者がいないのであろうか?」そんなはずはなかった。私は保健所に出向き、そこの保健師に特定疾患医療給付患者の近況を調べてもらった。南相馬市には、震災当初から現在までに6人のALS患者がいた(男性3人、女性3人、44歳〜88歳)。6人中1人は、震災後に死亡していた。残り5人中3人は宮城県の病院に通院、あるいは入院し、1人は南相馬市外の病院に通院していた。1人は埼玉県に避難していた。この地では、すべてのALS患者は飛散し、市内の病院に通院しているものはいなかった。
私がこの地で最初に出会ったALS患者は、83歳の女性であった。相馬市在住のお寺の住職で、夫と息子夫婦の4人暮らしであった。2010年2月に呂律緩慢で発症し、徐々にむせが出現した。四肢の筋力低下も加わり、2011年1月に嚥下障害が悪化し、唾液が貯留するようになった。また、この頃から発声が困難となり、筆談でのコミュニケーションとなった。同年7月に胃痩を造設し、私が初めて診たときには、ほとんど食事を摂れなくなっていた。
今後の方針決定と福祉の見直しを目的に、ただちに入院してもらった。この患者の介護状況は、1日1時間程度の訪問看護が週5日(月〜金)、ヘルパーと訪問入浴は週2回、家政婦を週旧依頼して、どうにか成り立っていた。それというのも、住職は家業であり、息子も同じお寺の住職であった。週末は特に忙しく、寺務業務で時間が取れなかった。また、震災の影響で寺院そのものが修繕中であった。さらに、夫も要介護者で車椅子のADLであり、奥さんの母親はペースメーカーが挿入されており、埼玉で独り暮らしであった。このため、奥さんは時々帰省しなければならなかった。市に残った神経難病患者に、私は「もっとも厳しい状況は何か?」と尋ねてみた。「震災前はデイ・ケアやショート・ステイを利用することができたが、他の地でも働ける健康な人たちがバラバラになってしまったので、福祉や介護を支える人が減ってしまった。これまでのサービスを受けられないので家にいるしかない。その分、妻に大きな負担を強いてしまっていることが何より辛い」とのことであった。徐々に症状が重くなるのに受けられるサービスが減っていく。このことに、この街の福祉体制の最大の矛盾があった。介護・福祉施設が圧倒的に足りていない。
「さくら会」の皆様の力をお貸しいただき、8月11日のシンポジウム(被災者に聞け、進化する介護 in 南相馬)から、この街における福祉の充実を目指したい。
元気でしたか 小保内多喜子
悲しみや悔しさは今なお消えることはない
でも、あるだろう
あの辛抱強さ、生きる力
寒さ堪えて店に並びし 人、人、人
電機もない、お湯もない、布団でまるくなった日々
グラットくると血があがる
もう嫌だドカドカする
近くの閖上の地に足を運ぶと舟が道路に寝ていた
友の家、あとかたもなく持ち去った
残ったのけ瓦礫の山、それでも今日がある
隣人から貰ったコーヒー一杯、一生涯忘れまい
あのぬくもりを
復興でなによりも身にしみたあの瞬間
静岡県のガス支援隊「今日からお湯出ますよ」と
笑顔で言ってくれたあの方は女神、いや、男神だ!!
あの日があってこそ、今があり、明日を求めている
絆が生まれた町内会
「元気だったか」と車椅子の少女の囲りにいた顔、顔、顔
優しい万人の顔、これこそが絆だと思う
- 【名前】
- 小保内多喜子(おぼないたきこ)
- 【年齢】
- 71歳
- 【所属】
- 宮城県看護協会